神を待つ子どもたち

鳥海勇嗣

第1話

 初夏の晴れた日、同僚と昼食を済まして会社に戻る途中、たまたま銀行の入り口の側にあった宝くじ売り場に目が止まった。普段宝くじは買わないのだが、つい売り場まで足を運んでしまったのは、広告に出ているベテラン俳優の、アロハシャツを着て満面のを浮かべていた様が妙に印象的だったからだ。

『つかめ夢の3億円』

 現実味のない言葉だったが、彼の笑顔の熱気だけは、しっかりとこちらに伝たわるくらいリアルだ。

「買うの?」

 売り場の正面でポスターを眺めていると、後ろから同僚がめんどくさそうに声をかけてくる。

「ええ」

「……普段幸田って宝くじとか買ってたっけ?」

「いえ。でも今日はなんとなく」

「なに、当たりそうな気でもすんの?」

 その問いに「どうだろ」という風に首を傾けて答え、売り場のおばちゃんに「3枚」と声を掛けた。

「サマージャンボ?」

「え?」

「くじはサマージャンボ買うの?」

 どうも何種類かくじはあるらしい。そんなことは一般常識だぞという風に、おばちゃんにきつい声と視線を浴びてしまった。

「ああ、はい。じゃあそれで」

「はい……自分で選びます?」

 そういうとおばちゃんは窓口からくじの束を差し出した。なるほど、自分で選ぶのかおばちゃんに選んでもらうのか、どっちかなのか。

「じゃあ自分で選びます」

 そう言って、慎重に並べられたくじを三枚選び取った。

「なに考えて選んでんの?あんなの運だろ?おばちゃんが選んだって自分が変わんないじゃん?」

 横から茶々を入れながら、同僚はフェッフェと笑いながら横目でこちらを見た。

「分かってます。……ただ何となく、そっちの方が納得がいくから……」

 そう、結果に納得いくかどうか。ただ、それだけだ。僕らの周りでは、何事をもまったく示唆しないかのように、淡々とした工事現場の重機の音が、横浜の灰色の空に響いていた。


         ――――――――――――――――


 今にして思えば、あれは僕の初恋だったのだと思う。幼稚園に通い始めたばかりのまだ五歳かそこらの子供だった。彼女と出会った場所は定かではないけれど、ただ、親に敷地外へ出ることを禁じられていた僕が、敷地外の彼女と出会ったのだから、その頃の僕にしてはかなりの冒険だったのだろう。彼女と一緒に遊んでいた時の事は今でもよく覚えている。いや、それどころか、僕の物心はそこから始まったのではないだろうかというくらい、僕のいっとう古い記憶は彼女がらみのものが多い。彼女を自分の家の、無駄に広い庭に呼んではよくそこで遊んだものだった。子供にはジャングルに思えるくらいに木々が沢山あった実家の庭の真ん中で、バケツや桶に水を貯めて、彼女はリカちゃん人形を、僕はウルトラマンの塩ビ人形をジャバジャバ泳がせて遊んでいた。少し黄緑色を帯びた木漏れ日が、淡く彼女のパサパサした不健康な栗毛色の髪の色を豊かにし、パッチリとした鹿のような瞳が桶の水に反射された光を受けて精気を帯びていた一方で、そんな自然の演出では隠し切れないくらい、シャツや半ズボンから伸びている手足は、子供から見てもわかるくらいに華奢で、そしてその手足の根本からは僅かに変色した痣が浮いていた。

「たっくん」と、彼女は僕を呼んだ。

 それが可愛いと思っていたのか、それとも舌足らずでそういう言い方になってしまったのか、それから十数年間続いた関係の中でも、彼女はその呼び方で僕を呼び続けた。彼女自身を幼く見せるようない言い方であるし、人前で言われる方も尋常じゃないほどに恥ずかしかったものの、その「たっくん」という呼びかけは、少なくとも僕の母が「拓郎たくろう」と呼ぶよりも遥かに重要な意味を持っていた。今も昔も、僕にとって必要なのはそれだけだったのかもしれない。そもそも人は自分にとって必要なもの、それ以上に十分なものとは、わりかし幼い頃に見つけてしまうものなのだろう。そしてそれは驚くほどに簡潔でいい加減なものなのかもしれない。

