第6話

 目が覚めた。夢の底からふわりと浮上した、というよりは、ただ閉じていた目を開いただけのような、はっきりとした覚醒だった。仰向けで眠っていたので自然と目に入った年季の入った天井を眺め、瞼をゆっくりと瞬く。目覚めが悪いほうではなかったものの、まるでずっと起きていたかのように寝ぼけていない体に、けれど確かに眠っていたはずだと自覚している意識が戸惑っていた。直後、ぶるり、と、充電器のプラグを差し込んだままの携帯電話が僅かに振動する気配を聞いた。

 あ、電話が鳴るな。と思った時には横になったままで手だけ、畳にほとんど無造作に投げ出されていた携帯電話を拾い上げていた。愛想のない目覚まし時計の電子ベルに似ていなくもない音が今まさに鳴り響きかけたところで、通話ボタンを押す。ついでに待ち受け場面の隅に表示されていた時間を見た。十一時二十八分。

「――、はい」布団からゆっくりと這い出す。どちら様ですか? と訊ねる前に、声が向こう側から聞こえた。大輔自身が出た事を短い言葉で理解しての、必要最低限の返事だった。

『久し振りだな。小野君』と、低い男の声だった。

「、どちら様ですか?」一拍、思わず息を飲み込んで出来てしまった不自然な間が、この問いかけが無意味なものであると大輔自身に自覚させた。素知らぬ声を装うよりもまず、電話の相手が誰であるのか理解してしまった事を相手に告げていた。

 向こう側で男が笑う。かすかに唇の表面だけを引き伸ばすようにして笑うのを、ノイズによく似た気配で感じ取った。『高柳だ。どこの高柳か、までは話さずとも分かると思うが、一応名乗るべきかな?』笑いの余韻を残して名乗る。

 その分だけ最後の問いかけが、ただの冗談や軽口ではない事を大輔に分からせた。

 間違い電話のように他人の振りをしても無駄だ。――分かっていますよ、と、白旗をあげる気持ちでため息をついて、口を開いた。「、高柳さん、なにか俺に御用ですか?」今度間が空いたのは、大した意味からではない。単純に、電話越しのこの人の事をなんて呼べばいいのか分からなかったのだ。

 小さい頃は、「叔父さん」と呼んでいた。血縁関係はなかったけれど、家に来ては遊んでくれる優しい叔父さんだったので。それは高校を卒業するまで続いて、警察官になってからは「課長」と呼ぶようになった。対魔術課の課長、直属の上司となった相手を、昔のように馴れ馴れしく呼べるはずもなかったからだ。けれどその分かりやすい関係性も大輔の退職を機に終わりを告げた今は、子供の頃の無邪気さだから呼べた「叔父さん」に戻すわけにもいかず、かといって「課長」のままで通す気にもなれず。

 ことさら他人である事を強調するような呼び方だ、と口にする一瞬、少しだけ後ろめたさを感じたものの実際に言ってしまえば、この距離感が今の自分達には一番妥当で、ありがたくも感じられた。

『用件は至って簡単だよ』突き放したようにも聞こえただろう大輔の声に、高柳はなんでもない口調で応えた。『警察署に来てほしい。それだけだ』

 目を瞬く。「どうして?」率直に出てきた言葉だった。

 退職して、もう半年になる。受け持っていた仕事の引継ぎ関係で支障が出たという話ならば、もっと早く連絡が来るはずだ。

 沸いた疑問に対しての高柳の返事はいたって分かりやすく、明確な脅しまでついていた。

『君が初代の魔女を探している、と小野兄から聞いた。その事で話したい事があるんだがね、この件に関しては電話で詳細を話すのは躊躇うんだ。だから警察署まで来てほしい。――……、という事だよ。来る気がないと返事をしてくれても構わないけれど、そうなると色々、面倒事になる』

 面倒、の部分をはっきりと強調するでもなく言い切った男は、大輔が何かを言い出すよりも先に言葉を続けた。『先日、警察にある苦情の電話があったんだ。若い男が道路の近くで模擬魔術を乱発させている、とね。しかも、車が通行する可能性のある道路での使用は非常に危険だと分かっている煙幕の模擬魔術だったらしい。それは大変だと至急現場を調べたら、使用者を特定するに十分な証拠を見つけたわけだが、』

