〈まず通常レビューとして〉
ミステリー小説の中でも、いわゆる警察小説にカテゴライズされる作品。所轄署刑事の視点から、ある変死案件とタレコミ電話を機に、過去に事故として処理された一件が殺人ではないかという疑惑が持ち上がり、刑事はその謎を追っていく……
文章は、おそろしく書き慣れを感じる。小説らしいかといえばまだ「っぽさ」がないのだが、文章自体は手慣れたものなのだろう。
警察組織や、事件の処理手順などにリアリズムが貫かれていて、その点読み応えがある。監察医務院や本署当番など、なかなか出てくる単語ではないだろう。検視から行政解剖という段階など、手順も正確に描いている。ミステリー読みだった自分としても、これらの描写には非常に満足いった。
反面、ミステリーとしての謎の魅力は、いささか弱いと言わざるを得ないが、警察小説としての空気感は充分にまとわりつかせている。その手の作品が好きな読者なら、気楽に読み始めてもいい。
※この改行・空白はレビュー一覧にネタバレ言及が載るのを避けるためです。
〈以後本格的に、ネタバレもありで〉
通常レビューで述べたように、事件や組織のリアルを描いており、それによって、世界観に土台がしっかりと出来た。その点で、読んでいて安心感があり好感が持てた。
しかし通読後に感じたのは、『これは長編の習作、ないし粗書き』といったものだった。未完成という意味ではなく、小説としての物足りなさが強かったのである。それは、リアルな描写が高めた期待感の裏返しでもあるのだが……
(粗書きというのは、例えば冒険作家・推理作家の志水辰男氏が、自分の小説の書き方として『まず原稿用紙百枚とか二百枚で書き上げる。それを膨らませていって最終的に四百枚にする』と言及していたことがあるが、その『百枚とか二百枚』の段階のもの、とイメージしてみていただきたい)
そのような習作、粗書きと感じた原因を、以下より探っていきたい。
まず文体。特徴的に感じたのは、連用形(~した)、終止形(~だった)の多用。終止形でも(~る、する)の形があまり使われず、文末が「た」の連続となった。それがかなり単調に響いてしまい、小説というよりも説明的な散文の印象になってしまった。
専門的な言葉を、読者に分かるように説明することなく使ってしまう点も残念だった。マニアは監察医務院だの検視だの行政解剖と書いてピンと来るのだが、この無説明ぶりはマニアではない読者を切り捨てることに繋がるだろう。「マニアだけに読まれれば良い」のならこれで良いが、違うのであれば一考ありたい。
描写面でも、事件の状況などは詳細に“説明”されるものの、個々人の動きなどはポイント、ポイントを抑えた程度。動きに連続性があまり感じられず、映画の絵コンテや、アニメで言えば原画だけを見せられているようだった。
また、心情的な面の描写がほとんど見られなかったことで、登場人物、とくに主人公への感情移入が出来ずに、読者と言うよりも“傍観者”のような感覚を味わった。読書体験として、小説を通して事件に肉薄するというよりも、この文面によって刑事の活動報告を受けているような、局外者のような距離感があったのだ。ミステリー小説は、“捜査活動”へ感情移入できるかどうか、言い換えれば「刑事の執念に共感できるか」でだいぶ印象が変わるものだと思うので、人物の感情をもっと入れ込んで欲しかった。今の状態だと、主人公は事件を解決する、その手順を読者に示すためのマシンでしかなく、魅力に欠けている。
感情、心情の乗らない例として、[3]章が挙げられる。真壁が富樫と再会する場面だが、
>横顔を見るなり、真壁はあっと思い、その場に立ち止まっ
ったとは言うものの、それが「何故」だったのかが書かれていない。懐かしい顔に驚いた、それはまだ分かる。しかし、懐かしさとともにどんな感情が去来したのか。好感か、苦手意識か、嫌悪か、何も分からないのである。さらに引用を続けると、
>富樫とは、山岳部で同じ釜のメシを食べた仲だった。山で撮った写真や登山日誌をエッセイ風にして雑誌に投稿していたのは知っていた。経済学部の卒論は院の進学を勧められた程の出来栄えで、一流企業からも声が掛かっていたはずだが、新聞記者という仕事を選んでみせる変り種だった。
こうした地の文が続くが、これも説明に過ぎず、真壁の心の中を描いたものではない。
