第2話
「ここ……かしら?」
白く立ち込めた霧の中、手に持った小さな琥珀に誘われるように、イーラルはその建物の前に立っていた。その建物は焦げ茶色の木造で、屋根の部分も暗めの褐色の木で出来ていた。普段は赤や白、灰色のレンガ造りの家屋しか見てこなかったイーラルの目には、その木造の建物は新鮮に映ったけれど、警戒心のようなものは不思議と湧いてこなかった。
その原因は、多分あの看板だと思う。建物の壁より少し白みがかった木材に、白く丸い字で『魔法書店【琥珀堂】』と可愛く書かれたその看板が、どこか怪しいこの建物を明るく印象付けるのだろう。
(ここなら、本当に願いが叶うのかしら?)
先日見た夢で、確かそんなふうなことを言っていたような気がする。
目が覚めたときは、不思議な夢を見たなと思っていたのだけれど、その時イーラルの手の中に、身に覚えのないものがあることに気がついた。
それが、この小さな琥珀。指先ほどの大きさしかないその小さな琥珀は、卵のような丸い形をしていて、確かに夢の中で同じものを見た記憶があった。
なんであれ、これは唯一のチャンスなのかもしれない。これが嘘なのだとしたら、また神様に頼るくらいしか方法はない。イーラルはその琥珀をぎゅっと握りしめ、魔法書店【琥珀堂】の扉をノックした。
『ハイ、開いてますよー。どうぞお入りください』
建物の中から元気のいい女性の声がする。イーラルは深呼吸をした後、「失礼します」と言ってから扉を開けた。
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建物の中は、受付というよりも、カフェのような造りをしていた。正面のカウンターには戸棚が一つあり、その隣に洗面台、グラス、カップ、ワインセラーと並んでいて、席は4つ。右奥のほうには円卓があって、それを囲むように丸い椅子が4つ。天井からは小さなシャンデリアが吊り下げられて、窓際は赤や黄色い花々で彩られている。
「いらっしゃいませ。イーラル・レイドリア様ですね。こちらにおかけになってください」
そのカウンターの奥に、先ほどの声の主と思われる女性が、にこやかな笑顔を向け、そう言った。
イーラルは、その女性を唖然としながら見つめていた。正確に言えば、その女性の髪だ。
「紅茶は、お飲みになりますか?」
「……え? あ、はい。いただきます」
女性の声を聞いて我に返ると、イーラルはその女性の目の前のカウンター席に座った。座っても尚、イーラルの目は、その女性の髪にくぎ付けになっていた。
「……あ、あの。その髪は……」
「ふふん。これですか? 実は、ちょっとした深いわけがありまして……。はい、紅茶が入りましたよー」
女性は紅茶のカップをイーラルの前に置くと、戸棚から陶器と銀のスプーンを取り出してカウンターテーブルの上に置いた。蓋を開けると、その中には砂糖が入っていた。
「私の母が青い髪色をしていたそうなんです。なので、私も産まれたときは同じように青い髪色をしていたんですけど、長い間魔法と携わっていたせいで、色が変化してしまいまして、この黄緑色の髪色になったんですよ。でもステキでしょ?」
女性はそう話しながら、その黄緑色の髪に手をやる。確かに特異な色ではあるけれど、シャンデリアの光を反射してキラキラと光っていて、とても綺麗だ。思わず見とれてしまうほどに。
でも、一つだけ引っかかることが。
「青い髪をしていたそう……? “そう”ってことはつまり…」
「はい。母は私を産んですぐ亡くなったそうなんです。なので、実際はどんな人だったのか良く知らないんですよ~」
女性は、紅茶に砂糖を入れながらそう言った。イーラルは気の毒に思ったが、本人が声音一つ、表情一つ変えずそう言ったので、口には出さない。
イーラルの家族に死別者は一人もいない。けれど、同じ国の人々が何人も死んでいく姿は嫌と言うほど見てきた。死ぬ直前の擦れた声も……。暫く何も言えないまま、イーラルは黙々と紅茶を飲んだ。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はアリエスといいます。気軽に、アリィとでも呼んでください」
女性はそう名乗ると、にこやかな笑顔をイーラルに向けた。イーラルもそれに釣られ、名乗る。
「私はイーラル・レイドリアといいます。あの、本当に私の願いは叶うでしょうか」
たまらず口から出た不安の言葉に戸惑いながら、イーラルは言った。するとアリィはさっきと同じ笑みを浮かべ、はっきりと、はいと言った。
「紅茶も少なくなってきましたので、そろそろ本題に入りましょう。――イーラルさん。あなたが叶えたい願いはなんですか?」
子供のような無垢で穏やかな笑みを浮かべながら、アリィはそう問うた。
イーラルは、その華奢な胸に秘めた思いを打ち明けた。
