第8話

 三階の一角にある対魔術課は通り過ぎてきたどの課よりも物静かだった。絶対数として部署にいる人間そのものが少ないから、彼らひとりひとりがせわしく席を動き回っていても全体的にはひっそりとした雰囲気なのだ。――と、対魔術課の事を表面的にしか知らない来客者なら思うのだろうが、なまじ彼らの内情を知っている大輔の肌は、少ない人数ながらに他の刑事課や生活安全課と同等のスペースを有している部屋の空気が、ぴりぴりと静電気を帯びたようになっている事に気づいていた。忙殺されすぎて殺気立っている空気である。

 さて、こんなところに半年前にいきなり退職した同僚が来たらどうするかな。とふと思った時には、想像するよりも先に声をかけられていた。「あれ? 小野? ……、小野、大輔のほうだよな?」部屋の中央に向かい合う形で寄せられた六つの机の右端にいた男が目を丸くして、入り口の前に立っている大輔を見る。半年前に大樹が失踪したのは同僚であるこの男も知っている、そもそも大輔と共に現場にもいた。一応の確認といった口調で続けられた名前に大輔は頷いて、「久し振り」とありきたりな挨拶を口にしてから、視線を部署の一番奥へと投げた。部下達の机の先、大きめにとった窓ガラスを背にする格好で机が一つ置かれている。

 視線を受け止めて、机に座っていた高柳がゆっくりとした動作で立ち上がった。

「待っていたよ」たった一言の他愛ない口調に、声を投げかけられた大輔ではなく目を丸くした男のほうが先に早く反応して顔をしかめた。突然の驚きが過ぎ去るとようやく、どうして大輔がここにいるのかという疑問が生まれたらしい。無論、模擬魔術事件の後処理で大忙しだった頃にろくな事情説明もないまま辞めてしまった大輔が、と反感しかない前置きがついている。

「――そういえば、一階の受付の人が対魔術課の人間を寄越してほしいと言ってました」同僚が何かを言い出す前に、先輩から頼まれていた事を高柳に告げた。「警察署の前で能力者解放戦線のメンバーが演説しているそうですよ」

「そうか」と上司が応じた時には、男が席から立ち上がっていた。

「俺が行ってきます。恐らく路上使用許可を取っていない無断での演説でしょうから、向こうもそんなに抵抗しないでしょうしね」言って、部屋から立ち去る。大輔の傍らを通り抜け、早足で遠ざかっていく。その靴音が消えるまで耳を澄ましながら、大輔はひっそりと息をついていた。

 避けられた、と思った。向こうからすれば、なまじ嫌味を言わないために距離をとった、というところなのだろうけれど。

 ひとりいなくなった事でますます閑散とした雰囲気が深くなった対魔術課の室内で高柳は、男が座っていた机の斜め向かいに腰を下ろしている部下へと「悪いが、私はこれから彼と大事な話があるから小会議室に行く。何かあれば携帯で連絡してくれ」告げて、入り口にいる大輔の肩を軽く叩いて廊下に出た。

「気分を害したなら私から謝ろう」と、上司然とした声が言う。「君が抜けた穴を埋めたのは彼だ。その分だけ苦労もしただろうし、君に言いたい事もあるんだろうが」

「分かってますよ、」ただ無視されたと憤るほど子供ではない。身勝手な大輔の行動に元同僚が腹を立てるのは当然の事だったし、一方で大樹の一件が遠慮となって、文句を吐き出したい口を塞いでいる事も察しがつく。

 小会議室は対魔術課を出てすぐの場所にあった。

 扉の脇のプレートを「使用中」に差し替えてから、ふたりは部屋に入る。せいぜい十人程度しか収容できなさそうな室内は、すぐに会議が行えるように、長机が四角形の形に辺として置かれていて、入り口から見て手前の奥には使い古されて本来の白色をなくしているホワイトボートがある。大輔に一番近くの折りたたみ椅子を勧めた高柳自身はそのまま辺をなぞるようにして、大輔と机と空間を隔てた反対側に回りこんだ。

「単刀直入に言おう。初代の魔女を探すのはやめなさい」と、席に座って彼は言う。

 反論を許していないのはもとより、上司と部下の関係であった時でさえ言われた事がないほどのはっきりとした命令だった。この有無を言わさぬ口調で告げるためにわざわざ必要以上の距離をとったのではないかと勘ぐりたくなるぐらいだった。こんなに離れていたら剣呑を抱いてもまず手をあげるよりは、口を開くほうが早い。

