第5話 向き合うこと~Zero Point~

 6月のある日曜日、私は自分の部屋で、みんなから届いたメールを読み返していた。といっても、新しいメールではない。毎月最初の放送日に、先月もらったメールを受け取れる。私はそのメールを時々読み返して、フフッと楽しむのが趣味だった。

 そんななか、ある1通のメールに目が留まった。

(……もう、あれから1カ月かあ…)

 私はふと、あの日の事を思い返した。


 本番1時間前。私と南条さんは、リスナーからのメールに目を通していた。ただ、いつもよりその空気は重い。メールも、明るい内容のものは少ない。

 今日のテーマは、「お悩み相談室!―今、辛くて苦しいみんなへ―」。リスナーからは多くのメールが来ていた。

「…南条さん。」

「ん?どうしたの姫ちゃん?」

「なんか、多くないですか?」

「…多いって?」

「……いじめの相談メール。」

「…確かに多いね。去年のこの時期と比べて圧倒的に多い。何かあったっけ?」

「いや、特に何もないと思いますけど…」

「ゴールデンウィーク明けで、みんなの中で何かが変わったのかもしれないね。長い休みの後って、どこかクラスの雰囲気とか、友人関係が変わる傾向があるからね。僕も結構痛烈に感じてるなあ…」

「あ、やっぱりそうですか?」

「うん。先月まで授業で真面目に歌ってた子が、急に歌わなくなったりして、ちょっと今までとは違うものを感じてるよ。

 ところで、姫ちゃんはなんか目についたメールあった?」

「……いえ。やっぱり…」

「これに勝るものなし、か。」

 南条さんはそうつぶやくと、1枚のメールを手に取った。

「成ちゃん、この子のメールもうちょっと集めて。それと、」



 今日は4時間、本気で戦うよ。



「5月11日、月曜日!今日も始まりました、10代応援ラジオグリーンウェーブ!パーソナリティーの南条里志と、」

「姫宮明日香です。」

「さて、今日のメッセージテーマは、『お悩み相談室!―今、辛くて苦しいみんなへ―』ですが、今日はまずどうしても、この子と直接話したいと思いました。ということで今から生電話したいと思いますが、その前に姫ちゃんにメールを読んでもらいましょう。姫ちゃん。」

「はい。成海市、16歳の女の子、ノートちゃんからのメッセージです。『今日もいじめられた。階段から突き落とされた。髪の毛切られた。課題を破られた。先生に言っても何もしてくれない。それどころか、全部私が悪いことにされる。もうやだ。死にたい。』……もしもし。」

