花いちもんめ

六腑

花いちもんめ

 欲しい、と思ったのだ。


 部屋着代わりに僕のTシャツを着た彼女が、今日もぴったりと身を寄せて来た。

 長い黒髪がふわりと僕の首筋に触れた。象牙のような肌を掌や頬で撫でるたび、何と滑らかな肌だろうかとため息が出る。本当に同じ生き物なのか信じがたいほどだ。

 帰宅したばかりの僕は、その細い腰に左腕を回して抱擁に応えた。決して痩せすぎてはいないのに、その気になれば折れるのではないか思うほどに細く、同時に羽根布団のように柔らかい。『しなやか』と表現するのが的確なのだろう。柔らかな動作もすらりとした四肢も細い腰も、じっと見る目も、猫を連想させる。


 彼女から漂う香りを味わうように、ゆっくりと呼吸をした。シャンプーも石鹸も僕と同じものを使っているのに、彼女が纏っているただそれだけで、とろけそうな程の甘い香りに変わる。こんな癒しをくれる生き物が他にいるだろうか。

 嗚呼。何も考えられなくなってしまう。



――あの子が欲しい。『あの子』じゃ分からん。相談しましょ、そうしましょ――

 彼女を拾って以来、時折、この歌が頭を過ぎる。

 小学校の頃、女の子達が集まって遊んでいたわらべ唄。元々は、昔の貧しい時代に子どもが売られてゆく唄だそうだ。遊女として売られる少女の唄という説もある。

 勝って嬉しいはないちもんめ。買って嬉しい花一匁。

 いっそ、金を出して君を買って仕舞えるならいいのに。

 現実的でないことを、真剣に考えるようになりつつある。


 海辺に倒れていた彼女の素性は、あの日から三ヶ月が経った今でも謎のままだ。自身の名前や年齢はおろか、何故あの海辺にいたのかも分からないらしい。

 事故や事件に巻き込まれたのかもしれない、病気の発作で倒れたのかもしれない。解離性遁走という記憶障害の一種が存在するのも知っている。警察か救急に電話をかけるべきだった。

 が、当の本人が、僕にしがみついて離れようとしなかった。これをうかつにどこかにやったら、壊れてしまうのだろうなと思った。

 そこからはあまり深く考えず、アパートに連れて帰った。幸いその日は車で適当にドライブしていただけだったので、さっさと車に乗せて人目に触れず帰宅できた。


 明らかに未成年だったならもっと思慮深い行動をとったところだが、見た感じでは二十代。僕とそう変わらない歳だと判断出来た。少なくとも未成年略取にはならないだろうからまあ良いか、と。

 ただし、身体的に問題がないのかどうかは心配だった。目に見える異常がなくとも、頭を打っているかもしれない。持病やアレルギー持ちの可能性だって否定できない。

 「絶対にどこにもやらないから」と、繰り返し説得してやっと、病院で検査を受けさせることが出来た。

 病院では「引きこもり期間が長かった妹で、家族以外とは絶対に喋ろうとしないんです」ということにしておいた。検査の名目は「やっと外に出られるようになったので身体的に異常がないか精密検査をして欲しい」。保険証は「持ってくるのを忘れた」ということにしたので実費。

 差額は次回の来院でお返ししますとなり財布は非常に寒くなったが、彼女と安心して暮らすためなら些細な問題である。

 精神のケアについては他のところで進めている設定にしておいた。特に懐疑的な目で見られることも、深く突っ込まれることもなく、彼女の身体に異常はないと確定した。

 顔見知りだらけの地元ならば絶対に通らぬ嘘だったが、僕もこちらに越して来たばかり。都合が良かった。


 彼女が何も喋ろうとしない件については真実だ。僕の問いや提案に、頷くか、首を横に振るか、握った手の力加減が変わるか、あるいは強く抱き着いてくるか。意思疎通の手段はそんなところである。

 健康な若い男の一人暮らし。そこに若い女が毎朝毎晩抱き着いて来るとなれば――しかも顔も体型も僕の好みど真ん中を直撃しているという要らん奇跡――変な気が起きないと言うと嘘になるのだが。

 一線を越えてはいけないと、どこからかブレーキがかかっている。


 何だかこの子は酷く酷く不安定なようだ。僕に抱き着くのは決して誘っているのではない。これ以上壊れないよう、落ちないよう、必死なのだと分かる。

 とりあえずは、彼女がこれ以上壊れないよう、落ちないよう、抱きとめておけばよいのだなと理解している。素性も過去も何も知らない、知ったところで、人の心を救済する術など持っていない。


 間違いないのは、僕が彼女を好いているということだけだ。

 出来ることは、僕はここにいるよと、腕で声で全身で、伝えることだけだ。


 僕の恋愛経験は歳相応だと思う。嫉妬、束縛、独占欲の類を向けられたこともある。依存し合うことを好む人間が少なからずいるのは知っているが、少なくとも僕は、自立できない関係は苦手であると思っていた。

