第3話
電話をかけた三人が三人とも同じタイミングの同じ理由で爆笑すると、最後の一人の時にはもういちいち腹を立てる事も言い訳を並べるのも面倒になっていた。何かを言ったところで火に油を注ぐがごとく笑いが長引いて、本題から遠のいていくだけだ。肺の中はもちろん、血中に流れる酸素も材料にして長々と続いた笑いがようやく、息継ぎのために収まりだすのを見計らって、大輔は口を開いた。最初の情報屋二人とのやり取りのおかげで至極簡潔にまとまったこっちの依頼を口早にまくし立てた。
「初代の魔女の情報がほしい。俺でも探せるような、ネットで流れている情報はなしだ。出来れば口コミのやつがいい。お前が大好きな女子高生の噂話とかでそれらしいやつを探してくれ」
『……、おいおい』嘆息さえ笑いの余韻で揺らして、電話越しに不満げな声があがる。『人を危ない人間みたいに言うなってェの。女子高生が好きなんじゃなくて、女子高生が持ってる情報網の広さが好きなのよ。俺は』
「有益なのが手に入るんなら、俺は別にどっちでもいい」正直に応える大輔に、『ひでェなぁ、ホント』大袈裟に嘆く素振りで声がむせび泣いた。電話の向こうを脳裏で思い浮かべてみても、ちっとも泣いていない男の姿が思い浮かぶのに、声の演技だけは立派。麻耶のような神がかり的な情報屋とは違い地道に足を使って情報を仕入れるこの男は、一ミリの罪悪感が沸かない中でも土下座して恐怖心がなくとも泣き叫んで、裏社会を泳いでいる。大した役者である。
しかしそれはそれで最初の二人同様に本題からずれて行っている気がして、大輔はひっそりとけれど相手にもしっかり伝わるようにため息をついて口を開きかけた。
その時、大輔の声を奪ったのは、電話越しからの絶妙に間をついた声ではなく、数メートル離れた駅前広場に設置された拡声スピーカーからの音だった。片道二車線の道路を挟んだバス停のベンチに座っていた大輔は、音声に変換されなかったざらついた甲高いノイズが空気を走り、耳に図太く突き刺さってくるのに顔をしかめると、半ば開いた口を閉ざしてから顔をそっちへとやった。
『外がうるさいけど、何かあったのか?』怪訝そうな声に応える。「解放戦線の連中が街頭演説でもはじめるらしい」ただ目に入った光景をそのまま感情なく声で表現しただけのつもりだったものの、実際に空気を震わせて耳に入れば、呆れるぐらいに分かりやすい敵愾心に溢れている。
電話越しにも伝わっただろう。『ふぅん、』触れようともせずに端的に興味がない事だけを告げて、『あぁ。そういえば、初代の魔女を特集のテーマにしようとしたどっかのテレビ局のディレクターが行方不明になったって噂は知ってるか?』声はふとその事を思い出したような唐突さで訊ねてきた。
「――いや、初めて聞く話だが、」意識を駅前広場からそらすついでに、目を空へと放り投げる。
気遣われたというわけではなかった。解放戦線、正式名称は能力者解放戦線に対して大輔が条件反射的に抱く悪感情を彼は、依頼を請け負った者として知っている。わざわざ首を突っ込んだところで得られるものがない事も勘付いている。だから情報屋としてメリットがないところを掘る気はない、ただそれだけの事だ。
プロとして、情報を売り物にする商人と情報を漁るだけの野次馬との境目を心得ている男だった。
「初代の魔女をテーマにしたディレクターが行方不明になるのなら、俺が物心ついてから何人の人間がそれで行方不明になる計算だ?」
夏に入れば必ずといっていいほどある心霊番組の常連ではないか。
疑っている事を隠さずに質問すると、『最近で初代の魔女を取り扱った番組は一定のルールに基づいて作られているらしい。行方不明になったディレクターの一件がきっかけで、な』神妙に声音を落としたもっともらしい口調で、返事がよこされた。
『初代の魔女の噂が流れはじめたのが、今から二十年前ぐらいだろ? その頃に都市伝説の特集を組もうとしたテレビ局があったらしくてな。ディレクターが今のお前みたいに、色んな情報屋や探偵に調査を依頼したらしい。でもどこも巷で流れている以上の情報を手に入れる事は出来なかった。ディレクターは納得出来なくて、自分で情報を集めたらしい。そうしてある日、一本の取材テープを残して行方知れずになった――、というわけだ』
「想像に想像を重ねたような話だな、」価値を算段する言い方をした。情報収集を依頼した側としては満足できるほどの価値はない、と素っ気なく言い切った後で首を傾げる。「ディレクターの失踪と初代の魔女を関連付けるのは、その取材テープか?」
