きみをすくう日 03
ずっと聞こえていた。
謳う事に集中しようとすればするほど、雑音のようにアリスの鼓膜に入りこんでくる衝撃音。
チャンスは今しかない。
そう自分に言い聞かせて詠唱を続ける。長い詠唱はその時間ぶん自分を無防備にさせる。明らかにレオの方が数の利で劣勢に立たされていると理解できたが、自分では戦力にならない。だったら、早くこの儀式を終わらせるしかない。
もう少し、もう少しだけ。
汗が頬を伝う。陽光を浴びギラギラと光る楔を、アリスの作り出した光の雪があやすように包む。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声。アリスの心音が跳ねる。
「うぐっ…あぁ…」
何度も何度も、レオの声がアリスの背を揺らす。
まだ駄目だ。まだ完成していない。
アリスの心に同調して、発生する光の量が薄まっていく。だめだ、目を閉じて集中する。ここで失敗したら、すべて水の泡だ。
決めただろう、後はカルマの為に生きると。
解錠を行った。無理を押して街中で雨を降らせた。城を逃げ出し、こんな処まで来た。全ては民の為に。
段々と悲鳴が小さくなっていく。もう叫ぶ力も残っていないのか。見えない不安からアリスの目が潤んでいく。
「術が、完成しなかったらなんだっていうんだ」
詠唱が、止まった。立ち昇る光はそれ以上続かずに、天へと昇って消えていく。
「たった一度のチャンスってなんだ」
じゃあ、レオの命は二個あるとでもいうのか?
アリスは猛然と駆け出した。マリベルによって地面に組み伏されたレオ、剣を構えるキリの姿が目に入る。
間に合ってくれ。急な運動に準備のできていない肺が悲鳴を上げる。二人の間に立ち塞がるなんて格好いい事をする必要なんてない。無様でいい、笑われてもいい。レオの身体にあの刃が当たらなければいい。
ゆっくりと、刃が振り上げられる。一気に首を落とす気だ。アリスの血の気が引く。マリベルが圧し掛かっているせいでレオは身体を動かすことができない。
間に回り込む時間など無い。覚悟を決めたアリスは加速をつけたままジャンプし、マリベルの身体に体当たりした。レオの祖字の不気味な変化に警戒をしていた二人は、そんなアリスの単調な特攻にも対応しきれなかった。マリベルは頭から地面に激突し、絡まるようにアリスがその上に落ちる。一番下になったレオは、荷重が腕へとさらに加わり一際高い悲鳴を上げた。
そして、キリの刃がアリスの肩に沈んでいった。
レオの頬を雨が打つ。
「うっ……俺、生きてるのか……?」
気絶したマリベルを押し退けてレオが起き上がると、肩口を押さえたアリスがぼろぼろと涙を流しながら、それでも顔には不敵な笑みを無理に浮かべて座っていた。強い雨がアリスの血に混ざり、白い法衣を薄紅に染めている。
「これでやっと、昔の貸し借りは無しだ……」
荒い息を吐きながらもアリスは満足そうに笑う。
「何言ってんだこの馬鹿!ってか俺が助けた回数の方が何倍も多いだろ!」
レオの切り返しにもアリスは曖昧な反応しかしない。深い傷だ。斬られた痛みとショックで、怪我に慣れていないアリスの心の箍は完全に外れてしまっている。瞳が虚ろに震えた。
「神子殿を……この手で傷つけてしまった……!」
薄いアリスの掌では到底押さえ切れずに溢れ出る血潮を、キリは呆然と見つめている。レオは怒りに燃える目でキリを睨みつけた。雨粒は、とうに彼の髪と目を真紅に染め上げている。
「てめえが、自分の欲のためにでしゃばったからだろうが!」
