第4話

 ある時から私はずっと一つの夢物語を見続けている。

 一人の女が故郷を捨て都会に旅立ち、その美しさを糧にして名声を手にする。でも色々あって結局は挫折する。傷付いた女の脳裏に浮かぶのは故郷に残してきた幼なじみのことだ。女は不安と後悔を抱きながら故郷に戻ってくる。女は幼なじみのもとを訪れる。彼は腕を広げて女を抱きしめる。

 陳腐な恋物語だ。でもそれが現実になるように、私は願い続けている。

 

 彬から突然メールが入ったのは高校に入学してすぐのことだった。何で今さらと思ったが、2年前の衝撃もいつの間にか薄れていて、懐かしさもあり、つい会う約束をしてしまった。会ってみれば彬は相変わらず人懐っこく、ずるずると次に会う約束を重ねてしまう。こうして数ヶ月ごとの逢瀬が続いた。この頃は何となくこのまま付き合ったりするのかな、と思ったりしていた。

 高校2年の夏休みのことだ。彬がいつものように遊びに来ていて、私たちは義父の経営するカフェにいた。大須おおす商店街の一角にある店は古い造りを上手く改装し、地元誌にもよく取り上げられていた。新しい父親は30そこそこで、母よりもかなり年下である。そのせいか偉ぶった所がなく、年長の友人のような存在だった。彬も何回かこの店に来ていて、私たちの定番コースに組み込まれていた。

 買い物のあとアイスティーを飲みながら夕食の相談していた時、カランとドアベルが鳴り、店の扉が開いた。

 そこに姉の姿があった。

 名古屋にいるときは母と喧嘩ばかりしていた姉だが、上京し、別れて暮らすようになってからは関係が随分修復されていた。それには義父の仲立ちが大きかった。姉もこの年若い父親を気に入っており、たまに帰って来るときは必ず店に立ち寄るようになっていた。

 姉の立った場所にだけ光が当たっているように浮き立って見えた。

 もともと綺麗な人だったが、モデル稼業でさらに磨きが掛けられ、明らかに一般人とは違う輝きを放つようになっていた。体付きに無駄な贅肉がなく、すらりと伸びた足がショートパンツから惜しげも無く晒されている。

 姉は店内を一瞥すると、すぐに私たちのことを見つけた。

「やだ、彬、彬じゃない!」

姉は店内の客全員が振り向くような大きな声を挙げた。猫科の肉食獣を思わせるしなやかな歩みでこちらに近づいて来る。この場にいる全員の視線が一点に集中している。姉は当たり前のように、私の隣に座った。

「ほんと久し振り。まだ美優と連絡取ってたんだ。あんた達、仲良かったもんね」

姉の満面の笑みを前にして、彬は赤面して何も言えなくなっている。その目には浮かされたような熱がこもっていた。

 彬はまだ姉に恋をしているのか。

 軽い衝撃と、みじめさが私の中に広がった。

 文字通り高嶺の花になってしまった姉が彬の気持ちを顧みることはないだろう。分かっているのに、届かない想いに否応なく引き摺り混まれる、馬鹿で、不器用な彬。そしてそれを間近で見続ける私。

 これはいったい何の呪いなんだろう。このままでは私達は何度も同じ場所を周り続ける。姉は彬の視線には全く気付く気配は無く、機嫌良く話を続けている。彬の戸惑ったような顔を見ているうちに、私の胸はやり切れなさで一杯になってしまった。

 この出来事をきっかけにして、私はセンチメンタルな夢を思い描くようになった。そう思わなければ、彬があまりにも切なく、報われない。私自身も、彬との関係に淡い期待を抱かずにすむ。お伽噺のような美しい空想は、彬との関係を成り立たせるために、私には必要なものだった。


