昔話


「俺の初恋は高校生の時だ」


 ふと自分の世界に入りかけたところで、男性が話し始める。私はすぐ、男性の声に集中した。


「同じ学校にアイドルみたいに可愛い子がいてさ。勉強そっちのけで夢中になったよ」

「へえ、羨ましいです。私、青春っていう青春を経験してこなかったので」


 しかし男性は、すぐに表情を悲しいものに変える。

 私の言葉が気になった様子で、目を伏せるように空の珈琲カップを手に包むように持つ。


 何が気になるのか聞いてみたくても、初めて言葉を交わす知らない男性。話を遮るのも悪い気がして、私は聞くことに専念した。


「大学まで一緒でさ。でも、告白はしなかったんだよ」

「なぜですか?」

「彼氏がいたからだ。好きだったけどさ、あいつが幸せならいいと思い込んでたんだよ。俺も若かったからねぇ」


 私にも好きな人がいた。学生の頃には私もお付き合いをした経験がある。


 今はあまり思い出せないが、苦い経験ばかりだった。なぜか胸を締めつける。


「それで、彼女は結婚しちゃったんですか?」


 自分の苦い恋愛のことを思い出しそうで、私は男性に問いかける。


「いや、死んだよ」

「え?」


 男性は淋しそうな顔をしてから呟く。


「タイミングが悪かったのさ。仕事で大きな失敗しちまって。クビにはならなかったが、会社で肩身の狭い思いをすることになってな。酷い扱いを受けていたみたいだ」


 どうしてか、胸が苦しい。


「その直後、彼氏が浮気していることを知ってさ。十年近く付き合ってきた彼氏に別れ話をされたんだ」


 悪いことが重なった。それ以上を聞き返すのが怖くなって、私は黙っていた。


「――――自殺。そりゃあ、ショックだったよ。何年も、何十年も引きずってさ。俺は結婚どころか恋人も出来ないまま……一生を終わらせちまったよ」

「え?」

「享年九十二歳だってよ。長生きしただろ?」


 私は男性が何を言い出したのか、まるでわからなかった。

 四十代に見えるこの男性は、九十二歳だと言っている。違う。九十二歳で死んだ、と。


「あ、あの。私――――」

「嫌いなトマトジュースを注文したのはなぜ?」

「え?」

「千歳ちゃん。トマトジュースが好きなのは、彼氏の方だよ。千歳ちゃんが好きなのは甘いカフェオレ」


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