凄まじい量の祖字がレオの周囲に発生する。紅蓮の文字は触れる雨粒を蒸発させる程の熱を孕んだまま上空まで一瞬にして昇り、一呼吸置いて散弾のようにキリに降り注いだ。声を出す間さえ与えずに彼は地面に叩きつけられ、骨を砕き筋を裂く。それでも尚、祖字は彼を打ち据えた。濃紺の制服はずたずたに切り裂かれ、傷口から滲み出した出血ですぐに真っ黒に染まった。祖字が止みピクリとも動かなくなったキリを、レオの酷薄な瞳が見下ろす。
「何回も言ったよなあ?俺達に手を出すなって。邪魔をするなって」
まだ息があるのを見て、レオの周りに鋭く伸びた紅い小刀が無数に発生した。鍔も持ち手も無い赤一色の刃は、既に血を浴びたように濡れ光っている。
「もう一発いっとくか?ああ?」
刃が細かく振動する。戦慄き今にも飛び掛っていかんばかりに。
「や……めて……」
その時レオの足を細い腕が掴んだ。目が覚めたマリベルが這って縋りついてきたのだ。束ねていた髪は解け、
「もうこれ以上は、キリ様が死んでしまう!」
「奇遇だな。俺の大事な奴もさ、今死にそうなんだよ」
クルクルと紅い刃が回転する。マリベルを狙っているようでも、キリに標準を当てているようにも見える。
「お願いします……代わりに私を殺して。その刃全てで私を切り裂いて……だから、キリ坊ちゃんだけは……!」
何度も呟かれる声に次第にレオの瞳に幾許かの冷静さが戻った。躊躇いが紅い刃に伝播したのか、戸惑うように宙で刃同士がぶつかり合った。
「許してやれよ」
小さな後押し。相変わらず泣いたままのアリスが、真っ直ぐにレオを見据えて微かに笑う。
「人を、殺すのはしんどいぞ?何万人も殺した俺が言うんだから、本当だ」
その一言でレオは完全に鎮まった。マリベルの腕を乱暴に外すと、アリスの元に寄り、彼の血がべったりとついた法衣を僅かに千切り取ってマリベルへと落とす。血を吸って重たくなったそれは、少し風に遊ばれてから、彼女の目の前に音も立てずに落ちた。
「神子の血は水を以ってして輝く」
レオは冷たい目でマリベルを睨み付ける。
「それを持って王城に帰れ。俺が神子を傷つけ、その命を盾にして逃げたといえばお前たちの矜持も保たれるだろ」
「くっ……そんな嘘を王の御前で……!」
「じゃあお前達はアリスを連れて帰るってのか?それこそ本末転倒だろ。言っちゃうぞ神子様は、お前の大切な坊ちゃんが自分を切り裂いたってな」
アリスが同意するように僅かに頷く。キリが神子を傷つけたという大罪を盾に、彼らを追い返すのが一番だ。ここで駄々をこねられたらもう、彼等を殺す他ない。
よろよろとマリベルは立ち上がった。気を失ったキリを何とか背負い上げると、返事さえもせずにレオ達に背を向けた。だがその手に握られた血塗れの布切れが、彼女の選択を雄弁に語る。
「なんだったら庭園内にある
だって、俺たちにはもう必要ないだろうから。その言葉を飲み込んで、レオは満身創痍の二人の後姿を見送った。
そして、失う予感と、それによる悲しみや恐怖を、顔に出さないようゆっくりと一呼吸おいてから、レオはアリスへと向き直った。
綺麗な赤だ。アリスは本当にそう思う。自分に白と黒しか与えてくれなかった神様に文句を言いたいくらいに。
「ありがとうなアリス。助けてくれて」
アリスを抱え上げたレオは、ゆっくりと楔の根元へとアリスを連れて行く。
「……レオ。俺はな、カルマが許される為だけにこんなことしてるわけじゃなかったんだよ」
揺れる白金の虹彩にレオが映る。見上げたレオの表情は、昔荒野で最後に見た、不安そうなそれだ。連れて行かれた時は気付かなかった、置いて行かれる人間の辛さを今になってアリスは気付いた。
「カルマの中の、レオが救われるのを望んでたんだ。お前の罪も、ここで雪がれる」
そっと楔の元に降ろされ、その背を支えてもらいながらアリスは再び神への贖罪を謳い出した。思ったよりも血を流しすぎたようで、朦朧とする視界が鬱陶しくてしょうがない。肩を裂かれたせいで手を組むこともままならず、目を閉じて一心に集中して祈りを捧げる。
