金髪の男
鳥海勇嗣
第1話
金髪の男がいた。もちろん外国人などではない。いや、外国人もいるにはいるのだが、こういったところにいるのは中東系やアジア系、アフリカ系がほとんどで、例えアジア系であっても日本人とそれ以外の区別は何となくつくようにはなってきた。なので彼は日本人なのだ。金髪とはいえ根本からの四分の一が黒髪で、そして恐ろしく背が低い。多分155くらいだろう。年齢は50前後と言ったところか。彼はリアカーばかりを引いているので、ユンボなどの重機の免許を取っていないらしい。金髪なので警備員も無理だろう。勿論染め直せばいいのだが、彼はそういうことをしそうにはない。オッサンでチビで日雇われ者で、おそらく何のスキルはなく先は全くないとしか思えない。人生ターニングポイントならぬターミナルポイントである。きっと彼にとってあの金髪は、自信の最後の尊厳を保つリーズナブルな手段なのだ。いや、もう既に失われてはいるのだけれど、彼自身がまだ持っていると信じている尊厳か。
そんな金髪の男がいる高層マンションの建設現場は、その後に築かれる豊かな家庭など想像もつかないくらいファンキーだ。職人や現場監督、建設業者の人間も勿論いるが、人足として駆り出されている多くの日雇い者は実質の無職で、ターバンを巻いた外国人労働者や、何かの宗教をやっているのかというくらい髪を伸ばして、そしてそれを束ねてグルグル巻きの帽子状にしている奴もいる。一見何の変哲もない20代でも、やっぱりこんな仕事を長くやってる奴ならば、何かが欠落している。わざわざ沖縄から上京してきて、何事もなそうとすることなく日々を過ごし、やることといえば日給が毎週銀行振込だからということでその日に馬やパチンコで擦ってしまう奴などは、思考回路がどうなっているのかマヂで分からない。そんな奴らがねり歩く土壌は、いずれは芝できれいな緑を彩るだろう中庭になるのだけど、いまはまだ赤茶けた土でグチョグチョになっていて、もしかしたらその先にある仮設トイレから汚物が流出しているのではないだろうかという事を邪推させる。数ヶ月後には、その汚物ともつかない何かが埋め立てられたところを、年収一千万はあろうかという家のガキがキャッキャとはしゃぎ回るのだ。日雇い者になってから、どんなに荘厳な門構えの高層マンションをみたところで、まるで貧民街出身の商売女が、過去を誤魔化し気取って良い服を着込んで歩いているようにしか見えなくなった。お前さんのお里は知れてるんだぞという感じだ。そして日雇い者達は、そのアバズレをこれからセレブにする胡散臭せぇ『マイフェアレディ』のオッサンというわけだ。映画は観たことないけれど。そんな工事現場に派遣されるようになってから、最初に衝撃を受けたのがさっきも言った仮設トイレだった。初体験が夏場だったせいで特に酷くて、箱の内容量の十分の一を占めているのではないだろうかという大量の蠅に、アフリカの子供みたく体を弄ばれながら用を足さなければならなかった。ボットン式の穴を覗けば、そこには労働者たちがたんまり溜め込んだ糞尿がこってりと混ざり合っている。肉ばっかり食ってる奴や腹の調子の悪くて下痢気味の奴もいるのだろうけれど、混ざり合った糞尿は調和を成して一つの「糞」になる。臭いも嗅ぎ覚えのある硫黄っぽい、脳天をぶん殴るような臭いの「糞」、四の五言わずの「糞」っぷりだ。まぁつまり、糞も混ざり合えば個性を失うのだ。その一つになった糞尿達には、無駄な抵抗とばかりに小さな芳香剤がちりばめられてキラキラ光っている。見ようによっては星空みたいでなんだか笑えてしまう。いや、宇宙自体、神様が肥壷に溜め込んだ糞尿なのかもしれない。そんな仮設トイレで糞をするのが嫌でたまらなかったので、トイレは必ず現場に行く前に駅で済ますようにしていたのだが、悲しいかな、それを続けていると仕事が休みの日でも駅にいるともようしてしまう体になってしまった。しかし、その仮設トイレの使用拒否だけが、ここで正気を保ち続けるためのシン・レッドラインなのだ。外の人間にとってはなんと些末だと思われるかもしれないが、当事者にとっては譲れない意地でもある。