「……もしもし。」

「10代応援ラジオグリーンウェーブ、パーソナリティーの姫宮明日香と、」

「南条里志です。ノートちゃん?」

「……はい。」

「何か、不思議なラジオネームだね。僕こういうの好きだなあ。なんか由来とかあるの?」

「いえ、特に。思い付きです。」

「そっか。思い付きかあ……」

 南条さんの語尾は、どこか歯切れが悪かった。何かが引っ掛かってるような、そんな感じだった。

 南条さんは話を変える。

「ノートちゃん、単刀直入に聞くけど、今、いじめられてるんだ。」

「はい。」

「今さ、誰からやられてる?」

「……クラスのみんなからです。」

「みんなってことは、女子だけとかじゃなくて、男子もかな?」

「……はい。」

「そっか……」

 私も質問に加わる。

「いろいろされているみたいだけど、さっき読んだほかに、どんなことされてるの?言える範囲でいいから、教えてほしいな。」

「……ほんとに、殴られたり蹴られたり……あと、消しカス食べさせられたりなんてことも」

「ちょ、ちょっと待って!消しカス?」

「…はい。」

 私は驚いた。食べ物じゃないものを食べさせられるなんて。なんてむごいことを。

 南条さんは冷静に訊く。

「それっていつのこと?」

「今日、です。」

「病院行った?」

「行ってないです。」

「…行った方がいいよ。病院。もし体に何かあったら大変だよ。絶対に行くべき。僕これは強く言うよ。明日休んで、行った方がいい。」

「……無理、です。」

「ん、どうして?」

「親に言っても、どうせ休ませてくれない…怒鳴られて無理やり学校に生かされると思うし…」

「親からも、暴言とか吐かれてるのか……先生もなんか、全然取り合ってくれないみたいだね。」

「はい。教科書とか破られて先生に言いに行っても、『物を大切にしないお前が悪い』って言われるし、怪我した時も、『いろんな人に迷惑かけんな』って言われて…」

「うわぁ…」

「それは、ひどいね…」

 私も南条さんも、言葉を失った。

「…それで本当に教師やってるのが、信じられないよ。僕だったらきっと一発殴ってると思う。

 ノートちゃん、とりあえずさ、明日は学校休みな。」

「え、でも……」

「親にも先生にも言う必要はない。そして明日病院行きなよ。命にかかわることだ。怒られたらラジオのパーソナリティーがそう言ってたって言えばいいさ。君は何も悪くない。

 そうだよ、ノートちゃんは何も悪くないんだよ!よくさ、いじめられる方も悪いとかいう奴いるけど、それは絶対に間違ってる。本当に心の強い人ってのは、どんなに嫌いな人に対しても、絶対にいじめなんてしない。いじめる奴ってのは、心の弱いやつだ。君は何も悪くない。何も怖がることはない!」

「…南条、さん…」

「…わたしも、同じ気持ち。それと、私たちに悩みを打ち明けてくれて、ありがとう。」

「姫宮さん…」

「辛くて苦しくて、それでも私たちに助けを求めてくれた。ノートちゃん、強いね。本当に、強いよ。」

 いつの間にか、CMのタイミングを過ぎていた。南条さんが言う。

「……決めた。きょうは、ノートちゃんの悩みと、全力で向き合う。いじめと、全力で戦うぞ!」


「10代応援ラジオグリーンウェーブ、南条里志と姫宮明日香が、FMグリーンフォレストグリーンスタジオより生放送でお送りしています。さてこの時間は、今いじめを受けているという埼玉県のノートちゃんと話しています。じゃあ改めて…もしもし!」

「…もしもし。」

「待たせたね。今さ、ウチの局にものすごい量のメッセージが届いてるんだよ。それがさ、ノートちゃんを応援するメッセージばっかり!もうね、とんでもない量だよ!」

「うん!本当にすごい量なんだ。成海市の13歳の女の子、「めーい」さん。『ノートさんの話を聞いて、胸が苦しくなりました。どうか、少しでもいじめがなくなりますように。』そしてこれは、東京都の18歳の男の子、ラジオネーム「にゃんきち」さんから。『こんなのいじめじゃない。ひどすぎる!ノートちゃん、無理して学校に行く必要はないよ。明日はゆっくり休みな。』」

「みんなさ、ノートちゃんのこと、応援してるんだよ。」

「…はい。」

「ひとりじゃない。君は一人じゃないんだよ。こんな風にさ、全力でノートちゃんのことを支える人が必ずいるんだよ。」

「……だけど、申し訳ないです。」

 ノートちゃんの口から、意外な言葉が出た。

「え?」

「だって…私は、ダメな子だから…」

 ノートちゃんの口から、さらに意外な言葉が出た。私は思わず聞き返した。

「ダメな子って…どういうこと?」

「…私、昔からそうなんです。勉強もできないし、運動もできない。人と話すのも苦手だし、特技なんてないんです。どんなに頑張っても一生懸命にやっても、絶対に怒られる……」

「……極端な話、努力が報われないってこと?」

「…はい。」

 南条さんが言う。

「…努力が報われないってのは、辛いよね。それで親からも怒られて…」

「…はい。」

「ちなみにさ、さっき僕、親から暴言吐かれてるって勝手に解釈しちゃったんだけどさ、それは間違ってない?」

「はい。」

「…言いたくなかったら言わなくていいけど、どんなこと言われた?」

「…死ねとか、生むんじゃなかったとか、高校なんてあんたがいくだけ無駄とか……それで毎日殴られて…」

「殴られる?親からも?」

「…はい。」

「それってお母さん?お父さん?」

「お母さんです。お父さんは単身赴任で北海道にいるんです。でも、単身赴任する前はお父さんにも殴られてました。」

「そっか……お父さんとお母さんの事、好きかい?」

「…嫌いです。」

「うん。じゃあハッキリ言わせてもらうけどさ、それってもう、虐待だよね。」

 南条さんがズバッと言った。こういう時の南条さんは、オブラートに包むことをあまりしない。

「誰かに相談したことは?」

「…ないです。」

「そっか。よく勇気を出したね。」

「…あの。」

「ん?」

「…怒ったり、しないんですか…?」

 私は驚いた。ノートちゃんは、私たちのことも恐れている。それはつまり、彼女が今まで出会った人たちが、ほとんど100%と言っていいほど彼女を怒っていたということでもある。

