18章:泥の花

 蓮はオリーブ園で大勢のツアー客と午後を過ごした。一行を先導したのは神崎だった。彼は相変わらずのお祭り男ぶりを発揮し、ガイドとピエロの二役を巧みに演じ分けながら皆んなと楽しい時間を送った。


 オーキッドもまた、旅行初日のテンションそのままに陽気だった。彼は神崎と意気投合し、英語と日本語を混ぜながら、ほとんどお笑いコンビのような掛け合いを続けた。おかげで周囲に笑い声が絶えることはなく、ツアー・アシスタントの蓮もほとんど観光客気分で過ごしていた。オーキッドともよく話をした。オリーブ栽培や園の景観、また島の暑い気候や伝統産業について話をした。だが、そういった話題が一区切りすると、オーキッドは口を閉ざしツアー客の中に入っていった。

 蓮にとってその気遣いはありがたくもあり、同時に歯がゆいものでもあった。彼があからさまに示す心の距離が、だんだんと重く切なく感じられるようになった。


 旅行の初日、島の山頂でオーキッドからを聞いて以来、この2日、蓮は夜もろくに眠れなかった。昨夜は部屋に招いたジャスミンとシングルハーフのベッドで並んで寝たが、彼女が寝息をたて始めても眠気は来なかった。


         近親相姦が引き起こした妻と娘の事故死。

             虚偽によって得た名声。

           そして生きる事への深い拒絶感。


 枕元でそれについて思いを巡らせた。考えたいワケではなかったが考えずにはいられなかった。2晩続けて、気づけば、そのウズに飲み込まれていた。

 昨夜はグーグー気持ちよく眠るジャスミンの隣で――ちなみに寝る時も彼女はやはり全裸だった――寝付けない中、1時間以上、彼女はゆっくりと一連の事態を自分なりの筋立てで整えていった。そうして、1つの答えらしいものを得た。彼女はそれをオーキッドにも聞かせたくなったが、その思いはやがて打ち消された。


 だって、そんな事したってしょうがないんだ。

 彼女は枕元でそう思い、同時にオリーブ園で聞いたバキの言葉を思い出した。

『人生は第一に自分だけのものだけど、人と共有するものでもあるハズです』。

 彼は確かそんな事を言った。だけどツバキ君、と彼女は寝返りを打って思う。

 しょせん人と人は違うのよ。常識、モラル、倫理観。そんなものの深みにはまるほどギャップは大きくなる。これまで私はそこで家族や友人と対立しては痛い目に合ってきた。


〝口は災いの元〟とはよく言ったもので、本心さえ言わなければどんな人とも上手くやってゆける。たとえ誰かを救う真実の言葉が生まれようと、それを当人に言えば大ゲンカになる事だってある。

 大体、人は自分が気に入る言葉にしか耳を貸さない。さらに大抵の場合、それはゴマカシだ。自分の過ちをゴマカすのに都合の良い弁解や、現状を肯定したいがためのへ理屈。そんなものが人の口から出てきた時にだけ関心を向け、感謝の言葉を返す。

 そして、そのお気に入りの言葉はどんな真実にも勝る。

 同じ問題について、アリストテレスやら何やらの歴史に残る偉大な哲学者たちが一生かけてひねり出した答えにさえ勝ってしまうのだ。


 もちろん、深い内省から自己批判や自己変革ができる人もいる。

 だけど、そんな誠実な人たちでも、目の前で他人から的を射た批判をされれば、どうなるだろう。大抵はそれをはねのけ、責められるほど意地をはって否定する事だろう。そんな具合に、正当な批判でさえ、その人を悪い方向に導くことだってあるのだ。


 一体、説得というものに、どれだけの価値があるというのか。

 昨夜の枕元で、蓮はそんな結論に落ち着いた。ベッドの隣りで眠るジャスミンは相変わらず、健やかな寝息を立てていた。蓮は、はだけたシーツから出た彼女のプリプリのお尻を見ながら、瀬戸の波のように穏やかにやって来た眠気に身をゆだねた。