 なのに何故、彼女だけ例外なのか。思案してみたこともある。

 暫定的な答えとしては、一切の比喩なしに『僕がいなければ生きて行けない生き物』だと感じるから、だろうか。

 怪我をした猫を拾ったなら徹底的に責任を持つのは当たり前だ。飼うことにした猫のように、彼女はすっと僕と僕の生活の中に溶け込んだ。

 しかも彼女の容姿が好みど真ん中である僕からすれば、正に眼福。苦を感じる要素が存在しない。

 僕以外に決して心を許さない猫に、べったりと懐かれている毎日。

 悪くない。

 猫を拾ったと考えるなら、またふらりと何処かに行ってしまわないよう、しっかりと捕まえておかなければなぁ。



「寝る前に、少し本を読むよ」

 先にベッドに入りそうになっていた彼女だが、声をかけるとぴくりと振り向いて、すぐに僕の脚の間に挟まるように腰をおろした。

 先週から読み進めているのは、大正時代に没した作家の著作。大学の頃までは寝る間も惜しんで一日に何冊も本を読んでいたのに、就職した今ではそうもいかなくなってしまった。ちょっとした時間が貴重だ。

 偉大な作家と呼ばれる人達の作品を読んでいると、何とまあ、人格破綻者や社会不適合者の多いことか。あるいは生ききれずに自らこの世を去ってしまった者も。

 僕は程々に恵まれた人生だったからなのか、彼ら彼女らの作品に渦巻く暗澹たる心理に惹かれているところがある。自分では出せない思考、発想、言葉。表現。この人達の脳を分解して分析できるものならしてみたいと思う。


 空調の向きが変わったのか、ふと、彼女の髪の香りが鼻孔をくすぐった。

 瞬間、ぱっと閃いた。彼女のような存在を、ずっと知っていたのかもしれないと。

 文学を通じて、とても身近なものと感じていた。書かなければ生きられなかった人達を。修復不可能な欠落を抱え、『そうしなければ生きていられない』者が、いつの時代も一定数いるのだと知っていた。

 『そうしなければ』の対象が『書くこと』だけとは限らないだろう。彼女の対象が『僕』なのだ。こんなに純粋に求められて、愛おしくならない方がおかしい。

 嗚呼。何も考えられなくなってしまう。



「……だから君も、何も考えないで甘えてて」

 何が『だから』なのか分からないはずだが、彼女はゆっくりと体の向きを変え、僕の首にぎゅっと抱き着いた。

 全身で甘えてくる姿がやはり、猫のようだ。いつか喋ってくれるようになったとしたら、『吾輩は猫である、名前はまだない』とでも言わせてみようか。

「……名前はまだないんだよなぁ。実際」

 『君』と呼び続けるのも限界がある。適当な女性名でとりあえず呼ぶことは簡単だが、名前とはその人を表す記号である。彼女を表すなら、一体何がいいのだろう。


 古来、名前を他人に知られることは魂を支配されてしまうことだと考えられていたらしい。だから本当の名は別にあって、大切に仕舞われ、親以外が知ることは絶対にない。一生涯、本人にすら隠されたという。

「名前を付けたら、君の魂を支配するのは一生涯、僕ということになるのかな」

 彼女がぱっと顔をあげた。ゆったりと動くことの多い彼女にしては珍しい反応だった。相変わらずの無表情でも、僕と全く同じことを望んでいると分かった。

「そうか。ならもう、決めないとな」

 改めてぎゅうっと抱き着かれた。改めてぎゅうっと抱き締め返した。左腕を背中に、右腕を頭に回し、全身で抱え込むようにして。

 こんなにもちょうど良く、ぴったりと重なる身体で、僕のものじゃないなら一体何だと言うのか。


「……あの子が欲しい」

 童歌の通りに節をつけて呟く。彼女は首を傾げるようにして僕を見上げた。

「『あの子』じゃ分からん……。君が誰のものか曖昧なままだしさ」

――相談しましょ、そうしましょ――

「まあ、嫌がったって捕まえておくんだけど」

――決ぃまった――

 吐く息に混ぜるようにして、決めたばかりの名を告げた。


「もう、いっかい」

 小さな小さな、掠れた声がした。

 驚かなかった。彼女が初めて声を出したというのに。驚くべきことだと分かっているのに。

 ぽつりと僕の中に落ちてきたそれを受け止めるのは、ごく当たり前のことだったのだ。

「よん、で、もういっかい」

 つっかえながら言う彼女の両肩を、そっと掴んだ。

 顔を覗き込むと、涙をいっぱいに湛えた目で見つめ返された。小さな顔を包むようにして右手を頬に当てた。こぼれた涙で柔らかい肌が濡れ、いつも以上に掌に吸い付いて来た。

「それ、で、もう。ほかに何も、いらない、から……。わたしの、なまえ」


「花」


 再び名を呼んだ瞬間、花は声を上げて泣き崩れた。

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