 僕は、……僕は彼女のことをなんと呼んでいただろう。ああ、そうだ。

――あやな、彩菜

 この名前が、この名前だけが僕の少年時代を、記憶の奥底に封じ込められるべき、忌まわしいものにすることを防いでくれている。僕は間違いなくあそこにいた子供であり、そしてあそこで生きたということを、間違いのない、確かなものとしてくれていた。

 空港から、電車で実家へと向かう旅路の中、少しづつ僕は彩菜を強く感じるようになってきていた。


                 ※※※


「だからよぉ、幸田は婚活ナメてんだって」

 夕暮れ時の終業間近、大型商業施設の清掃を請け負う会社にしては埃っぽさとゴミゴミした机が目立つ「サン・ビルメンテナンス 横浜支社」のオフィスで、勤続八年の舛添が、後輩の拓郎にしつこく説教にならぬ説教をいれて愉しんでいた。言われている拓郎も拓郎で、口を歪ませながら「そんなことないっすよ」「まじっすかぁ」と適当にあしらい、不興を買わずに、されど自分を上手く守れるやり方で舛添をいなす。内勤には女性が極端に少なく、大勢の清掃員としてい働いているのはとうが立ったオバちゃんや既婚者ばかりの職場で、男達は逆に清々しいまでに「女に飢えている」という現状を公表しながら会話に興じていた。

「いい加減30も近くなってさ、まだ運命的な出会いがあるなんて信じてちゃダメだって。現実は俺たちに容赦なく迫ってるんだぜ?」

 後輩をいびる事で自尊心の糧にする、どこにでもいるような男の舛添は、子供のように背もたれに負荷をかけ椅子を回転させながら、彼女のいない自分を棚に上げ年齢=彼女いない歴の拓郎をつついて遊んでいた。拓郎は思う、確かそれは舛添が以前自分に勧めていた映画の台詞だったと。しかし、そういった受け売りの台詞を引っ張っておきながらも相手にさほど不快感を与えないのは、彼の引用、そらんじ方が実に自然に、様になっているからだとも拓郎は思った。

「そぉんなこと無いですって。大体彼女なんて、「自然」にやってりゃあできるもんじゃないっすか?」

 拓郎のその発言を待ってましたとばかりに、舛添は喜んで言いくるめようとする。

「だぁから、自然にやるってのがそもそもの勘違いなの!積極的にさぁ、ナンパなり合コンなりをやってだ、そうやってつんのめってみんな女作ってんだぜ?幸田ぁ」

 この舛添の反論は、拓郎にとって想定の範囲内過ぎるものだった。とうよりも、わざと舛添に気持ちよく反論させるために拓郎は言葉を選んだのだ。舛添に対して「舛添さんだって彼女いないじゃないですか」などといってはいけない。そう言ってしまうと、彼が何の反論もできなくなってしまうことを拓郎は知っていた。

 適当な、だらけたキャッチボールのような会話を続けながらパソコンに向かい作業していた拓郎だったが、ディスプレイに表示された検索結果を見ると、手元の資料とその結果照らし合わせながら溜息をついた。そして、「すいません、ちょっといいですか」と、まだ会話を続けようとする舛添に対して掌を突き出して会話を終了させ、自分の席の後ろにあるホワイトボードを確認して電話を掛け始めた。その拓郎の顔からは笑みは完全に消え、口は気むずかしく横一文字に強く閉じられていた。

「あ、もしもし。幸田です。はい。宮本さんって今日出勤してますよね?今電話に出られます?はい、お願いします」

 ほぼ毎日聞いているが、曲名の分らない保留音を聞きながら、拓郎は大きく深呼吸をして僅かな時間で気持ちを整えた。

「……あ、もしもし。宮本さんですか?横浜支社の幸田です。ええ、いえね、少しぃ、宮本さんの交通費の請求で不明な点がありまして……、」ここで間を置いて、敢えて拓郎は相手が発言する機会を作ったが、「宮本さん」は何も言わない。仕方なく拓郎は続ける。

