[16]
4月の午後、真壁は千駄木の東亜医科大学の屋上に立っていた。
先日、非番だった真壁は東京地裁で白瀬の初公判に立ち会った。その日、真壁の他にいたのは数人の傍聴人だけで、知った顔はひとつもなかった。唯一の例外が白瀬の弁護士で、円谷の甥から真壁の大学の先輩に代わっていて、少し驚いた。
ほぼひと月ぶりに見る白瀬の姿は、どこか悄然としていた。富樫によると、離婚した白瀬の妻は娘を連れて、福岡の実家に帰ったというから、白瀬の様子もうなずける話だった。
検察官が起訴状の読み上げを始めると、真壁は自然と体が強ばるのを感じた。白瀬を信用していなかったわけではないが、不安がなかったと言えば嘘になる。物証があるにしろ、今回の事件は白瀬の自供によるところが大きい。だが、白瀬は真壁の心配をよそに、裁判官に罪状認否を問われると、「間違いありません」と言い切った。判決は、来月にも決まるという話だった。
「こんなところにいましたか」
背中から声がして、真壁は振り向いた。岡島が缶コーヒーを2本手にして、真壁の横に立った。1本を差し出してくる。
「タバコが吸いたくて」
真壁はそう言ってタバコをくわえ、火を付けようとした。
「元内科医として、喫煙はあまりお勧めできないなぁ。狭心症の原因になるよ」
思わず苦笑を浮かべた真壁は、タバコをしまった。
「元内科医がどうして、法医学者になったんですか?」
「大学の恩師に騙されてね。法医学者なら、すぐに第一人者になれると言われたんだが」
岡島は缶コーヒーを開け、ひと口ふくむと、口を開いた。
「それで、話があるというのは?」
「だいぶ前の話になるんですが、3月14日の午後8時ごろ、あなたはどこで何をしていましたか?」
「これは事件の捜査ですか?」
「個人的に知りたいことです」
「なら、プライバシーということで」
「上野五丁目二六番の公衆電話にいたんじゃないですか?」
「・・・」
「柏木祐也の検死をした際、あなたはすでに他殺の可能性に気づいていた。しかし、韮崎からは何の反応もなかった。何回も連絡を取ったが、ついにはらちがあかなくなり、署にタレ込みの電話をかけた」
岡島は穏やかに微笑むだけで、缶コーヒーを飲み干すと、屋上から出て行った。
欄干に残された空き缶を眺めながら、真壁はタバコに火をつけた。
つたない経験からすれば、3月14日の通報は岡島がかけたのだろう。真壁は岡島の眼の色からほのかに感じ取っていた。動機は、岡島本人が話す時が来るまで分からないだろう。それでもいいと、真壁は思った。他人の行動に、理由をあれやこれとはっきりつけられるはずなど無い。
真壁は紫煙を燻らせながら、ふいに富樫の顔が脳裏に結ばれ、ある疑問が浮かんだ。
《そう言えば、なんでアイツはオレのこと、子猫ちゃんって言ったんだ・・・?》
真壁の視界は、初夏の強い日差しを受けて真っ白になった。
沈黙の盲点 伊藤 薫 @tayki
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