屍食品

塚井理央

第1話

「遅いよ、だいちゃん」と言って、伊藤悠奈(いとうゆうな)は歩き出した。ふてくされた表情をしているが、口の両端にからかいの笑みが刻まれている。本心から腹を立てているわけではないらしく、僕はほっとした。

 だいちゃん、というのは僕の名前をもじって彼女が付けたあだ名だ。大学一年生のとき、共通科目の英語の講義でグループディスカッションを行い、僕と悠奈は同じグループになった。話し合いの前に、仲間内で簡単な自己紹介をした。出身地や所属しているサークルの話をしているうちに、映画の話題になった。悠奈は、ある外国の映画監督のファンだと嬉しそうに言った。偏屈かつ完全主義者で有名なその監督の映像世界に魅了される人は多く、僕もまた心奪われた者の一人だった。そのことを口にすると、悠奈は目を輝かせた。艶のある黒髪と、目尻を下げて笑ったときの優しい表情が印象的だった。

 そして僕らはすっかり意気投合した。ちょうどその頃、監督の最新作が公開されて話題になっていた。後日、僕は悠奈と一緒に駅前の映画館に行った。それからなんとなくお互いに会う機会が増えて、僕らは恋人という間柄になったのだ。


「遅れてごめん」先を進む悠奈に追いついて、僕は詫びの言葉をかけた。「政治学の講義が長引いちゃって……」

「もしかしてそれ、銀縁メガネの先生の講義?」

 そうなんだよ、と僕は嘆息した。

「先生、一度頭に血が上ると周りが見えなくなっちゃうんだもの。普段はクールな感じなのに」

 右手首に巻かれた水色のミサンガを指で弄りながら、悠奈はくすりと笑い、

「じゃあ、また人口逓減政策の話でご乱心になったんだ」

「そうそう。終業時間を過ぎてもずっと熱弁を奮ってたんだ。『野党議員の誰々、バンザーイ!』とか唾を飛ばしてさ」

 悠奈は細い顎に人差し指を当てながら、「そういえば、前期に受けた先生の講義でも似たようなことをしてたわ」と呆れ顔になって、「そのあと、先生はどうしたの?」

「どこからか聞きつけたのか、他の教員に取り押さえられて、ずるずると引きずられていったんだ」

「え、どこに?」

「教室の外の廊下の方。で、そのまま消えていった」

 しかし噂によると、銀縁メガネの先生のイライラは、人口逓減政策への不満だけが原因ではなかったようだ。不規則な生活が続いたせいで食生活が偏り、先生はここ最近安いホルモンばかり食べていたらしい。栄養バランスが崩れたせいで死肉炎になってしまい、断続的に襲いかかる痛みに苛まれ、鬱憤が溜まっていたそうだ。

 今頃は例の政策に一役買ってるかもね、と揶揄すると、悠奈は目尻を下げて笑い、それに同調するように僕も微笑んだ。しかし内心では、耳のすぐ側で鳴っている自身の心臓の鼓動音を、悠奈に聞かれないか、心配でしかたがなかった。


「来週、うちで一緒に夕飯を食べない? 待ち合わせはいつもの駅前の時計台で」

 そんな内容のメールが悠奈から届いたのは、今から一週間ほど前のことだった。僕は何度も文面を読み返して、メールの意味を理解しようと必死になった。二人で買い物をするとか、映画を鑑賞するとか、その手のデートは何度かしたけれど、女の子の家に行くというのは僕にとって未知の経験だった。

 それに、悠奈から誘いの言葉をかけられたのはこれが初めてのことだった。彼女はどちらかというと内向的な性格で、遊びのお誘いをするのは決まって僕のほうからだったのだ。だから最初にこのメールを読んだとき、僕はちょっと動揺した。緊張で顔が火照り、携帯電話を握る手に汗が滲んだ。汗ばむ指で了解の返事をすると、僕は自室のベッドに仰向けになり、気持ちを落ち着かせようと目を閉じた。目の裏の暗闇がアメーバのように形を変えて、だんだんと人間の顔になり、最終的にそれは悠奈の笑顔になった。身体中が穴だらけになって、羞恥のガスが勢い良く噴き出した。それ以来、どうにも寝付けない日が続いたのだった。


 悠奈の行きつけのスーパーを目指して、僕らは駅前通りを歩いた。一人暮らしをしている悠奈は、大学の帰りにしばしばその近所のスーパーに寄って、夕食の材料を買い、自炊をするそうだ。