 南条さんは言う。

「…はははっ。怒るわけないじゃない。というより、何で僕がノートちゃんを怒らないといけないの?」

「それはっ……私が…ダメ人間だから…」

「僕はそうは思わない。」

 南条さんははっきりと言う。

「ノートちゃんはダメ人間なんかじゃない。むしろ、ダメ人間なのは理不尽に怒ってきた大人たちの方だ。ノートちゃん、自分のことをそこまで過小評価する必要はないんだよ。」

「……」

 ノートちゃんが黙り込んだ。すると、南条さんは急に私に話を振った。

「さて、突然だけど姫ちゃん、”ノート”の意味って、なんだか分かる?」

 ”ノート”の意味。簡単すぎる質問に、私は逆に虚を突かれた。

「えっ…そんなの簡単じゃないですか。というか、そのまんまじゃないですか。ノートはノートですよ。文字を書く薄い本。」

「はずれー!」

「えっ……?」

「ノートちゃん、今姫ちゃんが言った意味のノート、英語だとなんて書く?」

「…N, O, T, Eですよね。」

「大正解。だけどね姫ちゃん、僕が聞いているのはそっちのノートの意味じゃない。僕が聞きたいのは、似たような発音の別の”ノート”の意味だよ。」

「似たような発音の…ノート?」

 私は訳が分からなくなっていた。ノートはNOTEじゃないのか。

「…まあ、雑学と言えば雑学だけどね。じゃあ正解発表しちゃおうか。

 僕が言いたいのは、naughtの”ノート”。その意味は、無価値、無、そしてゼロ。」

 南条さんはそこで一回言葉を切った。

「ノートちゃん。」



 君の名前の由来は、ここからきてるんじゃないのかな?



「さっき君は思い付きって言ったけど、そもそも思い付きでノートなんて単語をラジオネームにしようなんて僕は思わない。例えばさ、「リンゴノート」みたいに、ノートに何か別の単語がくっついているんだったらまだしも、ノート単体でラジオネームにするなんて考えつかない。だけどさっき思い出したんだ。”ノート”の別の意味、もう一つの”ノート”という単語に。英語だと発音は違うけど、日本語にしちゃえば同じ”ノート”という単語だ。

 ノートちゃん、君の名前は、そっちからとったんじゃないかな?」

 沈黙が支配する。やがて、ノートちゃんが口を開いた。

「…そう…です。」

 私は驚いていた。ノートちゃんと話しながらも、ノートという単語に隠された別の意味をずっと考えていたなんて。そして、ノートちゃんとの会話と南条さん自身の記憶を頼りに、ノートの意味を言い当ててしまうなんて。

「…どうして、分かったんですか?」

「それはね、全部君が教えてくれたからだよ、ノートちゃん。」

「わたしが?」

「さっき言ってたじゃん。『ダメな子』とか『ダメ人間』って。それで思い当たったんだ。ただまあ正直、僕もつい最近までこの意味知らなかったんだけどね。こないだ買った小説にそんなことが書かれてて、すごく印象に残ってたんだよね。もしあの小説読んでなかったら、多分気づかなかったと思う。」

 南条さんは続ける。

「ノートちゃん、自分で自分を追い詰める必要はないんだよ。君は無価値なんかじゃない。0点でもない。『生きているだけで100点満点』って言葉があるけど、まさにそうなんだよ。生きているだけですごいんだ。

 だからさ……これ以上自分を過小評価するな。もっと自信を持ちなよ。君が思っている以上に、君という人間はすごいんだから。」

 一瞬の間をおいて、南条さんがはっきりと断言した。「それは違う」なんて誰にも言わせない。そんな力強い思いが込められていた。

「…はい…ありがとう、ございます…!」

 ノートちゃんの声は震えていた。だけどそれは、今までの恐怖の震えではなかった。自分が認められたことへの、喜びと感動の震えだった。

 南条さんが音楽をかける。

 その音楽は、どこか不思議な音楽だった。一見するとただの音の断片のように聞こえるものが、見事に一つの曲として成立していた。ピアノ?テクノ?これは…何?

