遺品整理

釣りキチ

遺品整理

 昨夜、父が死んだ。

 車の運転を誤り、崖から転落。海に落ちたらしい。

 叔父からの電話でそれを知ったとき、私はほっとしていた。

 先週、二年間通った芸大を、父には内緒で辞めてしまっていたからだ。

 今に見ていろと言わんばかりに胸を張って来た手前、周囲のレベルについていけなかったなんて言えなかった。

 新幹線に乗れば二時間程度の距離なのに、帰省するのは初めてだった。

 地元に着いてすぐ、父の死体を見に行った。顔に白い布がかけられていて、本当に死んでしまったのだと実感した。

 死に顔を見る気になれず、顔の布はそのままにした。

 医師からは検死の結果を聞かされた。海に落ちたのだが、死因は溺死ではなかった。その前にガードレールに衝突して死んでいたらしい。即死と言われ、せめて苦しまずに逝けてよかったと思う。

 しかし、これで話は終わらなかった。

 医師は、死には直接関わらないが、不可解なところがあると首を捻る。

 それは何かと問う私に、医師は自分の腹を指した。


 お父さんは幾つか足りていないのだ、と。


 父の腹からは腎臓が一つと、肝臓が半分取り出されていた。

 そして何よりも私が驚いたのは、左目が無いということだった。

 父から内臓を失ったなんて話は聞いたことはなかったし、私が上京する前の父の顔には、確かに二つの目が付いていた。

 医師には心あたりが無いとだけ話し、まっすぐ実家に帰った。

 久しぶりの実家は変わらなかった。父がさらに父から相続した古い家は物が少なく、カビ臭い。家を出たときそのままの私の部屋。ベッドの上に荷物を置き、父の部屋へ向かう。初めて足を踏み入れた父の部屋には家具が箪笥しかなかった。しかも、三段ある引き出しの一番上は空っぽだった。

