最後のムーンライト

RAY

最後のムーンライト



 父が経営する会社が倒産したのは小学四年生のとき。

 両親の顔から笑顔が消え、取って代わるようにいさかいが目立つようになったことで、なにか良くないことが起きているのは容易に想像がついた。


 そんなある日、引越しすることを告げられる。

 突然のことではあったが、驚きはなかった。そうなることは予想していたから。


 引越先は、車で一時間ぐらいのところにある、郊外の町。

 木造2DKのアパートは、家族三人が暮らすにはお世辞にも広いとは言えず、快適という言葉とは程遠いもの。小高い丘の上に建つ、瀟洒しょうしゃな洋館とは似ても似つかぬものだった。

 見知らぬ土地へ行くことに戸惑いはあったが、それ以上に家庭の雰囲気がさらに悪いものへと変わっていくような気がして、不安で胸が押しつぶされそうだった。


 屋根裏部屋から見る景色が好きだった。


 高台から見下ろす街は、その時その時で違う表情を見せる。

 晴れた日には、陽の光が燦々さんさんと降り注ぐ、明るくさわやかな表情を。雨の日には、深い海の底にいるかのような、もの静かでしっとりとした表情を。


 好きな音楽を聴いてお気に入りのお菓子を食べながら景色を眺めていると、一時間や二時間があっと言う間に過ぎていく。

 一番のお気に入りは、満天の星を抱いた夜空に丸い月がぽっかりと浮かぶ情景シーン。月の光を浴びて明るく浮かび上がる街は、流れ落ちる月のしずくで白く染まっているように見えた。


 窓を押し開けると涼しい風が吹き込んでくる。その瞬間、自分が景色と一つになったような気がした。

 いつの間にか眠ってしまったこともある。囁くような声にゆっくり目を開けると、そこには母の優しい笑顔があった。


 私を眠りにいざなう、幻想的で心地良い情景シーン――それは、私の心の原風景であり、お金では買えない、大切な宝物。


★★


 引越しの当日、荷物の仕分けの関係でトラブルがあった。

 私たちが持っていくものと他人ひとの手に渡るものとが上手く区分されていなかったことで、積み出しに時間がかかった。

 予定では夕方までに引越し先に到着するはずだったが、日が暮れても荷物の積み出しは終わらなかった。


 時刻は午後七時――私のお気に入りの時間が訪れていた。

 居ても立ってもいられず、ガランとした家の中を屋根裏部屋へと一目散に駆け上がった。

 息せき切っていつもの場所へたどり着き、いつものように窓を開けると、いつもの風が吹き込んでくる。

 月のしずくが月下の街に流れ込む様子もいつもと同じだった。


 「もう会えない」と諦めていた、大切な人と出会えたような感慨が胸に溢れる。それは、傷心の私に神様が与えてくれた、束の間の時間。

 私はその景色を食い入るように見つめた。まぶたに焼き付けるようにしっかりと眺めた。


 玄関の方から、母が私を呼ぶ声が聞こえる。

 出発の時間が近づいているようだ。


 その瞬間、丸い月がいびつな形に変わる。まるで水面みなもに映っているかのようにゆらゆらと揺れて見えた――揺れていたのは、私の心だったのかもしれない。


 全く違う生活へ身を投じることへの不安。自分の宝物を失いたくないという、強い気持ち。しかし、思っても私の力ではどうにもならない現実。


 母がさっきよりも大きな声で私を呼んでいる。

 あふれるものを両手でぬぐうと、私は飛び切りの笑顔を浮かべた。


「絶対に忘れない。忘れなければ、きっとまた会えるから」


 小さな私が大きな不安を払いのけようと発した、精一杯の言葉。

 窓を閉めた瞬間、心のアルバムがパタンと音を立てて閉じたような気がした。


★★★


 あれから長い年月が過ぎた。

 私が発した言葉は、奇しくも、あの風景とともに心のアルバムに保管されていた。そして、大切なものを失いそうになると、いつも私の前に現れる。


 真っ暗な部屋で膝を抱えてうずくまる私。

 隣の部屋から聞こえるのは、激しく言い合いをする両親の声。


 に促されるようにゆっくり顔を上げると、そこには小学四年生の私が優しい笑みを浮かべて立っている。

 彼女は、まるで月の光を浴びるように全身を白く輝かせながら、私をさとすように言った。


「忘れないで。忘れなければ、必ず会えるから」



 RAY

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