                 *


 ツアー客一行は、午後の間中、オリーブ園と公園内にいた。記念館や展示場でオリーブの歴史を知ったり土産物を買ったり、また温泉に入ったりもした。そこもまたオリーブの温泉で、さまざまな香りや効能があるハーブ浴を目玉にし、ツアー客は湯船の中で極楽気分に浸った。その後、丘の上にある風車の前で記念写真を撮った。ギリシャのミロス島と小豆島が姉妹島になったのを記念して建てられたもので、△旗のある多くの羽根車が回る白亜の風車だった。全員並んで、夕陽をバックに記念写真を撮った。


       2人の少年がやって来たのは、そんな時だった。


 年はどちらも8才か9才くらい。どこからともなく現れた少年たちはオーキッドの元に駆けよった。言葉をかけたが当然、日本語なので通じない。そこでオーキッドは蓮を呼んだ。彼女はどうしたの?と少年たちの前でかがんだ。

「このおじさんに、ちょっとお願いがあるんや」

 真っ赤なTシャツを着た少年はそう言った。

 もう一方は黄色のTシャツで、どちらも丸坊主で土から取れたばかりのジャガイモに目鼻をつけたようなタクマしい顔立ちだった。

 2人の説明によると彼らは島在住の年子の兄弟で、このオリーブ園でサッカーをしている最中、ボールがかなり高い木の枝に引っかかってしまったらしい。そこで木の上まで自分たちを持ち上げて欲しいという事だった。

 オーキッドに声をかけた理由は単純明快。

〝ガイジンやけん力が強そうやった〟という事だ。

 彼はそれに気軽に応じ、蓮は少年たちの要請で見張り役として現場まで帯同する事になった。というのも彼らはしょっちゅうボールを木に引っ掛けている常習犯であり、園のスタッフから目をつけられていたからだった。

 さらに、もう1回やったら入園禁止にすると警告までされているそうだった。


                  *


 散歩レーンの脇、オリーブの群生林の奥にその木はあった。他のオリーブよりも頭1つ高く、炎のように多くの枝木が猛々タケダケしく空に伸び上がっていた。ボールがあるのは地上5mほどの枝の中だそうだが、深緑の豊かな葉に隠れて下からは全く見えなかった。

 さっそく、4人は作戦に入った。

 辺りに人気がなくなるのを待ち、オーキッドと赤シャツの兄が目当ての木の根元に行った。そのオリーブの木は群生林の最も奥まった場所にあり、散歩レーンからは見えにくい位置にあった。レーンには蓮と黄シャツの弟が残り、距離をあけて左右に立った。互いにうなずきあい周囲に誰もいない事を確かめ合う。


 蓮が群生林の2人に手を上げ、作戦がスタートした。

 オーキッドが赤シャツの兄を肩車し、左右の靴の下に両手を当てるとバーベルを持った重量挙げの選手のようにグイっと上に持ち上げた。兄は一瞬グラリとなったが、幹に手を当ててバランスを保った。遠目でそれを見た弟は、ホっと息をつく。兄は一番近くにある枝に手を伸ばしたが、あと少しの所で届かなかった。オーキッドが放り上げるように下から力を加えたが、兄はそこに指さえかけられなかった。散歩レーンにいた黄シャツの弟が持ち場を離れて、蓮の元に駆けてきた。

「お姉ちゃんやったら届くのになぁ」

 上目づかいで、泣きそうな声で言った。

 そこで、蓮はハっとなった。


            そうだ、私は木登りの名人だった。


 なぜ、それを忘れていたのだろう。なぜ、私が最初から引き受けなかったんだろう。


 かつて実家の裏庭にあった大きなカシの木。私は、子ども時代にずっとあの木に登っていたんだ。LAでの学生時代にもSNS仲間とツリークライミングに励み、実家に戻ってからも両親が家を引き払うまであの庭の木に登っていた。それくらい私にとって、木登りは日常的でいて特別な事だった。けれど、それはいつしか失われた。そう、私はもう5年以上も木に触れる事すらしてこなかったのだ。


「分かった。お姉ちゃんがやってみる」

 蓮は黄シャツの弟にキッパリとそう言った。

 少年は「やったぁ」と無邪気に喜んだ。


 さっそうと蓮はオリーブの群生林の中に進み、木の根元から樹上の赤シャツの兄に交代するように声をかけた。少年は素直に受け入れ、オーキッドの手で地上に降ろされた。

 蓮はメガネを外すとシュシュで後ろ髪を束ね、スカーフとサマーカーディガンを取り、ベージュのチノパンの足元を折り返し、そして靴を脱いで裸足になった。その手際の良さにオーキッドも少年も目を丸める。

