真夏のスワン

 熱い日差しに、僕のうなじは生焼け寸前だった。八月のうだるような暑さの中、僕は京都競馬場のステーションゲートで、ショーさんを待っていた。日陰に入っても、さっきまでスタンドをぶらぶらしていた分、皮膚に受けた紫外線の爪痕は消えない。出がけに姉が押し付けようとした去年使い残した日焼け止めを、持って来ればよかったと後悔した。

 あの不思議な夜から月日は過ぎ、年を越え、春を過ぎ、梅雨が明け。あと二か月ほどで一年が経とうとしていた。

 やがて、ゲートに向かって来る人がにわかに増える。各駅停車が止まるたびにやって来る人の波にまぎれて来たショーさんは、丸めた競馬新聞で僕の頭を叩く気力もなさそうだった。

「お前、ほんま頭おかしいんとちゃうか。こんな暑さでスタンドおったとか。しかも先週もやろ。もう真っ黒やないか!」

「嫌なら、シホさんとお出かけすればよかったんじゃないですか。ピクニック日和ですよ。」

 あれから、土日に暇さえあれば僕は京都競馬場に通っていた。頑張って走る馬を応援するために。プリマヴェラの遺言を守るために。僕自身が、笑顔でいるために。そして、いつかこの世に戻って来るかもしれない、彼女と再会するために。

 彼女が青柳はるかとして目覚めたとして、どうやって僕を探し出すのか、僕にはわからなかったが、出会えるとすればここ以外にない。僕はいつも淡い期待を胸に競馬場にやってきたが、未だに彼女とは出会えていない。

 でも、僕は競馬場に通い続ける。ノベヤマさんが「競馬場の神様」と、うまく話をつけてくれることを信じて。それに、待つのはもともと嫌いじゃない。

「そういえばお前、この前ここでナンパした姉ちゃんとは、どうなったんや?」

 通路に設置されたクーラーの前で、男二人でソフトクリームを食べていると、ショーさんが聞いてきた。ショーさんにとっては去年の秋も「この前」、そして変わらず、僕は青柳さんをナンパしたことになっている。

「実は、連絡先を交換し忘れちゃって。」

 一度デートして、(彼女が僕に別れを告げた幻の中で)キスまでしていたのだから、僕はショーさんの言葉を必死に否定することはしなかった。

「お前、ほんまアホやなあ。黒木にはもったいないくらいの姉ちゃんやったのに。」

「そうですね、惜しいことをしました。でも、彼女、馬券師なんで、もしかしたらまた、ここに来るかもしれません。」

 いつになく前向きな僕の発言は、ショーさんにとっては、草食系の後輩が、ナンパした女性との再会を狙う肉食系男子に生まれ変わったように映ったようだ。ショーさんはにやりと笑う。

「お前、ちょっとは進歩しとるやないか。よっしゃ、牛丼おごったる。」

「……牛丼ですか。」

「もし、その姉ちゃんモノにできたら、そんときは焼肉や。」

「……うれしいですけど、今日勝たれてからでいいですよ。」

「アホ、お前が心配せんでも、今日は勝つで!」

 こんな、傍から見ればバカバカしいやりとりでも、もう以前のように僕は「バカバカしい」と切り捨てて憂鬱な気分になったりしない。プリマヴェラのおかげで僕は、彼女と出会ったときのように、競馬を楽しむことを思い出した。ショーさんとの、競馬場での楽しい過ごし方も。

 僕らはバカな話をしながら、場内を歩いていく。京都競馬場でレースを開催していない今、他の競馬場のレースを、場内いたるところにある実況のテレビで観戦するしか僕らにはないのだが、何となく僕もショーさんも、ゴール前に近いところを目指そうとする。

「ショーさん、僕、ちょっとコーヒー買ってきます。」

 僕はショーさんに断って、スタンドに向かう通路にある自販機に向かった。あの日、青柳さんにもらったブラックコーヒーを買って、自販機から取り出すと、そのキンと冷えた缶の冷たさが、手のひらに心地よい。

 ちょっとスタンドに出てみよう。

 なぜかそう思った僕は、炎天下のスタンドに再び立った。

 記録的な猛暑に、京都競馬場までわざわざ観戦に来る人は少なめで、さらに、スタンドでギラギラと照り付ける太陽に焼かれに来るもの好きはもっと少ない。

 彼女がここにいたら、僕を見つけやすいだろうか。

 そんな淡い期待に胸を躍らせるほど、僕も冷静さを失ってはいない。僕の目に映るスタンドも人はまばらで、それこそ、若い女性がいればすぐに見つけられるはずだが、残念ながら彼女がそこにいないのは明らかだった。

 それでも。

 それでも僕は信じたい。

 彼女とまた、会える日が来ることを。今度はちゃんと、彼女が何者なのか、何を思っていたのか、きちんと知った上で、僕の気持ちを伝えるために。

 僕がどれほど、夢中で彼女を見つめていたのか。

 青柳はるかの姿で僕の前に現れた彼女が、どれほど魅力的だったか。

 どれほど僕が彼女を、今も好きでいるか。

 僕は一瞬、最後に彼女が駆け抜けたターフに目を向け、彼女がいないスタンドを後にした。去り際にちらりと見えた白鳥の形のゴール板は、真夏の日差しを受けて、キラキラと光っていた。


                              おわり

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真夏のスワン 鶴岡えり @kate-ella-jean

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