「いつまで続けてんだよ。うるせぇよマジ」
建設現場の昼休み。絶えることのなかった鉄骨の鳴き声や重機の振動音も休んでいるこの時間、ゲートに立っている警備員が、付近の住民らしき、「湘南の風」の『純恋歌』を聴いて本気で涙ぐんでそうなアンちゃんにからまれていた。警備員の男は配置前に教え込まれた文言を、ひたすら繰り返す。「申し訳ございません。ご迷惑をおかけします」と。男はそれ以外どうしようもないが、それを知ってか知らずかアンちゃんはひたすら絡み続ける。いや、その繰り返しの、惰性に近くなった文言にこそアンちゃんを怒らせているのかもしれないが、「責任者だせよぉ、おい」などと言われても、彼にはどうしようもない。下っぱの下っぱ、城で言う外堀の足軽にいったいなにができるのか。いい加減埒のあかないと思ったアンちゃんは、最後に警備員の足下に唾を吐いてその場を去っていった。それを見ていた高校上がりの派遣バイトが通り過ぎざま、無邪気に仲間と「大変だよなぁ。あんな仕事できねぇよマジ」と言いあって苦笑いをする。多分警備員には聞こえていただろう。
そんな様子を遠目から気にしていると、「飯どうする?」と、同じ派遣元の友人・浅田がハンドタオルで顔を拭いながら訊いてきた。
「買ってある」
「用意がいいな。また金欠?」
「ああ、支払いがしんどくてさ。もう支払いのために生きてるって感じだよ」
食費に家賃光熱費、その他諸々で、働けど働けど我が暮らし楽にならず、ってあの時代には国民年金やら健康保険はあったのだろうか。もう長いこと両方払ってないので病院にいくのが怖くて仕方がない。確か年金もある年齢まで払わなかったらアウトらしいので、その時までには、どうにか、なんのかよ?
作業員が気持ちだけ着替えて街へ繰り出したため、寒々しい静かさを醸し出している詰め所で一人もそもそとパンを食う。浅田には「パン」と言ったが、食パンや総菜パンなどではなく、朝に急ぎで買った140円の駅構内のカフェのホットドッグ。酷い現場では昼休みを取らせてもらえないこともあるので、時間がなくても何とか朝飯の確保だけは堅守しなければならない上、先日家賃と高熱費を払ってしまったために、今は本気で金がない。交通費ギリギリのラインでのやりくりだ。ホットドッグは朝に半分食って、今その半分をモサモサ喰う。取り合えず、この空腹が満たされればそれで良い。現場に残っているのは一人かと思ったら、あの金髪の男も残ってた。なぜか男はつまみようのチーカマやイカゲソの唐揚げを昼飯にお茶を飲んでいる。まったく、燃費が良いのか悪いのか。
やがては駐輪場になるであろう空間の、塗装前の灰色の天井を見上げながら飯を食っていると、ここに充満しているコンクリートの粉末や廃材の臭いで、ホットドッグはホットドッグではない味になる。そんな味をなんとか誤魔化そうといろいろ考えようとすると、うっかり今日は大学に通っていた妹の卒業式だということを思い出してしまった。いや、朝から知ってはいたが、金欠の状態で式なんかにノコノコ顔を出したところで後々後悔するだけだし、こっちに来ている唯一の親族とはいえ、こんな兄に出席されても妹も困ってしまうだろう。そんなことを考えながら悶々としていると、顎の動きが妙に鈍くなってきた。
