サクソフォン・ラヴ (大盛りつゆだく、アンサンブル、愛の対義語)

第24回使用テーマ:【大盛りつゆだく】【アンサンブル】【愛の対義語】

 

 私が愛してやまないもの。

 そう聞かれたら多分、こう答える。


 英語とサックス、そして――。



 細く開いた窓から夕焼け小焼けのメロディが秋の柔らかな風に乗ってきて、教室内に微かにこだました。

「――もう五時」

 再びチョークを取ろうと伸ばした手を引っ込め、私は思い思いの席に座って見つめてくる生徒たちに向き直った。数分前からそわそわしている様子はあった。一刻も早く終わって欲しい、そんな願望が滲み出ていた生徒たちに、私は思わず苦笑いをこぼしていた。

「じゃあ、今日の補習はここまで。そのプリントは明日の昼までに提出すること。出さなかったり明日の補習サボったりしたら増やすから、覚悟しておいてね?」

 意識的に口角をあげて微笑む。はーい、という返事も曖昧に、次々と生徒たちは教室を飛び出していった。中間試験で赤点だった生徒を対象にした一週間の放課後補習授業。秋季大会が盛りだくさんのこの時期、一刻も早く練習をしたいのだろう。その気持ちは手に取るようにわかる。ただ、既に高校二年の秋だ、勉強を疎かにしすぎてはいけないというのが、教師としての本音だった。

 ふう、と小さく溜息をついてしまう。


「お疲れ様です、理沙子りさこ先生」


 優しく掛けられた声に、はっと顔を上げた。目の前には、見慣れたセーラー服。

立花たちばなさん」

「生徒の前で溜息つくなんて、珍しいですね。確かにこの授業を纏めるのはすごく大変そうですけど」

 普段なら補習と縁のない生活を送っているはずの女子生徒は、私に向けて小さく肩を竦めた。体調不良で英語の試験だけ受け損ねてしまった、ということで彼女には補習に参加してもらっている。が、文系科目が得意な彼女からしたら本当に簡単な課題だろうし、他の生徒の授業態度は決していいとは言えないので、申し訳ない気持ちで一杯だった。

「どうしてもこういう授業は……ね。立花さんこそ大丈夫? 慣れないでしょう」

「私は大丈夫ですよ」

 くすりと微笑む彼女は、教師の私よりも大人びているような気がした。肩で切り揃えられた黒髪が吹き込む風でさらりと揺れる。

「そういう先生は、お時間大丈夫なんですか? 吹奏楽部、アンコンが近いって聞きましたけど」

 アンコン、と口にされたまさにその時、高く真っ直ぐな音色が教室内に滑り込んできて私たちの耳を撫でた。まるで見計らったかのようなタイミングだ。恐らく、五時をすぎたので合わせよう、という流れだと思うのだが。

「一応副顧問ってなってるから、顔は出すけどそこまで急がなくて大丈夫なの。今日は顧問もいる日だしね」

 アンコン――県高校生アンサンブルコンテスト。私が副顧問をしている吹奏楽部が二週間後に出場する、全国大会にも繋がる大きな大会の一つだ。アンコン、と一言で纏められてしまうが何部門かに分かれており、あまり規模の大きいとは言えないうちの吹奏楽部からは木管五重奏、金管五重奏、打楽器の部門に一チームずつ出場する。

「そうなんですか。先生、昔サックスやってたって言ってましたよね。アンコンみたいなのには出たことあるんですか?」

 あんまり吹奏楽詳しいわけじゃないですけど、と僅かにはにかみながら口にする生徒に、私も頬が緩む。

「メンバーがいなかったから、一年と二年で二度。サックス四重奏の部門で」

「へえ……じゃあ、思い出とか、何かありますか? ……あ、これは完全に私の興味っていうか、あまり先生の学生時代とかについて聞く機会ってないと思うので、折角だからというか」

 何気なく口をついた質問だったのだろう。慌てて顔の前で手を振って話す生徒に、自然と笑みがこぼれる。

「大丈夫。そうね、思い出、というか何というか……」


 アンサンブルコンテスト、サックス四重奏部門。

 決していい成績を残したとは言えなかったけど、大きなミスもなく、すごく楽しんで演奏できた。あの時の演奏は、自分の中で一番良かったものだと今でも思っている。

 だけど――


「――love and hate」

「え?」

 ふっとこぼれた言葉に、立花さんがぱち、ぱち、と瞬きをみせた。無理もない。だけど、あのコンテストで一番記憶に残っているのは、自分の演奏の話ではないのだ。

「愛の対義語は憎。その言葉を、というか、愛と憎しみは表裏一体、っていうのを自覚した、のが一番の思い出なんだよね。意味わからないと思うけど」

 聞きたい? と尋ねると、僅かに躊躇った様子を見せたのち、彼女は小さく「聞きたいです」と口にした。予想通りの答えだ。

「軽い思い出話になるんだけどね」

 彼女に近くの椅子に座るように促してから、私は小さく息を吸った。


 中学で吹奏楽部に入ってサックスを始めた私には、良きライバルがいた。同じ日にサックスを始めた、同じクラスの男子。何となく波長が合うというか、私からするとすごく話しやすい人で、しかもパートもクラスも同じということですぐに仲良くなり、放課後はいつも一緒に練習していた。

