間章Ⅱ ~キリエとグレゴリオ~
『またお前か』
あたり一面の、けぶるような白い霧のなか、わたしは、そのひとの前に立った。
「……またとは何」
じろりとにらむと、かすかに笑うような、低い声が聞こえた。
『……今度は臆おくさないのだな』
「あなたは、わたしの知っているひと。そうでしょ」
『……まあ、否定しないでおこう』
彼はのんびりと首を振ると、その霧に包まれた巨体を揺らした。
相変わらず、その姿はよくみえない。
でも、もう恐怖はなかった。
第一、こちらを取って食おうとするかのような、裂さけた大きな口は、もうなかった。
むしろ、なぜだか、少し懐かしい気すらする。
最近どころか、ずっと前から、わたしはこのひとを知っている。
――そんな気がしたのだ。
その体に触れると、さらり、とした感触が掌を滑すべった。
それを、うっとおしそうに避けると、巨体は言った。
『なぜ、またここに来た』
「この前のつづきをしに」
『なるほど、身の上話か。――よかろう。聞いてやろう』
「――あのね。わたしは、夏芽お姉ちゃんのおかげで、確かに、〈人形の姫〉から、〈人間〉に戻った。でも、それだけじゃ、戻らないものもあった」
『兄との関係か』
「うん。お兄ちゃんとは、まだ、気まずいままだった。お兄ちゃんは、歩み寄ろうとしてくれたし、わたしだって、そうしたかった。夏芽お姉ちゃんだって、そっと、応援してくれてた」
「……それでも、わたしは、怖かった。わたしのせいで、パパとママは死んだ。いくらわたしが、しゃべれるようになったからって、そのことを、どんな風に思っていたのかなんて、とても聞けそうになかった」
『なにかと思えば、懺悔ざんげか』
「ううん。これは、ただの思い出語り。わたしを人間にしてくれた〈女神さま〉とは違う、とても優しい〈救世主〉さまのお話」
『……エマニュエルか』
「うん。エマニュエル・アンダーソン。こっちでは犬飼絵馬いぬかい・えまさんて名前の、すごいひと」
『「Imanu'el」……「神<エル>は我らと共に」……かつ、「andro-son」……「人の子」か。――確かにそれなりの人物のようだ』
「インマ……?」
『こっちの話だ。その娘はお前になにをした』
「――とても大事なことを、教えてもらった」
『言ってみろ』
夏芽お姉ちゃんの友達、エマさんは、すごく賢いひとだった。
いちばん高いところから、みんなを見渡して、その弱点や長所や、直すべき点などを、たちどころに、把握はあくしてしまうようなひとだった。
そんなエマさん……エマお姉ちゃんを、わたしは、少し怖いと思っていた。
その鋭い目で、わたしのことも、暴いてしまいそうだった。
――そうなった。予感は当たっていた。
「……お兄ちゃんのせいだとは思ってない。 ――永遠音とわねのせい」
わたしは、絞り出すように言った。
エマお姉ちゃんのしたことは、わたしとお兄ちゃんの前で、開口一番、その確執かくしつを、つまびらかにすることだった。
「君島永遠音きみじま・とわね。あなたは、兄のせいで、両親を奪われたんでしょう?」と。
わたしは、頭を、ぐわん、と殴られたような気がした。
――知っていた。
お兄ちゃんが、生まれながらにして与えられた、“呪い”のことを。
可憐な花の精のような美しい容姿、小鳥のさえずりのようなみずみずしい声……。そして、音楽の女神をも酔わせるヴァイオリンの奏で。
なにより、世界中の悲しみと喜びとを、至高の宝石に変え、この世のすべてを塗りかえてしまうような――。とても人間とは思えない、作曲の才能。
それらを、持って生まれた代償として、お兄ちゃんは、たくさんのひとを死なせたという。
あるひとは、そのあまりにも美しい世界に酔い、崖から飛び降りた。
またあるひとは、その音楽に傾倒するうちに、その天国のような響きに対する、現実の醜さに耐えられなくなり、高速で走る列車の前に身を投げた。
あるピアニストは、ヴァイオリニストは、楽団は、誇りに思っていた自分たちの演奏が、ただの幼児のままごと遊びに過ぎないことに気づき、正気を失い、あるものはナイフで胸を刺し、あるものは首をつり、あるものは精神を死なせ、狂った。