昼休みが終わり黙々と作業が開始される。作業といってもやることと言えば、トラックから運び込まれる備え付けの家具を運ぶだけだが、これがなかなかの曲者で、特にこんな高級マンションともなると、システムキッチンはバカデカい上に大理石なんかもついている。それを若さと時間だけを売り物にしている日雇われ者が、垂直落下式ブレーンバスターの体勢で抱え上げ、ぬかるんだ赤土を木板で、または鉄板で申し訳程度の舗装が施された導線を、リズミカルに歩いて資材や備え付けの一室一室に運んでいくのだ。酷い時には階段でそれらを運ばされる。これだけ文明が発達しているのにも関わらず、最後の最後は手作業だというのに驚かされる。もう秋だというのに汗が絶え間なく流れ、500mlのペットボトルを三本飲んだ筈なのに、下半身は一度ももよおすことがない。汗は額を、首をつたり、作業用の私服を湿らせていく。その汗はコンクリートの粉を含み、目に入れば視界を奪い、口に入れば舌を痺れさせる。その液体は、最後には服に染み込み臭いを発し、見た目だけでなく体臭までも人を肉体労働者に仕立てあげていってしまうのだ。妹にはこの臭いを毛嫌いされ、もう長いこと「お兄ちゃんと洗濯物は別」の刑に処されている。いや、もう毛嫌いを通り越して、見て見ぬ振りをされているのか。死にかけの野良猫。もう少しこぎれいならば頭でも撫でられようが、体液を流しながらアスファルトに半分へばりついて「ミィミィ」と鳴く様を見せつけられたら、哀れを通り越して痛々しいとしか言いようがない。
時間内に勤務が終わり、もしバナナだったら散々スイートポットができているかもしれない体を引きずりながら、妹とルームシェアしているアパートに帰宅して、シャワーも浴びずに布団に寝っころがった。こんなんだから妹が顔をしかめるのだと分かりながらも、生理機能は清潔よりも休息を求めているのだから仕方がない。水分補給の為、体を何とか起こして百均で買ったコーラを冷蔵庫から取り出し、そのままラッパ飲みをしていると、玄関が慣れた手つきで音を立てた。何も悪いことをしていないのに、この音の度に体を僅かに緊張させるようになったのはいつからだろうか。
「ああ、帰ってたんだ」
「うん。あれ、袴とかじゃないんだ?」
妹より早く家を出たので、どんな格好で式に出ていたか全く知らなかった。
「どこで用意するの」
「いやぁ、貸し衣装屋?」
「お金がもったいない」
「でも、それリクルートスーツじゃん」
妹はそれに対して、ハンドバッグを無言で部屋のベッドに放り投げるという行為で答えてくれた。スイマセン、うざいですね。
「どうだった、式?」
妹は冷蔵庫から牛乳を取り出し、目も合わさずに「別に。ただ、結構みんな親とか来てたからね。少し寂しかったかな」と言いながら、牛乳をカップに注いだ。「タケシが来てくれてなかったら、別の意味で泣いてたかもしれない」
そんな悲痛な妹の告白に、「ふがいない兄で申し訳ない」と、おどけて言おうとしたが、その言葉が喉につっかえて出てこなかった。
「……どっか行かなかったんだ?彼氏と」
「一旦解散したの。こんな格好じゃあ遊びづらいから」
「そっ……か」
「他は……、家族と一緒に過ごす子たちもいるみたいよ」
その言葉は一体何を期待してのものだろうか。実家の両親は札幌で自営業を営んでいるために、こんな関東までわざわざ来るための時間も無ければ金も無い。そんなに両親に来て欲しければ、自分で金を出せといわれてしまうところだ。では、就職してからすぐに「大人に傷つけられた」といって会社を辞めた、負け犬街道まっしぐらの兄が出席すれば良かったのだろうか。
妹は酒のように牛乳を飲み干すと、軽く流しでカップを洗い、背中から表情を見せずに「たまった洗い物やっといて」と、言ってきた。妹は、やはりこちらを見ずに部屋に入ると、すぐに動きやすい服に着替え、とっとと彼氏に会いに出て行ってしまった。一つ上の先輩で、今はしっかりと社会人をやっていらっしゃるタケシ君。彼女の兄とは大違いである。妹の、ドアの音だけを見送った後、現場の臭いが染み着き始めた部屋に体を放り投げ、夢のない眠りについた。