「どういう意味ですか?」理由がないものに従うつもりはない。部下としてではなく、あくまで忠告を受ける立場として質問する。「初代の魔女を探すと何か問題でもあるんですか? その前に、やめるように俺に言うのは叔父さんとしてですか。それとも、課長として?」

「両方だな」応えると、高柳は困ったように口元を緩めた。「しかし最初に聞いてくる事は、初代の魔女は都市伝説ではないか? だと思っていたんだが」意外だった。と言いたげな口振りが一方で、言葉なく問いかけてくる。

 実在しているという確信を、一体どこで見つけてきたのか。

 隠す必要を感じなかったので、「初代の魔女の情報を頼んだ情報屋がその日のうちに根をあげてきたんです。探せば命はない、と脅されたって」ありのままを話して再び質問した。「高柳さんも、その用件ですか?」だとすれば、初代の魔女の周囲に張り巡らされた有刺鉄線は想像以上に頑丈で隙間がないかもしれない。

 情報屋が脅されたのはあくまでも、裏社会だ。そして大輔が今向き合っている男は、表社会に属する。つまりは裏と表が交差し合い、行く手を阻んでいる事になる。そこまでして隠蔽しなければならない何かが、「初代の魔女」という対象には潜んでいる。

「恐らくは、同じ用件だろうな」高柳は口元の笑みを深めた。「そして君の性格上、納得のいく答えを得られなければ指示には従わないだろう? わたし達の間に、上下関係が存在するならまだしも」

「……でも、話してくれるんでしょう?」高柳はその気だろう。でなければ会議室でこうして顔を突き合わせているのはおかしいだろうから。深入りしない忠告を口にするだけのつもりならば、人の出入りがある対魔術課の室内でも十分だった。

 初代の魔女に潜んでいる何かを大輔の前に晒して見せるために、高柳はここを話し合いの場所として選んだはずだ。廊下を行き交う人間がどれだけいても、「使用中」のプレートが差し込まれている会議室の扉を開けようとはしないだろうし、防音設備も行き届いている。

 問いかけに元上司は物静かに頷いた。

「最初に言っておくと、話せる範囲の事は決まっているんだ。君がどれだけ先の事を知りたいと願っても、それが話せる範囲を超えていれば私は沈黙するしかない。でもそれは私の保身のためでもあり、君自身のためでもある。初代の魔女について、多くを知りすぎた人間は遅かれ早かれ命を奪われてきた。……社会的抹殺、という意味も含めてね」

 そうして一旦言葉を切り、悲嘆そのものといった息をついてから彼は続きを話し出した。「まず、初代の魔女は実在する。何かの情報の暗号というわけでも、兵器の隠語でもなく、能力者として生まれた一人の女性を指す単語だ」

「能力は男にしか発現しないって言われてますけど」

「突然変異という見方が大半だな。今現在でも、彼女以外に能力を持った女性が生まれてきたという報告はない。君も知ってはいるだろうが、そもそも能力は男性特有の遺伝子情報の中に存在するもので、生物学的に見ても女性が能力を持つ事はありえない。――ありえないからこそ、彼女が発見された時、学者達は歓喜したわけだ。まだ、「研究所」が健在だった頃だから」

 頭の中で年数を数える。「二十二年前以前、ですよね?」

「三十年前だ。政府が研究所を立ち上げたのが三十五年前だから、五年後の話だな。――、そのあたりの事は学校の授業で習っただろう?」そう大輔に訊ねてから噤まれた唇は、自分から答えを告げる気はないと言いたげに頑なに引き結ばれていた。教科書に載っていた事、現代社会でも歴史でもなく、道徳の時間に学んだ事だ。高校を卒業して久しい頭の中からは難解な方程式の解き方は綺麗に抜け落ちているけれど、広げたページの右半分を使って掲載されていたモノクロ写真の事は、いまでも不思議なほどはっきりと覚えている。

 白と黒だけの画像にも関わらず、写真の大部分を占める灰色の壁はとても寒々しく見えた。壁よりも若干薄い色で映る中央の台、手術台と表現するのが一番適切だろうそれに点々とある歪な形の汚れは、モノクロでは映せないはずの毒々しい赤色のようだった。