 そこで一旦口を噤んだ高柳に暗に促されるような形で、大輔は推理にもなっていない事実をいう事になった。「模擬魔術の表面に付着していた俺の――、指紋、ですか」

『その通り、』と、電話越しで高柳は頷いた。

「職権乱用っていいませんか? そういうの」

 模擬魔術使用法、というものがある。世間一般に浸透しつつある模擬魔術の悪用を防止するための法案であり、模擬魔術ひとつひとつに設けられた使用基準に違反した場合、この法律によって罰せられる事になる。煙幕の模擬魔術を車が走行する道路の近くで使用してはならない。今回大輔が違反した項目はそれだ。「だって実際のところ、俺の使った模擬魔術で交通事故は起こっていないと思いますけど。ちゃんと使用する時に、車が来ているかいないか確認しましたし。あの人が、中和剤を使ったから、五個連続で使ったっていっても実質的な効力はほとんどありませんでしたからね」まともに最後まで使い切ったのは五個目だけだ。

『しかし、煙幕型の模擬魔術の使用基準では、君の使い方は違法だ』

「でもいちいち、大事にもなっていない模擬魔術の使用方法で人一人を逮捕しようなんて面倒くさい事を警察はやっていない。――半年前は、そうでしたよね?」

 市販されている模擬魔術に記載されている使用基準はやたら厳しく滅茶苦茶でもあった。製造会社としては、何か問題が起こった時に、「使用基準がなかったからこんな事故を引き起こしたんだ」と言われないために、様々な事を想定する。故に、こんな事をいちいち使用基準にしなければならないのか、と疑ってしまいそうな事まで書かれている。

 そして、その使用基準に違反した者達をいちいち捜査し逮捕して送検するほど、警察署――とりわけ模擬魔術を専門に扱う、対魔術課は暇ではない。しかも、半年前に起こった模擬魔術事件の余韻は暗い影としていまだに、世間に広がっている。小物の相手をする時間があれば、模擬魔術事件の主犯格と目されている能力者解放戦線の情報を収集し、次に起こるかもしれない事態に備えておきたい、というのが対魔術課の正直な本音であるはずだ。

 電話越しで高柳がかすかに微笑んだ、ようだった。

『君の言う通り、労力は必要最低限に抑えておきたいよ。だからこうして電話をした、というわけだ。君が今から私のところへ出向いてくれるなら、忙しい部下達に指示を出して君を逮捕するための作業をしなくてもすむ』

 けれど断るのなら、指示を出す。と、他愛なく声は断言する。――その結果として、日が変わるよりも前に元同僚がこの部屋の薄っぺらい玄関扉を叩く事になるのだろう。いや、それも元同僚ならまだマシなほうで、わざわざ面倒な労力を使わせた大輔へのささやかな嫌味として高柳が、大智に捜査を指示する可能性もなくはない。

 不思議なほどにすっきりと目が覚めた頭を大輔は抱える。「それ、俺にメリットのある選択肢がありますか?」頭痛を堪えるようにして訊ねていた。受話器から伝わってくる短いノイズ交じりの笑みは、『降りかかってくる厄介事を自分で調節できる、と思えばいいんじゃないか?』暗にどっちも五十歩百歩のデメリットがあると素直に認めていた。

 模擬魔術事件の直後で警察官の誰もが忙殺されている時期に、半ば強引に退職した。その職場でのこのこと顔を出す。それが嫌だと断れば、せっかく家を出て半年間、見つからずに暮らしてきた我が家の住所を特定される事になる。個人的な探し人ではなく、警察からの正式な捜索依頼の形をとっていれば麻耶も情報提供を拒むはずがない。

 初代の魔女、という単語が出てきた時点で大輔が誰を想像するか見当がつけていて、そこに付きまとう無条件の反感を見越しての、回りくどい交渉術。とでも言えば聞こえはいい。逃げ道を順当に潰されて、二箇所だけになった道を見てみればどっちにもこれみよがしな穴が空いている。違いは深さぐらいなものだ。

