第7話 微笑む紀子

「そう、夢に香織が出てきたのよ。私、夢の中で叫びそうになっていたわ。夢の中だっていうのに、どうしてなのか私ったら、ああ、またあの夢だって思ったの。そうしたら次の瞬間、夢の中の香織が私のほうをしっかり見て何か言おうとするの」

 私は悲鳴をあげそうになるのをかろうじて抑えながら聞いた。

「何て言ったの、私は?」

「それがね、私ったら、怖いからだと思うんだけど、耳を両手でふさいで、その場にうずくまったの。香織の声を聞かないように、口の動きを見ないようにしたのよ」

「えっ、それじゃあ」

「そうなの、香織が何を言ったのか、私に何を伝えたかったのかわからないの。その後、私、夢の中で、いやーって大声を出していたようで、たぶんそれで目が覚めたんだと思う。気がつくと私は布団の中で涙を流していたのよ。幼いころ怖い夢を見て、泣きながら目を覚ました話しを母親から聞いたことがあるけれど、まさにそんな感じだったの」


 私は両手の指先が自分の意思では動かせないかもしれない、と感じるくらい感覚が無くなっていることに気がついた。

「枕元の時計は午前四時くらいだったと思う。それからはもう悪い考えしか浮かばなくて、眠ることができなくなってしまって。今日、このまま会社に行って大丈夫だろうか、香織に会ってもいいんだろうかって、繰り返し、繰り返し考える中で、そうだ、それがいいって、私なりに結論を出したの」

「結論?」

「そう、わかる、私の結論?」

「もしかして」

 手のひらだけではなく、体全体、ねっとりと汗ばんできた。

「そうなの。私、いきなり何日も会社を休んだでしょう。あれよ、あのときなのよ。香織と顔を合わせなければ大丈夫なんじゃないかって、そんなふうに思ったのよ」

 紀子の顔が華やいだ。

「実際、二日、三日と経っても、香織には何も起こっていないようで安心したわ。でも、いつまで休めばいいんだろう、私が出て行ったとたん、香織の身に何か起こったらどうしようって、何だか怖くて会社に行けなくなったの。だってそうでしょう、今はたまたま会っていないから悪いことが起こっていないだけで、私と香織が会ったとたん、何かが起こらないとも限らないし」

「それじゃあ……」

「そう、だってもう私が原因で大切な親友を亡くしてしまうようなことはいやだったのよ、本当にいや。何が何でも香織は守る、絶対に香織を死なせたりしない。あのときは、それが今まで亡くなっていった三人の親友に対する罪滅ぼしのように感じていたの。だからもう残された方法は、香織の前から私が姿を消すしかないと思ったのよ。だから退職したの。私、何とか香織を助けたかったの。香織を助けるにはそれしかないと思ったのよ」

 そう言いきる紀子の口元は、うっすらとではあるが笑みを浮かべている。

「会社の人たちには驚かれたし、呆れられたかもしれないけれど、退職したときにはちょっとした満足感すらあったわ。だって香織を助けられたんだもん。香織を守ることができたんだもん。私、やったわ、頑張ったわって、嬉しくなるくらいだったの。でもね、でも、時間が経つにつれ、これで良かったのかなって、疑問に思うようになってきて」

「どういうこと?」

 普通に聞こうと思うのだが無理だった。どうしても声が震えてしまう。けれど紀子はそんなことなど気にしていない様子だ。


「香織を守れたのには違いないけれど、ある意味、親友は無くしてしまったわけよね。電話で理由を聞かれたのに、それに答えようともしなかったし。これって、もしかしたら単に自己満足で終わっていたんじゃないだろうかって感じ始めたの。本当にこれで良かったんだろうか、私、間違っていたんじゃないだろうかって」

「………」

「それに、この先ずっと友達がいなくても、私、大丈夫なんだろうかって思えてきて。私、寂しくないのかな、平気なのかなって。そう考えると、とても不安になってきたの。だって、ずっとよ、ずっと、おばあさんになるまでずっと。まったく友達も恋人もいないなんて、やっぱり耐えられない、ね、そう思うでしょう?」

 私はかすかに頷く。

「それで、私、じつはかなり前から、香織に謝りたいと思っていたの、本気で思っていたの。そして、そんなふうに思い始めると、以前のあの三人の悲しい出来事も、たまたま起こった偶然の事故にすぎないんじゃないかって思えてきたのよ」

「え?」

「確かに普通ではありえないかもしれないけど、でも、絶対に無いとも言えないでしょう?」

「そうかしら……」

「そうよ、きっとそう、信じられないような、ものすごい偶然が重なっただけなのよ。だいいち、私に特別な目に見えない力があるなんて、よくよく考えるとばかばかしいわよね。あまりにも不幸なことが起こりすぎて、私、おかしな考えにとらわれ過ぎていたのよ。でも、いまさら、何て香織に電話をしたらいいのか、どんなふうに説明するべきなのか迷ってしまって……きっとあのとき怒っていたんだろうな、許してくれないだろうなって。ずっと今日まで謝りたいのに謝れなかったの、ほんとうにあのときは悪かったわ」

