第三章 (2)
白波は支倉の肩にもたれかかり、小さな寝息を立てていた。
ちらりと視線を送ると、微かに胸のあたりが上下している。こうなると彼女はしばらく起きることはない。
ふ、と息を吐き出すと、支倉は今もその身に纏っている外套の留金を外した。そして、翻すようにして彼女にかけてやり、静かに己の掌を見つめる。
まだその指先に残るざらりとした感触。それは間違いなく、彼女の体の残滓が生み出したものである。まだその脳裏に焼き付いて離れないあの残像が、不思議な威力を以て支倉の思考を焦がしてゆく。
彼女と初めて出会った時から、疑問には思っていた。そもそも、彼女には不可解な点が多すぎたのだ。
例えば『創世の波』の中でろくな装備なしに駆け廻っていたこと。例えば彼女がいる塩の丘が決まって終焉を迎えていること。その他にも色々と言いたいことはあったけれど、それらの疑問は全て眠りにつく前の彼女が教えてくれた。そう、まるで白波が支倉にあれこれ質問するように。
出会った時に彼女から感じたものは、結論から言えば嘘ではなかったのだ。
――わたしは、『塩の生まれ』なの。
彼女はか細い声で、しかしはっきりと言い放った。
白波曰く、『塩の生まれ』とは部族のようなものだそうだ。詳しい原因は定かでないが、おそらく普通の人間がこの塩に『上書き』された世界で生き延びるべく、ほんの少しだけ進歩した存在だろうとも言っていた。
この部族は、驚くべきことに塩の影響を一切受けない体を持っているのだそうだ。だから支倉が通常身に纏っているようなマスクやゴーグルといったものは本来必要ない。だが、その代償だろうか、この部族は寿命がとても短い。平均して十五年程度、どんなに長く生きても、二十年がやっとなのだそうだ。そしてその『終焉』の迎え方も独特だ。体中がひび割れてゆき、その肉体全てが塩の結晶へ変質して消えてしまう。そう、まるで通常の人間が塩に侵されていくかのように。
どんなに足掻こうが、結局数年で絶えてしまう命。だからこの部族では、初めから生まれてくる子供に『名前』を与えない。その存在すら知らない。少なくともそれが普通だと彼女は思っていたらしい。
その事実が本人に知らされるのは、子供たちが十年、何事もなく生き伸びた場合に限られる。勿論白波も例外ではなかった。彼女はあと数年しかその命が持たないと知ったとき、ひどく絶望したのだった。そしてこうも思う。
自分という存在はとてもちっぽけだ。その小ささ故に、運命の荒波に流されてしまうのもまた道理だろう。しかし、流される前にたった一度でいい。
世界で一番きれいなものを、見てみたかった。
自分が生きたことの「証」を、世界で一番きれいなものの中に見出したかった。だから彼女はこっそりと長らく住んでいた土地を離れ、ひとり塩の海へと身を投じた。勿論、一人で何かをしたことがなかった白波はすぐに道に迷ってしまい、疲れ果てた末に偶然見つけた建物に入りこんだ。
そしてその夜、支倉と出会う――
本当はもっと早く言うつもりだった、と白波は言った。しかし、それを言ってしまったら支倉が自分を嫌いになってしまうかもしれない。そう思い、ずっとずっと黙っていたのだそうだ。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
彼女は何度もそう言いながら眠りの世界へと旅立っていった。
「……塩、か」
口元を覆っていたマスクを外し、汚れた黒い天井を見上げる。適当に入り込んだこの廃墟は、とてもじゃないが住めたものじゃないなと思う。口の端から白い息が洩れた。
『塩の生まれ』という者の存在は、一応は支倉も認知していた。塩の恩恵を一身に受けている者、として。その末路も支倉はよく知っている。彼女の体にとって何がいけないのかも知っている。全ては過去に与えられた知識だ。皮肉なことに、忌み嫌っていた、与えられるだけの知識が今になってようやく意味を成してきたのである。
『塩の生まれ』の者は、塩のない場所では生きることができない。塩に恩恵を受けている以上、その逆は成立しないのだ。
つまりは彼も彼女も同じだった。支倉が塩のない世界でなければろくに活動できないように、白波は塩のある世界でなければろくに活動できない。
相容れない存在。
塩が彼らを結びつけ、そして隔ててしまった。
彼女の熱を右肩に受け、支倉はゆっくりと目を細めた。
廃墟の中は埃っぽく、壁や柱のあらゆるところが大きくひび割れている。空から降り注ぐ塩の重さに耐えきれないのだ。
この廃墟と彼女は、似たようなものかもしれない。「塩」という重さに耐えられず、その命に翻弄され続ける。
こんなにも彼女は一生懸命なのに。生きたいと、願っているのに。
この柔らかな茶色の髪も、今は瞼に隠されているスミレ色の瞳も。温もりを湛えるその笑い方でさえ、その『一生懸命』の形であるのに。
愛しいと、このとき初めて支倉は思った。
ゆっくりと視線を落とし、足元でごろりと無造作に転がる鉄の生首を見つめた。塗装が風化し、魂のない虚ろな瞳がこちらを見つめている。
「俺、は……」
彼女に、何をしてやれるだろう。
***
翌日、気持ち的にはすっかり回復した白波はいつものにこにこ顔で支倉の前を駆けていた。後ろからゆっくりとした足取りで追いかける支倉は、ゴーグル越しに彼女を見つめては未だに答えの出ない問題に悩まされていた。
本当に全てを解決する「正解」とは、この世に存在するのだろうか?