 淡々と他人事として、一行の文章が写真には添えられていた。――研究所内、実験室。

 思い出すと、自然に眉根が眉間に寄る。まるで、確かにその実験室で痛めつけられた体の箇所があるのだと主張するように、じくりと胸の奥が痛み出す。古傷が雨で疼くのに似ていた。

「大丈夫か?」と投げかけられた声に、顔を上げる。

 それは俺の台詞だろう。と、大輔は心の中で思った。高柳は今年で三十五歳だ。当時能力者として生まれた子供はこぞって研究所に預けられていたそうだから、二十二年前まで存在していた研究所にいたのは確かだろう。

「……、大丈夫ですよ」応えてから一度、深く呼吸をする。そうして心の中に溜まりだしていたむかつきごと、深々と息を吐き出した。「普段は忘れてるようでも案外覚えているもんですね。迫害の歴史、っていうのは」

 二十二年前まで、模擬魔術は一般的には普及していなかった。

 今では生活を支える一つの柱とも言える技術を一括に管理していたのが時の政府であり、その政府の管轄下において模擬魔術を研究開発していたのが、いわゆる「研究所」と呼ばれた組織だった。正式名称は、能力者矯正支援センター。建前上は、三十五年程前から一気に増加しはじめた能力者と一般人とのトラブルを未然に防ぐための、能力者専用施設。当時は今よりも能力を持った子供を捨てたり育児放棄をする親が多かったため、養護施設のような感じであったらしい。

 その施設で、親から捨てられた能力者の孤児達は専門家やカウンセラーの手厚い援助を受けながら育っている。幸せに暮らしている。

 創設されてから十三年後、つまりは二十二年前、研究所が突如火災に見舞われ、今までまったく研究所と関わりのなかった地元の消防隊が逃げ遅れた者達を助け出そうと施設に駆け込むまで、世間はそう思っていた。駆け込んだ消防隊の一人が、和やかな養護施設然とした一角に不自然なまでに頑丈に閉ざされた扉を発見し、こじ開けて中を見た。その光景を消火完了後に写真に収めなければ、世間はもう少しの間ぐらいは無関心でいられただろう。

 公開された写真こそ大輔の脳裏に今も焼きついている、薄ら寒い空気を漂わせた実験室の光景だった。

 世間に広く浸透していた「能力者のための施設」というイメージからはあまりにもかけ離れたその写真を、政府はまず門前払いにした。けれどそれでは世間が納得しないと分かると今度は、事実無根の写真だ。捏造だ、と唾を撒き散らしながら主張するようになった。

 けれどちょうどその時に、ある企業から新商品として煙幕の出るリングが発売される。同時期にとある出版社が、火災の際に施設から逃げ出した能力者のインタビュー記事と彼が命がけで持ち出したという研究所内の機密資料を大々的にページを割いて掲載した。そして、新商品の外観や構造がその資料のひとつにとても酷似していた事が、知らぬ存ぜぬを繰り返す政府を袋小路に追い込む結果となった。

 世間が事の真相をちゃんとした言葉で聞くのは、それから一年後になる。衆議院選挙で惨敗した政府に代わり第一党に躍り出た現政府が即日に調査委員会を創設し、判明したことのすべてを国民に伝えると約束したからだ。

「初代の魔女の事は分からなかった、という事ですか?」

 明るみに出た事は、能力者矯正支援センターとは名ばかりの、関係者の中では少しの温もりもない「研究所」と呼ばれていたその場所で、非人道的な行為が日常的に行われていたという事実だった。隠された目的は、能力者の力の解明と応用。毎日血液を抜かれ、内肘の柔らかい皮膚の部分が痣のように青黒く変色した者もいた。普通の血管から血を採取できなくなれば、耳朶のような、本来採血するのに相応しくない場所から強引に取る事もままあったらしい。

 これらの情報は“国民が知るべき能力者迫害の事実”の位置づけをされる一方で、研究所を設立させた前政府と政権交代を果たした現政府がまったく違うものなのだと国民に印象付けるためにも使われた。二十二年たった今、現政府にもそれなりにスキャンダルがある。政治家にありなちなカネと汚職の問題は新聞やニュースを騒がせてはいるものの、まだ誰の口からも政権交代をすべきだという声はあがっていない。この国は二大政党制だから、表で一般人と能力者の平等を謳い、影では人体実験と謗られても大袈裟だと言い切れない事をやらした党に再び、政治の中枢を任せるのか? と、政権交代という単語に付きまとうその問いに、「はい」と断言できる者がまだ現れていないのだ。現れにくいように、政府は能力者問題を操ってきた、ともいえる。能力者の敵=前政府として、彼らの悪行をひとつひとつ見つけては白日の下に晒してきたのだから。

