第7話

 正面入り口の自動ドアを開けて中に入ると、さりげなくいくつかの視線が向けられた。受付カウンターに座っている、数人の婦人警官の眼差しだ。彼女達の目は束の間、入ってきた人間は自分の担当する部署に用事だろうかと観察するように向けられて、そして違うと判断した時点で、あっさりとそらされる。分からない時は意味深な眼差しが続くけれど、声をかけられる事は滅多にない。

 そうして、ひとり、ふたり――、と婦人警官の視線がそれていくうちで、ひとりだけカウンターの向こう側で椅子から立ち上がった人間がいた。「あぁ、小野君。ひさしぶり」ひらひらと振られる手は、街中の雑踏で遠目に偶然知り合いを見つけて注意を引こうとする仕草のようだ。人が溢れかえってもいない警察署では無駄に周囲の人間の視線を集めるだけの行為でもあって、大輔は思わずため息をついてから彼女のいるカウンターに向かった。

「やめてください、先輩。その、恥ずかしいんで」といって、振られる彼女の手を掴んで、カウンターの上に下ろさせる。大輔の発言に目をきょとんとさせてから、ようやく気づいた様子で周囲を見回して、彼女は小さく舌を出して苦笑いした。そうすると大輔よりもだいぶ年上のはずなのに同年代ぐらいには見えた。

 警官時代に、世話になっていた先輩のひとりだ。彼女に限っていえば、退職してからのほうが世話になっているともいえる。

「あ。ごめんね、小野君」これほど悪びれない謝罪もないだろうと思うぐらいにあっけらかんと言ってから、彼女はカウンターにボールペンと記入用紙を置いた。「そろそろ来るんじゃないかと思ってたのよ。だから勘が当たって嬉しくてね」

「すいませんけど、今日はそっちの用事で来たんじゃないんです」言いながら大輔はボールペンのキャップをはずした。もう何回も書き続けている書類に今回も、同じ内容の記載を手早く済ませて彼女に手渡す。「でもまた、受理されてなかったんですね」

 指で一つ一つの欄を確認し、最後にこくりと頷いてから先輩は不思議そうに首を傾げた。「いつもちゃんと不備がないって確認してるのに、どうして記載不備で毎回返ってくるのかな。ある意味、都市伝説よね」

 それはうちの兄の仕業です。とは、さすがに言えず、大輔は無言のまま唇を引き結んで、ボールペンのキャップを戻した。カチ、と軽い音を立ててしまったボールペンをカウンターの向こう側にあるペン立てになおす。

 兄が、失踪した大樹の捜索願いをもみ消していると知ったのは、退職する数日前だった。

「まあ、今回は大丈夫でしょ」と、書類が不備で返ってくるたびに書き直す大輔へ言う台詞を今回も言って彼女は、「それで別の用事ってなあに? なにか盗まれた? 事故にあった?」書類をカウンターの上の小さな棚に片付けながら質問した。答えれば、それに応じた書類を出そうと待っている手を見ながら、大輔は首を横に振る。

「生憎、そういうんじゃありません」

「だったら、お兄さんと待ち合わせ?」半年前から続いている仲違いを知らない先輩の声は明るい。彼女の中での小野大輔はいまだ、二歳年上の兄を心底尊敬する青年でいるのだろう。「お兄さん、さっきパトロールに行っちゃったから、当分帰ってこないと思うけど。待ち合わせするならちゃんと、時間とか決めておかないとね」

「兄に用事はありません、」気をつけて言葉を選んだつもりだったけれど、愛想のない声が思ったよりも冷淡に兄の事を切り捨てていた。言ってから、しくじった気まずさに無意識に唇を噛み締めてしまう。

 意外な返事として受け取ったらしい先輩が一回、大きく目を瞬いた。なにか言いたげに唇が揺れるのを見る。

 本当は書類に不備なんて一つもない事は、長年受付カウンターに座っている本人が一番よく分かっているだろう。それでも毎回返されてくる書類への不信感を後輩である大輔に問うでもなく、ただ不思議がるだけで付き合ってくれている。もう書くなと言うでもなく、大輔の気持ちを何よりも尊重してくれている。世話好きというか、困っている人を見たら助けたくなるその性分が、さっきの大輔の言葉に反応してむずがっているようだった。

 詮索される前に、大輔は話を打ち切った。

「高柳さんに――…、課長に、呼ばれたんです。今日の朝、電話で」初代の魔女の件で、と言う気にはなれなかったので、ひとつ息をついてから嘘をついた。「引継ぎの件でひとつだけ、うまくやっていないのがあったらしいので。時間があれば来てほしいと頼まれて来ただけです。兄さん、とは関係ありませんよ」

 兄、を、兄さん、に変えるだけで随分と言葉が柔らかく聞こえた。結局他人行儀な言葉よりも長年言い慣れた言葉だからだろう。先輩はもう一度、さっきよりもことさらゆっくりと瞬きをしてから、「そう、」とまず小さく頷いた。「小野君がやめたの半年前なのに、ずっと気づかなかったっていうのも間抜けよね」

