第三章 (3)

 夜になり、朝になり。

 昼は共に歩き、夜は共に身を寄せ合って眠る。

 そんな日々の繰り返し。


 勿論支倉は今まで通り『記録者』としての職務を果たしている。例えそれが無駄に等しいと分かっていても、過去の『記録者』たちが築き上げたその道を踏みしめてゆくために。そして、己が別の記録者の道となるために。


 支倉はひたすらに「塩」の記録を取り続けた。


 そのすぐ横には必ず白波がいて、じっと記録を取る支倉の横顔を見つめている。それは彼女が決めた『記録』で、こちらもただひたすらに彼の記録を取り続ける。

 ふたりの記録者は、こうして一つの季節を共に過ごした。塩の降るこの場所で、いくつもの夜を越えてゆく。


「……『ひとつの終演に、多大なる拍手を』」


 支倉の祝詞が、またひとつの街の『終演』を告げていた。もう何度、彼らはこの言葉を紡いだろうか。その数はおそらく記録用紙をめくれば正確な数を把握できるだろうが、それはきっと無意味だ。それくらいに、支倉と白波が見つめ続けたこの世界は「塩」と「無意味」に満ち溢れていた。


 祈りを捧げる彼の横で、彼女はまた同様に両手を重ねている。会話は、ない。

 彼らが目の当たりにしているその「白」は、恐ろしい程に美しかった。

 彼らの眼下に広がる一面の塩野原は、鋭い残光をふたりに焼きつけてゆく。


 ふ、と目を細めると、黄昏の朱が白に染まったこの土地を照らし、最後の力を振り絞り一層燃え上がる。背筋が震えるほど凄まじいその光景に、支倉は思わず声を洩らした。


 ああ、と。あたかもその太陽がこの世の全てを燃やし尽くしてくれるのではないかと期待しているかのような、そういう恍惚に似た声色だ。


「――だ」


 言葉のニュアンスの違いに気付いたらしく、彼の横でじっと押し黙り、沈みゆく太陽を眺めていた白波がぱっと顔を上げる。彼の視線は、未だ空の彼方へと向けられていた。ゴーグルやマスクに隠された横顔が、嬉しそうに揺れたのを、彼女は見逃さなかった。


 支倉は続ける。


「そして、創世でもある」


 朱鷺色から、淡い紫、そして藍へと色を変化させてゆく空。

 もうすぐ、生きる者の世界が終わる。死んだ者の世界が始まる。しんとした静けさが、その純度の高い空気をより一層鋭いものへと変えてゆく。


 ――否、今は昼ですら、死んだ者の世界だ。


 一番星が瞬いた。支倉は一度目を閉じ、数回深呼吸すると再び目を開けた。

 もう、大丈夫だ。そう強く自分に言い聞かせながら。


 彼の視界の先には、夜のヴェールを纏う空が仄暗く温い空気によって揺らいで見えた。そう見えたのは、大地からゆらりと立ち上り空気を濁らせるあの「塩」のせいかもしれない。


 彼女も同じように感じているといい。


 支倉はその唇に微笑みを湛え、彼女の反応を待った。


「きれいね」

 白波は言った。「わたしが知る中で、二番目にきれい」

「二番目、か」


 白波はゆっくりと首を縦に振る。そう、二番目……、と、控えめに囁いた。独特の静けさを決して打ち壊さぬよう、彼女は細心の注意を払ったつもりである。支倉が後に一番目を尋ねたが、彼女はその質問には敢えて答えなかった。代わりに、じっと考え込んでいるような難しい表情を彼に向けた。


「――ハセクラ。今の『シュウエン』、いつもと違うのはどうして?」

「『終焉』だと思ったからさ」


 答えになっていない、と不満を訴える彼女の声を遮り、彼は続ける。


「前にも言ったけど、俺は死にゆく街の物語を『終演』だと言い続けた。街そのものの『時間』……いや、『歴史』、かな。それをひとつの演劇に見たてている。それは覚えているかな」

「うん」

「それらの街の演目が『終焉』。終わりのための舞台。塩の冴えた白に包まれて終わる、それってとても素晴らしいことなのではないかと思っていた。だけど、本当は違うんじゃないかなって、たった今そう思った」


 そう、違うのだ。

 『終焉』の舞台を演じていたのは、死にゆく街なんかではなかった。


 演じていたのは、紛れもない俺なのだ、と。


「様々なかたちの『終焉』が、すべて俺の『終焉』と繋がっていた。これは俺の舞台なんだ。だから、ものすごく漠然としている気持ちだけれど、今この光景が『終焉』なんだなと思った。ただそれだけのことなんだ」


 白波の頭からゆっくりと支倉は手を離し、そっと彼女と向かい合う。彼女の白い頬には、無数の細かな傷が入り、時折ぱらぱらと粉のようなものがこぼれ落ちていた。小さな愛おしい掌も、指先から脆く崩れてしまっている。そう、彼女の体は既に限界を迎えていた。身体のひびは日を追うごとに深くなり、いつ他の塩と同化してもおかしくないと思われた。


