第4話
築云十年の木造アパートは、夕暮れによく映える。身も蓋もない事を言ってしまえば、打ち捨てられた廃墟のように、柱ひとつ玄関扉一つ、生々しく古臭い過去の遺物であるようだ。住めば都、という言葉がこれ以上に似合う建物もそうはないだろう。と、大輔は思っていた。
塗装が剥がれ、全体を茶色に錆付かせた胴製の階段をのぼり、二階の通路に出る。ギシリ、と力を加えればあっけなく踏み抜いてしまいそうな音をか細い悲鳴のようにあげる階段だったが、一応設置されている手すりを掴む気にはいつもなれなかった。地金が覗いているそれに触ると、金属独特の嫌な臭いが手にこべりつくような気がするのだ。鉄の臭い、――血が咥内に広がった時に味わうそれに、なんとなく似ている。
通路を歩き、階段から数えて三番目の扉の前で止まった。事務所兼住居、ではあったけれど、玄関扉にも脇の壁にも表札は出していない。毎回向き合うたびに鍵の必要性を考えてしまいたくなる玄関扉を軋ませながら開けて中に入ると、大輔はそのまま大の字になって床に倒れ込むように寝転がった。靴を脱ぐのも面倒くさく、鍵を閉めるのも億劫だった。第一、この部屋には何もない。とられて困るものが何もない、という点は、空き巣がアパートの外観を観察し、「こんな場所に住んでいる住人の部屋に金目のものがあるはずがない」と断じて想像する部屋と大差ないだろう。
空き巣だって生活がかかっているのだ。玄関の扉が紙を破るよりも簡単そうな鍵ひとつだったとしても、住居者の程度を考えればもう少しは、見た目からして生活水準が高そうなマンションを標的に選ぶはずである。
それでも染み付いた習慣で、しばらくしてから大輔はのろりと起き上がった。惰眠を要求してくる体を必要最低限の速度でゆっくりと動かして、いつ見てもちゃちな鍵を閉める。そうしてからまた、ぱたりと床に仰向けの形で倒れこんだ。眼に差し込んでくる、玄関のすぐ横にあるシンク傍のくもり硝子からの夕陽が痛くて、瞼を閉じて寝返りを打った。太陽の温度を吸った床はほんのりと暖かく、まったく行き届いていない掃除のせいで埃まみれではあったけれど、疲労しすぎた体はさして贅沢を言う気力もないようで、そのまま意識がとろりと形を崩して溶け、なくなっていくように大輔には感じられた。
――結論から先に言えば、大輔は逃げ切った。
もしもの時のために、と、ポケットに放り込んでいた霧を発生させる模擬魔術を計五個すべて、中和剤で完全に霧が晴れかけたところに一つずつ発動させていったのだ。真昼間の偶然か、道路をまったく車が走っていないのも幸いした。何に気兼ねする事もなく実行した模擬魔術の大盤振る舞いに、さすがに兄も中和剤を五個も所持しているわけはなかったようで、最後に放り投げた五個目は取り扱い書通りに一分間、伸ばした手も見えないほどの濃霧を発生させ続けた。
問題はどちらかといえば、その後だ。
二つほどバス停を走って通り過ぎてからバスを捕まえようとしたものの、まず最初に立ち止まったバス停のバスは、つい数分前に出て行ったばかりだった。このまま立ち止まっていては兄に追いつかれるかもしれないと次のバス停に向かって歩き出してからしばらくすると、今度はバスの後姿をあっけなく見送る羽目になった。そうして次のバス停にたどり着いて時刻表を見て――……、という風に一度バスに乗り損ねた大輔はそのままずるずると歩き続ける事になって、結局、事務所兼住居のある最寄バス停にへとへとになりながら徒歩で、到着してしまったのだった。
意識、と呼べるものの最後の一滴が床の温度で蒸発する。言葉通り、眠りに落ちる一歩手前の瞬間に、大輔の目は覚めた。突然鳴り響いた携帯電話の着信音と、それより少し遅れて重たいものが壁にぶちあたったような振動と怒声が、壁一枚を隔てた隣室で轟いたからだった。
「うるせぇ――ッ!」ただ寝起きを邪魔されたにしては人一人殺しかねない殺気じみた声である。大輔は跳ね起きた、その時にはもうどれだけ疲れていたかも、あと少しで眠りそうだった事も全部吹っ飛んでいて、「すいません!」と壁越しに謝り、携帯電話の通話ボタンを押した。もちろんこっちの事情を知る由もない電話越しから、『よう。少し時間いいか?』呑気な情報屋の声が聞こえてきた。
「少し待ってくれ、」言って、部屋を出る。鍵は閉めずに玄関扉に背を預けるようにして座り込んでから、「もういい。で、何の用事だ?」ちらりと隣室の玄関扉を見遣って質問した。
元警察官を慌てふためかせるほどの殺気を撒き散らしたにも関わらず、いつもの事ながら隣室の玄関扉は沈黙を保ち、蹴破って殴りこんでくるような事態になる気配はなかった。恐らく、寝ぼけていたところに響いた携帯電話の音にキレて、無意識に何かを壁に投げつけたのだろう。重たい衝撃音がする何か、が、枕や目覚まし時計のような他愛ないものでないのは想像がつくけれど、じゃあなんだろうかと考えるのはいつもの習慣でやめておく事にした。