生きる者としての「証」が欲しいと、彼女は言った。
世界で一番きれいなものを探すの。そう言った彼女が、どきりとする程美しい表情を浮かべていた。
同じ目的、同じ存在。違うものはただひとつ。背負うものの重さのみ。
「ハセクラ、あれはなに?」
そう言って無邪気に指差す彼女が、今はとても愛おしく感じる。こんなに胸の奥で甘く疼くような、きゅうっと締め付けてくるような感覚は何だろう。
自分は単純だ、と彼は思う。ただ、彼女と深い部分での共通点を見つけただけで、こんなにも気持ちが変化してしまうのだから。理解の範疇を越えたところで、引きつける何かがある。
引力、だろうか。
とにかく、彼女を失いたくないのだ。
支倉はそんなことを考えながら、白波が言う「あれ」を差す。
「あれか? あれはソルティー・ヴェスル」
「それ何?」
「『塩の船』さ。こんなに塩に埋もれていたんじゃあ、長い距離を移動するのが大変だろう。だから、あれに乗って旅をするんだ」
ふぅん、と白波は遠くに見える巨大な船の影を見つめ、「変なの」と呟いた。
「ハセクラだって旅をしているよ。どうして乗らないの?」
「俺はまあ、大人の事情ってやつ」
金がないとは、正直言えなかった。
船が小さくなるのを見届けると、白波はわざわざ支倉の右横で歩調を合わせ、のんびりと歩き始めた。時々支倉を見上げ顔色を窺っているが、それ以外には袖を引くなどといったおなじみの意思表示は何も行わなかった。
『記録』をしている最中でさえ、観察しているものとは別の意味を孕んだ視線を向けているのに、支倉が気付かないはずがない。
「シラナミ。手、繋ごうか?」
見かねて、支倉が口にした。何か言いたそうにしているのは、おそらくそういうことではないかと考えたためである。しかし、当の白波はその言葉にほんの少し困惑した様子だった。眉を下げ、その大きな瞳も伏し目がちになってしまう。おや、と思った。
立ち止まり、彼女に視線を落とす。白波は俯きながら、何かをごにょごにょと呟いていた。
「……どうした?」
支倉は彼女の目線に合うようにしゃがみこみ、そっと声をかける。昨日の今日だから、やはりまだ体調がすぐれないのだろうか。無理させてしまったかな、と反省しつつ彼女に声をかけた。
「具合悪い?」
白波はふるふる、といつにも増して勢いよく首を振った。あまりに勢いが良すぎて彼女の頭を覆っていたフードが外れ、茶色の長い髪が上質な帯のように左右に揺れる。
「疲れた?」
この問いにも、彼女は同じ調子で首を振った。一体彼女は何が言いたいのか、支倉にはさっぱり理解できなかった。元々気が長い訳ではない支倉、さすがに焦れて語調が乱暴になる。
「じゃあ、何?」
白波はその紫の瞳を冷ややかに支倉に向け、胸の内をどう言葉にしていいのか必死に考えていた。はっきりしない態度が彼を怒らせてしまったと分かっているからこそ、本当にそれを口にしていいものか悩んでしまったようだ。しかし、だんまりを決め込んでも事態は解決しない。だから彼女はためらいがちに、その理由をゆっくりと呟いた。
「……塩、だから」
「うん?」
「わたし、塩だから……。ハセクラに触れない」
どきりと、心臓が跳ねた。
「ハセクラが好きだから。壊したくないの」
今度ははっきりとした口調で言い放つ。
ゴーグルとマスク、それから帽子を装着していて本当に良かったと思う。こんなに動揺した顔を、彼女には絶対に見られたくなかった。
一陣の風がふたりの間を駆け抜ける。塩の結晶を纏う白濁としたその風が、支倉の中で何かを形作っていた。白波はひたすら「ごめんなさい」と言い続け、終いに大粒の涙をこぼし始めた。