 高柳は静かに目を伏せ、机の上で両手の指を組み合わせた。「分かってはいるだろう。ただ、ここ二十二年で政府は、能力者の味方を演じ続けてきた。能力は不可思議な力こそあるが普通の人間であり、絶対数が少ないから大勢の一般市民に迫害されれば生きていけない。能力者=弱いもの、という位置づけで彼らは、弱きを守る立派な政府を演出してきたわけだ」

 能力者の施策として、政府は能力者の力の応用技術を民間企業へ解放する事で今まで国が独占していた情報を統べて手放した。研究所を潰し、今度こそ能力者ための支援施設を建設した。その傍らで模擬魔術や能力者自身による犯罪が横行し始めると、警察内に能力者だけを揃えた対魔術課を作り、対処を命じた。能力者を庇護しながらも一般人との折り合いを図り、双方が歩み寄れる社会環境を築く――、半年前までは順調に行っていた、といえるだろう。

「模擬魔術事件のせいで一般市民はまた、能力者を恐れ出している」苦々しい声には、対魔術課として事件を見現に防げなかった後悔も混ざっている。「その上で初代の魔女と誰かが接触し、彼女自身の口から研究所の火災の事実が世間に広まれば今度は、前政府のとった非道な行為のほうが正しかったと言われかねないと恐れているんだ」

 高柳は息をついて指を解いた。瞼を上げて、大輔を見る。

「政府の見解では、火事は煙草の火の消し忘れになっているだろう? しかし本当は、初代の魔女と彼女に呼応した過激派達が引き起こした暴動の結果としての火災だった。彼らは研究所から逃げ出すために施設内に火を放った。研究者達はもちろんの事、自分達の同胞である能力者が焼け死ぬ事も厭わない行動だ」

 大輔は息を吸い込んだ。喉の奥が干上がっていてひりひりと乾いた痛みを訴えていた、唾を二度三度、飲み込んでからようやく口を開いた。

「、それで、初代の魔女を探してはいけないんですか?」

 能力者が政府の庇護を受ける理由ともなった火災の事実。一般人が恐れを抱くかもしれないから、という理由は表としては十分だろう。けれど、裏社会にまで禁忌として広がるにはまだ何かが足りない。

 大輔の疑念に高柳は応じた。今までの口調の中で、ひときわ感情を押し潰したように低い声だった。「研究所は初代の魔女を発見してすぐ、彼女の卵子が使用可能か検査した。両親が共に能力者だった場合、その子供はどんな能力を受け継ぎ、一般的な子供との差異はあるのか。研究者にとってみれば、女性の能力者がいない以上は調べようのない事だったから、興味は尽きなかっただろうな。魔女は幼くして遺伝子上の母親になった。さすがに母胎は既婚者の子宮を使ったらしいが。その最初の、魔女の子供の能力データが、裏社会に流れたらしい」

 大輔は首を傾いだ。「流れて、……どうなったんですか?」

 裏社会は初代の魔女を禁忌とした。ある程度名前は通っていてもしがないはずの情報屋でさえ少し魔女を探そうとしただけで命の危険を告げられるほどに。結論はあるものの、そこに辿りつくまでの経過が分からなくて高柳を見る。

「人を殺すのに、爆弾と包丁、どちらがいいか? という話だよ」と、声の調子は変わらずに告げられた。「爆弾と包丁なら確かに、殺傷力は爆弾のほうが高いだろう。しかし場所を選び、無関係な人間を巻き込みかねない。包丁ならば、動脈の位置さえ分かっていればその人間だけを殺す事ができる」そうして一旦噤んだ口を引き飛ばすようにして、笑みを作った。筋肉を動かしただけのそれは、感情のない声と同じものだった。

 能力者も同じだろう? と、笑みは訊ねてくる。だから裏社会は初代の魔女を禁忌としたのだ。

 目を、大輔は大きく瞬いた。第三者が扱いきれないほどの能力を秘めた子供を産み落としたために裏社会で、存在さえ探る事を禁止された女性。けれども、彼女よりもまず、気にかかった事がある。