「そのほうが安上がりなんだもの」と悠奈は言う。彼女のそんな家庭的な一面を知って、僕は小躍りするような気持ちになる。

 買い物袋をさげた主婦の姿くらいしか、周りに人影は見当たらない。午後の日差しを浴びた街路樹の葉がまばらに影を落とし、横を歩く悠奈の顔に微妙な陰影を与えていた。生々しく浮かび上がる彼女の横顔を何となく眺めていて、僕はおやと思った。彼女の周りに、どことなく暗然とした空気が漂っているような気がしたからだ。

 僕の視線に気付いたのだろう、悠奈が上目づかいに僕を見て、

「どうしたの」

「え、なにが」

 緊張を顔の裏側に隠しながら、平然と答えた。霧のように漂っていた沈鬱な気配はすっかり失せて、穏やかな顔が横にあった。

「今日のだいちゃん、なんか変だよ」

「僕みたいな一般人が奇妙に見えるのなら、授業中にバンザイと叫ぶ教師は狂人だよ」

「狂人は政治学の教鞭を執ったりしないわ」

 悠奈が眉間にシワを寄せて僕を見つめる。すっかり話の接ぎ穂を失ってしまった。辺りを見回すと、電器店の前に設置されたテレビで、夕方のニュースが放映されていた。人口逓減政策に断固反対していた野党議員が行方不明になって、今日でちょうど一週間になるとニュースキャスターが報じた。禿頭の議員の顔写真が、画面に大映しされた。

「このつるっぱげの人、どこに行っちゃったんだろう」と悠奈が言った。

「朝のニュース番組によく出演してたのにね」

「最近、うちの大学でも生徒や先生が行方不明になってるよね」悠奈の顔にさっと不安の色が走った。

「そのうちすぐ見つかるって。特にこの議員さんなんて、目立つ頭をしているんだし……」

 怯えの影を取り除こうと冗談めかして言ったが、悠奈は目を伏せて曖昧に頷くばかりだった。


「我が国の人口は飽和状態であり、このままでは大変危険なので、減らしちゃいましょう」

 そもそもの火種は首相によるこの発言だった。センセーショナルな首相の発言は国会の大きな議題になった。さらに、多数派を占める与党がこの政策を強引に推し進めて、議会は大騒ぎになった。

 後に「人口逓減政策」と銘打たれたこの政策は、各市町村の委員会による公平な審査のもと、くじ引きで逓減対象者を選定するというものだった。選ばれた人がどうなるのかは明らかにされていない。政府による人体実験の被験者にされるという風説が横行したことがあった。饅頭の具になってマカオや香港の業者に売られているという噂も聞く。

「生きる権利が平等に与えられているのだから、死ぬ権利も平等に付与されるべきではないか」大勢の記者とテレビカメラの前で、首相は誇らしげに語った。

 そのとき、「どうせ国民の注目を浴びるためのパフォーマンスなんだろ」と辛辣な質問を浴びせたのは、ニキビの目立つ青年記者だった。首相はでっぷりとした腹を揺らして笑い、

「何を言うのかね、君は。これは国民の皆様のお気持ちを第一に考えて実行している政策であり、資源枯渇問題の解消やエネルギー危機脱却を目指してだね……」

「非国民がっ!」と怒鳴ったニキビづらの青年記者は、履いていた靴を脱いで首相に投げつけた。靴はあわや首相の顔面に当たるかと思われたが、途中で軌道が逸れてしまい、結局首相の肥えた腹にぶつかって落ちた。靴を投げつけられた首相は、しかし満面の笑みを浮かべて、

「君みたいな情熱を持った若者が日本にいて、私は嬉しいよ。どうだい、会見のあとに少しお話をしようじゃないか。私の秘書に別室へ案内させよう」

 ニュースで報道していたのはそこまでだった。その日の会見以降、ニキビづらの青年記者は姿をくらませてしまったそうだ。実験の材料にされたのか、饅頭の材料にされたのかは分からない。だが、ニキビづらの青年記者も、禿頭の野党議員も、共に同じ末路を辿ったのだろうと僕は推測した。そしておそらく、禿頭の議員に賛辞を送っていたあの銀縁メガネの先生の未来も、共に同じ破滅の門で締めくくられているのだろうと思った。


 スーパーのフロア内を、二人で並んで周った。何の気なしに食材を眺めながら歩いていると、香ばしい匂いが漂ってきた。精肉コーナーの一角で、ギンガムチェックのエプロンを着た女性店員が、鉄板で何かを焼いている。周囲にはまばらに人が集まっている。食欲をそそる匂いに誘われて歩み寄ると、客引きの声が大きくなった。