「なんだろうね…一応ジャンルとしては電子音楽になるみたいなんだけど、ただテクノで片づけるのは惜しすぎる。ポップミュージックみたいな雰囲気もあれば、どこかドリーミーな雰囲気もある。一言で言い表すのは本当に難しいよ。」

「……あの…」

「ん?どうしたの、ノートちゃん?」

「この曲、なんていう曲なんですか?」

「おっ、気に入ってくれた?」

「…はい。」

「へえ…気が合うかもねえ、僕たち。この曲は、Serphさんの『feather』っていう曲なんだけど、今流しているのはoverdrive versionっていうアップデートバージョンなんだよね。前バージョンもものすごくいいんだけど、そっちの方はちょっとクセが強くてね。どっちかというと今流してるやつの方が初めての人には聞きやすいかなって思って。」

 南条さんは言った。この話はラジオには流れていない。私たちとノートちゃんだけの、秘密の話。

 その時、電話の向こうが騒がしくなった。ドタバタという音。

「…やめて!」

「…ノートちゃん?」

 南条さんが呟いた。その悲鳴は、間違いなくノートちゃんの声だった。

「……にしてんのよ…くまで!……んきょうしないと………たなんか死んでしまえばいい!」

 電話からは、女の人の途切れ途切れの声が聞こえていた。そして次の瞬間、パンッ、と乾いた音が響いた。

「ノートちゃん!?」

 私は思わず叫んだ。間違いない。ノートちゃんが、叩かれた。

「ノートちゃん、大丈夫!?ノートちゃん!」

 だけど返事は来ない。再びガサゴソと音がしたかと思うと、電話が切られてしまった。

「ノートちゃん!」

 叫んでももう、その声は返ってこない。

 沈黙を保っていた南条さんが、静かに動いた。スマホを取り出し、どこかへ電話を掛ける。

 電話が終わった後、私は南条さんに尋ねた。

「あの、どこに電話をかけてたんですか?」

「ああ、飯野のところだよ。虐待を受けている可能性のある子がいる。できるだけ早く訪問してみてくれ、ってね。」

「え…じゃあ。」

「言ったでしょ?今日は彼女の悩みと全力で向き合う、って。あんなものを聞かされちゃあ、動かないわけにはいかないじゃない。さ、音楽が終わるよ。準備しな。」

「……南条さん。」

「ん?」

「…ありがとうございます。」

「え、何が?」

「その、ノートちゃんの事……最後まで向き合ってくださって。」

「ああ、そんなの気にすることないよ。」

 南条さんは笑って続けた。

「だって、これが今の僕ができることだもん。今できることをした、ただそれだけだ。」

 音楽が終わった。南条さんが言う。

「お送りした曲は、Serphで、『feather (overdrive version)』でした。さて、先ほど電話していたノートちゃんなんですけど、実は音楽流している最中に電話が切れちゃったんですよ。もっと話聞きたかったんですけどね……さて、この後も皆さんからのお悩み相談に、どんどん乗っていきたいと思います。」


 放送が終わって、アパートに帰ってきた後も、私の心の中はノートちゃんのことでいっぱいだった。彼女があの後どうなったのか。これ以上ひどい目に合わないでほしい。そんな思いでいっぱいだった。結局その日は、深夜3時くらいまで寝付けなかった。

 そして3日後、事態が急転した。


 5月14日木曜日、午前10時。その日私は、南条さんの車に乗ってあるところに向かっていた。

「…驚いたね。」

「はい。とても。」

「…まさか、こんなことになるなんてね。」

 南条さんが言う。まさにそうだ。こんなことになるなんて、私も思っていなかった。

「…おっ、着いたね。じゃ、行こうか。」

 私たちは車を降り、目的の建物の中に入った。その建物の入り口にはこう書かれていた。

「成海市児童相談所」と。


「やあ飯野。直接会うのは久しぶりだね。」

「ああ。4月の一件以来だからな。今日はわざわざ来てもらって、悪いな。」

「いや、構わないよ。早速だけど聞かせてもらおうか。大崎藍……ノートちゃんに、何があったのか。」

「ああ。ただ、全部は話せないぞ。機密事項とかもあるからな。ある程度かいつまんで話させてもらう。」

 そう言うと、飯野さんは、事の顛末を話し始めた。

「大崎藍さん…ラジオネームはノートさんだが、結論から言うと彼女は虐待を受けていた。それと、お前のラジオも聴かせてもらったけど、その通りのことをされてた。で、本当は今日児童相談所の職員が向かうはずだったんだが…」