 彼女は軽くジャンプし、首と腕と腰をグルグル回してから言う。

「私は準備OK、お兄ちゃんは弟と一緒にあそこで見張りお願いね」

 少年はよく通る声で「ハイ」と返事し、よく訓練された犬のように素早く散歩レーンに駆けていった。

「レン、本当に大丈夫なのかい?」

 そう言ったオーキッドに、彼女はにこやかに笑ってみせる。

「アナタが私を持ち上げられさえすれば、私は絶対に大丈夫よ」


                  *


 島兄弟が散歩レーンから合図した後、オリーブの大木の根元にいたオーキッドは蓮を肩車した。

 これはきっと、何かの宿命だ。

 彼女はそう小さくつぶやき、彼の肩の上に足をかけて立ち上がり、頭上の枝に手をかけた。そして、腰元にある幹のクボみに足を入れ、一瞬で枝の上によじ登った。それには眼下のオーキッドも「ワーオ」と目を輝かせた。

 ちょうど、その時だった。

 散歩レーンにいた兄弟が群生林の中に走りこんできた。どちらもオリーブの大木にいる2人の大人に向けて腕をクロスし、一瞬で駆け抜けていった。樹上の蓮もそれを見た。

 次の瞬間、散歩レーンから誰かが姿を現したのが見えた。

 黄色いキャップをつけたTシャツ半パン姿の男で、首からヒモでクリップボードを提げていた。明らかにこの園のスタッフと思われる人物だった。

 そうピンとくるなり、蓮はマタがった枝の上にヒョイと飛び上がり、ひときわ頑丈そうな太い枝に登って豊かな葉っぱの奥に身を潜めた。

 下を見ると、オーキッドも木の幹の背後に身を隠し、手には彼女が根元に置いていた靴や衣服が握られていた。樹上の蓮は「Orchid, Good job」とつぶやいた。


 スタッフらしき男はクリップボードの原稿を風でヒラヒラさせながら、オリーブの群生林の中へ歩を進めた。木の前で立ち止まり用心深く下から上までながめては、また別の木に向かう。

 それで、蓮には状況がつかめた。あのスタッフは園内で普段からボール遊びをする島兄弟をよく知る者であり、先に彼らが逃げてゆくのを見た事で、またボールを木の上に引っ掛けたのかも知れないと思い、調べているのだろう。

 枝に抱きついたまま、彼女は深くため息をついた。

 そばには数多くの葉が生い茂っているが、下から入念に見られれば、多分私の姿が確認できるだろう。そこで言い訳を考え始めたが、すぐに止めた。どうにでもなれと思ったからではない。単に樹上にいる事が気持ちよくなったからだ。


 蓮はアクビして脱力し、ナマケモノのように枝の上に半ば横たわった。先に自分が発揮した力がフシギに思えてくる。木登り上手だったのは5年も前の事なのに、どうしてあんな一瞬のうちに枝から枝へとサルのように登れたのだろう。

 何かが自分を上にグイっとすくい上げてくれた。実際、そんな感覚さえあった。きっと私の中の知らない自分――あるいはずっと封印されていた自分――が呼び覚まされたのだろう。あの弟くんの泣き声で、私の中の秘められたスイッチがONになったのだ。


 そう言えば、木に登らなくなってからじゃないか。私が、どんどん1人になっていったのは。『さとり世代』の追い風を受け、おひとり女子ライフを気ままに始めたのは。それはたぶん、いや、まちがいなく、木に触れることがなくなってからのことだった。


 蓮は枝に巻きつけた手足に力を入れ、じょじょに強く抱きしめてゆく。フイに実家のカシの木やLAの公園にあったニレの木を思い出した。

 このオリーブの木も同じだ。見た目は荒々しく手触りもザラザラしているが、登ったり抱きしめたりして手で強く圧力をかければゴムのような弾力性を放つ。可愛らしいほどブニョブニョになる。そう、この子もまた生きているのだ。

 オリーブの樹上、豊かな枝葉に身を隠した蓮は、樹皮にそっとマブタを当てた。真夏のそれは温かいが、じっとしているとその奥に微かな冷ややかさを感じる。おそらく根っこから木の頂までポンプのように吸い上げられてゆく地下水の通り道があるのだろう。彼女は全身の神経を集中し、その優しい循環に胸の奥底から共鳴した。