「宮本さんの請求してるルートってJRを使用していますよね?それで850円片道かかってるんですけど、小田急のルートでこちらまでくれば、500円もかからないじゃないですか?どうしてこちらで請求なさっているのかなって……」

 受話器越しに、「宮本さん」がしどろもどろしているのを感じたので、拓郎は「こちらで調べた結果だと、確かにこっちの方が電車に乗る時間自体は短いので、それなのかなぁと思ったんですけどねぇ」と、半ば助け舟を出すような形で言うと、「宮本さん」はそれに喰いついたように「そう、それです!」と、興奮気味に答えた。

 リーマンショック以来の不況で、どこの企業も経費削減に必死であり、それは拓郎が勤めている会社も例外ではない。本来はこういったことは経理の仕事なのだが、人受けの良く、パートやアルバイトに対して電話で指示をおこうなうのが仕事であるために、頻繁に彼らと接する拓郎が、支社長から経費削減のための探偵まがいの仕事を申し付けられていたのである。つまり、清掃員にかかる費用の削減だ。人件費は割くことができないが、備品や制服、先程のように交通費に細かいチェックを入れて清掃員たちに突っ込みを入れていくのだ。支社長から遠まわしに「手を汚せ」と嫌われ役を押し付けられた拓郎だが、上手く立ち回って清掃員達の言い分をなるべく通すようにはしている。しかし、やはり人に好かれる仕事ではない。しかも先程電話を入れた「宮本さん」は今年で六十になるという高齢者で、拓郎の母親よりも年上の人間だ。そんな相手に気を使われ、駆け引きを仕掛け、下手をすれば敵意の対象となってしまうのだ。一連のやり取りが終わった後、拓郎は目頭を軽くマッサージしながら、弱々しい溜息をついた。

「お疲れね」と、そんな拓郎に経理の村岡が話しかけてきた。本来は彼女の仕事ということもあって殊更彼女は拓郎を気遣い、そんな彼女に対して、拓郎は逆に哀れむようなまなざしの微笑みを返した。

「……まったく、支社長も人使いが荒いよな」

取り繕うように舛添が言う。拓郎よりも六つ年上だが、立ち振る舞い方は高校生の頃から変わっていないような男だった。良くも悪くも自らの偽善を上手く隠すという術が苦手のアラフォーは、ややメタボ気味の腹を、椅子に座ることでより一層協調しながらわざとらしく言う。先ほどまで遠慮なく弄っていた後輩の機嫌を、今度は気遣うように何度も視線を送った。拓郎はそんな舛添の視線を感じつつも、軽い表情でPCに向かい合っている。拓郎は何事も気にする様子で席を立ち、冷蔵庫のペットボトルを取り出して、あらかじめ冷やしておいた水道水をラッパ飲みした。その一部を流しに捨てると、新たに水を注ぎ足して冷蔵庫にまたペットボトルをしまいなおした。

「幸田ぁ、終わったら飲みいくぅ?」

 先生に叱られたいじめっ子が謝る様な口調で拓郎を誘った。舛添や村岡は知っていた。これらの件を明日支社長に報告するのは他でもない、拓郎だという事を。そして拓郎は交通費の削減は上手く行かないことを支社長に報告し、彼の機嫌を損なわなければいけないのだ。拓郎は彼らの気遣いを感じながらも、「ありがとうございます。でも、この後予定があるんで」と、微笑で返した。

「おほ!なになにぃ?何だかんだ言って意外と……」

 舛添が突っかかる様に言ったので、拓郎は「そんなんじゃありませんよ、知人と約束がしてあって」と無表情で返した。

 終業後、同僚達に告げたように、拓郎は別の用事のため、都内某所へ向かう電車に乗り込んだ。内勤とはいえ正社員ではないので、拓郎はサービス残業に引っかかることもなく帰宅できたということと、都内に向かう上り電車はこの時間比較的空いているので、拓郎は楽に座席を確保する事ができた。退屈を紛らわせたかったが、休憩時間に舛添と通信対戦で遊びすぎたので、PSPの電源が残り僅かになってしまっていた。仕方なく拓郎は、吊り広告や網棚の上に貼ってある広告に目を通す。いつも通りのダジャレを効かせた『AERA』の広告に並んで、某大手宗教団体の雑誌が、微妙に宗教色を残して宣伝されていた。その吊り広告によれば、21世紀は宗教の世紀なのだという。なるほど覚えておくぜ、と拓郎は心の中で呟いた。