まるで、なにかの冗談のような悲劇が相次ぎ、最後には、それを止めるため、パパとママは、運命の女神さまと約束したという。
『――私達の命と引き換えに、どうか唯音〈ブリジット〉を―― 』
その願いは、叶った。
もうひとりの神様、愛の女神の慈悲で、わずかな猶予と、新たな命を贈られて。
――運命は書き変わった。
……もうお兄ちゃんが、ひとを死なせることはない。
過去も未来も……。これまでの歴史すら、塗り変わった。
そう、みずからの両親を失うという、残酷な代償と引き換えに。
わたしは、緊張で、躰をがちがちにして、荒い息をしながら言った。
「――でも、そんなの嘘。神様なんていない。ママは心臓が弱かった。永遠音を生んだから……。――パパも、ママがいなくなったから……!」
「――そんなことない」
お兄ちゃんが、驚いたように言う。
「……ある」
わたしは、言い返した。
「そんなことない!」
大声でお兄ちゃんは、繰り返す。
「――ある!!」
わたしも、声を張り上げた。
「……っ、君が思い悩む必要はない! ぼくのせいだっていってるだろ!!」
「違う。永遠音の、永遠音のせいだもん!!」
わたしは、怒鳴るようにして声を荒らげた。
たとえそれが真実でも、わたしは認めない!!
呪いなんて、運命なんて知らない。
わたしの大好きなお兄ちゃんのせいだなんて、そんなのは、ぜんぶ否定してやる!
だって、わたしが悪者になれば、お兄ちゃんは救われるんだから……!!
言い争う、わたしたちに降り注いだのは、氷のように冷たい声だった。
「――もう、いい加減にしたら?」
わたしは、ぎくり、と動きを止め、エマお姉ちゃんをみつめた。
冷めた目が、わたしを射抜いた。
そして、そらされた視線が向かった先は、お兄ちゃんだった。
「美しい兄妹愛はいいけど、唯音。あなたは永遠音のことを考えていない」
「――ぼくは……!」
言い返すように、声をあげたお兄ちゃんに、エマお姉ちゃんは、無表情で答えた。
「……考えてないでしょ? 自分だけ悪者になろうなんて、底が浅すぎるのよ。――相手をみなさい。心優しくて責任感の強い、永遠音のような子には、逆効果。かえって、自責の念を高めるだけ」
「エマお姉ちゃん……っ」
わたしは、思わず叫んだ。
違う。ぜんぜん違う。
そんなこと、言わないで。お兄ちゃんは、悪くない!
そう言おうと思ったのに、続きが出てこなかった。
口をぱくぱくさせていると、エマお姉ちゃんは、わたしに瞳を向けた。
「あなたもあなた。 今のは、ぜんぶあなたにも、当てはまることよ。唯音とあなたは同じ。お互いに、自分だけ背負おうとするのは、優しさじゃなくてただのエゴ。――相手はそんなこと望んでいないわ」
「だ、だって……!」
「だって、なに?」
「――エマ……」
「夏芽は黙ってて」
夏芽お姉ちゃんが、出してくれた助け舟は、ぴしゃり、と切って落とされた。
わたしは、目の端がじわりと熱くなるのを感じながら、震える声で言った。
「パパとママがいなくなってから……、お兄ちゃんは、わたしをみるたびに、暗い顔をする。それは、永遠音が……っ」
「……まだわからないのかしら? そうやって決めつけて、誰がしあわせになるの?」
エマお姉ちゃんの言葉に、唇をかみしめ、俯うつむいたままぎゅうっ、と拳を握っていると、ため息をつくような音が聞こえた。
「あのね、あなた達兄妹がすべきことは、重荷を奪いあうことじゃなく、分かち合うこと。――真実なんて、そんなもの、どんな価値があるの?」
「どちらが悪いとか、不毛ふもうな言い争いで時間を費やして、自己嫌悪に浸ひたっている暇ひまがあったら、お互い、相手のことを思いやりなさい。あなた達は、真偽しんぎはどうあれ、両方が同罪どうざい」
「――だから、許しあいなさい。相手を、そして自分自身を」
「…………」
わたしは、考えた。
もし、このひとの言うとおりだったら。
お兄ちゃんも、ずっとずっと、苦しんでいたの?