次の日は、前もって百均で買っていたロシアパン、長いパンに砂糖をまぶしただけの、量だけが取り柄のシロモノを、行きの電車で貪りながら現場に向かった。駅の広告には飲食は控えましょうみたいなものが張っていたが、そんなこと知ったこっちゃあない。安定感抜群の正規社員か、はたまた専業主婦、お暇な学生に向けられた広告なのだ、あんなものは。時間をひたすら削り続けている労働者へのものではない。そんななりふり構わない労働者に、化粧をする女性や音漏れのお兄さん、頭から酸っぱい臭いのする、禿げたサラリーマンを乗せた電車は、その頑丈な鋼鉄の胴体で、皆のやり場のなさを強制的に封じ込めている。一様に皆何かを堪え忍ぶ様は、ガキの頃夢見た、ジブリにでてくるようなすてきな日常とは果てしなく無縁だ。「色々悲しいこともあるけれど、私はまさに疲弊しています」と。
集合の駅についたら派遣先に到着報告の電話を入れて、同じ派遣もとの奴らと合流する。7割くらいの見知った奴らに、残りの知らない奴。彼らはこのままここで停滞するのか、はたまた中継地点か。そんな集団を眺めていると、その中の一人、昨日も一緒だった浅田が力無い笑顔で手を振ってきた。今日も少しは退屈せずには済みそうだ。
すでにやるせなさを含んだ足取りで向かう、ここ数日連続で派遣されているマンションの建設現場は、組立式の板でしっかりと囲いをされている。果たしてこれは中を守るものか、それとも中の不浄のものが外に漏れでないようにする為なのか。そしてこの囲いに追い込まれる日雇い労働者は、ゲットーに押し込められたユダヤ人か、よくても毛を量産するしか脳のない羊の群といったところか。「人材派遣」なんて狂った名前が、平気で流通する世の中だ。「人」が「資材」なのだから、あながち卑屈ではないといえる。
幸せな?家庭の暖かい音が響く前、建設現場では血の流れない、鉄が打たれる音や重機の音がひたすら木霊する。一定のリズムがないその音の中で、日雇い者達は、自分の中の鼓動で均整を保ちながら作業に努めるのだ。
「数学はなぜか勉強しなくても良くできたよ」
そんな作業をしながら、日雇い者の集団の真ん中でプチ自慢をする20代半ばのバイトリーダー。重いシステムキッチンでも、コツを掴めばそこまで体躯の良い奴でなくても運べるので、日雇い者達は節目節目で世間話をしながら作業をする。バイト「リーダー」とはいえ、何か取り立てて資格があるわけでもないし、特に給料も良いわけではない。単に派遣会社に都合の良くバイトを取りまとめてくれる存在というわけだ。ある意味陰では「会社に使われて可哀想」呼ばわりされていたりもする。自分で言っているように、頭の回転がそこそこ良く、ある程度勉強ができるが、大して人生で目標も無かったためにこういうことをやっている人間が多い。体も典型的な中肉中背、もしくは少し高いくらいの奴がほとんどだ。いわゆるダメ理系というものなのだが、言い訳紛いの理屈っぽいダメ文系よりはまだましか。そして、そんなバイトリーダーを中心に日雇い者は纏まっていく。できる奴、長い奴、そしてできない奴。できない奴を「アイツ使えねぇ」と、誰かが笑えば、対象となる彼が憎くなくてもその「悪く言う」という行為で連帯ができていく。いや、それ以上にタチの悪いのは、憎いはずでもなかった対象が、「使えねぇ」が繰り返されるうちに、本当に憎悪の対象となっていくことだ。「人材」と呼ばれる自分達ですら、如何に良い素材であるかを競い始め、その価値で人の優劣を値付けしていってしまう。資材に堕ちた人間は、心の均整を保つのに必死なのか。「あれよりは良い」と、見えない集団が呟く。鼓膜を通り越して脳に直接響いてくる声が、日雇い者達の歩みを力強くする。そしてその最底辺にいるのが、派遣元は違えど(というよりどこが派遣元か分からない)、現場の名物おじさんとなっている金髪の男といったところか。今日もまた、一人離れたところで、廃材なんかをリアカーに乗せて運んでいる。彼の着込む赤紫色のボンタンは、歴戦の勲章とは言い過ぎだが、所々すれて、かつペンキによって変色してしまっている。ただ彼歩くだけで粉とかが落ちてきそうだ。