 拓郎がインターネットを本格的に使い始めたのは、専門学校に通い始めてからだった。それまで拓郎は新興宗教の団体には取り立てて文句はないという立場だったのだが、大型掲示板などを覗いてみると吊り広告の宗教団体を始めとして、実質彼らの被害にあった人間や彼らを毛嫌いする人間の書き込みが多くあったことに驚かされたのと同時に、一つの傾向に気づいた。ある眼差しがここには欠落しているのだと。この自分の上に垂れ下がっている広告も、あの掲示板に書き込んでいる人間からすれば、敵意の対象になっているのだろう。しかし……。拓郎がこれから都内に向かうのは、そういった自分の過去への清算も含まれているのかもしれなかった。

 新高砂駅から歩いて十五分、拓郎は大通りから脇に入ってやや閑散とした通りに面している雑居ビルへ入っていった。そこまで古すぎも小さすぎもない、正面入り口の自動扉から入ると、最早使われていないが申し訳程度の受付があり、それがギリギリこの建物を胡散臭いものになることを防いでくれていた。そのビルの狭いエレベータを使い3階へと上がると、3部屋ある中で唯一テナントが入っている部屋のドアを開けた。そのドアの横に貼り付けられている、金属プレートを一瞥しながら拓郎は思う。

「福音協会被害者の会」

 ……相変わらず露骨な名前だな。

「こんにちはぁ」

 拓郎が「福音協会被害者の会 関東支部」と玄関口に表示されている部屋に入ると、すぐに受付の女性が挨拶をした。拓郎も挨拶を返すとそのまままっすぐに、仮に与えられている自分の机に鞄を置いた。自分の本業のオフィスと、このオフィスは大きさもほぼ同じで、違うところといえば、稼働しているのがこの受付の女性一人だということ、そしてややこちらの方が小綺麗だということくらいだった。デスクワークの後にデスクワークかと、仕方のない笑いを浮かべながら拓郎は机上の書類を確認した。

 拓郎は半年前からこの「福音協会被害者の会」でボランティア活動をやっている。きっかけは実に些細なことだった。拓郎がたまたまおもしろ半分で閲覧したSNSのコミュニティで、福音協会の元信者の立てたものがあり、そこで数回やりとりしているうちに被害者の会の代表の亀田と親しくなり、そのまま流れで「じゃあ、会ってみましょうよ」という形に、そしてまたそこの話の流れで亀田に誘われ、簡単な手伝いということでここに参加するようになったのだ。

 ここに参加し始めて拓郎が意外に思ったのは、「被害者の会」という名目であるにも関わらず、元信者があまりメンバーとして活動していなかったということだった。亀田の話によると、他の宗教団体と違って福音協会は、信者から多額の寄付を強制したり、施設に人を囲ったりしないので被害状況が明白になり辛く、元信者も何かを取り返そうと進んで活動に参加してくれないのが原因なのだという。拓郎はその亀田の話を聞きながら、じゃあそれは被害がないということでいいのではないかとも思ったが、亀田の情熱はどうも他の所から来ているのだと感じ取ったことと、元信者のメンバーが是非とも欲しいという彼の熱意に押されて、なぁなぁに参加してしまったのだ。拓郎はそんな自分の経緯を振り返りながら、これもある意味、別の形での宗教に勧誘された人間の顛末のようだと自嘲していた。

 拓郎のここでの仕事は、完全なディスクワークだった。名簿を管理したり、メンバーの使う交通費やその他諸経費をパソコンでデータ化したりといった、完全な裏方の仕事である。つまり、拓郎が清掃会社でやっていることとほぼ同じものだ。ただそれは、この活動の全面に出たくはないという拓郎の要望を汲んでのものでもあった。領収書を整理しながらパソコンを起動していると、パーテーションで区切られた部屋から、拓郎の出社に気付いた亀田が、そのよく日焼けした顔を出してきた。

「おお、幸田君、今日もきてくれたんだ。悪いね仕事明けだってのに」

 亀田はまるでベンチャー企業の社長のように、小奇麗に身なりを整え人受けのよく、かつただ喋っているだけでも知性を伺わせる男だった。そんな亀田の笑顔に、「いえ、めちゃくちゃきつい仕事って訳でもありませんから」と、拓郎は少し気後れしたような笑顔でそれに応えた。

 被害者の会は「会」と銘打ってはいるが、その殆どが年に数回開かれる講演会の主催と会報をインターネットに流すだけなので、元々人数が必要とされないのだが、それでも「常時動いてくれる」という人間で且つ元信者の拓郎は、亀田の目からはかなりの即戦力に映るらしく、彼は拓郎を殊更重宝していた。

「所で幸田君。悪いんだけどさ、こんどある雑誌の記者が、うちにインタビューをしたいって言ってきてるんだよね」

 亀田は短いとはいえこれまでの付き合いから、拓郎が自分の発言を公に出そうとすることを嫌っているのを知っていた。しかし、全く全面にでようとしないというのも亀田からすれば拓郎を使意味がなくなってしまう。そして、拓郎も拓郎で亀田が自分を使というのは随分前から感づいていたのだが、その覚悟もさる事ながら、自分がここに参加している動機や、公に言えることが、亀田の望んでいるものではないということがあって、そういう申し出は極力断っていた。

 拓郎の顔が陰っているのを見て取った亀田は「いや、幸田君が嫌ならいいんだ。無理にとは言はないけれど」と、口を濁した。しかし、「いえ、自分が役に立てることならやりましょうか。もちろん、やれる範囲でということですが」

 その拓郎の言葉を聞くと、亀田は目を見開いて、「おお、いいのかい。じゃあ急で申し訳ないけれど、今週の日曜日とか大丈夫かい?」と、声を弾ませて言った。

 今週とは本当に急だな、と拓郎は思いながらも、「わかりました。今週の日曜ですね」と、それを承諾した。

 その日の帰り、珍しく亀田に誘われ、拓郎は事務所近くの飲み屋に足を運んだ。ここに来るのは、事務所に初めて顔を出した日以来だった。二人が訪れた韓国風の、民家が気合を入れたような造りの居酒屋は、今日が平日だということで来客ははあまり多くはなかった。二人が座ると常連の亀田は、店員と気安く挨拶を交わすと「とりあえず」ということで、ビールとキムチの盛り合わせを頼んだ。

「今日はありがとう」と、店のマッチでタバコに火を点けながら亀田が言う。

「いえ、今日はそこまで疲れていませんでしたし」と、タバコを吸わない拓郎は、亀田の眉を見ながら言った。

「うん、それもあるけれど、ほら、今日は無理なお願いを言ったからさ」

 そう言って亀田は、拓郎にかからないよう横向きに煙を吐いた。

「ああ。まぁ、こういうのも避けては通れない道ですよ。こういうことやってる限りは……」

 そう言いながら、所在なく拓郎は料理が来るのを待った。おしぼりを畳んでは広げ、意味もなく一回拭いた手をまた拭きなおす。

「そっか……。前から聞こうと思ったんだけどさ、幸田君は……どうしてこの活動に参加しようとしたの?」

 いつかは訊かれることだろうと予想していたことだが、改めて訊かれて拓郎は返答に困ってしまった。考える素振りを見せながらも、一切の言葉が拓郎の頭をよぎってはくれなかった。

「いやね、元信者の幸田君が参加してくれるのはありがたいんだよ、こちらとしてもね。ただ、たまに不安になったりすることがあってね」

「といいますと?」

 といいますと、と言いながら、拓郎は何も考えがなかった。

「う~ん。……ほら、今まで体験談を寄稿したり、インタビューさせてくれた人の中にはさ……、もう家庭崩壊したりだとか、カウンセリング受けないといけなくなった人たちとか結構いるわけだよ。でも……そういう人たちに比べるとさ、幸田君は何というか、言っちゃあなんだけど、……まっすぐだよね」