 だからこそ、今彼は彼女の前に在る。彼女を手放したくない、その気持ちだけが彼を動かしている。


「シラナミ。俺は選択する」

 支倉は言った。「――俺はここで舞台から降りる」


 まるで絞り出すような声色だった。しかしそれにためらいは一切含まれていない。むしろ随分とさっぱりした表現だな、と白波は思った。よくよく考えての結論だということは、支倉の表情からも見て取れるものである。


「ハセクラ」


 それが分かるからこそ、白波は泣きそうに目を細めることしかできなかった。自分が言い出したことなのに、その答えの残酷さに打ちひしがれている。


「俺たちは、今まで塩となり朽ち果てた誰かの上を歩いてきた。誰かが作ったこの塩の道を踏みしめて、そしていずれ俺もこの塩に混ざり誰かの道になる。その、いずれ、の時期がほんの少し早かっただけなんだ」


 彼女は、己が下したこの選択をどのような思いで聞いているのだろうか。きっと残酷だと心を痛めているだろう。彼女は優しいから。

 支倉はゆっくりと、白波へと体を向けた。刹那、強い風がふたりの間を駆け抜けていき、長い外套が勢いよく翻った。


「……シラナミ。もう一度聞く。お前は消えてしまうのか?」


 その問いに、彼女はおもむろに首を縦に動かした。


「たぶん」

「体がなくなったら、どうなる?」

「ここに、いるよ」

「それを聞いて安心した」


 そう言って笑った支倉の顔が、どうしてだろう。いつも通りマスクも付けているしゴーグルもかけている。だから表情などほとんど見えないはずなのに、白波にはその笑いが今まで見たものの中で一番美しいと思った。彼と共に歩いた僅かな時間、踏みしめてきた誰かの道。溶け合ってどちらとも判別がつかなくなって、誰かの道になれるのなら。そんな気持ちが、今二人の中で大きく胎動している。


 まるで支倉が神聖と讃えていた『創世の波』のように、生きた拍動が確固たる意志を持って動き出す。


「これ以上幸せなことは、ない」


 二人はゆっくりと、確かめ合うように言った。それ以外に、彼らは言葉を必要としなかった。もう何も言わずとも、彼らの間には分け隔てる境界線など既に存在していない。


 ふと、突然彼の頬に冷たい「何か」が落ちてきた。乾燥したその粒は、ぱらぱらと、ふたりを包み込むように優しく降り積もる。


 ――花弁?


 空を仰ぎ、彼は呟いた。


 否、――塩、だ。


 細やかな塩の欠片は地上の醜いものを全て覆い尽くし、全てを真っ白に染め上げてゆく。

 二人の『終焉』を祝福するかのように、ゆったりと、微かな冷気を含みながら。


 すべてをなかったことにするために。

 そして、新しい「何か」を生み出すために。

 音もなく降り注ぐ塩は、不思議と温かく感じた。


***


 日が昇る前に、二人は共に起きた。いつも通りてきぱきと外に出る用意をし、そしていつも通りの会話を繰り広げた。ちらりと支倉が薄汚れた記録用紙に目をやり、それをまじまじと見つめていると、横から白波が顔を覗かせ、見せて欲しいと言った。黙ってそれを渡してやると、彼女はゆっくりと一枚一枚、やたら丁寧に見つめ、最終的にふふ、と声を洩らした。


「ハセクラの字、かわいい」

「汚くて悪かったな」

「ううん。そうじゃなくて、書いている時の気持ちがよくわかるもの。気付いているかな。ハセクラがきれいなものに出会った時に書いた字は、他の字にはない熱を持っているの」


 ほら、と彼女は支倉にとある一ページを見せた。

 その日付は、あの『創世の波』を見た時のものだった。



 それなりの準備を終えると、二人は手を繋ぎのんびりとした足取りで塩の丘を登り始める。足の裏に感じるさくさくとした感触が心地良い。


 ひゅう、と一筋の風が彼らの頬を撫でていった。普段吹きつける塩独特のざらざらとした感触をまったく含んでいない、気持ちのいい風である。


 きっと生まれたばかりの風だね、と言い白波は笑った。


 こうしている間にも、様々なものが生まれてゆく。朽ちたものは、また新たなかたちとして生を受けてゆく。ただ、それだけなのだ。


 もうじき丘の頂上に辿り着く。二人が求めた彼らの在り方が、すぐ手の届くところにある。喉が渇いて、唾が張り付いたような感触があった。剥がした刹那の甘い痛みが、なんだか懐かしい。