 フイに眠りに落ちかけた。

 そして意識がここではないどこかへ誘われた。まどろみの中、何かがゆったりと流れていた。あの懐かしい流れ。それは、子どもの頃から木に登るたびに感じていたもの。宇宙の果てまでも続いていそうな、あの流れだ。全ては川のようにあるがままに流れている。そこには何のしがらみもなかった。始まりもなければ終わりもない、ルートもなければルールもなく、道理や真理さえも見つからない。その流れはひたすら純粋に一方通行だった。そして、永遠を感じさせた。

 再び、マブタを開けて生い茂った葉のすきまから丘陵地のオリーブ園の下方に目を向ける。そこには瀬戸内海が広がっていた。


          すべては偶然だ。永遠に続く偶然なんだ。


 樹上に寝そべったまま、彼女はそう思う。海が青いのも偶然だ。島が海に浮かんでいるのも、太陽が空に浮かんでいるのも偶然だ。全ては永遠に続くものではない。今から何百億年もたてば、太陽でさえなくなるだろう。太陽系でも、何でも、すごく長い目で見れば、生まれてはほんの一瞬で弾け飛ぶシャボン玉のようなものだ。

 私が今こうしてオリーブの木の上にいるのも偶然だ。数分ごとにこの枝に止まっては飛び去ってゆく無数の小鳥たちのように、そこには何の意味もない。地球や宇宙の歴史に較べれば、私の人生なんてシャボン玉の命より短く、そして意味のないものになるだろう。それなのに、何でいつも小さな中にこりかたまってたんだろう。もっと好きに、もっと自然に、もっと自分のやりたいように、なぜ……。


          「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘーーイ、ヘーーーイ」


 その声で、蓮はワレに返った。木の根元からオーキッドが大声をあげていた。

「He's GONE」

 彼は片手でグーサインを作り、満面の笑みを見せた。眼下の群生林には、もうあの園のスタッフらしき男の姿はなかった。それから、彼女は近くの枝に引っかかったサッカーボールを下に落とし、幹を伝ってするすると地上に降りた。


「アナタたち、ここではもうサッカーしたらいかんよ!」

 蓮はいつしか要領よく戻ってきたジャガイモ顔の島兄弟にそう言った。彼らは照れ笑いを浮かべて、「ハイ」と返したが別れ際には一転。

「アカンベー」

 そう舌を出して笑い、キツネ並みの速さでオリーブの群生林から逃げ去っていった。

「BAD BOYS」

 オーキッドがそう言って2人で笑い合った。そうして和やかな雰囲気になったが、まもなくそれは微妙な空気になった。彼は気まずそうな顔でムリに笑ってみせ、蓮もつられて作り笑いを浮かべた。だが、気を取り直し、彼の正面に立って1つ息をつき、そして彼の目を見つめた。

「ねぇ、一緒に夕日でも見ない。私、アナタに話したい事があるの」





                  ✿




 オリーブ園には石造りの広場があった。ギリシャ神殿をかわいらしくミニマルにしたような外観で、広さは子ども用のスイミングプールほど。円を成す石畳敷きの中央には丸く盛り上がった花壇があり、周縁には一本のハリで円状につながった白亜の石柱が立ち並んでいた。

 夕方、蓮とオーキッドはそこにやって来た。ハリと柱と石畳の線が真四角のフレームになっているため、彼らが広場の真ん中に立つと、幾つもの大きな額縁に囲まれているように見えた。各々のフレームには瀬戸内海の様子が収まり、それはまさに周囲の自然の景色を借りた青空美術館とも言える場所だった。


 広場周辺に人気はなく、蓮とオーキッドは2人きりでその景色をながめた。夕暮れ空の一部には、水平に伸びた雲のカタマリがある。その所々にポツポツと穴が開き、そこから夕日が海面に向かって放射状に落ちていた。宵闇のダークブルーを背景に、そのオレンジ色のシャワーが漁船やフェリーや灯台の上に降り注がれている。蓮の目に、その光は天から注がれた女神のまなざしのように見える。

