第5話

 夢だと自覚する夢を見る。

 その夢の小野大輔はとても小さく、とても幸せだ。信じられるものをたくさん持っていたし、信じられるものに対して、心底絶望した事も失望した事もない。何も知らない事が一番の幸せだというのなら、大人になってからふと省みた時、確かに一番幸福だった頃の大輔の夢である。

 成熟するために流れるべき時間がない夢の中では、子供はいつまでたっても子供のままだった。

「なあ、大輔。大輔って」呼ばれて振り返ると、そこにはいつも鏡がある。鏡のように瓜二つな顔立ちをした大樹が立っている。色違いの服を着て同じ色の真新しいランドセルを背負った、双子の弟だ。

 ただ、弟の大樹のほうがくるくると表情がよく変わった。大輔は弟の怒った顔や泣いた顔を見ることで、自分もそういう顔をするんだろうかと思っていたけれど、実際は、怒っても笑っても表情の筋肉は弟の半分ぐらいしか動いていなかった。

 無愛想なのが兄貴。感情豊かなのが弟。――異常すぎるほど似ている双子に、学校の教師達、たまに会う親戚連中が一応は遠慮を見せて影でこそこそ言っているのは、この時にはとっくに知っていた。

「……、なに?」まったく不機嫌でもないのに、心底不機嫌そうな声が出る。

 弟はまったくそんな兄の言葉に無頓着で、くいっと大輔の服の袖を引いた。こっそりと誰かに見られるのを、多分前を歩いている二歳年上の兄に知られるのを警戒しての小さな身振りで、さっき過ぎたばかりの電柱を指差した。

 弟の指先を見、そうして電柱にたどり着いて、大輔は見る。

「なあ、あれ。あの人」と、隣で大樹が呟く。

 電柱に体の右半分を隠すようにして、一人の少女が佇み、こっちを見ていた。隠れているのだから、こっちがはっきりと振り返った今、慌てて目をそらすなり逃げ出すなり、何か反応があってもおかしくはないだろうに、彼女はぴくりも動かなかった。たまにゆっくりと瞬きされる眼が、大輔と大樹を見ていた。

 まず、どこかで見た事のある顔だと思った。肩まで真っ直ぐに伸びた髪に、人形みたいに整っているけれどどこか人間らしくない顔をしている。背丈は多分、彼女のほうが少し高い。近所にいる高校生のお姉さんぐらいの年齢に見えた。あ、若いなぁ、とぼんやり思うのを自覚して、大輔はふと顔をしかめた。

 なにか、とても落胆してしまったような、がっかりと肩を落としたい気持ちになったのだ。

「あの人、俺達の姉さんかな?」と、大樹が言う。

 振り向いた先の、見慣れた鏡のような顔を見て、「そうかも」と応えていた。精巧に作られた人形のような顔立ちがふとした拍子に微笑めば、大樹のようになるのだろう。どこかで見た事がある、ではなくて、毎日鏡で見ている自分の仏頂面に似ているのだ。大輔は小さく頷いて、もう一度彼女を見遣った。

 悲しそうだな、と今度は思った。

「話かけてみようか?」無邪気に言うだけ言って、大輔の返事を待たずに靴先を彼女のほうへ向けようとする大樹の手を、思わずひっぱった。駄目だ、と思うよりもまず先に体が動いた結果だった。引き止められた大樹が怪訝そうな顔をしてこっちを見る。どうして止めるんだ、と、声に出すまでもなく雄弁な眼に問われて、大輔は口を開いた。

「――、あ、あのな」気づけば、咥内はからからに渇いていた。体が緊張しているとか、そういう事ではなくて、まるで言おうとした全部を誰かに咄嗟に口止めされてしまったような、よく分からないままに語彙が全部頭から抜け落ちてしまったような感覚だった。

 近づいてはいけないと思うんだ、と、言おうとした。

 彼女と自分達との距離は多分、目に見えているだけのものではなくて。時間とか次元とか、どうしようもなく超えられないものまで横たわっている。近づいた分だけ、遠ざかる。正しく手順を踏んで近づかないと壊れてしまう。そんな事を、言おうとした。

 言おうとして、けれど言葉にならなくて。見据えてくる弟の眼の中の怪訝が次第に、別の険しい何かになろうとしているのを感じ取って、大輔は慌てて声をあげた。頭を精一杯動かして言いたい事を組みなおし、口にした。

「ヒ、ヒロシ君と多分――……、あの人は、一緒だ」

 きょとん、と大樹の眼が丸くなる。「ヒロシと?」聞き返してくる声に大輔は深く頷いた。

「多分、まだ会うには早いんだと思う」

 じゃあ、いつになったら会えるのか。と大樹に質問されたらどうしよう、と、大輔は内心で思った。大人になるまで、とかお茶を濁す言い方はいくらでもあるだろうけれど、大輔の誤魔化しなんてすぐに見破ってしまうのが大樹だ。世間の双子とはみんなそういうもなのか、互いの嘘と誤魔化しは、自分で自分のそれを自覚するよりも的確に理解できる。

