終章

あなたが救われた日

 空が視界一杯に広がる。真上には、元は楔が塞いでいた、恐ろしく複雑な紋様で編み上げられた鍵穴だけが浮かんでいる。此処ら一帯の空の栓は、これで完全に抜かれたのだ。

「やったんだ……やれたんだ……」

 魂で繋がる神子の一族の切願。自らが空を閉じる役目を負いながら、赦しが齎されるその時を待ち続けた、カルマを欺く穢れし一族。偽られた世界の理を創り出した罪を一身に背負って、誰よりも、空が開かれることを待ち望み続けた。

 自分達などいなくても、この世界が歩き出せる日をがくることを祈っていた。

「なあ我が一族よ、どうだ……俺なんかでも…………できたんだぞ……!」

 不思議な感覚だ。ふわふわと浮いているような。

 だがしかし衣服は身体に重たく纏わり突き、とても空を飛んでいるとは思えない。冷たい。

 足を動かすと、波が立って体が揺れた。そうか、此処は水の上か。アリスは納得する。

 恐る恐る斬られた方の腕も動かしてみると、全く痛みを感じなかった。顔を捩って肩を見ると、薄らと白い線が残るだけで、肩の傷は塞がっている。水に包まれ、流されるうちに癒されたようだった。

「俺のことも、許してくれたのか?」

 濡れる掌を持ち上げ、肌を滑り降りる水滴にそう問うたが、返事など帰ってくるはずも無い。

「まあ、まだ解錠も沢山残ってるしな……簡単には死なせてはくれねえか」 

 そうアリスは自虐的に笑う。

 どうやらあのクレーターに楔となっていた水が全て流れ込んで、こんなに大きな水溜りができたらしい。楔は地中深くまで穿たれていたから、それが抜けたことで青命線デッドブルーへも水が流れ行くだろう。直に周りの町村は潤い、人はそこに新たな救いを見出すはずだ。

 早速、少し離れた空に雨雲がかかるのが見えていた。今のアリスは泣いていないから、あれもただの自然現象なのだとわかる。

 そういえば、レオは何処にいるのだろう。

 水を掻こうと左の腕を動かすと、存外に重い。すぐにレオは見つかった。自分の腕を掴んでいたのだ。

 ゆっくりとレオを引き寄せる。何て軽い。水の中では人の命もこんなに軽くてちっぽけなのか。

「レオ」

「レオ」

 あちこちにあったレオの傷も水に癒されて、完全に塞がっている。水に浸った髪は相変わらず紅く輝き続けていた。

 何度か呼びかけると、レオが眉根を寄せて軽く唸る。どうやら覚醒が近いようだ。

「レオ……ありがとう」

 言葉と同時にレオが目を開いた。紅玉の瞳がアリスを捉える。

「ア……リス……?」

 アリスは不思議な事に気付いた。

 紅い瞳はこんなに陽光を受け光っただろうか?薄い膜を張った瞳は、強い光から視界を守るためどんな時も薄く陰るはず。

「レオ……その目……」

 自分と同じ、覆うものの無い、

 アリスが言葉にする前に、その紅い瞳から大粒の涙が流れ落ちた。

「……起きたら、またアリスはっ……いなくなってるって思ってた。次はっ……もう、二度と……会えねえって……!」

 レオの目からぽろぽろと涙が零れる。雨など呼ばない、純粋な感情の発露。カルマが罰として奪われていた、最大の精神の自由。空の楔と共に、彼らに心を貫き制していた楔も解き放たれていた。

「よかった……アリスが生きてて……ほんとに……よかっ……た…………!!」

 アリスは目の奥が痛くなった、涙が流れる兆候だ。だけどそれをぐっと堪えた。

 だって、そうしなければこの言葉を言えないではないか。

 息を吸う。自分の目は潤んでいないだろうか。今にも泣きそうな顔をしていないだろうか。

 実際にはくしゃくしゃの顔をして、アリスはレオがいつもするのと同じ笑顔を無理矢理作って言ってやった。

「なんだ、レオも泣き虫じゃねえか」 



                               おわり



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きみをすくう物語 ―雨涙の神子と錆付きの王― 遠森 倖 @tomori_kou

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