 こんなに遺品の整理が簡単な人間は珍しいだろう。

 今度は押し入れを開けてみる。煎餅のように潰れた布団が一組と毛布が一枚、より濃いカビの臭いと一緒に収まっていた。

 顔をしかめながら押し入れの下の段を覗くと、ダンボール箱が四つ入っていた。それぞれに番号が振られている。

 一番を開けると、仕事の書類が詰められていた。私は父の仕事をよく知らない。書類に目を通しても、それは同じだった。

 二番に入っていたのはアルバムだった。

 私の写真ばかりで、父が写っているのはほとんど無い。あっても学校の行事の集合写真で、私と父のツーショットは一枚もなかった。

 三番目を開けて息を呑む。


 おとうさんありがとう


 下手くそな字でそう書かれた、これまた下手くそな絵が一番上に入っていたからだ。

 ずっと幼い頃のものから、家を出る直前に描いた落書きまで、私が描いてきたおおよその絵が保管してあった。

 私はそれを乱暴に押し入れに戻し、急いで四番目を開けた。

 入っていたのはノートだった。ぎっしりと詰まった内の一冊を抜き取る。表紙には「○○年××月□□日~○○年△△月◇◇日」とだけ書かれている。他のどのノートも同じだ。

 一番日付が古いものを開く。


○○年××月□□日

 今日から日記を付けようと思う。特に理由はない。私のことだから長続きしないかもしれないが、できる限りやってみよう。


 どうやら父の日記らしい。お世辞にも綺麗とはいえ言えない字で、日々のことを綴っている。

 長続きしないかもしれないと書いているが、このノートが全部日記だとすれば、杞憂だったようだ。

 私は父の日記を読み進めた。

 それは日記というよりも、報告書のようだった。その日起こったことを書き、一言二言、所感を残してある。

 はっきり言って面白くなかったが、他にすることもなく、時間を潰すためにページを繰る。

 日付はどんどん今に近づく。

 そして、ある日を境に日記の内容ががらりと変わった。



○○年××月□□日

 子供が産まれた。娘だ。幸い、私に似ることなく、目鼻立ちがくっきりしている。小さな手で、私の指を懸命に握る姿に、思わず涙が出た。ああ、名前はなんとしようか。

 今日は人生で一番幸せな日だ。



 日記の内容はほとんど私のことになった。笑顔がかわいい、泣き顔がかわいい、ぶうたれた顔もかわいい。手放しで喜ぶ父の賛辞に、恥ずかしさと戸惑いを感じた。

 私の中の父は、いつも頼りなさげに背を丸め、意志の薄い目を遠くに向けていた。こんなに私のことを見ていなかった。

 成長していく私。

 やがて一つのことに熱中する。



○○年××月□□日

 娘は一日中ずっと絵を描いている。

 絵を描くのは好きかと聞くと、大好きと笑顔を浮かべた。

 危うく、娘の前で泣きそうになってしまった。

 すまない、おもちゃも満足に買ってやれなくて。



 思えば、幼い頃の私は、芸大に通っていたときよりも絵を描いていた。

 私はそれが好きだからだと思っていたのだが、違うようだ。

 単に、絵を描く以外にすることがなかったのだ。

 そうとは気づかず、私はなんて馬鹿なことを言ったのだろう。

 何冊ものノートの先に、その日が来る。



○○年××月□□日

 娘が絵を学びたいと言ってきた。芸大に進みたいのだと。

 私は咄嗟に、もう少しよく考えてみろなどと答えていた。

 脳裏をよぎったのは娘の未来ではなく、通帳の残高だった。

 芸大ということは、学費はかなりのものだろう。私には娘を国立大に入れるだけの金もない。

 どうすればいいのだろう。

 兄からはこれ以上借りられないし、他の親戚は話も聞いてくれないに違いない。

 どうにか金を工面する方法はないものか。



 こんな話は初耳だった。

 父が学費のことで悩んでいたなんて。

 叔父に借金があったのも、初めて知った。

 確かに父からはもっと将来のことを考えろと言われた。

 それでも芸大へ行きたいと言うと、父はわかったと頷いた。

 むしろ学費の心配をしていた私に、こういうときのための貯えがあると言ってくれた。

 あれは嘘だったのか。



○○年××月□□日

 娘は私とは違う。器量も、要領もいい。

 彼女の将来を邪魔するものがあるとすれば、それは私自身に他ならないだろう。

 父として、それほど情けないことはない。

 ここは一つ、決断しなくては。

 娘のために。



 父は私のことを過大評価していたようだ。

 これもまた、父としてなのだろう。

 それにしても、決断とはいったいなんだ。



○○年××月□□日

 知り合いに、その筋の人を紹介してもらった。

 理由は深く問われず、すぐに検査が行われた。合格と聞いてほっとした。

 契約書にサインをするとき、手が震えていた。

 どうやら私は怖いらしい。

 しかし、やめるつもりは無い。

 私は父親なのだ。



 父が何をしようとしているのか、まるでわからないのに呼吸がうまくできなくなった。

 医師の言葉が蘇る。



○○年××月□□日

 左の腎臓を売った。

 手術は思っていたよりも早く終わった。

 口座に金が振り込まれたことを確認して家に帰り、娘に通帳を見せた。

 表情にこそ表さなかったが、喜んでくれたようだ。

 麻酔が切れたのか、横腹が痛む。しかし、この痛みさえ誇らしい。


 私は咄嗟に口を押さえ、トイレに駆け込む。

 吐いた。

 食べたものを全て出し終えても、胃液を垂れ流した。

 父が足りなかったのは、私のせいだった。

 私が芸大に行きたいなんて言ったから。

 父は私の学費のために、自分の体を犠牲にしたのだ。




 父の葬式は、叔父が取り仕切ってくれた。

 棺の蓋が開けられ、左目の無い父の顔が見える。

 私はそれを見ても、涙一つ流せずにいた。

 父の目玉と一緒に、私の中の大切な何かまでくり抜かれてしまったようだ。

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