二石臼杵

にくいあいつがやってきた

 今日も今日とて一日が終わりつつある。金色に傾いた日の光がやけにまぶしい。

 部屋の中は、遠慮を知らない日差しと容赦のない蒸し暑さに侵略されていた。日の入りが始まっても、夏の暑さはなりを潜めようとしない。

 クーラーは電気代を気にして身動き一つとれない。おかげで全身から汗が流れ出し、毛穴の存在をはっきりと感じることができた。


 今夜もまた、居酒屋でのバイトが待っている。

 昨日はタコキュウの量が少ないと、タコみたいな頭の酔っぱらい客にいちゃもんをつけられた。それに、店長にジョッキを片付ける音がうるさいとも注意された。

 誰かに怒られるなんていつものことだ。ただ、いくら経験しても慣れることはない。

 そろそろ今の店をやめて、新しいバイトを探してみようか。どうせ、食っていければどこでもいいのだから。一つの店にこだわる必要もないだろう。そう、いやになったらやめればいいんだ。

 汗がぱたぱたと床の畳に滴り落ち、染みへと変わる。染みはすぐに消えるが、次から次へとこぼれる雫が畳に渇く間を与えない。


 これだけあふれても枯渇しない汗を感心すらして眺めていると、耳障りな音がやってきた。妙に高く、それでいて不規則にメロディーラインの調子を崩している。その音は俺の右耳を通過したあと、左腕に着陸した。


 見ると手首と肘の中間地点、前腕部に一匹の蚊が止まっていた。真っ黒な体にところどころ白い筋が差している。

 体長は五ミリ程度。一番後ろの両足にある、白黒の縞模様がひときわ目立つ。ヒトスジシマカというやつだろう。

 俺の左腕の上で旨そうに血を飲んでいる。こっちは暑さに苦しんでいるというのに、気楽なもんだ。

 さて、殺すか。右手を振り上げたとき。


《やめときな。ここで俺を殺してもいいが、余計に痒くなるだけだ。殺すんなら、俺がしっかり血を飲み終わったあとをお勧めするがね》


 不意に声が聞こえてきた。どこからだ。いや、そもそも誰だ。思わず手を止め、顔を上げて周りを見回す。


《俺だよ俺。今、お前の手に乗っているだろう?》


 またもや声。おそるおそる腕に目を戻すと、そこにはやはり蚊の姿があった。相変わらず血を吸い続けている。


《血を吸いながら失礼。どら、じっくり話でもしようじゃないか。もうちっと腕を上げてくれないか? そうそう、地面に対して水平になるように。おっと、ストップ。ああ、いい感じだ。悪いがこのままで頼むよ》


 声に従うまま胸の前まで腕を持ち上げると、つつうと汗が肌をくすぐりながら伝ってすべり落ちた。腕に顔を近づけ、蚊に向かって訊ねてみる。


「お前なのか?」


《そうだよ、俺しかいないじゃないか。面白いことを言うな》


 蚊蚊蚊、とやつは笑う。蚊は自分をアピールするように、羽をゆっくりと上下に動かしてみせた。


「人間の言葉が話せるのか」


 再び話しかけると、またもや答えが返ってきた。


《と、いうよりは、お前さんがたまたま俺の声を聞けたんだろうな。たとえばラジオを聞くとき、放送局に合わせて周波数を変えるだろう? ところがお前は、チューニングなしで俺のチャンネルとぴったり周波数が合っちまったのさ。俺も人と話したのは初めてだがな、たまにあるらしいんだよ、そういうの》


 どうやら誰にでも聞こえるわけではないようだった。しかしよりによって蚊と話せるとは。ありがたみもない能力だ。

 それにしてもこの蚊、ずいぶんと人間の文化に詳しいじゃないか。

 思考力というのは案外、人間も動物もあまり差はないのかもしれない。お互いに共通のコミュニケーションツールがないから、それに気づけないだけで。

 なら、もしかしたらこっちの要求も飲んでくれるだろうか。


「声が聞こえるよしみで頼みがある。血を吸うのはいいが、痒くするのだけは勘弁してくれ」


 さすがに言葉の通じる相手を殺すのは気がひけたので、なるべく穏便な方へと話を持っていく。しかし、蚊に気を遣うときがくるとはなあ。


《蚊っ蚊っ蚊。善処するよ。約束はできんがね》


 蚊はとくに悪びれた様子もなく、俺をあざ笑うかのようにのんきに吸血に勤しんでいた。

 こっちが下手に出ていれば調子に乗りやがって。俺がその気になればいつでも潰せるということをわかっているのだろうか。


《まあ待てよ。そうかっかしなさんな、兄弟よう》


 こちらの頭の中を覗いたかのように語りかけてきた。俺は虫の兄弟になった覚えはない。


《おんなじことさ。俺はお前の血を体ん中に持っているんだ。こいつはもう立派に血を分けた兄弟みたいなもんだろう。少なくとも今、この瞬間だけは、俺とお前は血を共有しているんだからな》


「薄気味悪いことを言うな。お前たち蚊はどうも気に入らん。蚊が血を吸うのは子を産むためだというのを知ったときは、それならしかたがないと思っていた。でも、よくよく考えてみれば、その子どもも結局は血を吸うんだろう? 堂々巡りじゃないか。血をやっても損するだけだ」


