19章:ヘイゼルの海

 

             台風がノロノロしていた。


 超大型台風7号は明日、関東地方沿岸部に上陸する予定だったが、夏の高気圧に押されて停滞。今はまだ東京から遥か南の海上、伊豆諸島の最南端に居座り続け、鳥島の洞窟に避難したアホウドリたちをイライラさせていた。それにより関東への上陸予想は2日後に繰り下げられた。


 蓮もそれを知っていた。小豆島のホテルのレストランでの夕食中、ツアー客一行と共にそれを報じるTVニュースを見た。そこでフラウリー家の事が気になった。彼らが飛行機で高松空港から成田空港に飛ぶのは明後日の事。成田は台風上陸が予想される関東地方にあり、フライト・キャンセルになるのはほぼ確実だった。


 食後、蓮はフラウリー家のテーブル席に向かいオーキッドにその事を伝えた。そして彼から詳細な旅程を聞き出し、旅の調整役を買って出た。まずはスマホで空港ウェブをチェックし、一家が搭乗する明後日の{高松―成田便}が既にキャンセルになっているのを確認。電話で問い合わせると、3日後に飛行機を増便して対応するとの返事をもらった。

 次に一家が翌日にリザーブしている高松のホテルに電話すると、彼らが明日、明後日の2日間、同じ部屋で宿泊できるようにしようかと申し出てくれた。が、蓮はそれをいったん保留して電話を切った。そこは高級ホテルなので1日の宿泊費でもバカにならない。


 そこで一家に明日も小豆島のホテルに泊まらないかと持ちかけた。彼女は後1日、島に滞在するつもりだったが、休養日で特に何もする予定はなかった。つまり、彼女は予定を繰り上げて明日、島を出て、空いた自分の部屋を一家に貸し出す事を提案した。もちろん宿泊費は取らない。そうすれば明後日、彼らは高松のホテルに1泊だけして東京に旅立てる。そう薦められたオーキッドは、そこまでしてもらっては悪いと口にした。

 だが、2人の姉妹は違った。

 ローズマリーはもっと島の景色を絵に描きたいと主張し、ジャスミンは海でもっと泳ぎたいと抗議した。というワケで姉妹の猛プッシュにたちまち父は降参し、蓮の申し出を受け入れた。彼は両手を頭の上に置いて言う。


「となると、レン、君は明日、この島を離れる事になるね」

「ええ、桜田先生やツバキ君と一緒にフェリーで高松に戻るわ。それが私たちの最後のお別れになるわね」

 彼女がそう言うと、父娘はそろって微妙な表情を浮かべた。

「私、見送りには行かないよ」

 ジャスミンが言う。

「私、そもそも、お別れなんて信じてないの。この世に、グッバイなんてない。あるのは『SEE YOU(また会おう)』だけ。だって考えてみてよ。レンやチェリーが生きてる限り、アナタたちはいつでも私たちに会いに来れるのよ。私たちだってそう。本気で会いたいと思えれば、いつどこにだって会いにゆけるわ。

 もちろん、結構な飛行機代はかかるけどね。だから、私はお別れの場所には行きたくないの。それがアメリカ流なのよ」

「We're American Family」

 オーキッドがそう言って、テーブルの上に両手を広げて置いた。ローズはその毛むくじゃらの腕を取り、ジャスミンも顔をしかめながらもその手を取った。

 3人はそろっておどけた顔で言う。

「See you soon, REN」

 蓮は笑った。手を重ね合ったのはほんの一瞬だったが、その光景は清々しいものだった。オーキッドはもうスタートを切っている。彼女はそう実感した。1つの家族として――いつまで続くのかは分からないけれど――どこかに向かおうとしている。


 彼女は席を立った。姉妹とホッペをつけて別れを交わし、次にオーキッドと握手をしたが、そのままグイっと引っ張られた。そして、力強いビッグハグを受けた。彼は彼女の背中を叩き、「I Miss You!」とコミカルに言う。姉妹は弾けるように笑い、周囲のテーブルにいたツアー客も同様だった。

 だが、それに蓮は内心、ガッカリした。

 何しろ、夕暮れのオリーブ公園で涙交じりに彼を励ましたのは、つい数時間前の事なのだ。それなのに皆んなの前とはいえ、そんな別れ方しか出来ないとは……。そうか、と彼女は思う。結局、彼は私の言葉を受け流しただけなのだ。


            「君の思いは受け取った」


 その最後の言葉も単なる社交辞令に違いない。そう思うと、蓮も一気に白々しくなった。オーキッドのビッグハグから力ずくで脱出すると、彼のグレイの髪の毛を手でぐしゃぐしゃにした。それに周囲からまた笑いが起こる。

