真実
私は驚いて立ち上がる。
その拍子に背の高いグラスを倒してしまった。
テーブルから落ちて大きな音をたてたグラス。割れてしまったそこからトマトジュースが溢れる。
「待って……ください。私は、私は誰なんですか? 私は、ちとせ? 違います。私は、私の名前……。私、家はどこ? 会社って、どこ? あなたは、誰なんですか? ここは、なに?」
息をするのが苦しい。
どうやって息をするのかを忘れてしまったみたいだ。自分のこともわからなくなってしまった。
「俺が守ってやりたかったよ。千歳ちゃん。初恋の人。二十八歳なんて、若すぎるだろ」
わからない。
男性のことは知らない。男性のことだけじゃない。自分のことだって、わからない。
確かに、今日は会社に行ったのだ。行って、帰ってきたはずだ。
電車で……電車。電車?
深呼吸と一緒に入ってきた珈琲の香り。
一気に流れ込んできたと同時に、次々と記憶の波に襲われる。
けたたましい音。人々の叫びとざわめき。ブレーキ音と赤。
赤、赤、赤……血……。
「私、自殺した……」
そうだ。なぜ忘れていたのだろうか。何度も、思い出しては忘れてしまう。
私はもう、生きてはいないのに。
「私は死んだ」
この男性は教えてくれる。
私が千歳であること。私が自殺をしたこと。私が二十八歳で死んだこと。
いつも、同じように教えてくれる。とても優しくしてくれる人。
そんな大事なことも忘れてしまうなんて。忘れたくないのに……。
「……もう、何度目になるの?」
「知らない方がいい」
「まだ、許されないのね」
マスターが黙って割れたグラスを片付ける。
カチャカチャといわせながら、マスターはまた奥へいなくなった。
私は常連客だ。
いつもこの喫茶店で雨宿りをする。
口下手なマスターだけれど、話せばとてもいい人で、目の前にいるこの男性とはいつもケンカみたいな話し方をしている。
店内にいる人達は、いつも同じ珈琲を飲んでいなくなる。
その違和感にまた、気づけなかった。
レジのない喫茶店。
マスターが一人で動き回っている。
お客さんは変わっていくのに、誰も出入り口の扉を出ていかない。
珈琲を飲んだ瞬間に、私たちは消えるから。
罪深い私たちは、罰を受けるために喫茶店を後にする。
繰り返し、何度も。
「それでもまた、教えてくれるの? あなたは、罰を受けなくてもいいのに」
「守れなかったことを悔いて、馬鹿みたいな人生を過ごした。千歳ちゃんを待つことは、悪くない生き方だ。いや、生きるってのはおかしいか」
その時、マスターが目の前にカップを置く。
私の好きなカフェオレだ。立ち上る湯気に、珈琲と甘い香り。
喫茶店にいつもと同じ珈琲の優しい香りがするのに、今までどうして気づかなかったのか。不思議でならない。
本当はこの香りにも気づいていたはずだ。
それを遠くに追いやってしまったのは、珈琲の香りとともに悲しい記憶を思い出すから。
思い出せば、また繰り返さなければならない恐怖を呼び起こすからだ。
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