 私は、彼が奏でるサックスが大好きだった。同じ楽器のはずなのに音に深みがあって、温かくて、優しくて、耳にしているとすごく落ち着く音色。彼は私の音が好きと言ってくれたけど、彼の言う「好き」よりも私の言う「好き」の方がずっと強い自信があった。今思えば一種の恋だったのだと思う。彼の音色への、そして彼自身への恋。そして憧れ。全てをひっくるめた「好き」の言葉。ずっと彼に近づきたくて、並びたくて、必死に練習した。引退し、高校が別れてからも、次に会った時に胸を張っていられるように、と毎日遅くまで練習した。

 そして高校一年の秋—―アンコンのサックス四重奏部門。

 彼に、彼の演奏に、再会した。


「あの時はもう自分たちの番は終わって、客席にいたんだけど……泣いちゃったんだ、私」


 彼の音色は、演奏は、もう私の手が届かない場所にまで遠ざかってしまっていた。大好きだった彼のサックスは、もう私が「大好き」と言うには申し訳ないほどの高みにまでのぼっていて。今まで胸を張っていられるように、と続けてきた練習では遠く及ばない彼の努力がその演奏全てからあふれ出していた。

 全てが無駄だったように感じて悔しくて、そして環境の差に憎悪すら感じそうになって。いつの間にか終わった演奏に拍手喝采が響き渡る中、私の頭はどんどん働かなくなってきていた。必死で目にハンカチを押さえつけながら、ぼんやりと頭の片隅で――


「思ってたんだ。大好きだった音色が憎しみの対象になってるって。ちょうどその直前くらいにやった英語のプリントにさっき言った言葉、love and hate――愛の対義語は憎しみなんだ、っていうのがあってね。対義語っていうと真逆の意味みたく思えるけど、本当は表裏一体、すぐにどっちにもなっちゃうものなんだなあって。大会なのに、そんなこと考えてた」


 これにておしまい、と笑いかけると、真面目に私の昔話に耳を傾けていてくれた彼女は小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。ちなみに、そのあと彼とは会ったんですか?」

 小首をかしげながら立ち上がる彼女に、私は人差し指を立てて、わざとらしく口元に当てて見せた。

「内緒。この先は立花さんのご想像にお任せします」

「ええ、ここまで話しておいてですか……?」

 わざとらしく眉をしかめる彼女に少しおどけてみせる。呆れたような笑い声をあげながら、立花さんは机にかけていた荷物を手に取った。

「ありがとうございました、先生。そろそろ部活に行きます」

「こっちこそ楽しかった、ありがとうね。補習お疲れ様」

 明日も頑張ろうね、と言いつつひらひらと手を振ると、目の前の生徒は少し楽しそうに頭を下げた。



「……っていうのが今日のハイライトです」

 自転車で帰宅する途中にある、個人経営の丼屋。閉店間際の今、客は私しかいない。そのカウンター席に座り、私は目の前でご飯を盛る青年に話しかけていた。

「また懐かしいことを……というかあの時、そんなこと考えてたのか」

「あれ、言ってなかったっけ?」

 既に話したつもりでいたのだが。きょとんとした表情を向けていたのだろう、呆れたような顔で彼は大きく溜息をついた。

「言ってないよ……。閉会式後に偶然会った瞬間平手打ちされただけでも意味がわからなかったのに、いきなり俺を罵倒しながら泣き出してさ。本当に困ったんだからな」

「あれは本当にごめんってば」

「はいはい。ってことではい、牛丼。指示なかったからいつも通り大盛りつゆだくな」

 とん、と軽く正面に置かれた湯気の上がる丼に、仕事で張っていた気が自然とほぐれていく。甘じょっぱいつゆの香りが優しく鼻をくすぐった。

「ありがと。お先いただきまーす」

「めしあがれ、っと」

 にっと笑って閉店作業に取り掛かる彼の笑顔は、中学時代から変わっていない。

 彼は高卒と同時にサックスをすっぱりとやめ、専門学校で調理師の資格を取り実家を継いだ。その店で一緒に――と言いつつ彼は閉店作業を終え次第なのだが、夕飯を食べるのが今の高校に勤め始めてからの日常となっている。アンコンで再会して、連絡を取り合うようになって、いつの間にか付き合い始めて。もう何年経っただろう。

 熱々の牛丼を一口頬張る。温かくて、優しくて、すごく落ち着く味。サックスと牛丼という全く別のものだけど、彼の手にかかったことで同じものをいつも感じるのだ。

「理沙子」

 不意に背後から呼ばれた名前に、牛丼を噛み締めながら振り返る。

 暖簾を下げて中に入ってきた彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。



 私が愛してやまないもの。

 それは、英語とサックスと――彼の店で過ごす、このひと時。

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Little tales~にごたん作品集~ 杠葉結夜 @y-Yuzliha24

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