 だから大輔にとって、脳裏でふと聞こえた小さな笑い声は心底、歓迎すべきものだった。

『僕もそう思うな。別にいつかちゃんと会えるんだし、急がなくたっていいじゃない?』

 声、といってもそれは耳の鼓膜を震わせて聞こえる、空気を伝ってくるものではない。頭の中に小さなスピーカーみたいなものがあって、そこで遠いどこかの電波を受信しているような感じ、である。ラジオに似ていなくもない。ただ、相手の声が淡々と流れてくるのではなく、自分が喋れば相手にちゃんと伝わるから、無線機といったほうが表現として正しいだろうか。

 大樹が目を瞬かせる。その声を受信して、こっちの声を送信する何かは大樹の中にもあった。大輔と大樹と、声しか聞いた事はないけれどヒロシの中にだけ存在する器官だった。

「でも、気になるだろう? 会いに来てくれてるなら、話しかけるぐらいいいじゃないか」

『駄目だって、』と、ヒロシはため息をついたようだった。

 ごく普通のラジオや無線と違うところは、その小さく肩を落とす様子が手に取るように理解できる点だ。どんな言葉で説明すれば大樹に分かりやすいだろうか、と考え込んでから、ちらりとだけ目を向けられた気がした。大輔だったらどう説明する? 暗にそう問いかけられていた。

 目を彼女へとやる。顔の輪郭、服から覗く細くて綺麗な指の輪郭、ひとつひとつを視線でなぞるようにして記憶に書き込みながら、近づいてはいけない、と思った理由をもっと単純明快なものにばらしてみた。すると時間がない中で組み替えた言葉よりは多少、説得力のありそうなものが出来上がったので、ヒロシと視線を交わすように意識を彼のほうへと向けた。

 それなら、大樹も分かってくれるかもね。笑って頷く気配に後押しされて、口を開く。

「なあ。大樹」呼んで、弟がこっちに振り返るのを待ってから話し出した。「……、あの人が本当に俺達の、家族だったなら、一緒に引き取られなかったのには理由があるんだと思うんだ。多分、子供にはどうしようもない理由で。それで、俺達はまだ面と向かって会えないんだと、思う」

 大人の事情というものだ。子供に教えられない事を大人は、「この話には事情があって」と濁す。例えば、大輔と大樹が実の自分達の子供でない事を今の両親は、小学校に上がる頃には話してくれたけれど、じゃあ本当の親はどうしているのか、という点については何も話してくれなかった。死んだのか生きているのかさえ謎だ。「事情があって、いつか話せる時が来たら話すから、」大輔たちの本当の両親の話は、その濁された言葉を開かずの扉にした向こう側にある。

 大樹は眉をひそめた。「どうして、父さんと母さんは、引き取らなかったんだろ?」

「経済的な理由かも。三人も養子を迎えるのは大変そうだから」

『赤ん坊ならまだしも、ある程度物心ついた子供を引き取るのは大変だとか思ったのかもしれないよ。実の親の事も覚えているだろうし、暮らす環境も変わってしまう。なにより、懐いてなかったのかもしれないしね』犬猫の引き取り手の事を話しているような淡々とした、ヒロシの言い方だった。大樹もそう思ったのか、分かりやすいほどにはっきりとした嫌悪感で顔をしかめた。

「俺達は、犬や猫とは違う」

 間が落ちた。『、そうだね』と、短く呟かれた言葉には、何の感情もこもってはいないようだった。反論した大樹への謝罪の意味も、弁解じみたものもなく、ただ相槌を打っただけだと伝わってくるそれに、大樹は大袈裟なため息を吐き出した。収まりどころを作ってもらえなかった苛立ちを一緒に体の外へと強引に放り出してから、幾分落ち着いた声音で言う。

「俺達にとって、親は飼い主じゃないだろ。今は面倒見てもらわなくちゃ生きていけないけどさ、大きくなったら違うだろ。嫌なら出て行けるし、好きなところにだっていける。犬や猫より自由だって」

『――……、そうだね』同じ短い言葉は、けれど、さっきの温度も色も何もない味気ない無味無臭からほんの僅かだけ温もりを取り戻していた。手を握り返せば伝わってくる相手の生きている温度を確かめるように脳裏に響く声を、大輔は聞く。

 夢だと自覚する夢。夢である以前に自分の記憶なのだと理解しているものというのは、まるで見古した一本のビデオテープを再生するような気持ちに似ている。色褪せはじめ、音もところどころ飛んでは、次第に一繋がりであるはずの光景がばらばらになり、意味のないものになっていくのが運命だと、消耗品でもあるテープはちゃんと分かっている。つまりはいつか、必ず思い出せなくなる時が来る。

 だから大輔は、見る夢を丁寧に眺めながら安心する。ほう、っと吐息を落とす。

 まだ、大丈夫だった。覚えていたいもの。忘れてしまいたくはないもの。なくしたくないもの。それらはまだ形を一切損なわずに、心の中に存在していた。

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