第2話

 バタン、といつもよりも少し大きな音を立てた扉が再び開いたのは、大輔が出て行ってから十分ほど経った時だった。まず控えめに鳴らされたインターフォンに、「はぁい。ドアは開いてるから好きに入ってきて」と応じると、小さな間の後に扉が開く。

 入ってきた紺の背広姿の男は困ったように眉尻を下げていた。大男と呼んでも差し支えない、体格のいい男である。

「世間は物騒だから玄関の扉はちゃんと閉めろ、と言ったでしょう?」

「強盗なんて入らないわよ。そんなに金目のものなんて置いてないし、いかにも狙われそうなオートロック式のマンションでもないんだから」

 これがいつもの、顔を合わせてすぐにするふたりの挨拶だった。

 男としては、注意したところで麻耶が殊勝に心を入れ替えて防犯に努めるとは思っていない。かといって無用心な事には変わりなく、相手が意に介さないと承知していても警官としてそれを見過ごす事はできない。ゆえの発言だ。一方で麻耶からすれば、言うだけは言いたい男の身に沁みた職業精神を馬鹿にする気はないものの従うつもりもないので、とりあえず聞いてはおくけど必要ない、の考えで男の主張を退ける。

 なまじ正義感が強ければこの時点で、情報屋としての麻耶あゆみの相手は出来ない。見透かした態度に腹を立てる以前に不適格のレッテルを貼られた警官が何人いたかは、ふたりとも預かり知らないところだった。

 嘆息一つ。それでいつもの挨拶の終了を宣言した男は、「この間の情報提供の報酬を持ってきましたよ。ついでに駅前のケーキ屋で安売りしていたからこれも、」事務所の中央にあるテーブルに分厚い茶封筒とケーキ屋のロゴが真ん中にプリントされた白い箱を置いた。「情報は大変有益に使わせてもらった。感謝している。と、高柳課長が言ってました。今後とも何かネタを掴んだらよろしく、との事です」

「模擬魔術の密造工場の場所なんて、そうそう手に入らない情報だけど」

 テーブルとセットになっている一人掛けのソファに腰を下ろすと、封筒のほうには確認がてらの一瞥だけをくれて、麻耶はケーキ屋の箱を開けた。正方形の箱の底に側面を合わせるようにして、二つのケーキが収まっているに笑みを浮かべる。「私一人で二つとも食べろなんていう事じゃないわよね?」

「他の部署から、情報提供の要請をたんまり受け取ってきましてね」男は苦笑いと共に肩をすくめた。「全部を伝え切るまでにはケーキも食べ終えてますよ」

「分かった。ちょっと待ってて、」言って立ち上がり、事務所とは暖簾一つだけで隔てられている場所、台所と呼ぶにはコンロと洗い場しかない狭い空間で珈琲を入れようと洗い場の上の戸棚を開けた。さっき大輔に入れたばかりですぐに取り出せる位置にあったインスタント珈琲の瓶を手に取る。「――……、誰か、客が来ていたんですか?」と、訊ねられているというよりは独り言のようにぽつりと落ちた男の声を拾ったのは、瓶の蓋を開けた時だった。

「そりゃ、うちの事務所は繁盛してるから。お客さんぐらいは来るよ、十分ぐらい前だったかな?」あっけらかんと応えてから、短く笑い声をあげた。「でもそのお客さん、おかしくてね。初代の魔女の情報を売ってほしいって頼まれたのよ。女装した能力者の事でも、都市伝説の真相としての意味じゃなくて、正真正銘実在する初代の魔女を探すっていうの。正気の話じゃないでしょ?」

 問いかけに返ってきたのは、小さな間だった。しばらくしてから男が口を開いても、「麻耶はなんて答えたんですか?」子供でも知っている都市伝説としての初代の魔女を探す客へ麻耶と同じ呆れ交じりの笑いを向けるでもない質問になっていた。

 カップにスプーンで掬った珈琲の粉末を入れる。「そこはさすがに、知らないものは知らないって答えるしかないじゃない。でも諦めてないみたいだったけど。他の情報屋にあたってみるんじゃないかな」他愛ない、どうでもいい世間話のような口調で締めくくった。世の中での初代の魔女に対する認識なんてものはこの程度だ。