住所は不定、風呂に入るのは風俗限定。健康保険は20年間払っていないし、年金は貰えない。給料は闇金の利子で吸い取られ、にもかかわらずそこからまた金を借り、そしてそれまでもがパチンコで消えていく。どこまでが本当か分からないが、誰もが彼の話をして「終わってる」「ああはなりたくない」と嘲笑と侮蔑をくれてやり、誰もが彼を嫌がりながらも、知らず知らずの内に凝視する。このぬかるんだ土に、申し訳程度に敷かれた足場としての彼は、一体どこから終わり始めたのか。果たして意図的にああなろうとしてなってしまったのか。もし、何者かの企みによって、日雇い者の心の安定のために彼が存在しているのだとしたら、以外と利用価値もありそうだが、それはそれで随分と出来過ぎだ。
「ああ!?何つったお前今!?」
心を灰色に染めながら作業に従事していると、ゲートの方から聞き慣れぬ罵声がした。それは仕事上の関係から生じるものではなく、純粋な怒りから発せられる、仕事場には似つかわしくないものだった。
見るとゲートに立っていた警備員が、今日もまた付近の住民だか通行人に絡まれていたようだ。その彼の正面に立っているのは、町工場の社長みたいな奴で、その隣にはオッサンには不釣り合いなくらい派手な格好をした年増がめんどくさそうに立っていた。あれは、あれか。昼間っからの同伴デートか。うん、今日もまた人柱ご苦労さん。そうだな、女連れの男というのは、下らん見栄を張るから本当に質が悪い。そんな感じでいつものように、哀れみの眼差しを飛ばしていたのだが、今日はいつもと警備員の様子が違う。今まで背中を丸めて立っていた記憶のある彼だったが、今日は少し腰を上げて流れをいなすような姿勢になっている。そう僅かな異変を感じた刹那、オッサンは彼に襟首を捕まれ、そのまま力任せに押し倒されてしまった。なるべき光景がなるべきようになっていない。その光景の異質さに次々労働者たちは目を奪われていっていた。いくばくもの窮乏とやりきれなさ、それらが噴出したのか、彼には耐え難きに耐えることが不可能だったのだろうか。遠くから見えた彼の顔には、怒りと同時に一種の開き直り、この衝動に任せて全てを失っても良いと言わんばかりの清々しい狂気が浮かんでいた。疑いようもない異常事態である。
周囲からは無害だと思われていたアイコンが、一瞬にして牙をむく。果たして彼を侮辱したオッサンは、彼にそうなるほどの人格があったと想像しただろうか。制服に身を包んだ、建設現場の備品程度の物に見ていた彼に、自分と同じような感情があるなどとは、きっと失念していたに違いない。倒されたオッサンはおののいて目を見開き、だるそうに隣にいた水商売の年増は、どう振る舞って良いか分からずに、オロオロしながら周囲に助けを求めるでもなく視線を泳がせていた。しかし、とうの警備員も忘れている。彼を「侮辱し続けて」いたのはそのオッサンそのものではなく、やはり別々の個々人だったはずだということを。結局彼も、「通行人」というくくりで他者をアイコン化し憎悪している。しばらくすると監督らしき男達が数名駆け寄って事態の収拾を図ろうとしていたが、もう開き直りを決め込んだ男には何を言っても通用しない。アドバンテージを得たと、オッサンが腰を上げながら改めて警備員を非難しようとすると、彼は周囲の制止を振り切り、オッサンにまたすごみ始めた。ここは学校ではないし、あの責任者とおぼしき男達は彼の親では勿論無い。恐らくぶん殴ってでも黙らせたいところだが、そこは許されぬのが大人の社会と言ったところか。そして多分、その警備員もそのことを分かっているのだろう。彼はクビを覚悟でオッサンに、いや、彼を侮辱してきてきた何事かに対して復讐を果たそうとしている。見たところあの警備員はまだ若いようだ。20代前半といったところか。それならば、もしここを、というよりも警備会社をクビになったとしても、何とかやっていけそうである。「若い」と言うことは、ただそれだけで、この世でもっとも説得力のある切り札となるのだから。
