第4話

マヌケな事をした。自分としては別に不思議な事でもない。いつもの事かもしれない。妻に言わせればマヌケなことらしい。


「なんで時計を忘れるの?」「腕時計をしてるか、していないか、わかるでしょう」「自分の腕なんだから」「どうして、、、」まるで耳に入ってこない妻の言葉。


「何でって、理由はない」

「そういうことじゃなくて、オメガだよオメガ」

「そのうちどこかから出てくるさ」

「どこに忘れたのか思い出しなさい」

「それがわかれば苦労はない」

「自分のもには名前と住所でも書きますか?」

「…」


そんなバカな。50ですよ、俺は。

「行ってきます」腕時計はスポーツモデルを着けてみた。カッコいい。

「いや、それは似合いませんけど、スーツには」妻が皮肉を言う。

「いいじゃん」

「じゃんは横浜言葉よ、あなたは豊島区出身でしょう」

「浜の言葉だったっけ?なんとかじゃんって」

「そう」

「まっいいけど時間が無い、出かけてきます」

「はい。いってらっしゃい」妻の呆れ顔。


昨日の宴会場に忘れてきたのかなぁ、腕時計。

そんな思いでモノレールに乗る。

ん〜と、あそこで飲んで、タバコを吸って、、、腕時計を外すなんて考えられない。妻の言う通りではある。腕時計を外す?何度考えてもあり得ない。


ガシャンと鈍い音。モノレールに故障でもあったのか。

周りの乗客もキョロキョロしている。

アナウンスもない。皆、アナウンスを待っている。

止まってしまった。結構高いぞここは。初めてだな、モノレールが止まるなんて。

「お客様に申し上げます。只今全域停電が発生している様子です。ホームの安全が確保できないので、この車両も一旦停車し、安全確保を目視で行っております」停電とは珍しい。この朝の通勤時間帯に停電。しかも全域って、この辺り一帯ってことなんだろうか。


「安全が確保でき次第出発いたしますので、もうしばらくお待ちください」車掌の声だが、きっと遠隔地にいるんだろうな。この車両には運転者など乗っているわけが無い。

沈黙が支配している車内。誰も何も言わない。黙々と携帯端末を見入る人。意思を直接ウェーブで誰かに伝えている人。それぞれ自分の連絡手段を使って、自分の置かれた状況を誰かに伝えている。


俺はと言えば、特に急ぐわけでも無いので、誰にも連絡しようとは思わない。研究者なんて自由なもんだ。自由過ぎて妻に疑われることもある。

「会社行ってるの?」

「行ってますよ。給料払われてるでしょう」

「そりゃそうだけど」こんな会話が出るほど。妻には自分が不思議なサラリーマンに見える事があるらしい。


そうだ、腕時計。ん?腕時計がなんだっけ?昨夜は腕時計をホテルのトイレで外そうとしたんだけど、忘れるかもしれないから外すのはやめて、トイレを出て、いや、トイレにも行かずに、いや、ホテルにも行かずに、あれれ、なんの宴会だっけ?そうそう、アワード受賞発表記念の宴会だった。


体に加速感を感じた。モノレールが動き出す。

「お客様にはお急ぎのところ、電車、遅れまして大変申し訳ございません。この列車は安全確認のため10分ほど遅れて運転を再開をいたしました」

いえいえ別に遅れてもいいですよ、10分ぐらい。そんなに急ぎませんから。心の中でつぶやく。


腕時計を見ると、8時12分だ。このオメガの時計はアンティークで、電波式でもソーラーでもなく、アナログ電池式時計。だから1分か2分、進んでいる。

「おはよう、山本」

ホームに山本がいた。

「おはようございます。昨日はどうでした?」

「昨日の宴会か?」

「そうです」

「相変わらずの権威主義丸出し」自分の笑顔がどこか引きつっているのを感じた。

「やっぱり」山本の欠席した理由が少しわかった。

時計を見ると、8時ちょうどだ。

「今朝はなんだか気分がヘンだ。気持ち悪い」そう山本に言ったが何がヘンなのか俺にはわからなかった。

「体調でも悪いんなら…。仕事しましょう仕事」

「そうだな」

研究所のゲートに着いた。

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きのうにむけて 道破 憧(みちゆき こがれ) @douha-ugoki

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