かろうじて章の終わりに『真壁にとって、この友人は事件以上の難物だった』とあるが、これも「何故」難物なのか、が書かれていない。過去に衝突があったのか、性格が合わないのか、富樫の方からはどう真壁を見ているのかなど、描くべきものはたくさんあるはずなのだが、それらが書かれることはなかった。
ほぼ全編を通して、感情的な部分はオミットされた状態であるので、ここに適度に感情描写を乗せていけば、彼ら登場人物の人間的な面白みや魅力が伝わってくるようになるのではないか。
そして通常レビューでも触れたように、事件そのもの、謎の魅力が乏しかったことが、大いに残念だった。
変死事件(と見せかけた殺人)から、死者の息子の事故死の一件へと繋げていく流れ、それ自体は構成として面白かった。そこに第二軸として、本庁へ異動する上役によるミス隠蔽が重なるのも、構成として面白い。ただこの第二軸、文章としてハッキリと、主人公がその問題を追うのだという意思表示をしないため、作中での存在感がまるでなかった。この点は非常に悔やまれる。前述の描写不足による害のひとつだった。
序盤の時点では事件的興味も持てていた。しかし中盤にさしかかり、転落現場で「隣の花壇に落ちていた」というところでガクリと崩折れる。誰が見てもおかしいと思うだろう……例え臨場した一番のお偉いさんが事故だと断じたとて、現場の誰かが、というか誰もが疑問に思うはずである。その割には、主人公は早期に「タレコミは内部からではない」と断じているしその後も修正しなかった。ここに論理的整合性を見いだすことが出来ず、まず現実と作品が遊離してしまった。リアリティを大事にしなくてはならない警察小説としては、かなり苦しいと言わざるを得ない。せめて、事故か事件かの判断が微妙な距離のズレに留めておくなどとすべきだったのではないか。
また転落現場の場面から、真壁の行動と結果が急速に「ご都合」的なものになっていく。ベランダから「何故か」ある男を見つけ、追跡したら事件の参考人だった。聞き込みをすれば青いジャンパーという有り体な格好の男を「何故か」目撃者たちが証言してくれる。等々……
こうした「都合の良い展開」も、警察小説、ミステリーとして興醒めの原因となっていた。刑事の捜査に「困難」が伴わないことで、物語としての「山」の感覚も生まれず、展開を単調にもしていたと思う。
このほか、事件にまつわる「理由付け」の部分でも、首をかしげる部分が多々あった。
給与が未払いの従業員が、未払いにしている社長と、仲良く連れ立って馬券売り場に行くのは「何故」だろう? ギャンブルにつぎ込む金があったら自分に払えと文句を付けないのだろうか。
真犯人の白瀬は6000万円のマイホームを購入しているというが、事件で金を手に入れたから購入したわけではないだろう(一カ月程度で買えるとは思えない)。では事件とは無関係に、『リフォーム業の営業なんて、月25万超えればいいとこ』という経済状態で『均等払いで月の返済が40数万』というローンを組めたことになる。組めたということは、ローン会社がその支払い能力を認めたわけだが、いったい「何故」そんな判断が降りたのか。
このように「何故」が多く、それらに対する合理的な説明や描写が作中に存在しないため、読者としてはここに「作者の都合」を見てしまうのである。
それが原因で、ストーリーの展開自体は悪いわけではないものの、読者としてはどうしてもその中に入り込むことが出来ないのである。
肝心な殺害方法だが、電子ライターではどんなに弱っていても人間は感電死しないため、残念ながら不成立。ライターに使われる圧電素子は、電圧は高いもののマイクロアンペア単位の電流しか流すことが出来ないのである。
(人が感電死するのは電圧ではなく電流が高い場合)
最後にまとめとして。
複層的な事件の構造は、とても興味を惹かれた。この構造の事件の解明を見てみたいと正直に思った。そしてその構造があるからこそ、最後まで読み進められた。
しかし、細部の組み立て、部品のところが粗雑で、実際にその点を楽しむまでには至らなかった。構成上の都合によらない、それぞれの関係者(犯人含む)の人間性に基づいた設定が必要だろう。
文章面でも、理路整然とした文章に疑問はないのだけれども、小説的な魅力を感じるまでには至らなかった。個々人の人間性を中心とした“描写”がもっと欲しかった。
総じて言えば「基本設計は良かったが、実際の施工が良くなかった建築物」といった具合だろうか。不満はあるものの、細部に神を宿して、長編として生まれ変わることがあるとしたら、それを読んでみたいとは思える。