「まだバス来ないね」

私たちは高山行きの高速バスの発着場に来ていた。名駅の地下街で簡単な夕食を済ませ、午後7時発のバスに乗る。これがいつものタイムスケジュールだった。

 彬は食事中もほとんど口を聞かず、今も俯いてベンチに座っている。

「ねえ、何か飲み物とか買ったほうがいいんじゃない」

返事がない。さすがに気になって顔を覗き込もうとすると、彬が手首を掴んできた。

「なんで、そんなに普通なの」

「普通って‥」

「俺、告ったんだけど。で、振られたんだけど」

「ああ、まあ、ね」

「なのに何でフツーに一緒にメシ食って、フツーに見送りに来てるの」

「いやだった?なら帰るけど」

手を引きかけたが、彬がさらに強く握り直してくる。

「美紀ちゃんのこと、まだ気にしてるのか?」

何も言えなかった。気にしているどころではない。私の中では彬との関係の中心に姉の存在がある。私が無言でいると、彬が続けた。

「何年前のことだよ。そろそろ許してくれよ」

「許すって、別にそういうことじゃないし」

「じゃあ何なんだよ、美優がこだわってる限り、どうにもならないじゃないか」

「どうにもならないもん」

「お前、馬鹿にしてるのか」

彬が声を荒げてこちらを睨んだ。私はびっくりした。彬はいつも優しくて、穏やかで、怒った姿を見るのは初めてだった。彬はもう一度、強く手を握り直してきた。

「最近、もう本当にきついんだ。離れるときも、すっげえつらいのに、美優は全然平気そうで‥俺、どうすればいい?どうすれば、ちゃんと俺とのこと考えてくれる?」

何も答えられなかった。どうすれば?私の中ではとっくの昔に決着していた事だ。今、こんなことを言っていても、姉を目の前にすれば彬はきっとそちらに向いてしまう。彬はずるい。今まで何回も私の淡い期待を裏切り続けてきたのは彬の方なのに、まるで私が傷つけているみたいな言い方をして。

 バスが旋回し、乗り場の前に停車した。

「バス来たよ」

私はほっとした。これ以上話を突き詰めたくなかった。私もずるいのだ。はっきりとした結論を出して、彬との心地よい関係を終わらせたくないと考えている。

 彬はまだ私の手を離さない。待合室から人が出てきて、車内に乗り込み始めた。私はもう一度声を掛けた。

「彬」

彬は立ち上がり、急に私を抱き寄せた。突然のことに私は身じろぎすることもできなかった。

 服を通りこし、彬の体温と汗が、皮膚ににじんで染みていく。肩と腰に回された腕が体幹を締め上げ、私の体は一層彬に密着していった。固い髪が頬に当たってくすぐったい。青臭い、草むらのような彬の匂いがする。

 いい匂い

 そう感じてしまった。匂いに酔ったみたいに頭がぼんやりし始める。もっとこの匂いに包まれていたい。

「また来るから」

彬が耳元で低い声で囁き、唇が軽く耳に触れる。私は身をすくめた。彬の腕の中で体がしなり、自然に寄り添ってしまう。

 彬の腕が解かれ、私の体は彬から離れた。密着していた肌に風が触れる。初夏の熱が籠もったコンクリートの建物はうだるように暑いのに、高熱が上がるときのように私の体は細かく震えていた。私は彬の目を見ることができず、俯いたまま小さくうなずいた。


 翌日、学校からの帰り道、私は彬と行ったホームセンターに立ち寄った。笹には多くの短冊が結ばれ、重そうに枝をしならせている。私は所狭しと結ばれた短冊の中から細く畳み結ばれたものを探し出し、その結び目を解いた。

 美優が来てくれますように

 見慣れた子供っぽい字で書かれた子供っぽい文章。作文が苦手な彬らしかった。

 彬にとってはいつの間にか私が織姫になっていたらしい。

今くらいは甘い予感によってもいいだろう。私は短冊を笹に結び直しながら、いつ彬の願いを叶えてあげようか、考えていた。



 

 




 

 





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七夕ラプソディ 高尾 結 @524234

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