 思わず、歯噛みしていた。いつもの事ながら、気づけば袋小路に追い込まれているという顛末だ。「相変わらず、性格悪いですね。高柳さん」悔し紛れの皮肉に、高柳は少しだけ笑みを沈ませて応えた。『それだけ大事な話がある、君に来てもらわなければならないと思っている。とは、考えられないか?』

 考えたくはない。と、拗ねた答えをいえる場面ではなかった。高柳が無駄に人を追い詰めて楽しむ類の人間でない事を知っている分だけ、彼が真剣にそう思っている事もはっきりと伝わってくるのだから。

 しかし、それでも素直に納得するのは癪だったので、「――、分かりました」これ以外の言葉を知らないかのように棒読みで応えてから、充電器のプラグを引き抜き、立ち上がった。無造作に脱ぎっぱなしになっているズボンの裏返しを直しながら、質問する。「行くのは、一時ぐらいでいいですか? 朝飯を食べてから行きたいんですけど」

『それでいい』来る事を約束さえしていれば、後は別に何時になっても構わないと言いたげな口調だった。

 それだけ大事な話、と高柳が口にした単語を一度頭の中で反芻する。初代の魔女は実在するかもしれない。初代の魔女を探せば命の保障はない。昨日、情報屋と交わした会話のいくつかがふと、脳裏にふわりと浮かんでは弾けて消えた。

『では、一時に対魔術課で待っている』それを別れの挨拶にして受話器が置かれようとする気配に、「あ。待ってください」大輔は声をあげた。「兄さん……、小野大智はその時間、部署にいるんですか?」

 思案するような間の後で、『模擬魔術事件の報告書を書いているところだろうな。昨日は情報提供をしてくれた麻耶さんに謝礼金を持っていったはずだから、今日は何か問題でも起こらない限りは一日中、部署にいるはずだ』と返ってきた返事は最後に、空気をゆっくりと震わせるようにして笑った。『彼がいたら迷惑か?』

「――、そういうわけじゃありませんけど、」ただ昨日の今日で顔を合わせづらいのは確かだった。偶然街中で出会う、のなら自分の運の悪さを嘆いて終わりだけれど、今から相手の職場に行こうとしているのだから、居心地が悪い。

 かといって、誰それがいるから行くのをやめます。では、分別の利かない子供以下の言い訳だろう。せめて初代の魔女の事を聞いている時だけは同席させないようにここで頼んでおくか、と自分なりに譲歩できる最低ラインを確認して、大輔は言葉を続けようと口を開いた。

『分かった、』と、電話越しで応える高柳の声が、大輔の言葉が声になるよりも前に話を締めくくる。『小野君には市街の巡回にでも出てもらおうとしよう。そうすれば二時間程度の余裕はとれるだろうから、問題はないね?』

「、はい」と答える以外の返事があれば教えてほしい。と内心で思いつつも、一応は感謝しながら頷いて、「じゃあ、一時に」と今度はこちらから別れの挨拶を告げて通話を切った。そして、通話中のアイコンが消えたディスプレイで時間を確認する。十一時三十五分。

 着替えを済ませてコンビニで朝飯を買って、近くの広場か公園で食べて――、警察署に行くまでの行動を頭の中でシュミレーションして最後に、これでいい、と頷いた。時間には十分に間に合うだろう。とりあえず今はさっさと、朝飯になるようなものなんて一切冷蔵庫に入っていない家を出る事だ。

 裏返しを直したズボンをはいて、箪笥から適当にシャツを引っ張り出して着る。汁が入ったままのカップラーメンの容器が放置されている流し台で顔を洗うと、用意は整った。半年前まではこのあたりで、櫛を持った大樹が「せっかくの色男なのに、髪の毛ぐらい綺麗に梳かせって」とぶつぶつ言いながら近づいてきたのだけれど、一人暮らしのこの部屋に櫛はない。鏡もない。大樹がいたら、そもそもこの部屋にいる意味さえない。