「それよりも早く、近所の人が警察に通報したんだな。」

「そうだ。昨日警察に通報があって、急遽児童相談所の職員と俺も彼女の家に向かった。」

「あれ、なんでお前もなの?」

「一応通告を受けたのが俺だからな。本来は職員2名で十分だし、そもそもこういうのはどちらかというと俺の管轄外なんだが、状況をよく知ってるってことで向こうから同行を頼まれたんだ。で、行ってみたら彼女の顔に見事に大きなアザがあってな。虐待の有無はともかく、このまま放置しておくのは危険だと満場一致で決まって、一時保護をしたんだ。」

「だけど本来は一時保護って、本人と保護者との面談が必要なんじゃないのか?」

「まあそうなんだが、警察の立ち入り調査が入った時はそいつをすっ飛ばしてもいいことになっている。それに、お前のラジオの音源の力もあった。」

「そうなの?」

「あたりまえだ。ラジオの音源もれっきとした証拠になる。特に本人が電話をかけてるんだからな。そいつを緊急会議で流したらとんとん拍子に話が進んだ。」

「へえ……そっか。それで、本人の希望なんだけど。」

「ああ。電話でも簡単に話したが、本人は保護者との別居及び絶縁、そして現在の学校からの転校を望んでいる。転校はともかく、絶縁するのは大変だ。絶縁についての法的な方法は無く、年齢的に分籍を適用することはできない。お前もそれくらいは知ってるだろ?」

「当然さ。」

「そこで、お前のアパートで引き取ってほしいんだよ。彼女は高校生だ。一人暮らしの高校生がいないわけではないからその辺は問題ないだろうという判断だ。というかお前のとこは、アパートというよりはどちらかというと下宿って感じだけど。それに、知り合いがいないようなところに一人で住まわせるより、お前のそばに置いておいた方がいいかと思ってな。大きい声では言えないが、うちもキャパオーバー寸前で、引き取り手がいる子はさっさと引き取ってもらいたいんだよ。」

「ん……こっちとしては構わないけど、親戚筋は?そっちに引き取ってもらえばいいじゃん。」

「本人が拒否してる。というかそもそも、親戚関係に関してはよく知らないみたいだな。伯父とか叔母にも会ったことないって言ってたし。」

「…高校生だよな?」

「高校生だよ。」

「親戚にも会ったことないって?」

「ないそうだ。」

 私にもその言葉の意味は察することができた。高校生にもなって親戚に一度も会ったことがないなんてことは、普通はない。それだけ、彼女の家庭は異常だということだ。

「…悪いが飯野、彼女と話をさせてくれないか?」

「二人きりで?」

「可能なら。」

「わかった。じゃあ今から行くか。」

「ああ。悪いけど姫ちゃんはここで待ってて。ここからは僕の役目だ。」

「はい。よろしくお願いします。」

 私はそういって、南条さんの背中を見送った。


 その後、ノートちゃん…大崎藍ちゃんは私たちのアパートに住むことになった。南条さんが彼女とどんな話をしていたのか、私は知らない。だけど、それでいいと思う。それで、いい……

「…って、ホントに思ってる?」

「ひゃああああああああああああああああああああああっ!?」

 私は思わず椅子から跳びあがった。そのせいで、机に太ももを強打した。私の後ろに、南条さんがにやにや笑いながら立っていた。後ろには藍ちゃんもいる。

「な、なな、ななななななななな何で南条さんがここにいるんですか!?しかも藍ちゃんまで!?」

「だって姫ちゃん、夕ご飯できたよって呼んでも一向に来ないんだもん。ノックしても返事ないし。でドア開けても気づかないし、何してるかと思って見てみたらあの日の事ぶつぶつ呟いてるし。」

