小説が好き

 一口に小説が好きと言っても色々とある。

 

 まずは何と言っても、「小説を読む事が好き」


 殆どの人が、まずはそこから入るのではなかろうか?

 様々なジャンルの小説からどれを選ぶのかは好みにも依るが、冒険活劇、ラブロマンス、悲恋、ファンタジー、空想SF、推理……と言った現実非現実を始めとし、ヒューマンドラマ、ノンフィクション、エッセイ……と、事実を反映した作品まで様々なものに及ぶ。

 だがそのどれもが、小説を好んで読んでいる人達には、たまらなく好きで楽しいと言う共通認識を持っているのではないだろうか?

 そして前述通り、殆どの人達はまず読むところから始めるだろう。

 ハードカバーだろうと文庫だろうが、小学生だろうと老人であっても、そこから入らなければ自分が「小説が好き」と気付く事は出来やしないだろう。

 例えばネット上に上げ連ねられた様々な呟きでさえ、活字を使用した一つの物語と言って過言では無い。

 

「俺、本は読まないから」


 なんていう輩も、そう言った物を目にしているならやはり「小説」の入り口に立っていると言えるのではなかろうか。


 好きが高じて自身でも小説を書いてみる。これは当然の帰結かも知れない。

 沢山の本を読み、様々な知識を得れば、今自分が目にしている作品だって何となく書けると思ってしまう。そこが「小説を書く」と言う事の入り口に他ならない。


 実際書いてみれば分かるが、文字数を埋めると言う作業はそう簡単なものでは無い。結構書いたつもりであっても、実際はA4用紙数枚にしか及んでいなかった……なんていう事は多分にある事だ。

 勿論、そこで諦めなければ漸く「作家」としても道が切り開ける。

 だが多くの人達は……「飽いてしまう」。

 それもその筈で、別段自分が書かなくても、小説などと言うものは勝手にどんどんと溢れて来る。

 自分は元々、読む事が好きだったのだから、その発表された作品を手に取って吟味すれば良いと言う当初の考えに戻るのだ。

 

 だが、それを越えて文字を書き連ね続けた人が「作家」としての門戸を潜る。


 余程書くことが好きだったのだろう。それとも「小説家になる」と言う事が夢だったんだろうか?

 作品の出来栄えは兎も角、自分の思い描く世界、思い描くストーリーを只管に書き続けて一つの作品が仕上がって行く。これはどんな作家であっても同じ事だ。

 そして次の欲求が湧き起こって来る。


「誰かに見て貰いたい」


 これもまた、小説を書く者にとっては当然の心理である。

 自分の中に在る世界と言うのは、イチイチ書き連ねなくともそこに存在している。所謂「空想」である。

 その世界に浸るだけが満足であるならば、わざわざ文字に起こして作品として仕上げたりはしない。

 それでも「小説」として多大な労力を使い、一つの作品にまとめ上げるその理由。


 それは紛れもなく、誰かに見て貰いたいと言う欲求に他ならないのだ。


 それは別段不可思議な事じゃない。それにこれは何も「小説」を書いた者にだけ起こり得る事象でもないのだ。

 何かに夢中となっている者、そしてそれが一定の成果として結実した者。

 小説に限らず、イラスト、フィギア、文芸、評論……。

 兎に角何かしら形を成したならば、それを見て貰いたいと思う事は不自然な事では無いのだ。

 そして今と言う時代、それは安易に行う事が出来る。

 ネットを媒介にして、多くの「仲間」が集う場所に投稿する。

 これだけで多くの衆目を浴びて「見て貰う」と言う目的を果たす事が出来るのだ。

 そうなれば次の欲求が顔を出す。つまり、


「何かしらの評価を貰いたい」


 と言う事だ。

 自分の作品は他の人にどう映っているのだろう?

 自分の価値観は、他の人に受け入れられるのだろうか?

 そんな想いから評価や感想を望み、そしてそれらに一喜一憂する。

 

 時には高評価な事もあるだろう。

 時には酷評に打ちのめされるかもしれない。


 だがそれらは自身の望んだことだ。受け入れ取り込み、更なる高みに達する糧としてもらいたいものだ。


 だがこの時点において、多くの者が見失っている事が存在する。それは、


「その作品を好きか?」と言う事だ。


 振り返り見て、書くことが好きだった自分。

 だが「書いている自分」が好きなのであって、「書いている作品が好きか?」と言う事が抜け落ちていないだろうか?

 そんなナルシストなら仕方が無い。そういう姿を想像して悦に入っているのだから、そしてそれがそいつの性分なのだから否定しようがない。

 だがそうでないなら、取りあえず書くことを目的とするのではなく、好きな作品を書いている事に楽しみを持つべきだろう。


 見て貰う事が好きだった自分。

 出来上がった自身の作品を、誰かに見て貰いたいと言う思いで始めたにも関わらず、兎に角作品を仕上げて更新する。と言う事に囚われていないか?

 好きで書き始めた、大好きな自分の作品であったにも関わらず、「兎に角」続きを仕上げて更新する。そんな事に囚われていないだろうか?

 お粗末な話である。

 大好きな作品を仕上げるのに、「兎も角」「とりあえず」なんてあって良い訳が無い。

 そもそも金銭が発生しているならば兎も角、無料の小説投稿サイトに掲載するのに、やれ締め切りだとか掲載が遅れるなんてどうでも良い事なのだ。

 勿論自身のモチベーションを高めるために、あえてそうしている作家も少なくないだろう。書くことに飢えている作家ならば、短時間で書き上げる事も不思議ではない。

 またそう言った者ならば、例え短時間で書き上げようとも、自分の作品に自信と愛着を持っているに違いない。それならば全く以て問題ない。

 だがそうでないなら。

 ただ単純に自分縛りに雁字搦がんじがらめとなり、自分で自分を追い込み、作品の出来不出来は二の次にして更新する。これでは本末転倒である。

 そして俺からすれば、そんな事は下らないと言わざるを得ない。

 読者は作者の「作品」を見たいのであって、作者が勝手にした「約束」を守っているかどうかを見ているのではないのだ。


 何かしらの意見を貰いたかった自分。

 掲載した作品に、何かしらの感想を貰えれば当初は満足だったはずだ。

 でも今はどうだ? それで満足しているのか?


 少しでも高く評価されたい。多くの人から高評価を貰いたい。それをポイントで表して貰いたい。どうすれば高い評価を貰えるのか?

 そんな事ばかりに目が行っていないだろうか?


 作品のコンセプトを、


「今の読者受けする、高い評価を得られそうな作品にする」


 としているならば問題ない。それで高評価を得られない、ポイントが伸びないと言うならば問題なのだが。

 しかし殆どの作者はそうではないだろう。

 自分の好きな世界、好きな物語を書いて、その結果の評価では無いのか?


 評価のポイント、レビュー、PVに一喜一憂する。


 狙ってないのならば、これ程バカげた話はないだろう。

 小説投稿サイトは評価やPVが全てじゃない。自己満足を満たすための場でもあるのだ。

 誰かが読んでくれたなら嬉しい。その為に宣伝もするし更新も頻繁に行う。

 だが結果が伴わないと言って嘆く程の事でも無いと言う事だ。


 そして上記の全てにおいていえる事、それは。


「作者は自身の作品を、ちゃんと好きでいるのか?」


 と言う事だ。

 目的は変わっていないか? 履き違えては無かろうか?

 自分は本当は何がしたかったのか? 今一度見つめ返す必要があるのではないだろうか?

 何よりも自身の分身である自身の作品を、誰よりも好きでい続けて欲しいものだ。


 何故なら、作者が愛着を持たない作品に「良作」など生まれよう筈もないのだから。

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