塩の海の真ん中で、ふたりの間だけ『時間』が止まってしまっていた。ぴたりと止む風の叫び声。互いの微かな衣擦れの音ですら、彼らには全く耳に入らない。互いの口元にのみ意識が集中していた。その唇が、紡ぎ出すのは。
「……シラナミ」
ぴくりと、白波の肩が小さく震える。「君は、消えて、しまうのか?」
思いの外かぼそい声が出て、支倉自身も相当驚いたらしい。ゴーグルの向こう側に見える暗褐色の瞳が一瞬見開かれた。本当に一瞬の出来事である。白波が瞬きをした時にはもう既に彼の表情は元の精悍さを取り戻していたし、それ以上何も追及する必要がない。白波はそう考えたのだった。
困ったように眉を下げ、白波は俯いた。鼻をすすり、それから不安に耐えるようにその身に纏う生成りの外套の裾を握りしめる。きつい皺が寄った。
言葉にしてしまえばその残酷さも真正面から受け止めなければならない。支倉も、白波も一様に。ただ、その事実に直面したのがほんの少し早すぎただけなのだ。
「……たぶん」
わたしはね、と白波が告げる。「ハセクラが言う『消える』の意味が、『体がソンザイしなくなる』ということなのだとしたら、否定できない。むしろその通りなのだと思う」
「目に見えるかたちがなくなるということ?」
「うん」
吹きつける風がほんのりと微熱を帯び、生ぬるい温度を肌に残して去ってゆく。眩しいほどに鮮やかな空の青が、白波の持つ淀みのない「白」を一層引き立て、すぅ、と不思議な境界を生み出した。今確かに、彼女は彼女の輪郭線というかたちで、世界と隔てられていた。
支倉は再び問う。
「体がなくなったら、どうなる?」
「ここにいるよ」
白波が答える。「もうそれは、『シラナミ』ではないと思うけれど。わたしは他の塩に混じって、別の意識と交わって、そして溶けていくの」
そう、例えば二種類の絵具をゆっくりと混ぜ込んでいくように。互いの境界線を失い、別の色に変化してゆくように。それを、彼女はまじわりだと言った。塩に侵されて、塩のかけらとなり大地に消えた他の人間と混ざってゆくこと。それをさも当然のように言い切った。
支倉はそうか、と小さく呟く。その声も、この塩の大地を吹き上げる風の音色にいとも簡単にかき消されてしまった。おそらく、真正面で彼を仰ぎ見る白波にすら、この声は届いていないだろう。
「ハセクラ。選択して」
白波の大きな声が風に交ざりながら支倉に突きつけられる。その丸い瞳が、薄い塩の欠片のような危うさを孕んでいた。触れたら最後、冷たさのあまりに火傷してしまいそうな。そんな強い意思がその目に垣間見えたのだった。
「わたしは選んだよ。わたしはハセクラと一緒に行くことを選んだ。だから今度はハセクラが選んでほしい」
それがどれだけ酷い選択であるかを、白波も重々承知しているつもりだった。どれだけずるい質問であるかも。それらを全部ひっくるめて、白波は支倉に委ねようと思った。
支倉は何も言わなかった。その代わりに、そっと両手を広げる。ああ、随分大きな手だなと白波はぼんやりと思った。刹那、その両腕は彼女を捉えた。
強く、しかしどこか優しいその腕は、ゆるゆると彼女へと体温を移していく。彼女を壊してしまわぬよう、できるだけ丁寧に。互いの微かな呼吸が、囁くように耳元を掠めていった。
支倉は思う。
彼女の手を握り、頭を撫で、それから抱き上げる。そんな些細なことでも『彼女』というかたちがここに在るという証明になるのならば。
それでいいのではないか。
ぞっとするほど冷たい彼女の体温を全身で受け止めながら、支倉はゆっくりと黒の双眸を細めたのだった。
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