 OK、アナタはこれからもアナタの人生を生きなさい。

 蓮はそう思う。

 自殺さえしなければ、何だっていい。ただ生きてさえいればいい。生きる事に絶望さえしていなければ、それで私は大満足だ。全てはアナタ次第。そして私は私で、これからも変わらず私の道を歩んでゆこう。そんな思いで、蓮はもう一度オーキッドと握手した。彼はカウボーイフェイスを緩ませ、最後までユカイに笑っていた。






                 ✿




 翌日の出発は午前10時前だった。朝、蓮はツアー客と共にホテルを出て、バスで港に向かった。顔ぶれは、彼女の勤めるイベント会社社長の神埼とツアー客の中の四国出身者たち、そして桜田とツバキだった。

 フェリーターミナルの近くには、アニメチックな愛らしいカエルの石像が数多く置かれていた。港にも――カエル人魚とでも言おうか――顔だけカエルの人魚がいて、船着場に向けてキュートな笑みを見せていた。神崎がバスの運転手にその理由を聞くと、確かな事は分からないが、島を出てゆく地元の若者たちに対して、『また島にカエルんやで』という願いが込められているのだという。


 ターミナル内で、フェリーを待つ間、蓮は桜田とツバキと一緒にいた。その2人も、昨日の夕食の間、フラウリー家に別れを告げに行ったが、やはりサラっとした素っ気ない態度だったらしい。そういったことを笑いを交えて語り合った。

 やがて乗船時間がやって来た。フェリーは、キリンを描いた巨大なボードを屋上デッキにドーンとそびえ立たせたものだった。一家の話で盛り上がった3人はそろってフェリーに乗り込み、船内でも3人席に仲良く並んで座った。そのうち桜田がこう口にした。


「前にも話しましたが、私とジャスミンとの最初の出会いは偶然でしてね。本来は私の親友が彼女のクラスの担任をするハズやったんです。それがちょうどあの子の転校日に倒れおって、私が代理教師を務める事になりましたんや。ホンマ、奇妙な出会いやったわ」

 ツバキが「そう言えば」と口をはさんだ。

「俺も偶然だったんですよ。アメリカの海軍が高松港に来て、その歓迎イベントで親父と艦長が仲良くなりましてね。それでお酒をもらえる事になって、港の軍艦まで親父についていった所でローズと会ったんです。先のイベントで顔見知りになってたんで、何か、運命を感じちゃって」

 そこで蓮も「そう言えば」と口をはさんだ。

「私もそうだったわ。瀬戸大橋公園のイベントで、あの一家と出会ったんだけど、本来それは私の同僚の仕事だったの。だけど、その子が入院しちゃって、私が代役で行く事になっちゃって…」

 桜田は腕組みして息をついた。

「まったく、人の出会い言うんはフシギなもんですな。そういうたまたまがなかったら、私らやって、今こうして顔を合わす事はなかったんやから」

 3人は互いに顔を見合って笑い、そして少しの間、口を閉ざした。


 蓮には、一家と過ごしたこの数ヶ月がどんどん遠ざかってゆくように感じられた。何か現実の向こう側で起こった奇妙な出来事のような、本来進むべき道から滑り落ちたマボロシのような、そんな感じがした。

 汽笛が鳴ってキリン・フェリーが出発した。BGMと共に室内アナウンスが流れ、乗船マナーや到着時刻について告げる。その時、蓮のスマホからメールの着信音がした。オーキッドからのテキスト・メッセージだった。


      〖レン。フェリーが出発したら、デッキに出て来てくれないか。

    できれば、桜田先生とツバキ君と一緒に。私たちは今、島のビーチにいる〗


                  *


 蓮、桜田、ツバキの3人は船内の階段を駆け上り、屋上デッキに出た。3階建てフェリーの屋上なので、周囲が広々と見渡せる。彼らはサイドデッキの手すりに駆け寄り、後ずさってゆく小豆島に目を凝らした。そうして、6つの瞳はとらえた。島の南端にある小さな海岸に誰かがいる。海の向こうでも数10m先なのでハッキリと見える。


           それはフラウリー家の3人だった。


 彼らは小さな砂浜をそれぞれバラバラに歩いていた。桜田がバカでかい声で「オーイ」と手を振ると、全員が気づいた。蓮とツバキも続いて大声で手を振る。岩場にいたオーキッドは手にしたブリマーハットを頭上で振り、浅瀬にいたジャスミンは波を何度もけり上げ、ビーチにいたローズマリーは日傘をたたんで頭上でクルクルと回した。屋上デッキの3人は手を振り続けたが、海岸の3人はまもなく関心をなくした。そしてまた、それぞれに小さな浜辺をバラバラに歩き始める。


