吊院探偵事務所のある日の光景

@waritomu

閑話

 吊院さんの事務所には物が多い。

 雑多で国際的でまとまりのない部屋の様相は、彼女の有り様を示しているようで大変興味深いと思っているが、 "完全自殺マニュアル"を聖書の隣に配置するこだわりのなさも、小さな仏像をペーパウェイト代わりに使う不道徳さも、 彼女の性格からは遠い気がした。

 コーヒーでも飲もうかと思って、ソファに座りぐるりと部屋を見渡してコーヒーメーカを探してみるが、すぐにその気が失せる。 本に埋もれたダンボール箱の中かもしれないし、僕の背の半分ほどの高さの陶器の壺に打ち捨てられているかもしれない。 アルバイトといえど、そんな宝探しはしたくない。

『仕事は待っていたらやってくる。それまでは留守番。お客が来たら、わたしに連絡。あと気が向いたら掃除をお願い』

アルバイトを始める際に吊院さんから言われたことだが、2ヶ月たってまだ一人としてお客らしき人が訪れたことはない。 それでどうやって採算をとっているのか疑問だが、探偵業なんてその日暮らしというものなのだろうか。

「難しいことを考えているとすぐに老けるよ、能村くん」

本日のアルバイト仲間である石郷岡さんは、マグカップを2つ持って向かい合うようにソファに座った。 仕事がないくせに、アルバイト仲間がたくさんいることがこの事務所のいいところだ。 その中でも石郷岡さんは欲しい物を欲しいときに持ってきてくれる、グッドタイミングガールだったりする。 ちょうどいまコーヒーを持ってきてくれたみたいに。

「難しいことなんて考えてないですよ。ただこの部屋のエントロピーが高いなって思って」

「部屋が散らかってるってだけでしょ。意味なく難しい言葉使って」

大学で覚えたての言葉を使ってみたが、間違ってはいないようだ。

 石郷岡さんは、成績の際立った優秀さで学内の一部ではほんの少しだけ有名人だったりする。

曰く、4年の石郷岡ノートがすべて手に入れば、卒業が約束されたようなもの。 しかしサークル、部活、ゼミとどのような組織にも属さない石郷岡さんのノートのコピーを手に入れるのは至難であり、 たまたま手に入れることができた者は、ノートがあるという理由で履修科目を変更したりする。

 その伝説のアイテムの製作者がこの看板すらろくに掲げていない、日陰の探偵事務所にアルバイトしていると知った時は大変に驚いた。

『ただ聞いたことをノートに写しただけだよ。暇だったから、予想問題とか出典とか参考とか載せたりしたけど。普通でしょ』

と、件のノートに関しては事も無げにおっしゃっていたが、後半は普通では無いと思う。

「能村くん、コーヒーどうぞ。一人で留守番は退屈でしょ」

「いただきます。誰一人来ませんからね。今日に至っては吊院さんすら来てない。一体僕らのバイト代はどこから発生しているのやら」

 愚痴をこぼしながらマグカップを口に運ぶと、ぬるい苦さが広がる。 砂糖もミルクもないコーヒーはなかなか我慢が必要だが、淹れてもらって文句をつけるほど礼儀知らずではない。

「探偵事務所に人が来ないなんて素晴らしいじゃない。お給料は多分吊院さんのポケットマネーで払ってくれるだろうし」

「お金がもらえるなら文句はないですけどね。ただ、この散らかりっぷりはどうにもいただけない。整然としていないと落ち着かない性質というやつで」

その言葉を聞くと、石郷岡さんは部屋を一周り見渡す。そしてコーヒーを一口啜ると、僕の顔を見ながら提案をした。

「クイズをしません?」


 石郷岡さんと話したことは今日を含めて3回目だ。 1度目はアルバイト初日に、2度目は大学の日営利に、最寄りの駅でたまたま会った。 その時どんな会話をしたのかうろ覚えだが、世に聞く石郷岡ノートの存在と、現在の石郷岡さんの話を聞いた気がする。 理知的な佇まいに加え、穏やかな空気感を持つ石郷岡さんはやっぱり人気者の匂いというか、一種の近付き難さを感じていた。

 つまり、唐突にクイズをやるほど仲が深まっては居ないということなんですよね。

 しかしながら、これが石郷岡さん独特の仲の深め方なのかもしれない。 クイズ。いいじゃないか。わたしの好きな食べ物はなんでしょう。きっと盛り上がる。仲良くなること請け合いだろう。