自分が、自分だけが悪いって自分を責めて、わたしはなにも悪くないって思ってくれていたの?
そっと、顔をあげると、お兄ちゃんと視線があった。
不安そうに、その瞳が揺れ、そらされるのをみて、ああ、と思った。
こんな、ずるくて醜いわたしのために、お兄ちゃんは――……。
頬が熱くなり、ぽろぽろと涙がすべるのを感じて、そっと、目のはしをこすった。
夏芽お姉ちゃんは、うなずくようにして、立ち去った。
「ぼく達は、間違っていたのか……?」
お兄ちゃんは、そうもらした。
エマお姉ちゃんは、微笑んだ。
はじめてみたそれは、わたしが思うよりずっとあたたかで、柔らかな微笑だった。
「――ええ、そうよ。しばらく反省するがいいわ。話はそれからよ」
エマお姉ちゃんはそれだけ言うと、夏芽お姉ちゃんと同じく、静かに踵を返した。
――この話の真相しんそうは、こうだった。
わたしは、自分のせいだ、って悲劇のヒロインみたいに、自分を責めたけれど、本当は、お兄ちゃんを庇かばうことで、その痛みから逃れて、不幸に酔っていたんだ。
……まるで、救世主にでもなったつもりで。
わたしはその時、自分が恥ずかしくなった。
けれど、それ以上に、お兄ちゃんの優しさに、心が洗われた気がした。
そう、もうひとりの救世主は、お兄ちゃんだった。
エマお姉ちゃんも、その事実には、きっと気づいていただろう。
あの時、微笑んだ瞳の、暗緑のなかに散る紫のまたたきは、確かにわたしの罪を映うつしていた。
それでも、それには触れないでくれた。
その微笑みは、すべての間違いすら包む、かろやかな翼のようだった。
そう、だから、このひとの言ったことは正しい。
これは、ひそやかな懺悔ざんげの物語だった。
……誰も知らない、わたしだけの。
『――そうか。それで、お前と兄の関係は、無事に修復しゅうふくされたのだな。一緒に暮らすようになったのも、それからか』
「うん。お兄ちゃんの通う、四音しおん音楽学院の小等部に転校して、お兄ちゃんがお世話になっている、おじさんおばさんの家で、わたしもお世話になることにした」
「音楽に関わる、芸術全般の職業を応援する、この学校なら、バレエの仕事とも両立できるし、優秀なら、生活費や賞金までもらえて、負担はかけなくて済むし」
『兄と暮らしたかったのだな』
「――うん」
わたしは、しんみり、と返した。
『……お前の真意はわかった。ならば、我もそれには、触れないでおこう。その気持ち、確かに受け取った。迷える娘よ。再び舞い戻れ。――そして、選べ。お前のゆくべき道を……』
視界が、ゆっくりとぼやけ、とけていく。
心が羽のように、すっ、と軽くなってゆく。
ざらついた胸の奥が、さらり、とした水で、すすがれてゆく。
きっと、ただ、受け止めて欲しかった。
誰かに、この懺悔と、感謝の気持ちを、けっして、本人には伝えられないだろうそれを、ただ聞いて欲しかった。
甘えているって、わかってる。
だけど、きっとこのひとなら、けっして否定も肯定もせずに、ただ気づいてくれて、受け止めて、そっとしておいてくれる、気がした。
――無言の翼で、包んでくれる気がした。
あの時の、エマお姉ちゃんの微笑みのような、降り積もる……のような……。
このひとの優しさは、まるで深い……のようだと思った。
……そうか。このひとの……正体は、わたしの――……。
鏡の森のエトワール~月光蝶と不死の魔王~ Reo. @reohosino22
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