黒い楔。この辺り一帯の雨を封じ続ける封印。本来循環し続ける水を堰き止める異物。しかしそんなものを施されるほど、古代のカルマは水を穢したのだろう、貶めたのだろう。
二千年間、カルマはこうして贖罪を続けてきた。水を何よりも尊ぶようになった。神子も民も、そして王さえもずっとずっと苦しんできたのだ。せめてこの一箇所だけでも、俺の命があるうちに解放したい。そうすれば希望が生まれる。次の神子は、きっともっと上手にやれるはずだ。
言葉を紡ぐにつれて光球は強さを増し、楔を包んでその表面を撫でる。光が触れると、楔の黒が吸いとられて光に移った。無数の光が楔の黒を雪ぎ、薄めていく。まるで闇が浄化されていくようだ。神子が執り行う美しい禊。彼の誠実な訴えがカルマの罪を洗い流し、楔を本来あるべき姿へと変えていく。
「楔が……!」
呆然とその光景を見守るレオ。今や楔は水晶の透明度をもってそこに聳え立っている。変化は色だけに収まらず、陽光の下で、楔の中の光の屈折が刻一刻と変化しはじめた。
まるで、水面の煌きのように。
レオはおそるおそる楔の表面を指でなぜる。触れた部分から光の波紋がゆらりと広がった。
「アリス、まさかこれは…」
アリスは手探りで楔を探し、額を押し付け縋った。姿勢を保つ力も無く、ぐったりと楔に寄りかかるようにアリスは乞う。彼の血が、僅かに楔の中に混じり、ほどけて消えていった。
「もう……許されるだろう?カルマを開放してくれ……」
嗚咽が零れる。心から泣くのは何時振りだろう。いつも些細な事で涙が先に飛び出して、何で泣いているのかもわからない。
「俺達に、雨を還してくれ……!」
叫ぶような、嘆願するような。
アリスの悲痛な声に、楔が応えるように更に大きく輝き揺れる。ぐにゃりと楔が歪み、ついにその形を保てず一気に水柱となって溶け落ちた。楔を構成していた膨大な量の水が、その拘束を解かれ垂直に流れた。凄まじい水量が、楔の刺さっていた根元――アリスとレオへと降り注ぐ。
「えっ。まじで?」
一瞬でレオとアリスは水の流れに飲み込まれる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
叫ぶ口にも水が入り込んでくる。水に浸かった事すら無い二人だ。泳ぎ方もわからずレオは必死に水を掻く。上下左右が把握できない中、レオは視界の端に映るアリスの手を掴んだ。
だがはっきりと自分の意識があったのはそこまでで、後の事は水の勢いに流されふっつりと途切れた。
遠く離れた砂丘の上。
大きな大きな水溜り。それを湖やオアシスと形容するには、聊かカルマの語彙ではまだ早い。キリの血の滲む唇が薄っすらと微笑んだ。なぜかは分からない。だがカルマの本能は、先ほどから喜びを叫び続けている。
水よあれ。
カルマに水よあれ。
そして水の神子に、幸いあれ。
カルマに、幸いあれ、と。
何かが、少しだけ正常に動き出したのだと感じられる。
「マリベル。あまり乾いた王都ばかり見ていないで後ろを見ろ」
自分の守るべきもの、守りたいと思うと同時に自分をずっと苛んでいたものが、急にちっぽけに思える。そして、あの半分壊れかけた神子と過ごした、騒々しく散々だった数年間が、本当に人に誇れるものだったのだと確信する。
だからこそ、あの王族紛いの少年にあんなに対抗心を抱いていたのだ。何故神子は、その出奔に自分を選んでくれなかったのかと。
もう一度キリは水面を眺めた。
「水は、美しいものだったのだな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます