第2話
故郷の町へと向かう電車の中の車窓から町を見下ろす。しばらく帰らなかった故郷の車窓の風景は、所々変わっていた。しかし、かつての工業地帯を取り壊し、そこに長閑な公園つきのマンションを建てようと、駅の周りにいくらコンビニやショッピングモールで華やかに飾ろうが、僕にはそれらが全て過去の何事かを白々しく覆い隠すため、封じるため、押し込めるための重石のように見えてしまう。
僕はここにいない子供だった。自分と皆との周りには見えない、弾力のある丈夫な壁があった。友達一人一人と遊ぶ時にはそれは意識しなくてよかったが、集団になればなるほど、そしてその集団が何かをしようとするほど、僕の前にはその壁が柔らかくゆっくりと、しかし息苦しく迫っていた。それは十数年経った今でも薄ぼんやりと残り続けている。
――今日は正輝君のお誕生日会です。皆でお歌を歌いましょうね。
――もうすぐクリスマスですね、皆でお友達と一緒にプレゼント作りをしましょうね。
お遊戯会にお誕生日会。僕にとって、みんなが集団に溶け込むと時には本当に、「溶け込んで」、一人一人の存在が失われていくように見えた。まるで黄色い園児服がバターみたいに溶け合って呻き声を上げているのではないかというように。幼稚園は、子供に最初に集団生活を教え込む場所だ。だからこそ僕は、その幼稚園で最初の疎外感を学ぶことになった。
そんな僕が疎外感を感じずに居られる場所は母の待つ家しかなかったが、その母の待つ家も、やがて僕を僕自身から疎外した。ここではないどこかなどあるはずもない、ここでしかありえなかったのに、僕は場所を失った。幼稚園での集団からの孤独と、家で一人居ることの孤独。子供の頃はそれが孤独と言う名称を持つ感覚だとは分からなかったが、あれから二十余年を経て多くの名詞を学んだ後、そして自分に距離を置けるようになってから、それがその名を持つのだと理解するようになった。誰一人迎える者の居ない自分のアパートに帰る感覚によく似ている。自分が何にも背をもたれさせることのなく、また自分に背を持たれかける者もいない、自分で自分の平衡感覚を保つのすら難しいあの状態だ。
そんな僕が自由になれたのは彩奈を通してだけだった。僕にとって、僕と同じやり方で同じ境遇にある子供たちと居たところで、それは自分の壁をより具体的にするばかりで何の救いにもならなかったが、違うやり方で同じ境遇いた彩奈と居る時は、彼女を通して別の疎外を、孤独を知ることができた。幼稚園にも行かずに僕を待っていた彩奈、待たざるを得なかった彼女は僕にとって可能性だった。奇妙に引き合ったのだ、決して周囲から見えないように背中だけが痛んだ僕と、思う存分体を痛めつけられていた彼女は。彼女は僕に痛みなど無いと信じた、僕は彼女には痛みしかないと思った。僕たちにとってそれは互いに救いだった。
※※※
ただでさえ狭い清掃員の控え室に、その日出勤していた清掃員全員を集め、拓郎が支社長からの伝言を清掃員たちに伝える。大型商業施設の従業員控え室は、表の
今日出勤している人間は全員が拓郎より年上だったこともあり、そこには微塵も畏まろうとする意思はなく、拓郎もそれには同感だった。こんな自分の子供と同い年か年下の人間の言う事なんか真面目には聞いてられるはずもない。百歩譲って真面目に聞いたとしても、神妙になるなどは。呼吸とエアコンダクター、気体が揺れる音が、場の空気を重くしていた。
「ええっと、本日ですね、支社の方にオフィステナントの人間からぁ、清掃員に侮辱的な言葉を投げかけられたというクレームがあったそうです……」
数時間前、サン・ビルメンテナンスのオフィスには、普段でも高めの支社長の声がより一層甲高くなって響いていた。
「はいっ、はいっ、ウチの清掃員が?はい、申し訳ありません」
拓郎と舛添は「またか」という顔でお互いを見合わせた。暫くの間、「はいっはいっ」と「申し訳ありません」のバリエーションを微妙に変えながら支社長が謝罪をし終えると、向こうが受話器を置いたのを確認してからだろう、「ああ~くそっ」と言いながら投げ捨てるように受話器を放り投げて支社長は呻いた。しかし舛添も拓郎も、支社長に話しかけられるまでは厚い皮を被ったように無表情に努めていた。彼らにとって取り立てて珍しいことでもなかったからだ。
「クレームっ」
苦虫を噛み潰すように支社長が二人に話しかける。しかし、舛添も拓郎も「そいつぁどうも」という感じで軽く引きつった苦笑いを浮かべて、この部屋にある何者も刺激しないよう無難な対応をした。
「ウチの清掃員から文句言われたんだってさ、マーヴェラスの社員がっ」
「マーヴェラス!」
支社長の口から出た「マーヴェラス」という単語に、舛添は軽い絶望感を付け足してオウム返しをした。
「マーヴェラス!」
次に舛添は、「MARVELLOUS」の単語の意味をそのまま当てつけるように拓郎に言い放ち、拓郎は「分かってますよっ」とうんざりしながらそれに応えた。
この横浜支社が請け負っている都内の総合オフィスビルには、日本企業だけではなく外資、しかもかなりの大手が複数入っていた。その中でも「マーヴェラス」はビル会社が頭を下げて入ってもらっている、謂わば「お得意様」であって、それを知ってか知らずか、そこの社員は他のオフィステナントの社員達よりも随分と横柄に振舞っているように清掃員達には見えていた。
「どうせ些細なことなんじゃないんすか?向こうは外国人多いから、日本語聞き間違えたとか」
舛添が場の雰囲気を和ませようとして言ったが、支社長の顔は晴れなかった。以前は舛添が言う様に、先方には「誤解ですよ」ということを言っていればよかったのだが、ここ最近は事情が変わってきていた。清掃の受注先もまた経費削減の必要性に迫られ、ことあるごとに清掃員の削減をサン・ビルメンテナンスに迫っていたのだ。そしてクレームや仕事の不始末は、受注先の恰好の清掃員削減、もしくは契約金減額の理由付けになってしまう。
「ちょっくら行って来るわ……」
支社長がスーツを颯爽と羽織ったが、足取りはよろめきながら事務所から出て行く。恐らく先方に申し開きをしに行くのだろう。出ていきざま、「お前らも気をつけろよ、ウチ最近多いんだからなっ」と、ドアから半分だけ体を覗かせて拓郎達に釘を刺した。
「やってらんねぇよな、ったく。ファッキン・マーベラスめっ」
支社長がドアを閉じると、舛添が会社のパソコンでウィキペディアの「マーヴェラス」の項を閲覧しながら言う。
「クレームが増えたって言ったってさ、この間のクレームがどんなんか聞いた?」
「福田さんがまた勤務中に酒臭かったってことですか?」
拓郎はエクセルで勤務表を製作しながら、舛添の言葉を流すように聞いていた。
「いや、それもあったけどさ……、そうじゃなくて、林さん居んじゃん」
「ああ、ウチの紅一点ですね」
「おめ、紅一点ってのはなぁ、女がその人しか居ない場合に使うんだぞ」
「間違ってます?」
「……いや。でさぁ、この間林さんがクレームもらったのよっ」
「彼女が?初耳ですね」
そこでようやく拓郎は向かい側の席の舛添……の眼鏡の蔓を見た。林さんは「彼氏が居なければウチの男達は皆狙う」とまで言われている、清掃員にしては綺麗な女性だったからだ。
「内容なんだったと思う?」
「なんすか?」
「……「男子便所掃すんのに若い女使うな」だとさ」
「なぁんじゃそりゃあっ」
探偵物語の最終回のように拓郎が呻くと、舛添はフェフェッといつものように気の抜けた笑いを浮かべた。
「若い女の子使われると、安心して用足せないらしいぜ。まぁ分からんでもないけどな」
拓郎は釈然としないながらも、確かに若くてちょっと可愛い子が、自分が用を足している時に後ろで掃除をし始めると気まずいだろうなと思った。更にそれが個室から出てきたときならば最悪だ。
「……『アーロン収容所』って知ってる?」
「……いえ?」
「第二次世界大戦の時にさ、日本兵が収容されてたイギリスの捕虜収容所の話」
舛添は家でも四六時中ウィキペディアを閲覧しているような男だったので、浅学ながら妙に博識なところがあった。あまり世間に疎い拓郎を馬鹿にしがちだったが、話していて退屈な男ではない。
「そこの捕虜の日本兵がさ、白人の寝室なんかを掃除させられるわけよ。で、その部屋にはそこの奥さんが裸に近い恰好で寝てたりするんだけど、白人連中は日本人が入ってきても一向に気にしなかったんだと。……まぁ要するに黄色いサル共は人間じゃないって感覚だよな。だから恥らう必要が無い」
そこまで言うと舛添は拓郎の方を意味深に見た。その時点で、大体舛添の言いたいことは拓郎にも分かった。皮肉な笑いを浮かべる舛添が、私物と仕事の書類が混雑している机の上から抹茶オレを手に取ったが、殆ど中身が入っていなかったせいで紙パックはズルズルと不愉快な音を立てた。しかし拓郎が気になったのはその音よりも、舛添の手首に付いている深くて長い切り傷だった。以前、現場で働いていた彼が「燃えるゴミ」を仕分けしていた際、燃えるゴミだけが入っているはずの袋の中に割れたガラス瓶が混入していて、その瓶で舛添は手首に重傷を負ったのだ。その瓶は鋭利だっただけでなく、ゴミに含まれていた雑菌がふんだんに付着しており、舛添は数種間高熱に苦しんだだけで無く、手首には流れるような形の異様な傷跡が残ってしまった。その頃からか、拓郎には舛添が妙な憎悪を持ってこの仕事に接するように見えていた。誰かの些細な無関心、最初はほんの数ミリのズレだったのかもしれないが、それが前へ進んでいくうち次第にそのズレが広がっていき、最終的には一人の男の手首へと、憎悪の根拠を残したのだ。
「……ええと。なんでも、清掃員に煙草を吸ってることを注意されたそうなんですけど……」
支社長のクライアントへの申し開きから数時間後、拓郎は例のごとく支社長から清掃員に対する「説教」を押し付けられていた。
「何で悪いの?喫煙コーナーの外で吸ってたんだろう?」
清掃員の宮本が、憮然とした物言いで拓郎の言葉を遮った。どうもこの職場は情報が行き渡るのが早い。なるほど、クレームの予感はしていたということか。
「勿論そうです。喫煙コーナー外で煙草を吸うのは良くありません。しかし、です。我々の仕事はあくまで清掃、であって。ゴミを捨てる人間や汚す人間にあーだこーだ言うことではありません……」
「黙って掃除してろっての?」
再度宮本が拓郎の言葉を遮る。
「……まあ、言ってみれば、そうなります」
「じゃあ俺達って何なのさ?」
拓郎は歯を食いしばりながら、真顔で周囲を見渡す。
「大体マーヴェラスの奴等、いっつも我が物顔でさ、そこらへんで吸ってんじゃないか。清掃員がどうとかより、人として注意すべきなんじゃない?我々だって奴隷じゃないんだからさ」
宮本に煽られ、他の清掃員達もやや不満な面持ちで拓郎に食い下がってきた。まるで声の勢いと一緒に、加齢臭まで飛んできそうな勢いだった。
「とぉにかくです!今人員削減でこのビルの管理組合も目を光らせてます。警備員を見てくださいよ、この一年間でどれだけ配置減らされてます?裏通りの関係者入り口なんてもう人がいないじゃないですか。皆さんのお仕事のためですよっ。お気持ちは分かりますが、クレームになりそうなことは避けてください」
拓郎は大きく手を叩いて話を打ち切ろうとした。しかし、
「要するに、会社は俺達を守ってくれないってことね……」と、鈍く、深い、腹の底から出したような誰かの声が拓郎の耳を打った。拓郎は空気人形のように、頭の栓が取れてシュルシュルと音を立てて体が萎んでいくように感じた。
帰りの電車の中で、拓郎は座席の上で放心状態になっていた。放心状態というよりも、体の一部一部が機能する事を拒否していのかもしれない。網棚に放置された雑誌を手に取る気力も無く、またゲームの電源も入れる気力の無い拓郎はいつものようにぼんやりと中吊り広告を眺めていた。
――格差社会激化
――だから日本企業は世界で勝てない
――男と女のセックス観の違い
実はあれはここ数年同じものを何度も使いまわしているのではないだろうか。そう訝しみながら、拓郎はうっすらと目を閉じた。
自宅に帰ると拓郎は自宅のPCでポータブルゲームの攻略WIKIを開いた。下戸で煙草も吸わず、ギャンブルが好きでなければ彼女もいない。何かしら人生の目標などまったく無い拓郎には、昼休みや就業後に舛添とやるゲームだけが娯楽になっていた。いや、それだからこそ自分は煩わしい物に時間も労力も、そして金も使うことが無いのだと拓郎は自己を正当化することで日々をやり過ごしていた。事実、これに熱中している時は、余計なものの一切を考えなくて済むのだ。過去も未来も、すべてが自分を重くするようにしか思えない拓郎にとって、唯一の特効薬だった。置いてあるものが殆ど無い拓郎のワンルームのアパートは、何事かを積みかせねることを嫌がった、拓郎の人格そのものように簡素だ。
PC以外明かりの無いワンルームの部屋で、息を潜めながら暫く攻略法を見ていた拓郎だったが、亀田に頼まれていた仕事を思い出すと鞄からUSBメモリを取り出しPCに繋いだ。そこに保存されていたファイルには、「福音協会被害者の会」の協力者の連絡先や、次にホームページに載せる原稿等が保存されていた。拓郎の今日の仕事は、連絡先を亀田に分かり易くエクセルに纏めることと、原稿の誤字脱字を訂正することだ。
原稿を開いた途端、拓郎は何事かと目を疑った。
「真の信仰の為に」
そう大文字でデカデカと表示された原稿の題名。以下の文には福音協会にはまったく言及されずに、キリスト教がどれほど素晴らしいか、神にはどうやって願いが聞き届けられるのかという説法のようなもの、というよりも説法そのものが書かれていた。まるでカトリックの坊さんの文章みたいだなとざっと目を通していたら、案の定この文を書いたのはプロテスタントの牧師だった。教会の字が協会がになっていたり、段落の頭が半角スペース開いていない文を訂正するなどして次の原稿を開くと、次は福音協会の二世が書いたものだった。恐らく拓郎と同い年、もしくはそれより下なのだろう、彼は二十数年の自分の人生を振り返り、自分の何が福音協会によって損なわれていったかを綴っていた。
「福音協会であったことが原因で、人とのコミュニケーションがいまだにうまくとれない。「空気を読まない」と言われる事もある」
「終末思想を信じていたから、子供の頃はまともに勉強をやらなかった。一般常識も欠けているところがある」
「物事を悲観的に考える癖が付いてしまった」
等など、拓郎はそれを読みながら「へぇ。二世会員て、こうなんだぁ」と目新しいものを見るような気分になっていた。
拓郎は二世会員として苦難を味わった執筆者と、自分の過去をを比較して思い起こす。そもそも今までの人生で拓郎は自分が二世会員であることを同級生に話したことが無かった。それは職場に関してもそうだった。話す必要などなかったからだ。積極的に自分のマイノリティをアピールしなければいけない機会など殆ど無く、うまくコツを身に着ければ世渡りが上手くいくことは十代の半ばには分かってきていた。仲間と母親、頭を隠して尻が出ていれば尻を隠し、そして頭がまた出たら素早く頭を隠す。両方に隠し事をしながら拓郎は均衡を保ってきていた。
ただ単に、この二世会員とやらが生来不器用なやつなんじゃないだろうか、そうディスプレイ越しのまだ見ぬ相手に憐憫の眼差しを向けていたのだが、次の瞬間、光のかかった少女の顔が拓郎の脳裏をよぎった時、拓郎の首筋を後ろから、何者かが冷たい指先で軽く撫でた。
その少女の名前を危うく口にしようとするのを堪えて、拓郎は静かにPCの電源を落とした。
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