「私の願いは、私の故郷に雨を降らせることです。私の故郷はここ数年、雨量が激減してしまっていて、生活を支えている川も干上がってしまいました。今では作物を育てることもままならず、隣都から水と食料を買ってなんとか飢えをしのいでいる状況です。ですが、もうその余裕は少なくなってきています。経済的にも、精神的にも……。なので、なんとかしたいんです。原因である雨さえ降ってくれさえすれば、なんとかなるかもしれないんです。お願いします。私の願い、叶えさせて下さい」
イーラルはそう言うと、ふと頬を何かがつたっていくのを感じた。無意識のうちに、目に涙を浮かべていたのだ。するとアリィは、白いハンカチを差し出しながら、
「分かりました、イーラルさん。では、私について来てください。私の主、リーヴェリア様のもとへご案内いたします」
と、今までよりも少しだけ真面目な声音でそう言った。
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アリィに案内された先には部屋があった。カウンターの裏にあるこの部屋の扉を開けると、そこには2対の壁掛けランプと、下へ降りる階段があった。
恐る恐るその階段の先を覗いて、イーラルは戦慄を憶えた。
その先には、何も見えない。見えるとしたら、階段の壁に等間隔に設置された松明の光だけだ。
「こちらです。私が先導しますので、後ろからついて来てください」
女性はそういいながら、軽い足取りで階段を降りていく。イーラルも慌ててその後に続いた。
――そんなやり取りをしたのは、いったい何分前のことだろうか。
緊張がほぐれ、落ち着きを取り戻し、ふとそんなことを思い立つほどの長い時間が経ったのは確かだ。だけど、未だに階下は見えてこない。壁のレンガ模様と、等間隔に設置された壁掛け松明だけが、2人が前へと進んでいることを知らせてくれる。けれどそれらも、あまりに見栄えの変化がないため、なんだか同じところをグルグルと回っているように錯覚してしまう。
けれど、不思議なことに疲れは感じない。むしろ、ここに訪れたときよりも足取りが軽いような気がする。前を進む女性についていくのも苦しくはなかった。
そう思った瞬間、すぐ前を進むアリィが、こちらを振り向きながら口を開いた。
「あと5分ほどで到着します。もう一息ですよ」
「え!? まだ、そんなにあるんですか!?」
イーラルは思わず、驚愕の声をあげる。
「はい。リーヴェリア様がこんなにも深い場所に住んでいらっしゃるのも、様々な理由があるんです。残りの5分間を沈黙のまま進むのも精神的にきついですから、理由を説明しましょう」
アリィは、さっきと同じ明るい口調でそう言ったけれど、イーラルは気が気ではなかった。これほどまでに長い階段は見たことも聞いたこともないから、というのもあるけれど、アリィが向かっている先が地獄かなにかなのではないかと思えてきたからだ。実際、魔法に頼るという行為は、外道に分類される。ひと昔前なら魔女として処刑されてもおかしくない行為だ。
それに、5分以上も下へと降りていく階段の行き着く先にある場所と言えば、地獄くらいしか思いつかなかった。
「まず一つ目の理由は、魔法の源である魔力、その元となる“霊力”と呼ばれるエネルギーを、地上に溢れさせないためです。霊力は様々な影響を引き起こすものなので、結界を張って厳重に管理、或いは魔力に変えて扱いやすくする必要があるんです。
2つ目の理由は、その霊力にお客様を慣れさせるためです。いきなり高濃度の霊力を浴びてしまうと、頭痛やめまい、吐き気を引き起こしてしまいます。ある程度は、その琥珀が軽減してはくれるのですけど、“今”琥珀を手放した瞬間、それらの症状が一気に襲い掛かってきます。なので、その琥珀は絶対に無くさないでくださいね。
3つ目の理由は……」
アリィはそこまでいうと、イーラルに後ろを向くよう指示した。言われた通り後ろを振り返ると、今までずっとそうだったように、先の見えない長い階段が続いていた。
「……この階段、往復する気になれませんよね…」
アリィはそうぼそりと呟いた。イーラルは深く頷いて、その呟きに答えた。
「そういうわけで、3つ目の理由は同じ人間が何度も願いを叶えようとするのを防ぐため、だそうです。そして私の主、リヴィ様が人間嫌いなので、人間に対するいやがらせ行為、という後付けの理由もありますね~」
そんな説明を聞いているうちに、階段の明かりが強くなっていった。もしやと思い先の方を覗くと、やっとこの階段の終点が見えた。
普通の木の扉だ。赤黒くもなく、悪魔や骸骨の装飾もないごく普通の大きさの扉がそこにあった。
「さあ、到着しましたよ。……リヴィ様、お客様をお連れしました~!」
そう言いながら、アリィは軽快に階段を飛び降り、その扉を開けた。それに続いたイーララルは、開いた扉の先の風景を見た。
「え――……ええっ!!?」
驚愕の声以外、上げることが出来なかった。
魔法書店【琥珀堂】 冬空ノ牡羊 @fuyuzora_no_ohituzi
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