 ははっと軽く息だけで笑いながら拓郎は「ありがとうございます」と首を傾けて言った。

「ま、それはね。もちろん良いことなのかもしれない。でも、何というか、モチベーションが謎というかね……」

「ああ、そのことですか……。いえ、自分も普通に育ったとは思ってませんけれど、ただ、だからといって何でもかんでもおかしくなっちゃうってわけじゃないじゃないですか?そもそも、「普通」の家庭なんてなかなかいるようでいないんじゃあないでしょうか?」

 亀田が「まぁそりゃあそうなんだけどね」、と言っているとビールとお通しがきた。

「亀田さんこそどうなんです?あんまり、はっきりとした理由をお訊きしてなかったと思うんですけれど?」

 はぐらかす為に拓郎がそういうと、亀田はそうだっけ?いやそうだな、と自問自答してしばらく考えていた。

「俺がこれをやってる理由……。昔ね高校の頃、あんまり友達いなかったんだな、俺」

 意外ですねと拓郎が言うと、そうかい?と亀田はそのままジョッキのビールを半分まで飲み干した。そして半分まで飲み干されたジョッキをやや強めにテーブルに置くと、亀田は思案しながら、というより感情が高ぶるのを押さえるように言った。

「その時の唯一の友達がさ、あそこの信者だったんだ」

 拓郎と亀田の間で交わされる「あそこの信者」とは福音協会以外はない。その慎重さを感じ取った拓郎は、また慎重に頷いて聞いた。

「でね、そいつの家は熱心な信者だったらしくて。ほら、あそこってさ、終末思想があるじゃない?それでさ、あいつは大学に行きたかったらしいんだけど、親御さんにえらく反対されたらしくって」

 福音協会はその独自の教えの中で、いずれこの世は神によって滅ぼされ、そして神が永久に平和な世界を作るのだということを説いていた。故に彼らは世俗的なもの、貯蓄や社会的なステータスを求めることを無意味なものと見ていたのだ。亀田の友人が両親に大学進学を反対されたのは、自分達の子供が、いずれ来ると彼らが信じている神の世界を信じていない、という風に映ったのだろう。拓郎の行っていた教会でも、そういう親に大学進学を反対されたり、また親がその子供の希望を「長老」に相談する光景が見受けられていたので、拓郎にはすぐにそれが想像できた。

「その頃にはさ、そいつは結構、あそこの教義を疑うようになってたらしいんだよね。らしいっていうか、俺がその相談を持ちかけられたんだけどさ」

 そう言うと亀田は、で力なくジョッキに笑いかけそれを手に取り、最後までビールを飲み干した。

「あいつ最後まで、ホントにギリギリまで悩んでたんだろうな。……ほら、ガキの頃から行ってたもんだからさ、どっかで「信仰」って形で残ってんだよね、ああいう人って。それに加えてねぇ、やっぱ親との確執がどうしてもあったんだろうな。信仰を捨てることが親への裏切りって本人が考えてるところがあったみたいだよ……。それですっげぇ苦しんでてさ」

 亀田はまたジョッキを手に取ろうとしたが、空だということに気付いて、カウンターに向かって「ビール」と声をかけ、そのまま喋らなくなってしまった。

「そのお友達は……今?」

 しばらくの沈黙の後、用心深く拓郎が訊くと、

「死んだよ」と亀田が切って捨て、「自殺だったよ。両親は受験のストレスだとか思ったらしいがねっ」と言った。

「それは……どうも、悪いことを訊いてしまったようで」

 拓郎が頭を下げると、亀田はいいんだという風に手で制止して「どっちかというと、滑稽だったのが学校側の対応だよ。死因を明らかにしなかったんだからね。病死だとか言ってたな」

何事かに怒りながら、そして何事かを嘲りながら、亀田は決してどもることなくはっきりと話しきった。そしてそんな亀田の話を聞きながら、拓郎は自分のこの活動の参加している動機が、当事者でありながらあまりにも小さいことのように感じ始めていた。

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