『噂じゃ警察が持っていって、テレビ局や遺族が返してほしいと訴えても返さなかったっていう事らしい。返せないほどの何か重大なものが映っていたってさ。ようするに初代の魔女の新たな情報が出てこないように、出てきても処分できるように設立されたのが、対魔術課だと』
自然とため息が落ちていた。呆れた気持ちがそのまま凝縮して、開いた口から出て行く。「あそこはそんな陰謀論がありそうな場所じゃなかったよ」
『あ、そうだった。お前って、今みたいに無職になる前は警察官だったよな』話す相手を間違えたとばかりに悔しげな言い方をするのは上辺だけで、続いて質問して来る声には暗にこっちが本題だと告げる真剣味があった。『でさ、実際どうだ? 安定した職業を辞めて俺達と同じ畑に住んでいる気分っていうのは? 前に情報屋はどうしてこんなにもがめついんだ? なんて言っていたが、少しは分かったか?』
「……、それをお前に嫌味を込めて言ったのは俺じゃない」
嘆息交じりに見当違いの皮肉だと主張すると、きょとんとした間が束の間、電話越しから伝わってくる。記憶違いかどうかと確認し、やはり自分の言った事が正しいと理解して反論してきた大輔に鼻白むまでの、会話が再開されるまでの数秒間、大輔はその情報屋の職業を馬鹿にした人物の事を脳裏に浮かべた。
麻耶のような裏で警察からの依頼を引き受けているようなところとは違い、電話越しの相手は裏社会の情報をメインにした違法と合法の境界線をするすると泳いで生きる情報屋を営んでいる。その分だけ「徹底した秘密主義」を一人きりの事務所に額縁付きで社訓として飾っていて、料金はうんざりするほど高い。とりあえず高校生が貰う月の小遣いを全額あてがっても足りず、不眠不休のアルバイトを夏休みに強行してようやくどうにかなるぐらいだった。
情報屋としてのプライドを傷つけられて、今日までずっと根に持っていた。と、彼が言うのなら、大輔にも言い分がある。高校生がまさしく身を削って手に入れた金と引き換えの結果報告が要約すれば「見つかりませんでした」の一言に尽きた事には、客として憤慨する理由にはなるはずだ。
「お前に文句を言ったのは、大樹(だいき)だ」
その隣に座っていた大樹の瞬間的に爆発する不穏な雰囲気を感じ取って思わず、椅子から跳ね上がろうとするその体の両肩を掴んで押さえつけたのが自分だ。
『唾を飛ばしてきた奴は確か、髪の毛が肩ぐらいまであっただろう?』今のお前みたいに、と面と向かっていれば無遠慮に指先を突きつけているだろう物言いに吐息を落とす。
「あの時は俺のほうが髪が短くて、大樹のほうが長かった。あいつ文化系の部活に入っていたからな」
『双子って判別が難しいよなぁ。一卵性双生児だったよな、お前達』
相手違いの皮肉をぶつけた事自体をなかった事にしようとしているのがありありと分かる、話題の変え方だった。「あぁ、両親も小さい頃はよく俺達の事を間違えていたな」別に大樹と勘違いされて腹を立てる理由はない。男がふってきた話題に相槌を打ちながら、大輔は何気なくぐるりと周囲を見回した。
「異常なほどによく似ている、とはいつも言われてきた事だ」
そのせいで大輔が売られるはずの喧嘩を大樹が売られ、またその逆も幾度かあった。好きだと告白される場合でも然り。小中高と制服に留める名札には「小野」としか書いていないのが普通だったから、「小野兄? 小野弟?」とまず質問される。双子の兄、双子の弟、という意味なわけだけれど、二つ上の兄がその話を聞いて思い切り顔をしかめた事がある。俺はお前達の兄貴じゃないのか、という顔だ。
そういえば、その兄だけは一度も、弟達を勘違いした事はなかった。あの人だけはいつも迷わずに、躊躇わずに、弟達の名前を呼んでくる。
大輔。――、と耳の奥に残っている声が蘇った。半年前を境にがむしゃらに遠ざけ、聞く事のなくなった声だというのに、ほんの少しでも脳裏を兄の事がかすめれば、つい数分前に呼ばれたかのような鮮やかさで思い出せる。
気づけば、大輔は眉をひそめていた。思い出したくもない事を思い出してしまった、と体がまず拒絶反応を起こしたようだった。そうしてから少し遅れて心が、改めて明瞭な不快感を自覚した。絶望も失望も、怒りも、おおよそ負の感情と呼べそうなものがすべて一緒くたになって混ぜ合わされたような、どろどろとして粘ついた気持ち悪い感情だった。