「まったく、アメリカ人いうんはサッパリしとるな」

 桜田が言って、後の2人が笑った。

「それにしてもおかしな話ですな。あと何日かで母国に帰るアメリカ人一家が香川の島に残って、私ら香川県人がフェリーで旅立つんを見送ってるっていうんは」

「まったく、その通りですよね。すごい矛盾だ。だけど何か俺は……」

 ツバキがそう言って、2人の顔を交互に見る。

「何か、この方がピッタリしませんか? この3ヶ月、僕たちの方があの家族の住む島に住んでたような、なぜか今フとそんな気がしたんです。そして、今ようやく自分の古里に帰れるような。そんな感じがするんです。まったくバカげた話ですけど」

 桜田が笑って言う。

「いやツバキ君、その気持ちよう分かる。私もジャスとおると、故郷の町がまったく別物に見える事がようあったわ。何でか知らんけど、アイツがうどん食べてると、自分がよその国から来たように思えたりしてな。まぁ、それはそれでオモロい体験やったわ」


 蓮は、海の向こうの浜辺を見つめる。フラウリー家の3人は依然、好き勝手にビーチをウロウロしていた。オーキッドは岩場の上をヨロヨロと歩き、ジャスミンは浅瀬を元気に歩き回り、ローズマリーは砂浜を踊るように歩いていた。

 その様を見ていると、3人がたまたまそこに居合わせた他人のように見えた。それぞれ島を散歩している最中に偶然出会い、そうして通りかかったフェリーの見知らぬ乗船客に手を振っただけのような、なぜかそんな感じがした。


 まもなく、3人の姿が消えた。フェリーが岬を過ぎると、一家のいたビーチは大きな半島の陰に隠れた。そこで桜田とツバキは連れだってデッキを後にし、蓮だけが残った。彼女は屋上デッキの手すりにもたれ、辺りをながめる。じきに東京に上陸する大型台風を物語るように、ナマリ色の分厚い雲が垂れ込めていた。海の色も空と同じく淀み、どんよりと薄茶色に染まっていた。 


 フイに蓮の頭に何かがよぎった。

 オーキッドの目。あのヘイゼル色の瞳だ。それは今目の前に広がる、くすんだ茶色の海と、ほとんど同じ色だった。彼女はヘイゼルの海に目を凝らす。それはとてつもなく大きく見える。快晴の昼間だと、瀬戸内海はほとんどポケットにでも入りそうなくらいに小さく感じられる。しかし、日が暮れたり悪天候だったりする時には真逆になる。それこそ、世界中を覆い尽くす大海原のように感じさせる。


 泥の色をしたヘイゼルの海。蓮の目に、それはとてつもなく大きい――この世の果てを通り越し、死後の世界にまで通じていると思えるほど。

 それは彼女がよく木に登っていた時にも感じた、あの流れを想起させた。この世の全てを一瞬の偶然にしてしまう、あの川のような純然たる流れ……。

 その時、スマホから音がした。

 メールの着信音。蓮は画面をスワイプしてそれを開いた。


〖ハイ、オーキッドです。家族を代表して、私が改めてお礼を言いたい。チェリー先生。ツバキ、そしてレン、本当にアリガトウ。カガワに滞在できて本当に良かった〗


           そして最後の一文にはこうあった。


        LEN, I never forget that U told me at last sunset.

          Believe me; I try…to LIVE, see U soon.


「To Live」蓮はそうつぶやいた。

 そして泣いた。あふれ出す感情のまま、子供のように泣いた。

 しゃくりあげる声は胸の奥深くから発せられていた。そこはかつて彼女に孤独を強いていた石のかたまり、ストーンヘンジが輪を成していた場所に違いなかった。あの石たちは涙にも流されることなく、しっかりと踏ん張っていた。


 これからも私は1人でいることを大切にしてゆこう。

 そう彼女は思う。だけど、時々は誰かに向かって手を差し出してみよう。こころのままに。自然のままに。一瞬の偶然の流れにまかせて。

 泣き続けるうちに、彼女は何かと深く結ばれたような気がした。それが何かは分からない。ただ、それは自分よりも遥かに大きなものとしか言いようがないものだった。


 鈍い音が鳴り響いた。フェリーの巨大な煙突から出たその重低音は蓮の全身を揺らし、まもなくモクモクと黒煙がたちこめた。彼女はせきこみ、屋上デッキから身を乗り出して潮風を吸い込んだ。フェリーが海面から強烈な波シブキを吹き上げて進み、船体の周囲は白い泡に包まれていた。

 なぜ、と彼女は思う。

 なぜ、泥のように淀んだ海から、あんなにマッシロな泡が生まれるんだろうか?

 彼女はフェリーが力強く切り裂いてゆく海面にじっと目を凝らす。

 そのシブキは、まるで泥の中から咲くマッシロなハスの花のようだ。または茶色い土が育んだ小麦で出来るマッシロなうどんのようだ。


 海面から3階の屋上デッキをぬらす程の波シブキが上がった。フェリーはヘイゼルの海をマッシロに引き裂き続けている。いくら見ても見飽きるという事はない。しばらく、蓮は心を奪われていた。■ 

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