ほうっと安堵のため息をつきかけたところで大輔は、電話越しに一瞬溜まった沈黙を静かに男の声が破るのを聞いて、思わずその息を喉の奥へと飲み込んだ。
『あの噂、初代の魔女の正体を調べようとした人間は行方不明になるっていうの、実は嘘やでっちあげの類じゃないかもしれない』と、彼が言ったのだ。
「、どういう意味だ?」男の言葉尻を追いかけるようにして聞き返してから、大輔は束の間黙り込んだ。どういう意味、もないだろう。情報を取り扱う自身を誇りに思っている男が、中途半端な推測や憶測で、依頼主にこんな話をしてくるはずがない。
手のひらの中で携帯電話が軋んだ音を立てるのに我に返り、携帯電話を握り締める白く強張っていた指先の力を弱めた。息をつき、気持ちが落ち着くのを待ってから問いかける。「いや――……、それよりもお前は大丈夫なのか? 嘘やでっちあげの類じゃないって言うなら、まさか、誰かに襲われて怪我でもしたんじゃないだろうな?」
口に出すと途端、会話の合間に入り込むざわついたノイズが気になりだした。ただ電波の具合が悪いだけのようにも聞こえるけれど、一度抱いた不吉さは血まみれの手で携帯電話を握り締めて蹲る男の姿を想像させるには十分だった。
短く、笑い声があがる。『馬鹿言え、』考えている事なんて全部お見通しだとばかりの失笑を滲ませて言うと、電話越しの声はふと止んだ。間を置いて再び聞こえてきた声は、笑いの余韻を沈ませて硬く強張っているようだった。『まあ、怪我はしていないがな。でも、このまま初代の魔女の事を調べるのなら命の保障はない、とは言われたな』
「誰に?」問いかけに打てば響く速度で、『名前、いえると思うか?』重ねられた問いかけが答えのようなものだった。おいそれと名前を出していいような相手ではない、それだけの立場にいる人間。という事だろう。
そう思い、けれどすぐに大輔は首を横に振った。――違う、問題は誰が男を脅したのかではなくて。脅さなくてはいけなかったのか、だ。
『ちょっと情報網に引っかかる噂を探しただけで捕まって、その忠告だ。本腰を入れて探し始めようものなら確かに、行方不明ぐらいにはなるだろうな。殺されてばらされて、人気のない山中に埋められるか。コンクリート詰めにされて、海に投げ捨てられるか、』
「そんなに怖い脅し方だったのか?」暗に伝えようとしている事を察しながら、わざと遠目で眺めやるぐらいの距離をとって質問した。触れない核心をちょうど中間地点において、反対側にいる男と眼が合う。
『淡々と、な。それでも裏社会に身を置いていれば、どの程度本気かってことぐらいは、嫌でも分かるもんだ』理解したか? と訊ねられている。大輔は少しだけ、顎を引いて頷いた。
つまりは、こういう事だ。
初代の魔女は実在する。あるいは、実在する可能性がある。
もし存在しないとしても、その存在そのものを隠れ蓑とした何かがある。裏社会において、権力を持つ者だけが事実を知り、知る故に隠し通そうとする意思が作用する何かが、だ。
気にかかるのは依頼人が、どこまで知っていたかという事だけれど。
「一億円、ね」ぽつりと、大輔は呟いていた。
ただの都市伝説としての初代の魔女を探せ、というのなら一億円は狂気の沙汰にしか映らない。けれど、裏社会に精通した人間が死を宣告されるほどの何かを孕んだ初代の魔女を探せ、となれば一億円は妥当な金額であろうか。命の値段としての、一億円だったとすれば。
無意識に小さくため息をついていた。「随分と値切ったな、一千万って」
『お前の依頼主が何を考えているかは見当もつかないがな。……、女の能力者が実在するなら、研究機関としては喉から手が出るほど欲しいだろうな』男の口調は、どうでもいい事を喋っているようだった。無関心を装ってしか言えない事を言っている、そう伝ってくる。『能力者同士を掛け合わせたら能力は受け継がれるのかどうか、とか、何か変異はあるのか、とか、興味は尽きないだろうからな』
「――あの依頼人は、そういう事を考えている風には見えなかったが、」
依頼人を擁護するために言った事ではなかった。大輔の反論は、依頼人を見誤ったのではないかと指摘する男に対しての、明瞭な自己弁論だった。
そもそもそんな事を考えていそうだったなら、さすがに一億円を前にして欲に眼が眩んでいたとしても断った。能力者の力を模擬魔術として一般人にも使用できるように加工するための研究、と今のところ、能力者を対象にした実験のすべては位置づけられているものの、蓋を開けてみれば少なからず、人権をないがしろにした研究施設は存在する。一般人の親から生まれたばかりの能力者の子供が金で研究所に売られるという事件はいつもニュースを騒がせるし、内部告発によって研究所の暗部が明るみに出る事もよくある話だ。
それでも、二十二年前に起こった政府直属の研究機関での暴動当時よりは随分ましになったのだと、言っていたのは誰だっただろうか。