『……まあ、お前達が心底似ているっていう点はある意味で助かったかもな』と、情報屋は電話の向こうで頷く。『これから長い年月がかかっても、お前の顔があいつの顔ってわけだ。向こうがそれを危惧して整形しようとしても、それはそれでカルテなりなんなりが残って、情報が手に入る。双子で生まれた事を感謝しないとな』
「長い年月、ね」男にしてみればなんでもない事なのだろうが、意味深な発言として受け取った大輔は口の中で呟くように言ってから苦笑いを浮かべた。短く、電話越しにも伝わるように音を立てて笑ってみせる。「ようするに、手こずっているって事か?」
小さく空いた間は、意図せず口にした言葉が失言であると教えられての、言い訳を考えあぐねた時間だったのだろうけれど、『失踪人の行方ひとつ、ろくに情報が手に入らないなんて俺もヤキが回ってきたって事かもな』返ってきたのが素直に自分のふがいなさを認める殊勝な発言だったので、大輔は苦笑いを浮かべるのをやめた。
バスがゆっくりと速度を落とし、バス停の前に停車した。車体の中に溜まっていた空気が抜けていくような音を立てて、前と後ろの折りたたみ式の扉が開く。
立ち上がり、「大樹の件はこれからもよろしく頼む。依頼料のほうは明日にでも、全額滞納していた分も含めて口座に振り込んでおく」言って、同じようにバスに乗り込む数人の乗客達の列の最後尾に合流した。
『しかし正直な話、半年間探して全然俺の網に引っかからないって事は、裏社会を根城にしている可能性は低いかもしれないな。もしくは、俺からお前の弟の存在を綺麗に隠せるような実力者に匿われてるか。監禁されてるか、』淡々と事実を述べているに過ぎない口調で言ってから、電話越しで何かに思い至ったように声が一瞬跳ね上がった。『一般社会でただ失踪しているだけなら悔しいけど、警察とかのほうがよほど俺よりも役に立つんだが。前に、捜索願がどうのって言ってただろう? あれ、どうなったんだ?』
「――、警察なんてあてにならない」短く、それだけを言い切った。
ちゃんと男の質問に向き合っての返事ではないのは理解していたものの、捜索願、の一言で思い出せる事に意識を向けた時に否応なく脳裏に浮かぶだろう不愉快な記憶と向き合うほうが鬱陶しくて仕方なかったのだ。大輔の前にいた老女がゆったりとした動作で段差の大きいバスの入り口を手すり伝いに登るのを眺めながら、「じゃあ、何かあったら連絡をくれ」別れの挨拶をして携帯電話を切った。ズボンのポケットに押し込んだ時には老女も入り口を登りきっていて、入り口脇にある整理券を抜き取り、その後に続く。
バスの中には、まばらに人が乗っていた。年寄りが半分、後は小さな子供を連れた若い母親に、平日の昼下がりのバスに乗るのにいかにも慣れていなさそうな若者達が若干名、といったところだ。それでも座席は綺麗に埋まっていた。近くの手すりを適当に掴んだところで、さっき扉が開いた時と同じ音を立てて、真ん中でふたつに折りたたまれていた扉が閉まる。
閉まりかけたところで、ガツン、と何か物々しい音が車内に響き渡った。
入り口近くにいた大輔達はもとより、運転手付近に座っている客達も束の間、ぎょっとほぼ全員が驚いた顔をして扉のほうへ目を、顔をやる。閉まろうとしていた扉だけは、そんな乗客達の動揺なんて知ったこっちゃないとばかりの呑気さで、再び空気が抜けるような音と一緒に開いた。
「ッ、どうかしましたかッ!?」
運転席から離れない事を使命としているような、腰をあげるところを滅多に見ない運転手が迷わず席から身を乗り出して、バスの後方へ、見開いた眼と上擦った声を投げた。子どもの手でも挟んでしまったのか、誰かが怪我してしまったのか。最悪の事ばかりを考えて青褪めていくばかりのその顔に、ひらり、と手が振られる。血まみれでもなければ子どもの手でもない、節だった男の手だ。
「あぁ、すいません」と、彼は言った。
飄々とした、本気で謝っているのかどうかはっきりとしない口調での謝罪だった。こういう謝り方をする時は決まって、他にもっと大事な用事を抱えているから厄介な面倒ごとを一つでも減らしておきたい、と彼は思っている。「このバスに乗りたくて少しばかり無茶をしてしまいましてね。大丈夫、挟んだのは足だけですから。ご迷惑をおかけして申し訳ない」眉尻を下げてちょっと困っているような表情を作ると途端、体格のいい男特有の人を圧倒する気配がなくなって、人懐っこい柔らかさが滲み出てきた。