 昨日、麻耶の事務所を訪ねる時に肩にかけていた鞄はそのまま、畳の上に放ってあったので、それを右肩から左脇へかけて、玄関で靴をひっかけた。わざわざ時計を見る気はないけれど、精々五分ぐらいの身支度だろう。扉を開ける前になんとなく、髪の毛の表面だけ撫でる。耳の傍のあたりで手のひらに跳ね上がった毛先の感触があったものの、適当に他の髪の後ろに隠して終いにした。

 鍵を閉め、階段のほうへと歩き出す。ちょうど二階へ上がってきた隣人と、階段のすぐ手前で鉢合わせた。

「よう。重役出勤か?」立ち止まって分かりやすい嫌味で挨拶してくる中年の男は、長袖のTシャツに作業着姿という、いかにも工事現場にいそうないでたちだった。実際、夜間の工事現場で働いているから昼間は寝るので静かにしてほしい、と隣室に引っ越してきたばかりの頃に言われた事がある。うるさくすれば言わずもがな、昨日のように壁に何かがぶつかってくる。

「はい。今日は帰りが遅くなるかもしれません」だから存分に寝てください。と、こっちも明らかに嫌味を込めて言ってから、男の脇を通り抜けた。半年間隣室同士でも、交わす会話なんてものは大体がこんな感じだった。

 二言三言、嫌味のような皮肉のような事を並べて、どちらかが立ち去ったら終わり。大輔が階段を降りはじめるより先に歩き出した男の靴音からも分かる、至極シンプルな関係である。けれど三段も降りないうちにぴたりとその遠ざかっていた靴音が止んだのにつられて、大輔もなんとなく立ち止まってしまった。

 振り返った視線の先で、男が大きく右腕を振りかぶっていた。野球のピッチャーというよりは槍投げ選手の動作に似た腕は鋭くしなり、空気を引き千切るかのように素早く、何かを二階の通路から外の路地へと投げつけた。ようだ、と思ったのは、彼の投げたものが見えたからでも、投げつけられた何かのぶつかる音が聞こえたからでもなく、今まで静かだった一階の周辺の空気が途端、にわかにどよめいたからだった。

 動揺し慌てふためく複数人の気配を上から無造作に押し潰そうとするように、男の声が響き渡る。

「てめェらの話なんざ、聞きたくもないッ!」と、彼は怒鳴った。心底嫌悪する声音と同じ色をした眼差しは真っ直ぐに、外へと向けられている。「なにが我々は差別されているだッ! なにが能力者と一般人の平等な社会だッ! そんな言い訳を振りかざして、自分を受け入れない社会を妬んでるだけだろうがッ! そういう根性なしがいるせいで、他の能力者が困ってるとは考えねェのかッ!」

 いつもの眠っているところを騒がれてキレる男の口調とは違っていた。普段はただ腹立たしげに言い放たれている声が今は、明らかな敵意に凝っていた。叫び終えてもなお、何か言いたげな唇を強引に引き結んで、男は踵を翻す。バタッン、と、玄関の扉が閉まる。そんな乱暴に扱ったら壊れてしまうんじゃないかと他人事でも心配になるほどの音を聞いてから、大輔は残りの階段を降りきった。そして、男が声を荒げた理由を目にした。

 数人の男達が、いかにも困った顔をしてアパートの二階を見上げていた。何か悪さをしでかしそうでもなく、かといって昼下がりの住宅街に溶け込めるような雰囲気でもなく。服装自体ばらばらな、一言で表現すると「奇妙な」団体だった。

「どうします?」と、そのうちの生真面目な学生っぽい一人が口にする。誰に問うでもなさそうな言葉だったが、「住人に嫌がられたんじゃ駄目だろう。イメージダウンする事はあまりするなって、リーダーから言われてるし」太った格好のひとりが答えると、賛成とばかりに他の全員がこくりと頷く。そのほとんどの顔には見覚えがなかったものの、たった一人だけ、「じゃあ、仕方ない。ここは演説はなしで。リーダーの指示を仰ぐ事にしよう」締めくくるようにそう言った地味な背広姿の中年男だけ、大輔は知っていた。といっても、知り合い、というわけではない。どこでその顔を見たのか、思い出しただけだった。