「BEAUTIFUL」

 オーキッドが言った。

「まるでライヴ・ステージのスポットライトみたいだね」

 その言葉に蓮はうなずき、そして言った。


             「ねぇ、オーキッド、生きて」


 突然の言葉に、彼は驚いた。目をカっと見開いたが、すぐに恥じ入るように石畳の上に視線を落とした。何を言われたのかは分かっていたが、唐突過ぎてうまく飲み込めなかったようだ。蓮は落ち着いていた。さっきオリーブの樹上にいた時、覚悟が固まった。そこであるがままの流れを感じた時、こころにたまった全てを彼にぶつけようと決めたのだ。


「オーキッド、アナタは自分が生きるに値しない人だと言った」

 蓮は彼の目を見て言う。

「正直、私にもそれは理解できる。アナタが犯した罪は本当に重いものだから。実際、奥さんと娘さんを殺したのは別人だった。だけど、アナタの罪が2人をひどく苦しめ、そして殺戮サツリクの現場に導いたこともまた事実だわ。

 ある種の知識人はこんな事を言う。人間、誰もが過ちを犯す。だからこそ人の本当の価値とは、その後にその過ちをどう償うのか、そのしょく罪によって決まる。どんな大罪でも償えないものはないのだ。彼らはそんな事を言う。


 だけど、それは全然現実的じゃないわ。だって暴力には度を越したものがあるから。死をもってしか償えないようなもの、あるいは死刑が執行されたり、直接その手で復讐できたりしても、被害者や遺族の気分がまったく晴れないような、そんな重罪もあるわ。私はそれを理解している。その深い憎悪に共感もできる。

 そして、アナタの罪もそういうものかも知れない。だけど、もちろんそうじゃない可能性もある。それはきっとこの先、時間がたってみないと分からないものなんだと思うわ」


 オーキッドは空ろな目つきで聞いていた。蓮にはそれが光のない海底で退化した深海魚の目のように、ただ楕円ダエンに縁取られただけの無能な器官のように見える。


「アナタが経験した事件は」

 彼女が言う。

「本当に奇妙なできごとだった。何しろ、複数の暴力的な出来事、アナタのレイプと奥さんの暴行、そして警察署での銃撃戦が立て続けに起こったんだから。それも数時間以内に別々の場所で。ほとんど起こりえないようなハプニングだった。だけど、それは起こった。そしてそれによってアナタは同時に2つのものを手に入れた。1つは救済。そしてもう1つは呪い。銃撃戦でアナタは妻と娘を失った。それはとんでもない悲劇だわ。


 だけど、本来ならアナタは奥さんから娘を犯した罪を告発されて何十年も刑務所に入れられていたハズだった。そして全ての人間関係を失っていたハズだった。そう考えれば、アナタにとってあの事件はやはり救済だったと言える。

 でも、それだけじゃない。罪を犯したのに罰せられる事なく、その上、メディアやご近所の人たちからヒーロー扱いされるようになった。それによって、アナタは悪の十字架を背負わされる事になった。オーキッド、アナタはずっとその呪いに苦しめられてきたハズよ。だけどね。事件を総合的に見ると、それは希望を残すものだったんじゃないか。私にはそう思えるの」


 蓮は腕組みをとき、かすかな微笑を浮かべた。


「あの事件の偶然、そのほとんどありえない暴力の連鎖には、何か意味があるのよ。それが何なのか、私にはもちろん分からない。だけど、この先、アナタが生きてゆけば見えてくるものかも知れない。つまり、あの偶然を意味のあるものにするのはオーキッド、アナタ以外の何者でもないの。すべては今後のアナタ次第なのよ。そして、もう既にアナタはそのために動き出しているように思えるの。

 アメリカから日本に来たのは、もう一度人生をやり直そうという思いからだったんじゃないか。それによって、アナタは悲劇にあった娘さんたちを元気にする事もできた。彼女たちは、カガワに来て本当に良かったと思ってる。桜田先生もジャスミンといると心から楽しそうだったし、ツバキ君はローズとつき合って人生が変わったって言ってたわ。

 それに、私だってそう。オーキッド、アナタと色んな場所に行って、色んなこと話して、私、本当に楽しかったよ」


 ミニマルなギリシャ神殿の中、蓮は舞台女優のように話していた。何ヶ月も稽古ケイコしたおかげで、本番のステージに上がるなり自然とセリフが出てきているような、そんな歯切れのいい口調だった。一方で、オーキッドは落ち着きを取り戻していた。彼女の真剣さに感化されたように、カウボーイ・フェイスをぎゅっと引き締めていた。