「え、私、独り言言ってました!?」

「マンガかと思うくらいね。心の声が時々ポロッと…どころかボロボロ出まくってたよ。で、こりゃ面白そうだってことで、あいちゃんも連れてきちゃった。」

 そう言うと、南条さんはニヤニヤ笑いから静かな笑みへと表情を変えて、こう言った。

「それより、教えてあげよっか。あの時、僕たちが何を話していたのか。」


「ノートちゃんだね?」

 彼女はこくんと頷いた。僕は続ける。

「話は聞いたよ。君の気持ちも分かった。ただ、ひとつ釘を刺しておくよ。さいかち荘の住人は、確かに家族みたいなもんさ。だけど、僕たちは赤の他人だ。親戚ですらない。だから、本当の親みたいに、君を成長させることはできない。お金だって工面できない。自分のことは自分でやってもらうしかない。辛いけどね……それでも、君は親戚のもとに行くより、一人暮らしをしたいのかい?」

 そして僕は静かに言った。

「君の覚悟を、見せてみろ。」

 永遠とも思える、長い沈黙が、部屋を包み込んだ。僕は待つ。彼女が、覚悟を見せてくれるまで。僕はいくらでも待つつもりだった。

 やがて、うつむいたまま、彼女が口を開いた。

「……もう、私の事を、ノートちゃんって、呼ばないでください。」

 そして、彼女は顔を上げ、はっきりと言った。

「私の名前は、大崎藍です!」

 その眼は、強く僕を見つめていた。もう、0点だなんて言わない。そんなこと、誰にも言わせない。

 自分でも気づかないうちに、僕はフッと笑みを浮かべた。

「…100点満点だよ、あいちゃん。ようこそ、さいかち荘へ。」

 彼女が笑う。その瞳から、堪えていた一粒の涙がこぼれた。

 それは、安堵の涙。そして、自由を勝ち取ったことへの、喜びの涙。


「…と、これがすべてさ。そして彼女は僕たちに引き取られ、住民票と戸籍謄本にはロックが掛けられた……やっと解放されたんだよ。」

「そんなことが……」

「別になんか秘密の話があったわけじゃないんだよ。聞かれなかったから答えなかっただけさ。そんなに気になってたなら、もっと早く聞いてくれればいいのに、このこの~。」

 南条さんが肘で私の腕をツンツンとつついた。

「さて、夕ご飯食べよっか。」

「はい!」

 私はニコッと笑って、リビングへ向かった。



「無理言って悪いな、飯野。」

「気にするな。ところでお前、いい加減そろそろ『飯野』って呼ぶのやめろよな。2人きりになったんだから。」

「ああ、ごめん。つい癖で。」

「ほんと、お前は隙を見せないよな。一つ屋根の下に暮らしてる奴に対しても。やっぱ、そんなに辛かったのか?中学時代は。」

「…そりゃあ辛かったさ。というか、直兄には関係ないだろ。」

「いや、そんなことはない。今度ゆっくりお前の体験談を聞かせてもらいたいと思ってたんだ。何故いじめられるようになったのか、いかにして隙のない性格が形成されたのか。」

「やめてくれよ、思い出したくもない。」

「その気持ちはわかる。だがな、その経験は未来の子供たちのための重要な糧となる。お前だって子供たちを守りたいだろ?里志。」

「まあね。だけど、殉教者になるのはもうごめんだ。」

「殉教者じゃない。礎だ。」

 一瞬の沈黙ののち、僕はふうと息を吐いてから呟いた。

「……礎、ねえ。でもね、そういう綺麗な言葉ほど、全く信用できないんだよ……今回は直兄に免じて信用しておくけど。」

「はいはい。全く、お前ってやつは本性はひねくれまくってるよな……」


「…っ!」

 ガバッという音とともに、僕は勢いよく飛び起きた。

「夢か……」

 時刻は夜8時半。そういえば、夕ご飯を食べて風呂に入った後、部屋でやることもなくダラダラしてたら、急にうとうとし始めて……

「……いつの間にか、眠っていたのか…」

 夢に出てきたのは、あの日のこと。誰にも話していない、僕と直兄との秘密の話。

「……こんな夢は、見たくなかったなあ…」

 呟きながら、僕はテレビの電源を入れた。ニュースが流れる。アナウンサーがよどみない口調で原稿を読み上げる。

「……上の台風1号は、ゆっくりと日本付近に接近し、16日ごろには関東地方を直撃する恐れがあります……」

 梅雨の風物詩、台風。その第一号が接近していた。

「……戦争がやってきた、か……」

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RADIO~心の声を、受け止めて~ 林みどり @greenforest

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