「ご試食いかがですかーっ? ぜひ召し上がってみてくださーいっ!」

 呼び込みにつられて、差し出されたものを手に取った。それはこんがりと焼き色がついた人間の指だった。かじってみると、パキッという小気味良い音がした。口の中に濃厚な肉汁が溢れて、香辛料の匂いが鼻からすっと抜けた。

 女性店員は温和な笑みを浮かべ、他の客に爪楊枝に刺さった指を渡しながら、セールストークを並べた。

「美味しい美味しいこのソーセー児は、正真正銘の国産よっ。潰したての粗挽き肉を、幼児の指に詰め込んだのっ。香辛料で風味を利かせて、一度食べたら病みつきだよっ。化学調味料など使わない、美味しい美味しいソーセー児、どうだい、お得なタイムセール中だよっ」

「一つ買っていかない?」と悠奈は言った。「ジャガイモや玉ねぎと一緒に煮込んで、ポトフにするのはどうかな」

「いいね、美味しそうだ」

 じゃあ決まりね、と言って、悠奈はソーセー児の袋をカゴに入れた。ありがとうございますっ、と女性店員が礼をして、僕らは顔をほころばせながら会釈をした。


 買い物を済ませると、僕らは悠奈の家へ向かった。ポトフの材料が入った重い袋を僕が、ピーマンの肉爪の材料が入った軽い袋を悠奈が持った。ピーマンの肉爪は得意料理なの、と悠奈は言った。細かく砕いた爪とひき肉を混ぜて、それをピーマンに詰めて焼くのだが、上手く焼くには少々コツがいるのだそうだ。

「お母さんに作り方を教えてもらったんだ。上手に焼かないとピーマンと肉がはがれちゃって、ぼろぼろになるんだよ。失敗するたびにお母さんにからかわれてたなあ」

「そういえば、そのミサンガもお母さんが作り方を教えてくれたんだっけ」

「そうなの。でも、この水色のミサンガは私じゃなくて、お母さんが編んでくれたものなんだよ。お母さん、私と違って手先が器用でね、色々教えてもらったわ。料理とか、裁縫とか……」

 遠くの景色を眺めるように、悠奈は目を細めている。彼女の周りを漂う、影のように黒い空気が、より濃さを増したように感じた。

 実は、悠奈の母親は三ヶ月ほど前から行方不明なのだ。茶封筒を手に持った姿を市役所の前で見たという目撃情報を最後に、ぱったりと足取りが途絶えてしまった。人口逓減政策のせいだろうと、悠奈は直感で分かったようだ。

 みんなのためだから仕方ないよ、と当時の悠奈は明るい声色で言ったが、それが無理矢理作られた明るさであることはすぐに分かった。普段どおりの笑顔を繕ってはいたが、油の切れかかった機械のような、ぎこちなさがあったからだ。

 なんて声をかければいいのか分からず、そのときの僕はただ無言で悠奈の話に頷くだけだった。肝心なときに言葉が出ないのは、僕の悪い癖だった。そういえば、僕はこれまで悠奈に対して、感謝の言葉や恋人らしい台詞のひとつも、きちんと言ったことがなかった。

「このミサンガは、お母さんが失踪する前日に、私に送ってくれた宝物なの」

 右手首に巻かれたミサンガを指でなぞって、悠奈は言う。

「お母さんは強い人だった。だから、最後まで私にさよならは言わなかった……でも、当たり前よね。さよならをしたわけじゃないんだもの」

 僕は黙ったまま長く伸びる二つの影を見ていた。手に下げたスーパーの袋が、一段と重くなったような気がした。


 駅前の大通りから少し外れると、人の往来はほとんどなく、閑散としていた。

「ここよ」とアパートを見上げて、悠奈は照れくさそうな表情を浮かべた。「ここの二階の奥が、私の部屋なの」

 アパートは全体的にクラシックな色合いをしていた。落ち着いた佇まいのアパートは、なんとなく悠奈の雰囲気に合っているなと思った。外付けの階段の側にある郵便受けからチラシや封筒などを抜き取った悠奈は、郵便物をじっと見ていた。すると突然、「あっ」と目を見開いた。

「どうしたの?」と声をかけると、悠奈は早足で階段の方へ向かい、

「まだ掃除してないところがあるんだった。ちょっと部屋の前で待ってて、すぐ終わるから」

 そう言って駆け足で階段を上っていった。おっちょこちょいなところもあるんだな、とその背中を目で追いながら、僕は外付けの階段を一段ずつ上がった。階段に足をかけるたびに、脈拍が早くなっていくような気がした。女の子の部屋を前にして、急に緊張の糸が張り詰めてきた。深い呼吸を何度か繰り返して、部屋の前で待った。