「アナタはすでに1つの偶然を意味のあるものにしているわ。私の名前が亡くなられた娘さんの名前、ロータスを意味するものだと知り、アナタはそれを神が与えた告白のチャンスだと考えた。そして実際、アナタはすべての罪を私の前で語ることが出来た。それはとても勇敢な事だわ。それについて今後、家族や他の人にも告白すべきかどうか、その答えは私には分からない。

 ただ、真実にだって語るに値しないものもある。ウソにだって隠し通すに値するものがある。どちらにせよ、語られるべき真実であれば、全ては自然と明らかになるもの。その時が来たら、アナタは正直に話せばいい。そして、全ての罰を引き受ければいい」


 蓮は一息ついて、瀬戸内の夕景を見た。依然、何隻かの漁船が、穴の開いた大きな雲を通し、夕陽のシャワーを浴びながら海上を行き交っている。


「アナタも娘さんに『ロータス』と名づけたのだから知ってるのかも知れないけど」

 蓮は彼に向き直る。

「私の名前のレン、そのハスはでもあるの。つまり、それは泥から生まれるの。池の水底、その泥の中に根を張って、遥か上まで茎を伸ばして水面に花を咲かせるの。泥から生まれて泥に染まらず、そして美しい花となる。大昔、それはブッダの教えにも通じて仏教徒の聖なる花にもなったわ。私の両親は、そんな願いをこめて私にレンという名前をつけてくれた。


 仏教では、善悪が一体になった人間観が説かれている。

 つまり、私たちは皆んな、泥の中にいるの。ほとんど誰もが泥の中にいて、そこから花を咲かせようとしてるのよ。人間は誰だって弱いもの。失業や失恋やザセツ。そんなストレスにさらされれば、誰もが自分でいるのが嫌になったり恐くなったりするわ。そうして悪の誘惑にのって罪を犯し、泥沼に落ちる。

 けれど自分を取り戻して生き続ければ、また光の下に行けるわ。水面に伸びて日の光の下で花を咲かせられるの。そしてまた水底の泥の中に落ちてゆく。生きるっていう事は、きっとその繰り返しなんじゃないか。


 もちろん、その一方でずっと泥に沈んでる人たちもいる。彼らはとてもごう慢で、どんなにヒドイ事をしても、結果それがバレなければいいと思ってる。法に触れなければいいと思ってる。何もなかった事にし、そのうちそれがあった事さえ忘れてしまう。そういう人はこの世に大勢いるわ。

 だけどオーキッド、アナタは自分の罪にちゃんと向き合ってる。だからこそ、やり直しのチャンスもあるのよ。しょく罪のチャンスがあるの。それは自分の罪を認められる人にだけ与えられた特別な権利だと思う。だから生きて、オーキッド。強く生きて……」


 フイに蓮は抱かれた。オーキッドが、彼女の背中に手を回して顔をくっつけた。

 そのとたん、重なった2人の頬が濡れた。

 彼女は初めて泣いている事に気づいた。

 いつから泣いていたのか自分でも分からない。涙はボロボロと落ち続けていた。夕空から雨が降っているのではないかと思うほどに。何かが、とんでもなく揺れていたのだろう。何かが振り切れていたのだろう。彼がゴツゴツした温かい指でその涙をぬぐいながら言う。

「レン、君のような人は他にいないだろう。私の罪を知れば、この世の誰もそんな事は口にしないだろう」

 彼は顔を離し、蓮を見つめた。彼の目はもう深海魚の目ではなかった。そのヘイゼル色の瞳は夕陽を浴びてきらめき、生き生きとした赤土色に染まっていた。


       「しかし、君の思いは受け取ったよ。アリガトウ」


 ブリマーハットのツバに手をかけ、彼は足早に広場を後にした。蓮の目に、彼のヘイゼル・アイが焼きつくように残った。それは哀しみに満ちながら、強烈な力を感じさせた。ちょうど先に登ったオリーブの木のように、恵み多き大地に根を張って絶えず地下水を吸い上げているような、そんなタクマしい生命力を感じさせた。

 いつしか彼女の頬を伝う涙は乾いていた。オリーブ混じりの潮風が、絶えず辺りに吹き渡っていた。



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