 体というかたちを失えば、当たり前に感じるこんな些細な痛みも忘れてしまうのだろう。しかし、それを決して寂しいとは思わなかった。


 そんなことを考えているうちに、二人は丘の頂上に辿り着いた。


 彼女の掌が持つ愛しい冷たさが、今ようやく離れようとしている。二人は今この瞬間、ひとつになる。


 ゆっくりと繋いでいた手を離した。


 今白波と支倉は「塩」の海の中真正面に向かい合い、それぞれが互いを見つめあっている。互いの形を、まるでその瞳に、記憶にしっかりと焼きつけていくかのように。

 ただじっと、一面の白にまみれながら二人は佇んでいる。


「――これが『終焉』?」


 彼女が呟く。それに返答すべく、彼もまたゆっくりと頷いた。


「そうだ」


 支倉はゆっくりと、白波の薄いスミレ色の瞳を見つめた。そして、ひび割れた頬を優しく撫でてやる。崩れ落ちてしまわぬよう、大事に大事に包み込むように、彼の掌の熱を彼女の頬へと移していく。


「これが、『終焉』だ」


 白波はじっと、静かに支倉の暗褐色の瞳を見つめ返した。色素の薄い睫毛が、朝焼けによる光の粒を弾いて消える。


「じゃあ、これは終演なの?」

「ああ、『終演』だ。『終焉』という名の、舞台の」

「終焉の、終演」

「そう」


 支倉はその時、彼女の頬がぴくんと動いたのに気が付いた。撫でていた手をそっと離し、彼女を見下ろす。こちらを仰ぐ彼女は、じっと密やかにこちらを見ている。


 ざあ、と風が吹きつけた。彼らを引き合わせた「塩」の海が、今度は彼らを引き離そうとしている。死の塩が互いの身体を蝕み、そして肺すらも侵そうとしてゆく。

 決して嫌だとは思わなかった。この塩に溶けて、二人で一緒に生きてゆけるのなら。生きるという概念が、もう彼らの中では歪曲し切っていることも。そのために身体が不要になってしまったことも。支倉も白波も、全てを理解し消化しきってしまった。


 だから、もうためらうことなどない。

 ふたりで共に新たな『終演』を迎えるまで、だ。


 支倉はゆっくりと己の後頭部に手を回し、ゴーグルを外した。鈍色の光沢を放つそれは、朝焼けの真新しい白い光を受けて一層凄まじい白の光線を放つ。次に口元を覆っていた革のマスクを外し、それらふたつを同時に塩の丘に放る。それらは緩やかな放物線を描き、塩の海に着地した。突然強まった風が新たな塩を運び、あっという間に埋もれてゆく。やがて支倉を守る任務にあたるべきだったふたつの相棒は、その職務を終え白に染まり見えなくなってしまった。支倉は横目でそれを眺めつつ、己の顎の下で結ばれていた帽子の紐を解いた。


「これも、もう必要ないな」


 そして今までその頭を覆っていた垂れ耳の帽子をゆっくりと外し、それも捨ててしまった。


 今、彼が持つ黒い髪も、同じ色をした瞳も、全て包み隠さず白波の前に在る。すぐに風によって運ばれてきた塩がまとわりついたが、彼にとってはそれすらもどうでもいいようだった。


「きれいね」

 彼女が言った。「世界で一番、きれい」


 光栄だ、と支倉は口の端を吊り上げた。


 ようやく露わになった支倉の本当の顔に向かって、白波が問いかけた。彼女の長い茶色の髪が、支倉の目に鮮明な色となり飛び込んでくる。


「ハセクラ。こういうときは、いつものあれを言ってもいいの?」

「ああ」


 満足げに彼は頷いた。


 そうだ。こうして二人は白の世界に別れを告げるのだ。

 すべてはこの素晴らしい終わりのために。


「『の終演に、多大なる拍手を』」


 そして、彼らは同時に呟いた。

 自分と相手の境界を断ち切るために。支倉と白波という名を捨てるために。塩と共に死を迎え、そして終焉という名の舞台の終演を迎えるために。


「行こうか」


 支倉がそっと、壊れそうなくらいに華奢な白波の身体を抱きしめた。白波も無言のまま、強く支倉の背中にしがみつく。


 刹那、肌が裂ける痛みを確かに感じた。赤い血潮がまるで花弁のように飛び散ってゆく。その紅き粒が視界を掠めた時、入り混じるようにやや赤みがかった塩が風に流されていった。乾いた指先に感じた白波の感触が、どんどん脆く崩れていくのが分かる。空気を含んだ薄い膜が、一枚一枚徐々に剥がれてゆくようだった。


 ふと、白波が顔を上げ支倉を見つめた。きれいだった肌はもう既に風化してしまい、少しずつ細やかな塩の結晶へと変わってゆく。


 互いの瞳が交わる。黒と、紫。


 塩にまみれた互いの吐息が、熱が、すべて危うい白へと還元されてゆく。


 こうして、共に生きてゆくのだ。


 覚悟? ああ、できているさ。


 白濁してゆく意識の中、支倉は、抱きしめた彼女の耳元でそっと囁いた。


 ――塩と死を、共に。


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塩と死を、終焉の終演 依田一馬 @night_flight

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