運転手の顔が緩み、けれど瞬く間に険しくしかめられる。安心した表情を相手に見られたくないから分厚くしかめ面の色を塗りたくったような、杓子定規に眉根を寄せ唇を尖らせて、口を開いた。「駆け込み乗車は危険ですから気をつけてください。怪我をしてからでは遅いんですよ」
「はい。すいませんね、本当」
運転手の注意に彼は、へこり、と長身の上半身を折り曲げると、その姿勢のまま上目遣いに眼差しだけをあげてバスの中を見回した。盛大な音を立てて駆け込み乗車してきた人物を呆れがちに、あるいは鬱陶しげに面倒くさそうに、好奇も織り交ぜて見遣ってくる視線達へ世辞程度の愛想笑いを浮かべる。その笑みで我に返ったいくつかの顔が慌てた様子でそむけられた。
けれど大輔が、その見開いたままだった瞼をゆっくりと上下させたのは、今度こそ何も挟まずにバスの入り口の扉が閉まった時だった。
「、あ」相変わらずに呑気な音を立てて扉が閉まる。ついさっきまでならさっさとバスを降りて逃げられたんじゃないか。と気づいた時には、バスはくぐもった短い振動を車内の床に伝わせて、ゆっくりとした速度で動き出していた。それも少しの間の事で、すぐに路肩から道路に合流し、速度をあげていく。
「元気そうだな、大輔」と、頭上から声が落ちてきた。駆け込み乗車の謝罪よりも若干遠慮がちな、こっちの反応を窺う口調である。
息を吸い込んだ。次のバス停で降りるにしても二分ぐらいはこのままバスの中である、カップラーメンを作るのにも足りない二分間なものの、男のかけてくる言葉を全部独り言と断じて無視し続けるには長い時間だった。吸い込んだ息を吐き出して、顔をあげた。
「――……、こんなところで奇遇、ですね。兄さん」無論、本当に奇遇だとは思っていなかった。
この、二歳年上の兄、小野大智が実のところ至極用意周到な人間であるのを大輔はよく知っている。バスに乗るにしても、タイミングよく停車していたから駆け込む、なんて事はまずしない。時間の余裕を持って行動するのが兄で、小さい頃からそれによく付き合わされた。だとすれば、このバスに扉に足を挟まれてまで乗らなくてはならなかった理由なんて。
――、麻耶か。大輔は短く結論づけた。
麻耶の事務所に兄も用事があったのだろう。背広姿だから十中八九、情報提供料を渡しにきたのだ。そこで麻耶から大輔も訪れたのを聞かされた。
だったら大智がここにいる理由も納得できる。と、内心で頷きかけたところで、「麻耶は関係ない、」きっぱりとした口調で否定されて、大輔はむっと唇を尖らせた。険しく目を細めて兄を見る。
じゃあどうして? 口には出さなくとも弟の眼差しで質問を受け取ったらしい兄は小さく肩をすくめた。「たまたま、偶然だ。麻耶の事務所の床にまるめられたスティック砂糖の空の袋が落ちていたからな。昔からお前にもあった癖だと思ったら、お前が麻耶を訪ねてきたんじゃないかと気になった」
嘆息を落として、大輔は窓の外へと視線を逃がした。「……たまにサービスされるとこれか、」滅多にしない事をしたりすると明日は雨だとよく言うけれど、雨よりももっと面倒くさいものがやってきたわけだ。
いや。と、ふと思った。現実問題として目のそらしようのない場所にいる兄からどうやって逃げ出すか考えている頭の片隅で、実はこれは麻耶が仕組んだ事じゃないだろうか、と、ほとんどどうでもいい事を想像する。
普段の麻耶は大輔が事務所を訪ねても、珈琲を入れるなんて事はほとんどしない人間だ。
飲みたければ自分でどうぞ、珈琲もコップもお湯も好きに使ってくれて構わないから。というのが、彼女の基本的な態度である。麻耶自らお茶を用意するのは、たまにお茶請けになりそうなものを買っていった時だけだろう。ついでに今回は何も手土産なんて持っていかなかったから、彼女が大輔に珈琲を入れる理由はない。
大輔としては麻耶の事務所に行くのは用事があるからで、それが終わればさっさと帰るわけだから、自分から珈琲を入れてくつろぐ理由もなかった。
けれど、今回は珈琲を飲んだ。訪ねてすぐに麻耶がカップを差し出してきたのだ。飲むでしょ? と、最初から大輔が首を横に振る事がないのを知っているかのような仕草だった。そして大輔は、カップを受け取った。
「麻耶から、初代の魔女を探していると聞いたが、」ふとさっきよりも近くから声が聞こえてきて、大輔は意識を外へ戻した。
視線を向けていた車窓のガラスに、大智の顔が映り込んでいた。
鏡越しに見つめられる、それも名前を呼んできたさっきの遠慮がちなものとは一線を画す鋭利さに眉をひそめて、大輔は今度は目をバスの車内へと放り投げる。
職業病というやつだろう。真剣に相手に質問しようとすればするほど、染み付いた警察官としての癖が鼻につく。目配り一つ、表情一つ、事実だけを嗅ぎ分けようと凝視されている。尋問されているような、追及されているような不快感を兄がわざとこちらに植えつけようとしているわけでないのは十分に分かっているものの、応じた声は自分でもはっきりと自覚できるほどの皮肉がこもっていた。
「麻耶は、関係ないんじゃなかったんですか?」
「大輔が来た、とは聞いていない。俺が聞いたのは十分前に先客がいた事と、その客が初代の魔女を探しているという事だけだ」的確な返事は、大輔の皮肉に怯む事もなく逆にちゃんと答える事で、自分が最初にした質問のほうの答えを暗に催促しているようだった。
「兄さんには関係のない事です」求められている答えとはかけ離れているだろうけれど、これが素直な大輔の意見だった。大智の眦が険しく持ち上げられる気配を背後で感じながら、分かりやすく嘆息を落として言葉を続ける。「俺がどこで何をしていようが、貴方に関係がありますか? 以前までのような同じ職業に従事しているわけでもない。上司と部下の関係でもない。もちろん、俺は犯罪行為にはまったく関わっていないから、貴方の世話になる事もありえない……、」相手に遠慮はいらないと思うと、ここまでほいほいと言葉が出てくるものなのかと、内心で少し驚いていた。
少なくとも半年前、まだ兄である大智に対して憧憬やコンプレックスを抱えていた時は、言いたい事を言う半面で、この言葉を告げたら兄はどうするだろうか。困るだろうか、怒るだろうか。と悩み、口ごもる事が多々あった。人の心中を察するのが得意な兄に、「こういいたいのだろう?」と逆に訊ねられて、頷く事もあった。――恐らく、この人はこんな返事を待っているのだろうな、と薄々勘付いて、期待に沿うように振舞った時もある。
初代の魔女なんて探していない。依頼人から受け取った料金の義理を果たすために情報を探しているだけで、実際にいるはずのない人間を探すほど暇じゃない。
大智が今、欲しがっている答えの全貌はこんなところだろう。けれど、それを大輔がわざわざ選ぶ義理はない。義理、といってしまえばその言葉を口にする理由全部が大智のためのように聞こえるけれど、それは少し違う。兄が欲しがっている返事をして、さっさと彼を視界から遠ざけられるのならメリットは、大輔にもある。動物を手で追い払うように、その返事を使えばいい。しないのは単純に、兄の望んだままにしたくないからだ。大智が何を欲しがっているのか、自分が確実に察したのだと理解したくないからだ。
瞼を伏せ、大輔は考えにふけっていた間も涸れる様子なく心から沸いてきていた言葉を言い続けた。「俺は貴方に何の迷惑もかけてはいないでしょう? それなのにどうして、関係もない事で貴方に質問されなくてはいけないんですか。俺が大事な事で、何よりも大切な事で質問してもまったく返事はくれないのに、どうして自分の時だけは、俺が返事をするだなんて思うんですか?」
「、大輔」
僅かに息を込む音がして、そうしてから呟かれた自分の名前の後に何かが続きそうだったけれど、大輔は声でそれを踏みつけた。低く声をくぐもらせて、吐き出すように言い放った。「半年前の事を、俺が諦めていると思っていますか。あの場所にいたはずの貴方は何も教えてくれなかった。教えてくれなかっただけじゃない、貴方は今だって何も言わずに最低な事をしているっていうのに――……ッ」
押さえきれず、最後は声を張り上げていた。昼下がりの、賑やかな高校生のグループが乗り込むにはまだまだ早い時間帯のバスの車内に唐突、響いた大輔の怒鳴り声に、ゆるんでいた空気がぎょっと揺らぎ、条件反射のような眼差しが一斉に向けられる。
ただただ驚いて、といったふうに見開かれた目達だった。声を吐き出した唇を思わず噛み締めて、それらの目に申し訳なさそうに大輔が頭を下げる時には、バスの空気はさっきまでの穏やかなものに戻っていた。目もそらされている。
大智はなにも言わなかった。さっきの叫びに気圧されたわけでもないだろうに、後ろに佇んでいる気配は押し黙っていた。
車内にアナウンスが流れたのは、この時だ。テープにあらかじめ録音されているのを再生しているだけの、判を押したような淡々とした女性の声で次のバス停の名前が告げられた。『お降りのお客様は、近くのブサーを押してお待ちください。なお、運転席すぐの両替機の使用をご希望されるお客様は、バスが停車してからご利用くださいますよう――……』アナウンスが終わる前に、近くの窓枠の傍にあったブザーを押した。
そのバス停のすぐ傍に引っ越したのか? とでも、訊ねられるような気がしたけれど、想像した質問が実際、大智の口から出てくる事はなかった。
バスはゆっくりと速度を落とし、最後に僅かだけ車体を左右に揺らして停車する。
そして、空気の抜ける音に続いて前後の扉が開くのと同時に、大輔は後ろから無造作に右の二の腕を掴まれた。
思わず、全身が強張った。なんだ、と目を見開く間に、弟よりは数段体格のいい大智の長身が右脇を抜けて、大輔をひっぱっていく形になった。「ッ、は? おいッ、!」抗議の声をあげ、慌てて踏み止まろうとしたものの、すぐさま力負けした靴裏が床を滑り、そのまま、ずるずると引きずられていく。
料金箱に二人分の乗車賃を放り込んで、大智は運転手に愛想笑いを浮かべた。「いや、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」まるで、子供が大騒ぎして、とでも続きそうな言い方は、まず自分が駆け込み乗車してきたのがはじまりだったのをすっかり失念しているようだった。制帽の下で目を細める運転手の表情は、その事を言いたげにも見えたものの結局は、「今後気をつけてくださいよ。バスの中は公共の場ですから、騒げば他のお客様のご迷惑になります」と、ありきたりな注意を模範的に口にするだけで終わった。掘り下げて注意するよりも、相手がここでバスを降りてくれるのなら引き止めずに出て行ってもらったほうがいい。事なかれ主義を選んだ運転手に、「ええ。分かっています。それじゃあ、」軽く頭を下げて、大智はバスを降りた。もちろん、二の腕を掴まれている大輔も一緒に、である。
「段差があるから気をつけろ」と言いつつも腕のほうを離す気はないらしい兄に、「気をつけてほしいならまず、腕を離すのが先だと思うんですけどね」一度本気で振り払おうとしたけれど、失敗した。これ見よがしな嘆息を落として、バスの車体の高さとバス停の地面との間の段差を降りる。
他にこのバス停で下車する客はいなかったらしく、もしくはバスに駆け込み乗車した客と、その客と言い争いらしき事をしたもう一人の客が降りたバス停に一緒に降りるのを拒否したのか、大輔がバス停の地面を踏んだところで背後のバスの扉は音を立てて閉まった。そのまま走り去っていく気配を肌で感じながら、大輔は二の腕を掴む大きな手を見遣り、そうして手から腕を辿って大智の顔へと視線を置いた。
バスにこの人が飛び乗ってきた時は、唖然としか見る事が出来なかった。いま改めて見据えると、半年という歳月は存外に短いらしいと実感する。喧嘩別れ、と評するのも馬鹿馬鹿しくなるような言い合いから警察を辞めて、実家も飛び出して、文字通り音信不通になったのが半年前だ。その半年前と同じ喧嘩別れと繰り広げそうな棘々しさが気づけば、向き合うふたりの間には流れていた。いや、険をこめて相手を見ているのは大輔だけで、大智は半年前と変わらずに飄々としていた。他愛なく当たり前に、大輔が思う事もしたい事も全部を短い一言のうちに切り捨てていく顔をして、弟を見ていた。
ゆっくりと、二の腕を掴んでいた手が離れる。「俺がしている事に反論をするつもりはない。お前が俺の事を詰りたい気持ちも、分からないではない」理解のある振りをする、味方だとあたかも振る舞うような言い方をしていても、その続きが否定で締めくくられるのは、半年前にうんざりするほどに繰り返した兄弟喧嘩で知っていた。
「安心してください。貴方に分かってほしいなんて、今は思っていません」
突き放す口調で言ってから、大輔は耳をそばだてた。バス停がある道路は昼間のせいか、車はまばらにしか走っていなかった。目を、弟の発言に表情を曇らせた大智から、その背後にある道路の先へと投げる。すっからかんの道路の脇にぽつねんと佇んでいる信号機の色は青色だ。
「――……、今度、一度ぐらいは実家に顔を出してほしい。親父も母さんも、お前と大樹の事を心底心配している」小さく間を置いてそう呟いた兄は恐らく、本心からそう思っているのだろう。俺の事はどう思っていてもいいから、と脇に退けて言ってくる。