「初代の魔女の子は、死んだんですか?」そうでなければおかしな話だ。禁忌がひとつだけというのも、可能性以上に現実としてすでに存在しているものを問題視しない事も。

 簡単に行き着いた答えだったけれど、高柳はすぐには即答しなかった。「――……、研究所の火災では、多くの能力者が死んだ」嘆息そのものを声にして彼は言うと、目を大輔から傍らにあるホワイトボードへとやった。「そもそも能力を持った子供は育てられないと、半ば親に見捨てられるようにやってきた子供も多かった。遺体の半分以上は身元不明だ。魔女の子供が生きているかどうかは分からない」

 詭弁だろう。死んでいると、確証がなければいけないのだ。

 嘘をつくのに目をそらす癖が、彼にあるわけではない。けれど、何かが書かれているわけでもない汚れたホワイトボードにただ置かれている高柳の視線は、分かりやすく大輔から目をそらしているだけのように見えた。

 しばらくして、高柳は一度瞼を伏せてから、大輔へと改めて視線を据えた。

「どちらにしても、初代の魔女には触れてはいけない。理由はそれぞれ違っても、表と裏でその約束が交わされるのは簡単だった。探そうとするものがいれば止める事、止めても探そうとするのなら実力行使も辞さない。そういう決まりだ」最後の言葉の部分にだけ、ふとしたかすかな揺らぎがあった。自嘲げに声を滲ませて高柳は続ける。「忠告するのはこれで、二度目だ。一度目の人間は、自分がどうなってもただ事実がほしいと言い切って、最後には死んでしまったな」

 背筋が条件反射的に震えた。その一度目の人物を殺したのは俺だ、とは邪推でもしなければ閃かない結論だろうに、据えられている眼差しがそっと物静かに引き絞られるのを見て、大輔はその暴論を、咥内にいつの間にか溜まっていた唾ごと喉の奥へと飲み下していた。――そう、思わせる事が肝心だ。実際に手を下すよりも、もしもを想像させることで尻込みさせ、引かせる事の方が重要だ。冷静な部分は興醒めした冷淡さで断じていて、大輔自身、その感覚のほうが正しいのだろうと思ってはいるものの、肌を粟立てた悪寒はすぐにはなくなってくれなかった。

「ところで、」と、高柳は話題を変える。こべりついた悪寒を綺麗に剥ぎ取れないままに大輔は高柳を見た。「どうして初代の魔女を探していたのか、聞いていなかったね。君がただの好奇心で、いまや都市伝説と化している彼女を探そうとするとは思えないんだが」

 視線がかち合い、そらしたのは大輔が先だった。「言えません」

 依頼人を守らなければ、とまず思っての拒絶だった。けれど言い捨てて一文字に唇を引き結んだものの、小さく小首を傾げた高柳の目が淡々と見つめてくる威圧感に次第に耐え切れなくなって結局、再び口を開いた。負け惜しみのように、苦味のある声が出てきた。「――、人に頼まれました。でも、その人も本気で初代の魔女がいるとは思ってないでしょう。ただの酔狂ですよ。だから、俺が「いなかった」と嘘をつけば、きっと依頼人も諦めてくれます」脳裏に蘇る、一億円の光景はこの際、忘れる事にした。依頼人が見せた一億円分の本気は、大輔が説得したところでそうそう消えやしないだろうとも思ったけれど、これも気づかない振りをする。

 高柳は、「そうか」と短く応じた。大輔の説明を受け入れるように頷いてから、「君はこの件から、手を引いてくれるんだね?」訊ねる口調は念押しというよりは、最終確認といった様子だった。ただ、断られるはずがないと自負しているからではない。もしそうなった時には最後の手段しかない、と覚悟を決めている問いかけだった。

 頷きかけて、半ば顎を引きかけたところで大輔は動きを止めて、上目遣いに高柳を見遣った。「条件がある、……って言ったら、聞いてくれますか?」大輔が聞く耳を持たなければ、社会的抹殺でも文字通り命を奪う事になっても仕方ない、とさっきの問いかけは暗に告げていた。そんな相手に条件も何もないのは重々承知していたけれど、微々たるものでも受け入れられる可能性があるのなら、大輔は言わなければいけなかった。

 若干、高柳の表情が引き締まる。「大樹の事か?」

「そうです」緊張。拒絶。ささやかな元上司の変化を感じ取り、大輔も居住まいを正す。「大樹の捜索願を受理してください。受理してくれるなら俺は、初代の魔女の事を諦めます」