本来は警備員の上の立場のである筈の、雇い先の建築会社の人間は、町工場のオッサンに謝り警備員をなだめ、オッサンの連絡先を聞いた後、後日訪問という形で何とかその場を取り繕った。オッサンが去った後、彼らは改めて何かを言おうとしていたが、それすらも許さぬほどに彼の顔は鬼気迫っていた。しかし、もう少しすれば、警備員の会社から上司が飛んできて、彼のささやかな一揆は何事を生み出すこともなく終了するのだ。明日にはまた別の警備員が立つのだろう。何ら建設現場に責任のない日雇い者達は、一連の騒ぎを退屈しのぎに眺め「すげぇ」「すげぇ」とそれ以外の語彙を持たぬ獣のように囁きあうと、すぐにそれに飽きたとばかりに作業に戻った。
「おい、おまえなんて顔してんだよ……」
他の奴らと一緒に物見遊山を決め込んでいたはずなのに、何故か浅田が驚いたように話しかけてきた。
「なんて顔って……何だ?」
「いや、お前……それ笑ってんのか?」
言われるまで気づかなかったが、顔に手を当ててみると、顔の筋肉があらぬ方に引っ張られていたようだった。焦って顔を揉みほぐしたが何故か顔はすぐに元には戻らず、そんな顔を浅田に見られぬように咳をしながら逸らし、「何でもない。顔が痒いだけだ……。」と誤魔化した。
昼休みに、警備員の上司とおぼしき男達が建設現場に現れて、建設会社の面々に頭を下げていた。当の警備員はそのままバックレたようだ。昼食を買うために浅田とコンビニに寄り、給料日なので恒例のATMでの残高を確認する。ディスプレイに表示される数字は、この一週間、若さと体力、なけなしの自尊心を何と引き替えにしたのか端的に教えてくれる。この毎週の振り込みが、ATMの残高表示が、砂漠のど真ん中で舐めた水滴のように全細胞に染み渡り、ささやかながら疲弊した精神を癒してくれる。しかしもっと先、五年十年先を考えようとすると、それがやはり「水滴」程度の癒しであり、砂漠を乗り切る力にはまるでならぬ事実にたどり着くため、改めての思考停止に努めなければならない。そのためのツールとしては、やはり美味い飯だ。コンビニの新作カップ麺か、少し贅沢をしたハンバーグ弁当で間繋ぎだ。やや足取り軽やかに、コンビニの商品棚を物色していると、ケツポケットに入れていた携帯電話がバイブを振動させた。妹からだ。
「件名:なし 本文:今日は出来るだけ遅く、一時くらいに帰ってきて」
ああ、なるほど。彼氏が来るのか。あれだけ躍動していた筈の胃袋が、動きを弱め始めたのを感じた。
帰りはパチンコ屋に寄り、八千円程度のキャッシュバックに成功したので、自分なりに贅沢に、ダイエーで各種つまみを買って、発泡酒とチューハイ、暇つぶしの雑誌を持って近所の公園によって一人酒を楽しんだ。ふと夜空を見上げると、これでもかというくらいに綺麗な円を描いた満月が浮かんでいた。こんなうらびれた酒飲みの上でも月は光のだなと思うと、月には傘がかかり始める。約束の一時近くになり、帰宅を許される時間になったので自宅のアパートに行き、音をなるべくたてないようにドアを開け部屋に入った。出来ることならば帰宅自体も妹に気づかれないように息を殺しながら歩く部屋の空気は、この少し前に妹以外の誰かがいたのだということが分かる温もりを含んでいた。
元々疲れていたはずの体に加えて、今日は酒が回っている。しかも飲む必然性のない酒だ。麻酔銃で撃たれた獣のように体を崩しながら布団に倒れ込み、そんな浅い眠りの中で久しぶりに夢を見た。しかし、折角の夢だというのに、そこはいつもの建設現場だった。夢にまで建設現場が出てくるのかとウンザリしながら辺りを見渡すと、がらんとした現場にただ一人、金髪のあの男が、俯いた状態でリヤカーを押していた。他に見るものもなく、その男に歩み寄ると、男が足音に気づいたのか顔を上げてこちらを見た。確かに男は金髪だった。しかし、その金髪を乗せている顔は……。その顔が誰の顔であるかという事が分かった瞬間、夢は強制終了され胃は心臓並に脈打ち、逆流したなま温かいアルコールで舌が痺れた。
金髪の男 鳥海勇嗣 @dorachyan
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