1-2 思わぬ私の役どころ

 考えてみれば、この世界に来て初めて見る人間だ。この世界にはちゃんと、人間が存在している。そんな当たり前のことが、私を安心させてくれた。

 一人じゃないということが、こんなにも心の安定につながるなんて思ってもみなかった。

 けれどすぐに、そうじゃない、と考え直す。

もしかしたら、人間であることよりも彼の纏う雰囲気が今の私には必要だったのかもしれない。

 やさしく見守ってくれるような……温かい眼差し。色は深い海を連想させるのに、どうしてだか温かみを感じさせる。

 右も左もわからない、すがるものも何もない、そんな状況の中で登場した彼は、私にとっては神様みたいに感じられた。

 さらに言うと、彼は全身を見ても顔だけを見ても、恐ろしいくらい整っていた。完成された造形美に思わず見入ってしまう。


「……? どうかなさいましたか?」


 動かなくなった私を不審に思ったらしい彼に、グイッと私の顔をのぞきこまれた。視界いっぱいに彼の美しい顔。心臓が、壊れるんじゃないかと思うくらい、強く跳ねた。


 ――至近距離はダメッ!


 慌てて離れると、キョトンとした様子で私を見る彼。

 彼の持つ美しさに圧倒されて、自分のおかれた状況を忘れかけていた。視線を彼の顔から逸らし、冷静さを取り戻そうと小さく息を吐く。


「あ、の……」


 勇気を出して声を掛けるが、様々な緊張のせいでカラッカラッにかすれている。

 私は短い周期で脈打つ心臓を押さえて、唾を呑み下した。


「どうかいたしましたか?」

「……ヒメカというのは、私のこと、ですか?」

「えぇ。貴女がヒメカ様ですよ」


 にこやかにそう言った彼。視線が交わると、深い海の色をした瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚におちいった。


「あ、貴方は……?」

「僕、ですか? いつも一緒にいたじゃありませんか……意地悪な人ですね」


 彼は眉尻を下げて笑う。


「僕はヒメカ様のお世話係のシグルドでございます。毎朝、ヒメカ様の起床を担当しているので起床係と言ってもいいかもしれません」


 冗談交じりに挨拶をするシグルドと名乗る男。ポニーテールのように高い位置で一つに束ねられた髪が、腰のあたりで揺れている。

 シグルドが見かけよりもずっと親しみやすそうに思えて、ようやく心臓が落ち着いてきた。


「お父様がお呼びとのことですよ、ヒメカ様」

「お父様?」


 一瞬お父さんの顔が浮かんできて……しかしすぐに消えた。きっと本物の私のお父さんじゃない。『この世界のお父様』のはずだ。

 それくらいの予想が立てられるくらいには、私は冷静さを取り戻していた。


「えぇ、何でもヒメカ様の婚約の事で」

「こ、婚約ぅ?」


 聞きなれない……聞くとしてもあと何年か先だと思っていた単語を突然言われて、戸惑った。

 驚く私をにこやかにみつめたまま、大して気にもせず言葉を続けるシグルド。


「隣国の王子らしいですよ」

「王子? どうして私が……」


 『隣国の王子』という、どことなく聞き覚えのあるようなないような言葉に、嫌な予感が頭をかすめる。


「婚約によってより強い結びつきを作りたいのでしょうね」

「いえ、だからなんで私が?」

「もちろんそれは、ヒメカ様がこの国の姫君だからですよ」

「……ッ!」


 嫌な予感は的中した。

 どうして今まで疑問に思わなかったのだろう。人魚姫の世界に来てしまったのだから、自分がどんな役割を持つのかもっときちんと考えるべきだった。


「本当に?」


 それでも受け入れたくなくて、しつこく確認してしまう。


「はい。ヒメカ様の他にこの国に姫は居ませんよ」


 はぁ、とため息をひとつ。受け入れたくなくとも受け入れるしかないのだろう。思いもよらない自分の役どころ。

 人魚姫には『隣国のお姫様』が出て来た。

 隣国というのは、人魚姫が好きになる王子様にとっての隣国。逆に『隣国のお姫様』にしてみれば、その王子様が『隣国の王子様』になるわけだ。

 状況から考えて、どうやら私がそのお姫様のようだ。あろうことか、絵本を読んでいた時に二番目に憎んでいた隣国の姫の役割を担うことになるなんて。(補足だけど、一番憎らしいのはもちろん人魚姫をフッた王子様だ)

 でも、この状況はむしろ好都合とも言える。

 『隣国のお姫様』である私が婚約を断りさえすれば、人魚姫はめでたく王子様と結婚できるんだから。

 上手く立ち回れば、人魚姫を救うことができる。


「お父様はどこに居るの?」


 私はベッドから出ながら、シグルドに『この世界の』父親の居場所を問う。


「王の間にてヒメカ様をお待ちです」


 王の間? と一瞬戸惑ったが、私が姫なら父親が王であるのは当たり前だ。

 ここでは元々存在していた人物・ヒメカなのだからそんな事で一々驚いていたら怪しまれてしまう。

 私は極力、私の想像しうる限りの、お姫様らしい振る舞いを心がけた。


「案内してくれる?」

「はい、仰せのままに」


 よかった。「案内なさい」と高圧的にするべきなのか迷ったけど、これで良かったみたいだ。

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