「大樹は成人している。子供の行方不明ならまだしも、成人した人間の捜索願はあまり重要視されない。大人は知恵も働くから、自分から失踪したのだとすれば警察が発見する事は困難だ。その点は君も、知っているだろう?」

 額縁通りに聞き入れれば提出しようとしていた捜索願の届けを断念せざるおえないような質問に大輔はあっさりと頭を打ち、けれど条件自体を引っ込める気はまったくない事を感じ取ると、高柳は言葉を続けた。淡々とした声だった。「それに、大樹が失踪したのは模擬魔術事件の真っ只中だ。――逃げ出したんだと、思っている人間がいないわけじゃない」

「だからって受理するのを拒むのは違うでしょう?」

 身内の恥を不特定多数に広めたくないために捜索願を引き下げる大智の行為と同じだ。

「――……、分かった」置かれた間の割りに、他愛ない応え方だった。「君の弟の捜索願は受理しよう。君の兄にも邪魔はさせない。その代わりに君自身は今後、初代の魔女に関わらない事を約束してほしい。初代の魔女だけではない、君に彼女の捜索を依頼した人物とも関係を絶つ事。いいね?」

 でなければ、命の保証はしない。言葉の形をした見えない刃の切っ先を鼻先寸前に突きつけられたような心地で、大輔は神妙に頷いた。もとより、門前払いされる事も覚悟の上で切ったカードなのだから。「分かっています。約束は、守ります」

 真摯に応えた大輔の姿勢をそのまま鏡で写し取ったかのような生真面目な面持ちで高柳は頭を打つと、ふと硬く引き締まっていた顔の輪郭を柔らかく崩した。この部屋に入り彼が口を開いてから始めて目にしたと実感できる、心からの笑みだった。

「さて、じゃあもう話す事はない」言って高柳は自身の手首にある腕時計に目を落としてから、大輔の肩越しに背後の扉へと視線を投げた。「君としても、そろそろここを離れないとまずいだろう。君の兄は優秀だからパトロールをサボって早く帰ってくる事はないが、寄り道をする事もないからな」

「じゃあそうします」大輔は立ち上がった。さすがに警察署の中で鉢合わせたら、街中での遭遇よりも面倒は格段に増える。模擬魔術で強引に逃げ出すわけにはいかないし、かといって減らず口で周囲の注目を集めたくもない。

 高柳に頭を下げ、背中を向けていた扉のほうへ体を翻した時だった。

「そういえば、君にひとつ聞いておきたい事があったんだ」とかけてきた声に引き止める類の強さはなく、どちらかといえば世間話の続きのような他愛ない響きだった。真剣味も感じられない声音に肩越しに顔だけを振り向けると、高柳は首を傾いで口を開いた。「その後、体の調子はどうだい? 能力障害の影響は大丈夫だろうか?」

 大輔は体ごと改めて高柳に向き直ってから頷いた。「大丈夫です。特に問題はありません」

「病院にはちゃんと通っているのか?」高柳の視線がそっと静かに大輔の体の線を撫でる。

 通ってなんていない。そんな時間と金があるのなら、費やすべき対象は自分ではない。そう決めて半年前に、自分でも意外なほどにあっさりと切り捨ててしまった事を改めて親身に問われると、自分で下した結論をそのまま口にする事は出来なかった。思わず言葉を探すように、目を高柳から天井へとそむけてしまっていた。

 空いた間とそれた目が、高柳にとっては何よりのヒントだっただろう。ふいにしかめられた顔を見る限り、本人が望んでいた答えからは程遠かったようだけれど。「通っていないのか? 警察を辞めてから半年間、ずっと?」

 息をつき、視線を落として真正面に高柳を据えてから、応えた。自分のしている事は正しいのだと主張する、頑なな声が出てくる。「あれは単に、能力がなくなっても普通に生活出来るようにっていうリハビリ目的の通院です。根本的に、なくなった能力が戻ってくるわけじゃない。通う必要性を感じなかったら辞めました」

 短い嘆息が高柳の口から落ちた。「能力者は突発的な事態に遭遇した時、能力に頼る傾向がある。その能力がなくなっている状態でリハビリも受けずに放置しておくのは危険だ。かすり傷で済む事が大事に発展する場合もあるんだよ?」

 分かっている。その説明は十分に、リハビリを辞めると主治医に告げた時にもされた。

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