「やりましょう。きっとクイズを通じて僕らはもっと仲良くなれます」

「仲良く?え??」

石郷岡さんは分かりやすく狼狽していた。なるほどクイズはクイズでも石郷岡さんのプライベートを当てるクイズでは無いらしい。

「もしかして、僕のプライベートを当てるクイズですか?それは盛り上がらないかと」

男子大学生のプライベートなんて一文の価値すらないだろう。

「そういう飲み会遊びじゃなくて。普通のクイズよ。解けなかったら、この部屋の掃除をする。どうかな?」

僕は大きな勘違いをしていたらしい。赤面ものの失態だ。しかし、このクイズを提案してなんの意味があるのだろう。

「そんなクイズにしなくても、掃除しろと言っていただければやりますとも」

「命令するのは好きじゃない。たとえ、大学の後輩かつバイト先の後輩でもね。でもこの部屋の汚さは私も無理。 だからクイズしよ。負けたら言うこと聞いてもらうってことで。もちろん私も掃除するよ」

命令をしたくないというのは、なんとも石郷岡さんらしい言葉だ。目上の人にここまで言われて、ノーとは言うのはあまりに可愛げのない後輩だろう。

「いやです」

しかし僕は可愛げのない後輩だった。特に年上に愛されるタイプじゃない。

「なんで!?結構譲歩したのに!」

石郷岡さんはニュートラルでも大きな目が見開いて更に丸くなる。これが豆鉄砲を食らった顔か。悪くないですね。

「いえなんとなく断っただけです。絶対に断らないだろうなって顔をしていたので」

「能村くん、性格悪い」

「悪いついでにもうひとつ提案が。クイズが解けたら噂のノートを貸してください」

噂のノートという言葉に石郷岡さんはピクリと反応した。

「あんなノート欲しがるなんて案外俗っぽいね。勉強は自分でしないと意味ないよ」

「ごもっともです。でも他学年にまで轟く噂のノート、見てみたいというのは普通でしょう」

そうねえ、と石郷岡さんは疑い顔を向けていたが、僕の条件で折れることになった。

「見せてもわたし、損しないしね。さ、クイズを始めましょう」


 その男は自家用車で帰路に着いていた。 夜も遅く、会社に残っていたのも最後の方だった。そのため道には車がまばらで、思わず速度を出し過ぎていた。

 悲劇は十字路で起こる。働き者が左へ曲がろうとブレーキを足に掛けた時、違和感が彼を襲った。 いつもなら緩やかに減速するはずの愛車が、そうならない。いくらブレーキを踏もうと一定の速度で走り続ける。 そして信号が無情に赤となる。このまま十字路に入れば、大事故につながるだろう。 焦りと混乱の中でも、彼は最悪の事態を避けるため、左へハンドルを切り車体を電柱にぶつけた。 衝撃に車内は大きく揺れ彼も気を失ったが、車は停止した。

 結局彼は大怪我は負ったものの、誰も傷つけることとはなかった。 だが一体なぜ、ブレーキが聞かなかったのだろうか?


「難しくありません?」

 一呼吸で問題を読み上げると石郷岡さんは喉を潤すようにコーヒーを飲み干した。

「ノートがかかってますから。簡単では面白くないでしょう」

ということは、僕がノートをベッドさせたせいで問題が難しくなったのか。いらぬことを言ってしまった。 まさしく好奇心が猫を殺した結果だろう。

「単純に車の故障ということではないのですよね」

「おや、もう答えを出していいのですか。さすが賢いですねえ」

嫌味たっぷりといった表情で石郷岡さんは僕を見つめる。勝ち誇った物言いからは、もっと明らかな答えがあるということが分かる。 というかさっきからなんで敬語なんだろう。

「質問をしても?」

「答えられる範囲なら」

「じゃあまず、ブレーキは確実に踏まれていた?」

初めに抱いた疑問だ。この事件の男は年齢が示唆されていない。つまりブレーキとアクセルを踏み間違えるほどの高齢であることも考えられる。 夜遅くまで働き、混乱していたらありえないことではないだろう。

「目の付け所がいいね。でもブレーキは確実に踏まれていた」

ふむ。大体の方向性はわかってきた。だがともあれ、情報が足りない。

「怪我のはどのくらいです?」

「首にむち打ち。入院が必要だけれど、速度を考えたら軽傷だと言えるね」

速度。そう言えば閑散とした道を結構なスピードで走っていたと言っていたな。

「スピードはどのくらい出ていました?」

「それって関係あるの?あんまり意味があるように思えないけど」

いえいえそんなこと無いのですよ。なんでかというと、車ってのは電柱にぶつかってムチ打ちで済むスピードなんてたかが知れてる。 でも、『速度を出し過ぎていた』でしょ?