それに思わず声をあげて笑ってしまったのは、大輔には分かっていたからだった。
「大輔?」分からない兄は眉をひそめる。どうして弟が突然笑ったのか理解できず、真摯な話に水を差すだけの笑い声に多少の不快感を滲ませて、大輔を見た。
諌める目に幼い頃からの条件反射で笑い声こそ止んだものの、くつくつと胸を揺らすようにして溢れてくる笑いの余韻のほうは、しばらく収まらなかった。兄の本心と、現実は随分かけ離れていた。誰が誰を信じるのか、信じていたのか。半年前に面と向かって、今みたいに神妙な顔をした大智にそう言われたのなら、大輔は間違いなく従っていただろう。両親が自分の事を心底心配しているのだと素直に受け取って、非番の日にでも実家に帰ったはずだ。けれど今は、そんな気持ちはこれっぽっちも沸きはしない。
ごっそりなくなったのだ。と大輔は、思う。信じていたものが信じられないものへと変わった。オセロの白と黒があっさりとひっくり返るように。
視界の中にあった信号機の傍に、さっきバスに乗る前にも見た統一性がなさそうである数人の集団がいるのに大輔が気づいたのはこの時だった。駅前だけでは飽き足らず、真昼間の人通りの少ないこんな場所でも街頭演説をしようとしているらしい。集団内のリーダーらしき中年層の男がマイクを握り、口を開いた。
『皆さん、はじめまして。私達は、能力者解放戦線のメンバーです、』能力者、と聞こえたところで大智の肩が分かりづらくはあったけれど、ぴくりとかすかに震えた。反射的に振り返りそうなるのを堪えたような、しかめ面をする。『半年前の、模擬魔術事件の事は皆さんの記憶に新しいと思います。マスコミには能力者解放戦線内の権力争い、または過激派の暴走と報道されていましたが、あれは我々の正義を貶めようとする政府や国家の陰謀であったのです。一般人の皆さんは、あの事件を見て、私達、能力者は危険だと思われたでしょう。管理すべき存在だと感じられたでしょう。その、自衛から来る感情こそ政府と国家が合法的に能力者を隔離するための、手段なのです。我々は決して一般人と能力者の境目があってはならないという信条に基づいて行動しておりまして――、』
信号機の色が、青から黄色に変わった。そうして、赤になった。
「兄さん、」聞こえてくる拡声器によってひび割れた声を頭の中で除外しながら、もう一度耳をそばだて、車が近づいてきていないのを確認する。
今から口にする事は全部捨て台詞みたいなものだ、と言う前から自覚していると、口から飛び出てきた言葉は今までの中で一番本心に近いものになった。「俺は、ずっと貴方も両親も俺の家族だと思っていました。血は繋がっていなくとも家族です。でも、違うのだと今は思っています。本当の親なら本当の兄なら、行方不明になった息子や弟を全然探そうとしないのは不自然でしょう? 本当に血の繋がっている俺はこんなにも会いたいと思っているのに、貴方達は全然そんなふうには見えない。別にいたっていなくたって、同じだと思っているんじゃないんですか?」
「ッ、!」
途端、大智の表情が鋭く引き締まった。
見ている側が思わず立ちすくむほどの、瞬間的に膨れ上がった怒気の激しさが細められた目の奥で迸るのを見て、大輔は言葉を続けた。言い逃げるつもりでいても、何かを言わなければこのまま兄の怒りに呑まれて、謝ってしまいそうな予感があって、それからも逃げるように無意識に飛び出していった言葉達だった。
「貴方にとっての、大樹はなんなんですか? 弟? 大事な家族? だったら、どうしてちゃんと探そうとしないんだ。貴方にとっての俺も、大樹と似たようなものなんでしょう? 目の前にいる時は、血が繋がっていなくても家族だと言って、でも目の前からいなくなれば途端に無関心になってッ! だから俺はッ、あの家を出て行ったんだ!」
叫んでいるのは大輔自身だというのに、他人事のようにそれを聞いている頭の一部分で冷静に、俺はまるで泣き喚いているようだ、と感じていた。
辛辣な皮肉を言い、兄さんが怒ったと思えば今度は、どうして理解してくれないんだと子供のように泣いてはわめいている。
大樹の事をちっとも探そうとしない家族に失望した。邪魔をする兄に絶望した。五人掛けのダイニングテーブルの空席、箸立てにいつも残っている箸。使われない茶碗やカップ。それらをキッチンや食器棚にしまいこんだまま、当たり前に日常の時間が過ぎていく「小野」という家。
