第1章 雨の降らぬ街

第1話

 いつものように、平穏な空気が部屋中に満ちていた。穏やかで、耳障りな音もない。時計の針の音すらないこの空間に、音はたった一つだけ。

 “さらさら”という音。その音は、一片の羽から発せられている。その羽の根元は滑らかでしっかりとした金属で覆われていて、その金属の隙間に黒い液体がキラキラと輝いていた。

 その正体は、羽ペンと呼ばれる“最古のペン”なんて肩書のついた筆記用具。けれどこの羽ペンは従来のものとは違い、万年筆のように筆先が金属で覆われていたり、羽が銀色に輝いていたりなどといった違いがある。

  さらさらという音は、その羽ペンが文字を刻む時に奏でられていく。

羽ペンで文字を刻むものは当然紙。だけどこの紙も少し特別なもの。従来の植物の繊維由来のものではなく、羽ペンと同じく最古の紙と呼ばれる動物由来のもの。

 羊皮紙。その名が示す通り、羊の皮をなめして作り上げる紙。生産能力では他の紙に劣るけれど、長持ちするという点ではどんな紙にも引けを取らない。

 まあ、それとは別の理由もあるのだけれどね。

一瞬、さらさらという音が途絶える。理由はただ一つ。インクの補充という、つけペン特有の動作があるからだ。そして、その動作が済むと、またさらさらという音が流れ始める。

 “静かな部屋で、紙に文章を書く”。あえて文章にするならこうでしょう。一言で表せてしまうほどの単純な情景。

 けれど、その羽ペンの持ち主は、その時間がとても好きだ。心まで穏やかになるような、そんな至福のひと時が。


 けれど、いやだからこそなのか、そのひと時は恨めしく思えるほどに長続きしない。

「リヴィ様ぁ~。そろそろお時間ですよ~」

 階段をドタドタと鳴らす音。勢いよく開く扉の音。召使いの声。そんな音たちによって、そのひと時は終わりを告げる。

「もうそんな時間かしら」

 リヴィは顔をあげると、羽ペンをインクの入った小瓶に刺し、ため息をつきながら気だるそうに立ち上がった。

「あー、またぎりぎりまで作業していましたね。ちゃんと時計を見て行動していただかないと……って、また時計の針止めましたね!」

「だって、うるさくて集中できないんだもの。あんなの騒音でしかないわ」

 あの一定の拍で永遠と鳴り続けるカッ、カッ、といったなんでもない日常の音は、あの至福の時間においてはセミの鳴き声に等しい。それもアブラゼミ。

 そんな文句を述べながら、リヴィは書き終わった羊皮紙の束を纏めて机の隅に寄せ、机の上の書物を抱え、本棚のほうへと向かう。といっても、360゜どこを向いても本棚のこの部屋では、すべての書物を正しい棚に戻すというだけでも一苦労する。

 部屋を何度も往復し終わった後、ちらと召使いのほうを見やると、踏み台に乗って柱時計のネジを回す姿が見えた。

「今日はお客様がいらっしゃる日なんですから、しっかりして頂かないと困ります。名簿はご覧になられましたか?」

 召使いが振り向きながら問う。当の名簿は、巨大な作業机の向こう側に、先週置かれたそのままの位置にあった。

「見ようが見まいが、人間は人間でしょ。変わりはしないわ」

 人種、出身国、文化、歳、性別……個性という差異はあれど、人間は誰だって根本的なものは同じだ。己の欲望に従順で、自己中心的な部分なんかがまさにそれ。

「またそうやって……。そろそろ人間嫌いもなんとかした方がいいんじゃありません?」

「あら? 召使いらしからぬことを言うのね? アリエス・S」

 召使いの名は、アリエス・S・シャノーラ。故あって彼女が赤子のときに預かって以来、今まで育ててきた大事な召使いだ。いつもは愛称であるアリィと呼ぶのだけれど、彼女が生意気なことを言ったときは本名で呼び、脅す。

 いつもなら、それだけで竦んでしまうのだけれど、今日は違った。

「なに言っているんですか。これもリヴィ様を思ってのことですよ。嫌いなものを嫌いなままにしておくのはよろしくないって、先日購入した啓発本に書いてありました」

 アリィは踏み台から降りると、本棚のなかから一冊の本を取り出して表紙をリヴィに見せた。そこには『きらいなものの克服指南』の文字がでかでかと書かれていた。

「そんなことより、そろそろ上がった方がいいわよ。そろそろ来るんでしょ? お客さん」

 リヴィは無理矢理話題を逸らすようにそう言って、アリィが持っていたその本を本棚にしまいなおす。アリィは不服そうな顔をしたけれど、そろそろ予定の時間だということは事実なので、しぶしぶ扉の方へと歩いていった。

「兎に角、名簿には目を通しておいて下さいね。ゼッタイですよ」

 アリィはドアノブに手を掛けながら、念を押すようにそう告げ、部屋を出た。本来なら、すぐに階段を昇る音がするはずなのだけれど、その音はしなかった。それはつまり、リヴィが名簿をちゃんと見るかアリィが扉越しに伺っているということに他ならない。

 リヴィはまた気だるそうに名簿の書いてあるバインダーを手に取り目を通す。


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イーラル・レイドリア。女性17歳。

 出身地…ヨーロッパ。

 職業…学生

 爵位…子爵

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 名簿といっても、その程度の事しか書かれてはいない。というより、細かい個人情報の管理は正直いって面倒くさいし、仕事に支障はないからたったそれだけの情報で十分足りる。

 リヴィが名簿を読み終わると、安心したようにアリィが階段を駆け上がる音がした。




 ここは魔法書店【琥珀堂】。人間では到底叶えられない願い事を叶えてくれるお店。選ばれたものしかたどり着けないその場所で、今日もまた、願いを求めるものがやってくる。

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