 二階から見回すと、遠くの方で駅前の時計台が夕日を浴びて、オレンジ色に染まっていた。僕と悠奈がデートの待ち合わせ場所として使う、もうすっかり見慣れてしまった時計台だ。そういえば、二人で初めて映画を観に行ったときの待ち合わせ場所もあの時計台の下だったっけ。そんなことを思い返して、なんとなく懐かしい気持ちになる。

 それにしても、掃除にしては静か過ぎるような気がした。掃除機の音や足音が、まるで聞こえてこないのだ。不審に思って、悠奈の家のチャイムを鳴らした。何の反応もない。四呼吸分ほど間を空けて、もう一度鳴らすが、返事はおろか物音ひとつしなかった。

 何度かの躊躇のあと、ドアノブに手をかけて回した。電気が点いていないのか、室内は闇に包まれていた。

「悠奈?」と呼んでみるが、声は瞬く間に暗闇に吸い込まれてしまう。壁伝いに進み、廊下のドアを開けると、人影らしきものが見えた。「悠奈か?」と尋ねるが、応答はない。耳を澄ますと、押し殺したようなすすり泣きが聞こえる。

 どうしたんだろう、と不安な気持ちで部屋の壁を探っていると、室内灯のスイッチらしき感触があった。ほっとして部屋の灯りを点けると、フローリングの床に食材の入った袋が置かれていて、壁際にあるベッドの上に悠奈がいた。両膝を立てた状態で座り、組んだ腕の中に顔を埋めている。

 内心の動揺に気付かれないように、「どうしたんだ、悠奈」と声をかけた。ベッドの近くには、先ほど郵便受けから悠奈が取り出したチラシが散らばっていた。夕食の買い物をした、あのスーパーのチラシもある。その中に一つだけ、A4サイズの封筒が混じっていた。封筒の表面に書かれた文字を見て、僕は胸の中で風船が膨らむような息苦しさを覚えた。茶封筒の差出人は市役所、受取人は伊藤悠奈になっており、さらに明朝体で「最終通告」と太字で書かれていた。


「一ヶ月くらい前かな……家に帰ったら、郵便受けにこれと同じような茶封筒が入ってたの。中身を見なくても何となく分かったわ。ああ、ついに来ちゃったんだなって……」

 ベッドのふちに腰掛けて、悠奈は訥々と話した。手を伸ばせば届く場所にいるのに、彼女の表情はすりガラス越しに見るように判然としなかった。逓減対象者となった人は本来、茶封筒を持参して、市役所で手続きを済ませなければならない。しかし、悠奈はそれを拒んだのだ。当然、何かしらの罰則が課されるに違いなかった。

「私もお母さんみたいに強くなりたかったんだけどなあ」と悠奈は言った。「ずっと内緒にしていようと思ったの。正体不明の政策に巻き込まれるなんてイヤだったし、だいちゃんと離れたくなかった。本当は今日、だいちゃんにさよならを言おうと思ってたの。でもダメね……さっきの封筒を見たら急に怖くなっちゃって、こんなの、ただのワガママだよね。ごめんね、だいちゃん……」

 言い終わる前に、僕は悠奈を抱きしめた。肩を震わせた悠奈は、子どものように声を上げて泣いた。先ほどのすすり泣きとは違う、夕立のような激しい嗚咽をもらして、泣きじゃくった。悠奈の身体は小さく、驚くほど細かった。こんな華奢な身体のなかに、ずっと自分の気持ちを溜め込んでいたのだ。でも、もうこれからは一人で抱え込まなくていい。

「一緒にいるから」

 鼻の奥がつんと熱くなった。涙腺への刺激をこらえながら、僕はさらにしっかりと悠奈を抱きしめた。ずっと一緒にいるから、と搾り出すようにして、繰り返し言った。過呼吸のようにむせびながら、悠奈はうん、うんと何度も頷いた。


 ごめんね、と言って顔をあげた悠奈の目は赤く腫れていた。しかし嗚咽は止んで、普段どおりの微笑みが戻っている。

「いいんだ。僕のほうこそ、今まで気付けなくてごめん」

「ううん。私、こうやってだいちゃんの側にいられるだけで嬉しいの」

 僕と悠奈は見つめ合った。しばらくすると、彼女はベッドに身体を投げ出して、天井を仰いだ。無防備な全身を目の前にして、僕はどきりとした。目のやり場に困っていると、

「お願い、きて」と悠奈が囁いた。

「いいの?」

「だって、ずっと一緒にいてくれるんでしょう?」

 目尻を下げた、蠱惑的な笑みだった。その笑顔は僕の心を高ぶらせるのに十分だった。乾いた唇を舌で湿らせて、僕は悠奈に向き直った。彼女の服を脱がせ、丁寧に畳んで脇に避けた。そして仰向けに寝転ぶ悠奈の腹を、胸元から臍の下まで一気に切り離した。シーツを切り裂くような音がして、蛍光灯の淡い光に照らされた悠奈の内蔵が顕になった。