血が繋がっていない事を自覚する事は多々あったのだ。大樹だけが唯一、血の繋がった兄弟だと知っていた。同じ顔をして同じ仕草で、少しだけ表情豊かに笑う弟、もう一人の自分。大輔が見たものを同じように感じ取ってくれた、たった一人の肉親。だから耐え切れず、家を出た。――自分が消えてしまっても、この家の中は今と同じように回るのだろう。そう感じると、ただ息をするのも苦しくなった。
ズボンのポケットに大輔は手を入れた。指輪の形に似たそれを強く握り締めて、意識を束の間手のひらの中に集中させる。
『我々能力者と一般人は同じ人間です! 能力者には多少、一般人とは違う特殊な能力があるだけで、基本的なところは何一つ変わらないのです! その能力にしても、現在は様々なところで生活向上のために利用され、模擬魔術として流通しているのが現状です! 一般人との唯一の違いである能力も模擬魔術で補える今、能力者と一般人の差異はどこにあるのでしょうかッ!』
それは恐らく、心情というものだ。と、大輔は心の中で応えた。
魔術と呼ばれる能力自体が問題なのではない。多分、能力そのものはきっかけなのだ。その人間と自分とは違う、相容れない、と思うきっかけ。それから実際に溝が出来はじめ、敵意を持ったり憎んだり、関わりを拒みあうようになるのは、能力のせいでも生まれや立場のせいでもない――、人の心のありようだろう。
「大輔、」大智が口を開く。けれどその言葉を聞くつもりは、大輔にはなかった。
ポケットの中で握り締めていた手のひらを引き抜き、指輪の形をしたそれを地面に投げ捨てる。アスファルトの地面で軽い金属質な音を大きく一回、続いて小刻みに二、三回響かせたそれに大智の視線が自然と向けられた。そうして俯き加減になった目がふと見開かれ、――その後、すぐさま見返される気配が体の芯をざわめかせたけれど、その時にはもう大輔の視界に、兄の眼差しも姿も映ってはいなかった。
晴れ渡っていたはずの昼下がりは瞬く間もないうちに朝霧に沈むが如く、一センチ先も見通せない視界不良の霧の中と化したのだ。
「ッ、――大輔ッ!」原因を瞬時に理解した大智の鋭い声に混じって、さっき地面で響いた金属音によく似た音が耳朶を撫でる。その音を合図にして、大輔は踵を翻した。前後左右もままならない白い光景の中で、声に背を向けた事だけを自覚して走り出した。
大輔が地面に投げ捨てたシルバーアクセサリーの指輪によく似たそれは、使用者の発動意思を読み取り、表面の金属が硬い物質に当たった瞬間、有害性のまったくない水蒸気を周囲に噴出させる仕組みになっている。有効範囲内は最高二十メートルほどで、車が行き交う道路での使用は交通事故のもとになるので控えてください、と取り扱い説明書には書いてあった。実用化され、店先に並ぶ模擬魔術の中では一番シンプルな使い方の王道商品だろう。痴漢や暴漢から逃げる時間を稼ぐために持ち歩いている女子学生は結構いるし、客層を意識してのデザインが受けて、幅広く市場に流通している。
無論、その手に入りやすさと分かりやすい用途の分だけ犯罪に悪用される事も多々あるのだから、警察がお手上げだと降参しているはずもない。大智の声と共に耳が拾った金属音の正体は考えるまでもなく、警察だけが常備している中和剤としての模擬魔術だ。
ほとんど白く塗り潰されていた世界の向こう側にうっすらと、さっきまであったのどかな昼の光景が見え始めてきていた。光景と大輔の目との間に、白い半透明フィルムを差し込んで見るような感じだった。発動させた模擬魔術が不良品でなく、取り扱い説明書通りに効果が持続するのなら、約一分ほどは霧が晴れないはずである。けれど、警察が使用している中和剤を発動させれば強制的に十秒ほどで効力を完全に無効化できるのは、半年前まで警察官であり、その手段を重宝していた立場として十分理解していた。
瞬間的にあたりを覆いつくした白い水蒸気の集団が今度は大智が地面に落としたものによって無効化され、さきほどまでの他愛ない平日の昼下がりが再び姿を見せようとしている。半年間のうちに改良が成されていたら、十秒よりも早く水蒸気は消えうせるだろう。
対抗する手段はあった。走る速度を緩める事なく、大輔はポケットに再び手を突っ込んだ。探り当てた残りの模擬魔術の一つを握り締め、意識を集中させて発動を手のひらで感じ取るとさっきと同じ要領で、走り去る地面に放り捨てた。
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