 紀子の声はバスの中の薄暗闇で軽やかに弾んでいる。


「だから、さっきは嬉しかった。香織の言葉に元気づけられて、涙が出そうになっちゃったくらい」

「私の言葉? 私、何か言った?」

「いやあね、私たち、また仲良くしていきましょうねって言ってくれたじゃない。昔のことは忘れなさいって、私は紀子の味方よって、さっき香織が自分で言ってたじゃない」

 そうだったろうか。よく思い出せない。

「香織、ありがとう、ほんとうにありがとう。今日、偶然に会えてよかった。ずっと心の中にためておいたことを話すこともできたし、ほんとうによかった」

 よかった、よかったと繰り返す紀子は、大きな瞳を細め、私の両手を包み込むように握手を求めてきた。


「やめて!」

 私は反射的に紀子の手を払いのけた。自分でも驚くくらいの鋭い声が出ていた。紀子は大きな瞳をこれでもかというくらい開いた状態で固まっている。瞬きもしていない。

「どうしたの、香織?」

「やめてよ、触らないで。こっちを見ないでよ」

 不思議そうに私を見る大きな瞳は、暗いバスの中ではやはり薄気味悪い。

「やだ、どうしたの、香織。ほんとうにどうしたのよ?」

「香織、香織って、きやすく呼ばないで」

「そんなぁ……あら、すごく震えているじゃない、大丈夫?」

 そう言い、紀子は右手をゆっくりと私の体のほうへ伸ばしてくる。私は考えるより先に椅子から腰を浮かし、紀子に触られないように体を引いた。

「触らないでって、言ってるでしょ。私、あなたの友達なんかじゃないから」

「え、どういうこと?」

「だって……いやよ」

 私は泣きそうになっていた。

「香織……」

 紀子は私の名前をつぶやくと、真面目な顔で聞いてきた。

「やっぱり、あの話、しないほうがよかったのかしら?」

 私は全身が小刻みに震え、奥歯がガチガチとぶつかりあっているのを感じたが、もう、止めることはできなかった。とてもじゃないが椅子に座りなおす気にもなれない。そのままバスの揺れに身をまかせ、私はフラフラと通路を歩き出した。

相変わらずバスの窓には雨が強く打ちつけている。正面のワイパーは激しく、けれど規則正しく左右に動き続けている。私はさらに前に向かって歩く。

後ろのほうで紀子が何か言ったような気もしたが、よくは聞き取れない。運転席の横まで行き、私は立ち止った。

「降ろしてください」

 はっきりと言うことができた。運転手はハンドルに手をかけたまま、怪訝な顔をして横にいる私をチラリと見る。

「はあ? お客さん、何言っているんですか、こんなところで降りられないですよ。危ないので席に戻ってください」

「いやです、お願いします、早く降ろしてください」

 私は切羽詰まった声で頼んだ。決してふざけているのではない。

「お客さん、無理なこと言わないでください。これは東京まで行くんですよ、途中で勝手に降りるわけには……」

「降ろしてください、死にたくないんです!」

 運転手がむっとしたのがわかった。

「ちょっとお客さん、困るなぁ、失礼じゃないですか。確かに天気は悪いが運転には自信がありますから大丈夫です。とりあえず席に戻ってください」

 なるべく丁寧に話そうとしているようだが、イライラし始めたのが感じ取れる。 けれど、そんなこと、私には関係ない。非常識だろうが、頭がおかしいと思われようが、早くこのバスから降りたい、降りなければ。そうでもしないと、とりかえしのつかないことがきっと起こってしまう。

「お願いします、ここでいいんです、降ろして……」

 そこまで言いかけたとき、後ろから強い力で肩をつかまれた。


 紀子だった。

「香織、席にもどりましょう、こんなところで降りられるわけないじゃない、今、真夜中なのよ。それに、ほら、外を見て、大雨よ。ね、無理でしょう、落ち着きなさいよ。運転手さん、ごめんなさい、なんでもありませんから」

 紀子はまるで私の保護者のように、ぺこぺこと頭を下げ、「さあ、戻るわよ」と私の腕を引っ張った。

「いやよ、いや、紀子のそばになんかいたくない、死にたくないの」

 普通に言うつもりなのだが無理だった。涙声にしかならない。もう、自分の気持ちを抑えられなくなっている。

「香織、何言っているのよ、おかしいわよ」

 紀子はうすら笑いを浮かべ、私の腕に自分の腕をからませてくる。

 私は全身に鳥肌が立つのを感じた。足ががくがくと震え、立っているのさえ困難だ。

「紀子、離してちょうだい、私はバスから降りるわ。大雨だろうが、真夜中だろうが、それが何だって言うのよ。あんたといっしょにいるほうが……」

 そこまで言って、私は紀子とぶつかった。


 えっ、なぜ、ぶつかったの? そう思った直後、私の両足は床から離れていた。同時に「ああっ!」という運転手の叫び声が聞こえたような気もした。

 今までバスの中で眠っていた何人かの悲鳴も雨音に混じっている。バスが大きく傾いていた。遊園地か何かの派手なアトラクションの乗り物に乗っているような錯覚さえする。

 けれど違う。バスが崖の下に向かって落ちているのだと理解するのに何秒かかっただろうか。

 私は紀子にぶつかってから、まるで紀子に覆いかぶさるような体勢になっていた。その後、また何かに何度もぶつかった。もう、自分の力ではどうすることもできなくなり、乗客の悲鳴を聞きながら、体中の痛みを感じていた。

 バスはまだ落ち続けている。私は悲鳴を上げることすらできないまま、紀子の上に乗っていた。そのとき、一瞬だが目が合った。紀子の大きな瞳は悲しそうに見えた。けれど、見てしまった。紀子の口元が微笑んでいるのを見てしまったのだ。

 えっ、笑っているの?

 バスが大きく回転した気がする。紀子は私に何か言いながら、しがみついてきた。

 紀子はきっと助かるのだろう。そしてまた、次の友達に「香織という親友がいたんだけど」と、涙ぐみ、しっとりとした声で、この出来事を話すのだろう。

ああ、残念だ、残念でしょうがない。

 私は全身に激痛を感じながらも、二、三秒の間にそんなことを考えていたようだ。

 その後は知らない。私がこの世で最後に見たものは紀子の微笑みになるのだろうか。



 END

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