『とりあえず、俺はこの件から手を引かせてもらう。一億円ならまだしも、お前との契約料じゃ命の値段には程遠いからな』電話越しで男が、困ったように肩をすくめたようだった。『まったく、俺は受けた依頼は必ず達成するのを信条にしているつもりだったのに、お前と関わるといつもこんな感じだな』
「俺のせいじゃないだろう。単に偶然だ」大輔としても、情報屋に頼んでも解決しないことばかりを背負いこんでいるつもりはない。男の言葉に反論するのなら一番面倒を被っているのは、どうにもならなそうだと思えば辞めてしまえる彼自身ではなく、情報屋が手を引くほどの事だと理解しても手元に置いておくしかない大輔本人だろう。
「それに、命の危険があったのは今回ぐらいだろう? 前のふたつはただ進展がないだけで、お前の身の安全がどうのという話になった覚えはない」
『毎回毎回、命の危険に晒されたくもないけどな』と、男は笑う。『一度目は、どこにいるかも分からない、たまにお前らのほうをじっと眺めてくる女の子の事を探してほしい、だったよな。でも結局、その女の子が実在する証拠もなくて、お前達にしか見えない幻みたいなものだって事で結論が出ただろう?』
大輔は眉をひそめた。「子供の度の過ぎたいたずらって事で、うちの親がお前にいくらか金を積んだんだろう?」大人をからかうもんじゃない。どうしてそんな嘘をつくの、と、叱るというよりは半ば泣き縋るように両親に言われたのを思い出す。双子にすれば必死に貯めたお金を全部依頼料に費やすほどの本気だったのだけれど、周囲の大人達はみんな、ふたりが見たものを嘘だと断じた。
そして最後は、嘘である事が事実だというように、見つからなかったのだ。
眼の錯覚。勘違い。「今にして思うとそんなものだったのか、とは思うよ」眼を覚ませば忘れてしまう夢みたいに、今の大輔では確信を持って、あれがすべて現実だったのだと言い切る事は出来ない。
『二度目は、お前の双子の弟の消息、だよな。鋭意継続中の。人一人探すのなんて簡単なもんだと思っていたがこれがなかなかうまく行かないしな。人探しで半年間も苦戦するなんて相当だ。で、三度目が今回の、初代の魔女の話だろう?』
「大樹の事は本当に、期待しているんだ」素直な気持ちだった。神がかり的な情報屋としての麻耶の裁量も頼みの綱にはしているけれど、彼女が警察御用達の立場である事を考えれば、裏社会にいる電話越しの相手のほうがまだ、大樹に近づけるのではないかと思っている。「警察はあてにならないから、裏社会に精通している人間に部があるはずだ」
『その、いかにも小野大輔らしくない発言に半年間、振り回されてる気がしないでもないな』
苦笑いと共に、『じゃあな。ひとまず、初代の魔女の一件は気をつける事だ』挨拶と忠告で締めくくって向こう側から回線が切れる。携帯電話をポケットに押し込んで立ち上がり、玄関扉を開けかけたところでふと、大輔は体ごと後ろに振り返った。
夕間暮れの一時の明るさはすでに没していて、空は残り火のような薄明るい紫色を西の僅かな空に残しているだけだった。段々と明度を落とし、色を重ねていくようにして空は濃い夜の色へと変わろうとしている。一足早く点灯した街路灯の周囲だけが、夕陽に長く濃く引き伸ばされた影とも、近づいてくる夜の闇ともいえない道路の暗がりの中でぽっかりとした白い円を作っていた。振り返り、束の間さまよった大輔の眼は自然と、その明かりへと惹きつけられた。白いだけの、ただ明かりが灯っているだけの空間に。
「、あ」小さく、声が漏れた。分かりやすく、失望した声だった。
誰かがいる、と思ったのだ。
名前を呼ばれたと感じたわけではない。正直、誰かに見られているという感覚もなかった。けれど例えるならば、その誰かがいるだけで空気が変わるようなものなのだ。息遣いを感じ取る事が必要なのではなくて、その人がそこにいるのだと大輔自身が思う事で何かが変化する。大輔は一瞬、誰かがいる、と思ったのだ。
だから一瞬だけ、確かに暖かくなった心の奥が、今度は現実を視認した冷静さで急速に冷えていくのを感じながら、大輔はゆっくりと息をついた。心底自嘲してやりたい気持ちだったけれど、唇がちゃんと笑いの形になっているかどうかは分からなかった。心が冷えすぎて麻痺したようで、どんな表情をしているか皆目、見当もつかない。
誰かが――……、いや、あの人が、こっちを見ていると思ったのに。
強張った瞼をぎこちなく上下に動かす。ぎちぎち、と変な音が鳴った。もう一度だけ、誰もいないその場所を凝視し確認してから、眼をそらした。街路灯を、体ごと意識から遠ざけて、玄関扉を開ける。そうして外の世界を完全に締め出すために、玄関の鍵をかけた。
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