 駅前で昨日、拡声スピーカーをいじっていた男だ。

 つまり彼らは、能力者解放戦線のメンバーなのだろう。足元を見ると選挙の演説とかで使われていそうなスピーカーが一台、二台、と置かれている。そこからコードがのびて、地味な背広姿の男が持っているマイクへと繋がっていた。

「でも、さっきの男の人、怖かったですよね。いきなり二階から傘を投げつけてくるなんて」

 と、ため息混じりに言う学生風の男が視線を地面に落とした。柄の真ん中部分が折れて、「く」の字に曲がった安物のビニール傘を靴先でつついている。「俺達の事、そんなに嫌いなのかな。怖いんですかね、能力者って」

 大輔は歩き出す事にした。約束の時間までに朝飯兼昼飯を食べなければいけなかったし、このままアパートの前に立ち呆けて、彼ら、能力者解放戦線の気を引くのも避けたかった。けれど無意識に、いつもよりもゆっくりと足を踏み出していたのは、生真面目な学生がした素朴かつ永遠のテーマであるその質問に、他の仲間がどう答えるのかを、聞いてみたいとも思ったからだった。

『大輔や大樹も、初対面の人を怖いと思う事はあるだろう?』ふと脳裏に、兄の言葉が蘇る。中学の頃だったか、似たような質問した双子の弟達に兄は他愛ない口調で言ったのだ。『それは相手をよく知らないからだ。知れば怖いという気持ちはなくなる。まあたまにもっと怖くなる時もあるが、それはそれでいい。何が怖いのかを理解していれば、その恐怖を取り除く方法も分かるからな。何も知らないって事が一番、どうしようもない恐怖を生むんだ』

 そして同じ質問を、ヒロシにもした。

 大輔は渋ったけれど、大樹が「色んな人間に質問したほうがきっといい答えが見つかる」と譲らなかったのだ。問いかけられたヒロシはしばらくの間じっと黙り込んでから話し出した。ゆっくりと頭の中にある考えを声にしていくような喋り方だった。

「――さあ、どうだろう」思い出したその言葉が別の誰かの声を伴ってこの時、大輔の耳に入り込んできた。

 思わず足を止めて声の方向へ振り向く目に、地味な背広姿の男の首を傾げる姿が映った。「山本さんが似たような質問をされて答えるのを聞いた事があるけど。そもそも本当に怖いのなら、能力者に逆らおうとか思わないはずだよ? だって、怪我させられるかもしれないし、もしかしたら殺されるかもしれない。だとすると、傘を投げたりするのはようするに、怖いとかじゃなくて、自分の周辺に近づいてきてほしくない。関わりたくないって事なんだよ。俺の世界に入ってくるな、って事だ」

「入ってくるな、ですか」その言葉を今はじめて聞いたとでもいうように太ったひとりが目を瞬かせた。背広姿の男が肩をすくめる。「だって、そうだろう? 怖いと思うものにあえて歯向かおうとする人間はいないから。本当は檻にでも放り込んでおきたいんだ。ライオンやトラみたいに、隔離されていれば安心できる。動物園みたいに自分達が見たい時だけ、触れ合いたい時だけ傍にいけるようだったらいいと思っている。人を食い殺せるだけの牙と爪を持っている、厄介な生き物だからね」

 立ち止まったままの足を大輔は意識して動かした。これ以上聞いてはいけない、と思った。ヒロシの言っていた事を言葉選びこそしながらも同じニュアンスで語る背広姿の男も、これ以上見ていたくはなかった。自分の心の中にある、一番誰にも触れられたくない醜悪な部分をごっそりとくり抜いてひとりの人間として、存在させているかのようだった。男の言葉には身震いするほどの懐かしさと、それと同じだけの怖さがあった。

 ゆっくりと、そして次第に歩調を速めている間も、彼らの会話は続いている。遠ざかる大輔の耳に最後に届いた声は、背広姿の男の嘆息混じりな一言だった。

「まあ、怖がっているのは僕らじゃない。怖がっているのは、無力な彼らのほうなんだよ」

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