「なんて言ってたかな…。20Km/hくらいオーバーしてたとか」

「え?これ、実際に会った事件なんです?」

思わず口を突いて出た。もったいぶった割に地味なクイズだと思ったが、実際の事件だったか。

「ちなみに加えると、私が一番初めにここでやらされた仕事だったり」

吊院探偵事務所はちゃんと仕事をしていたのか。そして吊院さんはアルバイトに仕事を任せていたのか。無精め。

「依頼は運転手からだった。『なんで俺が事故を?』警察は結論を出していたけど、彼は納得してなかったみたい」

「このクイズは警察の結論ってのを当てればいいんですか?」

解決ってほどのことしてないしねー、と笑っているが結論を出すよりずっと難しいぞ。警察が出した結論を受け入れないやつを納得させるのって。

「ちなみにどうやって納得させたんです?」

「答えにならないくらいでいうと、この事務所に来てすぐに納得された」

ということは、ヒントはこの部屋にあるのだろう。石郷岡さんが口八丁で納得させたのなら、喋ったことに言及するしな。  改めて事務所を見渡す。入り口の扉が一つに、商談用のソファ、テーブル。あとは所狭しと物が積まれている。 窓際の顔の大きな仏像は頭に埃をためているし、その足元にはテニスボールのケースが転がっていたりする。 この散らかりまくった部屋にヒントなどあるのだろうか。いや、探さなくてはいけないのか?

…散らかっている?

「なんか思いついたって顔してるよ」

 待って待って石郷岡さん。『警察が出した結論に納得してない』? 納得しないってのは受け入れがたいってことだ。そんなことするわけない。そういう感情。 で、この部屋に来て納得した。それもすぐに。つまり。

「彼の車の中も、この部屋並みに散らかっていた。 そして、散らかったなんかが原因でブレーキが効かなくなっていた」

 石郷岡さんは模範解答以上の回答を答えた生徒を褒めるように、すごーいと声を上げた。 でもまだ足りない。車が散らかっていたらブレーキって効かなくなるものなの?

「ところで能村くんは免許持っている?」

「持ってますとも。運転したことは数える程ですが」

「じゃあここから先は難しいかな。答え合わせと行きましょう」


 石郷岡さんは自分のかばんから小さめのホワイトボードを取り出すと器用に車の、それも車内の図を書き始めた。 ホワイトボードを持ち歩いているのかこの人は。

「この2つ、どっちがブレーキでアクセルか分かる?」

ホワイトボードには2つのペダルが書かれており、中央と左に一つずつ配置されている。左が少し小さい。

「ふたつもペダル付いてましたっけ」

「能村くんはもう車は乗らない方がいいかな。でね、能村くんが言った通り車内はゴミやらなんやらで結構散らかっていた」

ここほどじゃないけどねー、と笑いながら石郷岡さんはブレーキペダルの裏にペットボトルの絵を描いた。 なるほど、これが真相か。

「絵を見れば一目瞭然かな。適当に放置したペットボトルがブレーキペダルの裏に入り込んだ。そしてブレーキペダルが奥まで行かないよう邪魔しちゃってたのよね」

それで、ブレーキを踏んでも止まらないという状態になったのか。というか、『ブレーキが踏まれていた?』という質問は結構核心だったのか。

「ともあれ、正解できてよかったです。ノート、お願いしますね」

「しょうがないなあ。本当は正解させる気はなかったんだけど。でもここのおかたづけは手伝ってくれない?」

正解といっても、肝心なところは僕では届かなかっただろう。体力仕事は嫌いだが、石郷岡さんとなら楽しく出来る気がする。 ノートも借りれるし万々歳だ。

 さて初めましょうか、そういってソファから立ち上がるとからりと軽い音がなって入り口の扉が開いた。 入ってきたのは背の高い女性で黒いスーツを着込んでいる。しんどいしんどいとネガティブな言葉を吐くのは吊院探偵事務所の主、吊院さんだった。 彼女はゆっくりと室内に入ろうとして、床に転がったテニスボールケースを踏みつける。見事な程に足を滑らせ後ろに倒れこむと、どんっと大きな音が響いた。

 なるほど、これならすぐに納得する。

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