第9話
――……、いいですか、小野さん。一般人はそもそも自分が非力だと知っています。猛スピードで突っ込んでくる自動車があれば避けようとするし、頭上から何かが落ちてくれば身を守ろうとする。つまり条件反射として、回避行動が身についているんです。それは逃げなければ怪我をする、死ぬかもしれない、と本能がまず危険を理解しているからなんです。
けれど、能力者は違います。個々の能力によりけりな部分もありますけどね、突っ込んできた自動車を素手で受け止められる人もいますし。落下物が自分の体にぶつかるより前に、落下物そのものを粉々に粉砕してしまえる人もいます。危険は、一般人に比べるとずっと少ない。――少ないからこそ、能力をなくした能力者の事故は後を絶たないんです。
早い話が、頭の中で理性が理解する速度と、神経に染み付いている本能が理解する速度はまったく違うんですよ。危険な事に遭遇して、咄嗟に能力を使おうとした後で、その力を今は失っているのだと思い出して逃げようとしても、すでに手遅れな場合もあります。だから能力をなくした能力者は身の安全のためにリハビリを受けなければいけないんです。無論、法律や条例で決まっている事ではありませんよ、小野さんが辞めるといえば終わりです。でも、よく考えてください。事故で足を失った人がリハビリなしで社会復帰できますか? 脳梗塞で倒れた人がそれまでと同じ生活を苦もなく取り戻せますか? 小野さん、貴方が力をなくしたって事はようするに、それらと同じなんです。今まで当たり前に出来ていた事が出来なくなり、ふとした場面で支障が出てくる。他の事例よりも見えにくいだけで、本質は同じなんです。
でも。と、脳裏で延々と説明なのか説得なのか分かりづらい事を喋り続ける記憶に、大輔は医者の口から同じ事を聞いていた時同様に、言葉を返した。声に出して、あの時の医者によく似た困り顔をしている高柳へと告げた。
「俺は能力を取り戻したいとは思っています。だから、戻らない事を前提にしてリハビリを受けるつもりはありません」
「――、困った患者だな」間の後でひっそりと深められた口元の笑みには、大輔の強情さに半ば呆れて困る色が滲んでいた。「能力を失った能力者のほとんどが能力の回復を望みながらも出来ていない。なくす原因さえ不明なんだ。そもそも能力を発現させていること自体が異常であり、能力がなくなるのは肉体の修復機能がその異常を治したからだという説もある。今の君の状態のほうが、肉体的には正しいのかもしれない」言って高柳が小さく肩を竦めたのは、その自身の言葉で言うのなら、能力を持っている彼自身が病気なのだと断言したようなものだからだろう。
正常な状態ではない。一般人が正しい人の姿だというのなら、高熱を発する体が病であるように、不可思議な能力を扱う体も、何かを病んでいるに違いない。
大輔は首を横に振った。「肉体的にはどうであっても、俺にとっては大事なものなんです。なくなったからといって、はいそうですか、って諦められるものじゃない」そっと左手で、体の脇に垂れ下がっている右手を撫でた。ごく普通の体温を宿した、柔らかい皮膚の感触。当たり前に伝わってくるものに無性に歯噛みしたくなるのを堪えて、その代わりに深々と息を吐き出した。「高柳さんも一度、なくしてみれば分かりますよ。多分、どうしようもなく不安な気持ちになりますから」
「なるほど、」と、高柳は頷く。「君にとってリハビリをするという事は同時に、今までの自分の価値観を捨て去るという意味にもなるわけか」
「、そういう事です」少し違うとは思ったものの、そのささやかな差異を説明出来るだけの言葉を持ち合わせている自信がなくて、一瞬黙り込み、そうしてから頷いた。
怪訝そうに大輔を見遣る高柳の目の中で、さっき微笑と共に消えた鋭さがゆっくりと再び滲み出し始めていた。空いた間の一瞬で迷った事を目敏く見つめたような目は刑事然としたもので、彼を中心にして部屋の空気がまた引き絞られていく。
嘘をついていると思ったのだ、と、大輔は柔らかさが鋭さに飲み込まれた高柳の目を見て思った。嘘と呼べるほどご大層なものではないと分かっているから余計に、事実を探り当てようとする眼差しを真っ直ぐに、眼球の奥にまで突き立てる不躾さと強引さが馬鹿馬鹿しくも鬱陶しくも思えてきて、今度こそ部屋を出るために背を向けた。
「大輔、」隠し事があるなら言いなさい。と、大人が子供を諭す声だ。
振り返らずにノブを回して扉を開ける。体を部屋の外へ出してから、室内の高柳へと向き直った。思っていた通り見据えてくる眼差しには、呼んだ声音の半分程度の優しさも穏やかさもなかった。俺も刑事だった頃はこんな眼をして犯人を見ていたんだろうか。隠し事を許してくれそうにない眼に、苦笑いを浮かべる。
「大樹を見つけてくれたなら、リハビリも受けますよ。高柳さん」
別に能力に固執しているつもりはない。ただ能力と一緒になくしてしまったものが、あんまりに大きすぎるのだ。力を取り戻したら同じようにまた戻ってくるのではないかと思うから、簡単に能力を諦める事が出来ない。
――今までの自分の価値観を捨て去る。という話ではなくて。
一番怖いのは、リハビリを始める事が半年前になくしたすべての物を諦めてしまう事に繋がりかねない、という事。戻ってくるはずがないと心の何よりも弱い部分で認めてしまいそうだという事。
本当は、平凡に当たり前に過ぎていく毎日でさえやるせなく、時にどうしようもなく、立ち竦んでしまいそうにだってなるのに。
高柳の眉間に深く皺が寄るのまでは見たけれど、動き出しそうな気配で震えた唇から発せられた声のほうは、扉を閉める音で掻き消して聞こえなかった振りをした。本当は、「違うだろう。もっと自分の身を大事にしなさい」と声ははっきり、閉じかけた扉の隙間から耳へと滑り込んできたものの、返せる言葉なんてなかったから、無視を決め込むしかなかった。
ノブから手を離して歩き出す。廊下からエレベーターを使って一階に下りると、ロビーは大輔が三階に上がった時よりも随分とうるさくなっていた。大きな人盛りが出来るほどに人の数も増えていれば、その増えた人間ひとりひとりが発する声も挙動も何もかもが、それなりに広いはずのロビーで飽和状態を作り上げていた。静けさは綺麗さっぱり追い払われている、「あ。小野君、もう終わったの?」その中でもよく通る先輩の声に目をやると、彼女はカウンターに頬杖をついた格好で頬だけをゆるませて笑ってみせた。苦笑いであるのは、目の上で八の字になっている眉で分かる。
カウンターに近寄り、「一体、なんなんですか? これ」と聞く大輔の疑問に真っ先に応えてくれたのは先輩ではなかった。
「警察はどうして、我々の団体活動に関してだけ規制をかけるのかお聞きしたい」
耳覚えのある声だった。眉をひそめたのは無意識で、大輔自身がはっきりと自分で顔をしかめたと自覚したのは、声のする方向に視線を向けて、地味な色の背広を羽織った人物の背中を見つけた時だった。耳覚えのある声、が、誰の声であるのか繋がった瞬間に、「……ッ、先輩、なんなんですか、これ」と思わず、同じ言葉をさっきよりも動揺した声で呟いていた。
「演説を摘発に行ったらこうなったの」器用に頬杖をしたまま、彼女は肩を竦めた。カウンターひとつを境目にして他人事を決め込んでいるようである。「道路使用許可書は持ってなかったから、辞めさせるのは簡単だったんだけど。そうしたら、「普通に申請したら受理してくれるのか」っていう話になって、で、こういう状態」
一触即発。とはまさにこの事だろう。
「――受理するんですか?」種火にならないように小さく潜めた声に、「どうだろうねぇ、ちょっと難しいかもね」相変わらずの口調で先輩は言う。その応えに少しだけ大輔の眉間の皺が深くなったのを目敏く見つけ、目を細めて笑うと、「大丈夫。あの人達、君の元同僚をイジメるのに夢中みたいだから。それにこんなにうるさかったら私の声なんて聞こえないって」
さっき呼ばれた時はすんなり聞こえたんだけどな。内心で嘆息がちに思う大輔からロビーの人盛りへと先輩は眼を移した。「まあ、あの人達にすれば大変よね。申請書なんて出したって普通に上が握りつぶすんだろうし。受理してもらおうと思って頑張っても、犯罪者集団っていうレッテルはそうそう剥がれるものでもないだろうし。諦めてゲリラ演説みたいな事やっても、警察に見つかったら終わりでしょ?」気の毒だ。とも言いたげに聞こえた。
けれどそれに大輔が顔をしかめるなり反応を示すより前に首を横に一回、二回と振り、、目だけを動かしてロビーの壁にかけられている壁掛け時計へと上目遣いに視線をやった。「そろそろお兄さんがパトロールから帰ってくる時間だけど、やっぱり会っていくの?」
「いや、帰ります」迷わずに応えると、「そう。じゃあ、気をつけてね」頬杖をやめた手がひらりと振られた。そしてまた、肘をテーブルについてぼんやりと喧騒を眺めやる姿でロビーをうるさく騒がせる音源へと目をやる先輩に背を向けて、大輔は警察署を後にした。
初代の魔女と絶望の時 和錆 @wa_sabi
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