 ポットの湯をカップに注ぎだしたところで、暖簾の向こうで人の動く気配があった。

「すみませんが、」唐突に短い謝罪が布越しに寄越される。続いて靴音が響いた。「大事な用事を思い出したんでちょっと行ってきます。すぐに帰って来ますけど、先にケーキを食べてください」急いでいる人間特有の言葉を置き去りにしていくような口調ではなかったものの、語尾と重なって麻耶の耳に届いたのは、玄関扉の蝶番が軋む音だった。

「あら、じゃあ。どっちを食べたいのか教えてもらわないと困るわ」

 言って、湯気の立つカップを持っていないほうの手で暖簾を避けて顔を出した時には、パタン、と玄関扉が閉まっていた。その扉のすぐ脇にあるコンクリート製の階段を足早に駆け下りていく靴音がすぐに遠ざかって消えるまでを見送って、麻耶はケーキ屋の箱の傍にカップを置いてソファに腰を下ろした。そうしてからふと、脚の短いテーブルの下を、上半身を傾けて覗き込んだ。

 掃除が行き届いている床にひとつ、丸められた紙くずのようなものが転がっていた。

 テーブルにあったものが偶然落ちて下に入り込んだのか、たまたま目に入らない限りは気にならない程度の違和感でひっそりとそこにあった。手を伸ばして拾い、机近くのゴミ箱に放り捨てる。くるくると犬の尻尾のように丸められていた長細いスティック砂糖の袋は、空のゴミ箱の中で小さな軽い音を二回、短く立てた。

 やっぱり、あの人は立派な警官だ。と、満足感に麻耶は顔をほころばせる。

 彼が前触れもなく席を立ち足早に玄関の外の会談を駆け下りて行った理由が、さっき綺麗な弧を描いてゴミ箱に落下したスティック砂糖の袋だった。これ見よがしなあざとさもなく、ただ床に転がっていただけにしか見えないごみを目にして、彼は最初に抱えた小さな違和感で先客の有無を訊ねてきた。違和感は麻耶の他愛ない返事で確信に変わり、彼をこの場所から飛び出させる原動力になった。机の下の丸められたスティック砂糖の袋に気づかなければ今頃、テーブルを挟んでケーキを食べながら、仕事の話をしていたに違いない。

 全部は、男の観察力と洞察力が成した事だった。床のごみを見たのが他の誰かならば、男と同じ結論に辿り着く事はないだろう。精々、掃除が行き届いていないと顔をしかめるぐらいか、親切のつもりでゴミ箱に捨てるかだ。

 男の分の珈琲を入れなかったのは、正解だ。

 自画自賛するようにこくりと頷いてから、麻耶はケーキ箱に向き直ると、迷う事もなく右側に収まっていた苺のショートケーキの下に敷いているアルミ箔の両端を丁寧につまみあげて、テーブルに移した。もう片方のチョコレートケーキのほうが若干魅力的だから、そっちは夕ご飯のデザートにするつもりだ。

 すぐに帰ってくる。男はそう言ったけれど、実際にこの事務所に帰ってくるのは当分先の事になるだろう、と麻耶には分かっていた。彼にとってみれば、麻耶あゆみという情報屋から得られる利益よりも、スティック砂糖の袋が偶然を装ってもたらしてくれた情報のほうが遥かに大事な事だからだ。今頃は麻耶の事はもちろん、差し入れたケーキの存在も頭の中から綺麗さっぱりすっ飛んでいる。

 とりあえずは冷蔵庫にチョコレートケーキを放り込んでも、食べるのに思わず躊躇するぐらいの間を空けて、男はまたここを訪ねてくるはずだ。――……はず、ではなくて、そうなって貰わなくては困る。泥と煤で汚れた憔悴しきった顔も、絶望が頭の中で飽和状態を引き起こしたせいで何もなくなってしまった無表情も、麻耶は見たくなかった。

 頭を振る。脳裏に浮かんだそれらの顔を意識の外へと放り捨ててから、麻耶はケーキに向かって居住まいを正した。ケーキのフィルムを剥がしてから、両手を合わせる。

「いただきます、」

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