《ふむ、確かに俺が血をいただくのは出産のためだが、オスの蚊は血なんぞ吸わん。生まれてくる蚊の全部を害虫だと決めつけるのはどうかと思うがね》


 蚊は、小さなゲジゲジのような触角を片方だけ持ち上げてみせた。人間で言うところの肩をすくめるジェスチャーみたいなものだろうか。


「ところで血を吸ってるってことは、お前、メスでいいのか」


《見てわからないかねえ》


「わからないから聞いたんだろうが。お前、メスとは思えないほど口が荒いな」


《ふうん。お前は口調で雌雄を決めるのか?》


「たいていの人間はそうなんだよ」


 なぜかむきになって言い返してしまった。


《なるほどなるほど? つまらんことをいちいち気にするんだな》


「余計なお世話だ」


 血を吸っておいて、なんてやつだ。

 取れやすくか細い前脚で、蚊は俺の腕をちょんと一回タップする。触られた感覚はほとんどなかった。


「それはいいがお前、変なウイルスとか持ってないだろうな。蚊を経由して伝染病にかかるって話はよく聞くぞ」


《心配しなさんな。俺はいたって健康だよ。自分の体の調子ぐらい自分でわかるさ》


 ならいいや。心中でほっと胸をなでおろす。蚊の言葉を信用するというのも変な話だが、不思議とこいつの言うことには説得力があった。


《健康かどうかと言うのなら兄弟。お前の血にはどうも旨みがないな。血が薄いというか、血に熱がこもっていないように見える。これは体ではなく、心の不調からくる味だ。お前さん、何か不満でもあるのか?》


「なんだよ急に。お前には関係ないだろ」


 どうして蚊なんかに心配されなきゃならんのだ。


《関係? 大ありだ。何か後ろめたいものを抱えているやつの血はまずい。吸う側としては、やはり旨い血が望ましい。ゆえに、血の味が改善できるのなら、相談に乗るぐらいはいとわないのさ。どうだ、何か悩みでもあるなら聞かせてくれやしないだろうか》


「悩み、ねえ。強いて言えば、悩みがないのが悩みといったところかな」


 驚くほどするりと、思いのたけを吐き出していた。

 どうせ相手は蚊なのだからと、人間相手じゃ言えないような愚痴をぶちまける。


「俺さ、最近疲れてるんだ。飽きたとも言っていい。やりたいことが見つからずに、その場しのぎで一日を暮らしているんだよ」


 いくら話したところで、こいつは他の誰かに漏らすこともないだろうし、いずれあっさり死ぬに違いない。

 今のご時世、そんなに長く蚊が生きていられるほど甘くはないのだ。

 そう思うと肩は楽で、口は軽かった。


「たまに思うんだ。これは本当に俺の人生なのかって。なにしろ、小さい頃に思い描いていたものとまるで違うんだからな」


 唯一赤みを帯びている蚊の腹部は、いつの間にやらまん丸に膨れている。

 赤いのは、中に血が詰まっているからか、それとも元からだったか。


《つまりお前は、生きたいのか? 生きたくないのか?》


「そんな風に割り切れないから、困っているんだよ」


 逆に俺の方から問いかけてみよう。

 こいつはいったい、何をどう考えながら生きているのだろうか。誰でもいいから、とにかく自分以外の答えが聞きたかった。


「なあ、教えてくれよ。お前は、何かやりたいことがあって生きているのか? 血を吸って子を産んでの繰り返しで、人間のように進化をするでもない。遺伝子の流れ作業をしていて楽しいか?」


 じいっと蚊を見つめていると、時間が足並みをゆるめていった。

 二本だけ異様に長い後ろ脚がのらりとたゆたう。黒と白の縞模様が、揺れた。

 俺は静かに答えを待つ。


《それはな……》


 直後。ぽん、と。聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな音を立てて、蚊の体は破裂した。血袋が弾け、俺の血が狭い範囲に飛び散る。


「え」


 何が起きたのか、とっさに理解できなかった。


《おっと、こいつはいけねえ。つい話すのに夢中で、血を吸いすぎちまった》


 もう体は残っていないのに、蚊の声だけがする。


《まあ、これはこれでありか。お前さんと話すのは悪くない時間だったよ。さっきの質問の答えは、そうだな、また次に生まれ変わったときに答えるとするさ。宿題だ》


 蚊蚊蚊、と言い残して、それっきりやつの声は去っていった。

 左腕の上にできたピンク色のふくらみと、ごくささやかな血痕だけが、蚊がいたことを物語っていた。

 ほんの少しの名残惜しさと罪悪感が、胸の中で渦巻く。


 気づけば日は暮れて、空と畳が赤く染まっていた。気温が下がっていくらか汗は引いたものの、それでもまだまだ夏の暑さは健在だ。

 ひょっとするとさっきの蚊は、暑さが見せた幻だったのかもしれない。

 いたとしても、喋らせたのは俺で、蚊を通して自問自答していただけとも考えられる。

 蚊に刺されて腫れた部分を、軽く爪で引っ掻いてみた。


「やっぱり、痒いじゃないか」


 ひとり言が初夏の風に拾われ、どこか遠くへと運ばれていく。

 あの蚊に届かないかな、と、なんとなしにそう思った。


 空気を裂くように携帯電話のアラームが鳴り、アルバイトの時間が迫ってきたことを告げる。

 自然と、あんなにも重かった腰を上げ、居酒屋に行く準備を始めていた。流しで手を洗えば、腕についていた血も排水口に飲み込まれていく。


 とりあえず、今日を生きてみようかな。

 玄関で靴ひもを結び、アパートのドアノブに手をかける。

 少しずつでも生きていたら、いつか生まれ変わったあいつに会って、答えが聞けるかもしれないから。なら、せめて。もうちょっとぐらいは。


「行ってきます」


 久しぶりにその言葉を家に置いて、外に足を踏み出す。

 どこかで、小さな羽音が俺を見送っている気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二石臼杵 @Zeck

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