 詮索しないから。暗に告げられた言葉に便乗して、話をそらす。

「忙しかったんでしょう。模擬魔術事件でずっと忙しかっただろうし」

「そうね」応じて、彼女は口元をゆるめた。「対魔術課はそうでなくても人員が足りなくて大忙しなのに、働き盛りの子がひとりさっさと辞めちゃったらそれは、大変よねェ?」最後のほうはどちらかといえば張りぼてのような意地悪さがあった。問いかけの形をしていても大輔の返事を期待していないのは明らかで、間を少しも置かずに彼女はちらりと視線を、大輔の背後へとやった。

「二階以上にあがるお客さんを案内するのも私の仕事の一つなんだけど、どうする? 対魔術課まで案内しようか?」

「さすがに引越しでもしていない限りは迷いませんよ」

 苦笑いで丁重に先輩の申し出を断って大輔は、彼女が視線を向けた背後のエレベーターのほうへと踵を翻した。そのままロビーを立ち去ろうとするのを引き止めたのは、音もなく開いた自働ドアから入り込んできた外の音だった。

 自動ドアを開けたのは、ごく平凡そうな男である。その男の靴音と共に耳に入ってきた、機械越しにノイズが絡まった音声に大輔は立ち止まっていた。振り向いてドアのほうを見ても、あるのは駐車場のアスファルトの色ぐらいなものだったけれど、その音声がなんであるかを察するのは簡単だった。

「あら、外は随分と賑やかなのね。選挙なんてなかったと思うけど」と、音の正体に気づいてないらしい先輩の他愛ない声である。さすがにさっきの音声が能力者解放戦線の演説だと教えれば多少は眉をひそめるだろうけれど、あえて告げる理由もなかったので大輔は口を噤む事にした。

 でも、と心の底では呆れた思いだ。

 いくら半年前の模擬魔術事件の首謀者を“組織内における一部の過激思想を持った能力者”と触れ回っていても、半ば無差別殺人のような事をしでかした組織が警察署を前にして、組織のアピールをしているのだから。腹いせ交じりにしょっ引かれても文句は言えない気がする。

 それとも警察への連行のリスクを背負っても、彼らはこの近くで演説をしなければいけないのだろうか。確かに警察署は大通りに面しているから、陣取って演説をすれば自然と多くの人の耳に入っていくだろうけれど。昨日と今日、二日間で場所を変えて四回、能力者解放戦線のメンバーに遭遇しているというのも、半年前の大事を考えれば頻度が高い。なんだかんだで半年前、事件をきっかけにして行われた一斉摘発で幹部達の大半は逮捕され、下っ端は下っ端で逃げ出したもの、知り合いの説得によって抜けたものが大勢出ただろうから、これ以上の弱体化を防ぐ意味でも新しい仲間の勧誘は彼らにとって急務なのかもしれない。

 しかし、能力者仲間のうちでも能力者解放戦線は鼻つまみものだ。表面上は波風立てずに共存してきた能力者と一般人の境目を力任せに揺さぶり、亀裂を作り出してしまっている。亀裂が隙間になり、最後は飛び越える事もままならない溝となるのを恐れている能力者は思いの他、多い。

 そこまで考えが行き着いたところでひっそりと、息をついた。

 ――まあ、俺には関係のない事だけど。と、大輔は内心で静かにピリオドを打つ。

「あの、」と、カウンターにいたひとりの婦人警官が先輩に声をかけた。周囲に聞かれるのを憚る押し殺した声ではあったけれど、自働ドアが閉まるのと一緒に外から入り込んできていた声を締め出したロビーの空気は、さっきまでの静けさを取り戻している。耳をそばだてる必要もなく、聞こえてきた。「道路を挟んで向こう側の公園で、能力者解放戦線が街頭演説をしているらしくて。警察の威厳はどこに行ったんだって、あの人が――……」

 あの人というのはさっき入ってきた男だろう。

 視界の外側で見えなかったものの、能力者解放戦線、の単語が出た瞬間、先輩が顔をしかめるのを感じた。物静かなりに穏やかだったロビーの空気に剣呑が落ちてざわめく。

「そうね、」と、先輩が前置きのように言うのに大輔は振り返っていた。気配のようなもので、呼ばれるのではないかと思ったからだ。伏せ眼がちにカウンターを眺めていた彼女は目を上げると、すぐさまかち合った大輔の視線に面食らった顔をしたものの次の間には、苦笑いに近い笑みを浮かべた。

「ついでに対魔術課の誰を呼んでくればいいんですね?」彼女の言いたいだろう事を推測して訊ねると、彼女は苦笑いのままこくりと頷いた。「お客様をこき使って悪いね。その代わりといっちゃらなんだけど、書類のほうはちゃんと死守するから。今回は任せておいて」言って、自身の胸元を叩いてみせた。

「まるでその言い方だと、今までは適当だったように聞こえますけど」

 こっちも苦笑いを添えた軽口を言ってから歩き出した。ちょうど上階から降りてきたエレベーターに乗り込んで、対魔術課に向かう。

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