首吊り女と骸

秋口峻砂

首吊り女と骸

 青白い月明かりの下、ある林道をふらりふらりと歩く其の女の頬には涙が流れていた。乱れ髪、紅あかく腫れ上がった眼、歪み浅く開かれた唇、首元には細い線状の痣が残り、崩れ乱れ胸元が顕になった着物は、脚の付け根が黒く濡れ異臭を放っていた。

 その唇からは言葉にならぬ呟きが漏れている。何かを求めているのか、其れとも何かを失い彷徨っているのか、それは分からない。だが唯一つだけ伝わってくることは、女が深い哀しみに浸っているということだ。

 細い手には彼岸花が一輪握られている。

 不意に月が陰った。周囲が暗闇に包まれる。だが女は何も感じていないかの如く、ふらりふらりと歩み続ける。

 こつり、と其の足先に転がる何かに触れた。女はついと視線を向けたが、暗闇の為に何も見えず、女は何事もなかったかのように其れを踏み付けまた歩き出そうとする。

「待たれよ」

 足元に転がる其れが女に言葉をかけた。不意に雲間から月明かりが漏れ、見ると其れは黒く焼け爛ただれた骸だった。

「何かご用でございますか」

「用も何もそなたは今、わしを踏んでおるではないか」

「貴方は最早骸と為っておられます。今更私が踏んだとてどうあられますか」

 女は無愛想にそう告げると、また歩き始めようとした。

「そんな風だから男に捨てられるのだ」

 骸の発した其の言葉に、女の動きが止まった。そして泣き腫らした赤い眼をじっと向ける。

「骸如きに何が分かりますか」

「分かるとも、ここに転がっておるだけで、過る人間の様々なことが見えるもんさ」

「貴方はいつから転がっているのですか」

「ひとつき程前に役人に斬られ焼かれた。それから転がっておる」

 女は眼を細め、まるで軽蔑したように骸を見詰め、その身体に唾を吐きつけた。こんな焼け爛れ腐れかけた悪人に四の五の云われる筋合いなんぞない。

「ほぅれまた。そうしてひとを蔑むから、そなたは男にも見捨てられるのよ」

「私はただ、あのお方を愛していただけです」

「違うの、そなたは愛さるることをも求めておる」

「いけないのでしょうか」

 女の脳裏に過ぎったのは、愛し愛された筈の男の顔。男には妻子があり、思い詰めた女は男に心中を求めた。男も覚悟を決め、共に逝く筈だった。

 この林道から外れ、三角山の麓の森を奥に歩むと、朽ち果てた神社がある。その神社のご神木のふたつの枝に、ふたり紐を括り首を吊った。

 息が詰まりその苦しみに糞と小便を漏らし意識が朦朧としだしたその時、幸か不幸か男の枝だけが折れ男が地面に落ちた。

 女は苦しみのあまり肺に残った僅かな息を吐き男に声を掛けたが、それはどこか澱んだ恨みすら感じさせる声で、男は女を恐ろしげに見上げ何かを呟くと、逃げるように走り去ってしまった。懸命に手を伸ばし男の背中を眼で追う。朽ちた鳥居の根元に咲く紅い彼岸花が、女を嘲笑っていた。その光景に女は絶望し意識を失った。

 それからどれだけの時が流れたのかは分からないが、意識を取り戻すと女が首を吊った枝も折れ、ご神木の根元に倒れていた。

 そうして女はここまで彷徨ってきた。悲嘆と絶望に昏れ、だがもう死にたくともあの苦しみに身を委ねる気力は残っておらず。己を嘲笑った彼岸花を摘み取り、強く握り締めながら。

「愛さるることは愛することの対価ではないぞ。愛することはどこまでも身勝手なもの。だが愛を求めることとは、それよりも傲慢な欲望だ」

 雲間から漏れた月明かりが途切れ、暗闇が支配する。女は小さく俯いて、恐ろしげに自分を見上げていた男の顔を思い浮かべた。

 あれは首を吊り苦悶の表情に歪む其の顔と恨み声を恐れていたのではなく、求むるがあまり男をも殺そうとする其の愛を恐れていたのかも知れぬと思った。

「其れでも私は、あの方に愛されとうございました」

「何を抜かすか、そなたはその男に愛されておったのだぞ」

「慰めなんぞ要りませぬ」

「妻子がおったとて其れにどれだけの意味があろうか。そなたは傲慢故に男が恐れるほど愛を求めた。だが受け止めたからこそ、共に逝こうとしたのだ」

「私は捨てられたのですよ」

「男の逃げた理由など、わしは知らぬよ。だが戯れで心中なんぞせぬものだ」

「それは詭弁ではありませぬか」

「ははは、そうかも知れぬな」

 首吊りの跡が残る首元が激しく痛み、女は顔を顰めた。愛していた、愛されていた、だが結果が此れでは、生き延びようとも此の身には最早何一つも意味は残されておらぬ。

「だがそなたはまだ幸せよ。わしなんぞ愛そのものを知らぬ故」

「愛されたことがないのですか」

「愛したことすらもない」

 また雲間から月明かりが漏れた。女は哀しげな眼を骸に向けた。黒く焼け爛れた悪人の骸は、それから何も語らなくなった。

「きっと貴方も、誰かに愛されたかったのですね」

 女は小さく呟くと跪き、其の手に握っていた彼岸花を骸の傍に手向けた。そして首吊りの跡が残る其の細い首に手を触れると、小さく微笑み、また歩き始める。何処に向かう当てもないが、ただこれからも生きるしかないようだ。

 愛することと愛されること、絶望に染まっていようとも、それらを知らずに逝ったこの骸より幾らかよかろう。

 紅く腫れ上がっていようとも、其の涙は止まっていた。

 雲間から漏れる青白い月明かりが、女と骸を照らしていた。

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首吊り女と骸 秋口峻砂 @dante666

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