「大丈夫?」と顔を歪ませる悠奈に尋ねた。

 目元に涙を浮かべながら、「うん、平気……だいちゃんなら、私、何をされてもいい」と悠奈は呟いた。

 悠奈の身体は綺麗だった。白粉を刷毛でさっと塗ったような白い肌。そんな透き通るような皮膚の数センチ下に、美しい臓腑が絶妙なバランスで収められていた。それは奇跡的な調和だった。悠奈という端麗な縁取りの中で、内臓たちが完璧な彩色絵画を完成させていた。

 音を鳴らして唾を飲み込み、僕はゆっくりと上体を突き出して、悠奈の内臓に顔を埋めた。むせ返るほどの血の匂いが鼻腔いっぱいに広がり、頭の芯が熱くなった。アルコールの綿毛がふわふわと頭の中を飛び回るような、目眩に似た感覚に、全身を支配された。

 規則正しく跳ねる艶やかな心臓に、そっと舌を這わせた。微かな吐息が悠奈の口から漏れ出た。ぬらぬらと光る小腸を左手でまさぐると、固く目をつむっていた悠奈が僕の右手を強く握った。柔らかな悠奈の手を握り返して、僕は悠奈の心臓を口に含んだ。生命の脈動が口内に伝わり、僕の心はさらに高揚した。

 心臓をそっと吐き出すと、僕は無我夢中になって悠奈を食べた。弾力のある肌に門歯を突き立て、血をすすり、肉片や内臓を咀嚼して、飲み込んだ。食われるたびに悠奈は眉間にシワを寄せ、苦悶とも悦楽とも取れる表情を浮かべていた。僕は万華鏡のように形をかえる悠奈の相貌を見て、血色の良い唇から漏れる声を聞き、身体の内側と外側を舌で味わい尽くした。五感を総動員して悠奈を愛し、ひとつになった。悠奈の細い脚に齧り付き、苦味のある骨を舐めていると、次第に視野が狭くなっていった。理性や記憶が吹き飛び、僕は我を忘れて吠えた。猿のように吠え狂いながら、悠奈の全てを食べ続けた。


 鉄臭さが充満するこの部屋に、時間の概念はなかった。白昼夢から覚めたような心地になると、僕の腕の中で、悠奈は柔らかな微笑みを浮かべていた。

「ありがとう……私、嬉しい」

 か細い息を吐く彼女の首を腕に抱きながら、僕は愛してるとささやいた。風が吹けば消えてしまいそうな声しか出せず、そのときになって初めて、僕は自分が泣いていることに気が付いた。

 首だけになった悠奈は、「遅いよ、だいちゃん」と笑った。僕の好きな、目尻を下げた優しい笑顔だった。悠奈は音には出さず、私もだよ、と唇だけで呟くと、微笑んだまますっと目を閉じた。本を読んでいる途中でついうたた寝をするような、静かな眠りだった。徐々に温度を失っていく悠奈の首を抱擁していると、涙がどんどん溢れてきた。それは滴となって頬を伝い、顎から流れ落ち、悠奈の黒髪に付着した血と融け合って消えた。

 やがて巨大な足音の波が、深い海底のような夜の静寂を引き裂いた。足音は徐々にうねりを増して、階段を駆け上がり、部屋のドアにぶつかって飛沫をあげた。様々な蛮声に混じって、ドアを叩く音が響いた。金属同士が擦れる音が聞こえたかと思うと、勢い良くドアが開け放たれた。濃紺色の制服を着た警察官が、血気盛んに侵入してきた。しかしベッドの上の情景を目にして、彼らは見る見るうちに活気を失くしていったようだ。

 悠奈を抱く手の力を緩めると、ふと右手に何かを握っていることに気付いた。血にまみれた手を広げると、そこには紫色のミサンガがあった。鼻をすすり、爪を突き立てるようにして右手を握りしめた。そして僕は、もう喋らない悠奈の首に向かって、ずっと一緒にいるから、と呟いた。


<了>

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屍食品 塚井理央 @rio_tsukai

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