17章:エンジェルと12人のこどもたち
台風が来る。
夜7時のNHKニュースが、トップニュースで日本列島に上陸すると報じた。最大風速50m、気圧910hPa、暴風域の半径600㎞。
このデータが示しているものはミニスカ制服JKたちを悩ませるような強風ではなく、列車やフェリーでさえ引っくり返せるような超大型台風であった。
今年7つ目の台風7号。それは2日前、フィリピン海沖で発生して北上、日本の西側にあたる朝鮮半島に向かっていたが沖縄島付近で東に急カーブ、さらにテニスの錦織圭が見せるスライス・サーヴ並みの強烈な曲がり方で北に折れ、日本列島に接近し始めた。
蓮は
その通りであれば、とTVの前の彼女は思う。
台風の大きさからすると上陸前でも猛威をふるうハズなので、ツアー最終日、明日の小豆島旅行が全てダメになる。また、2日後の朝、帰りのフェリーも欠航するおそれがあり、ツアー客が足止めになるかも知れない。いずれにせよ仕事が多忙になるだろう。
しかし、彼女にはもっと気がかりな事があった。
アメリカに帰国するフラウリー家の事だ。彼らは3日後の朝、高松のホテルから最寄りの空港に行く予定だった。だが、2日後のフェリーが1日中欠航なら、翌日までに高松に戻れず帰国が遅れる。そうなればアメリカ行きの飛行機代を含め大変な損失を与えてしまうかも知れない。
一家を小豆島ツアーに誘った立場上、それはマズい。何とかそれを防ぐには明日、朝一のフェリーで高松に一家を帰す事だったが、長女、ローズマリーが直島にいるのでそれも出来ない。まったくどうしようか。
一方で、一家の次女、ジャスミンは今、蓮と同じホテル3階の客室にいた。リヴィングのソファに横たわり、台風ニュースにもお構いなしでiPodをいじっている。蓮はその姿にアキれる。
ずっとスッパダカだったからだ。夕方、蓮はツアー客と共に直島から小豆島のホテルに戻り、先に約束した通り自分の部屋にジャスミンを連れて行った。それからブロンド少女はシャワーを浴びた後、何もつけずにリヴィングに出てきた。驚いた蓮に対し、彼女は「普段から家でもシャワーの後はこうなのよ」と平然と口にした。
そんなワケで、蓮はもう1時間ほど全裸少女と一緒に部屋でくつろいでいた。2人は部屋の中央にあるローテーブルをはさんでソファに座っている。彼女はTVや雑誌に目をやりながら、時々13才のヌーディストを見つめる。彼女はソファで仰向けに横たわり、両腕に頭を寝かせてイヤホンでiPodを聴いていた。
カラダつきは小柄でスリムだが、骨格が整っているので貧弱さはない。
ワンピース水着の日焼け跡が全身に染みつき、あまりに白黒対照的なのでシマウマのようにも見える。
時々ふりふり揺らすオシリはマッシロで潤いに満ち、指で触れればポワワンと波紋が起きそうなほどだ。オッパイは少年のように小さく、乳首は淡いピンク。
フと思った。
オーキッドは、この子には手を出していないんだろうか。ロータスに向けた欲情を彼女にも……。
そこで蓮は吹き出した。そんな事は、ほぼありえない。何しろ、少女っぽいのは金髪ツインテールの外見だけで、中身はほぼオス。普段からシャワーの後は全裸でいると言うのだから、オーキッドも見慣れているのではないだろうか。
そう、考えれば、その恥じらいのなさは最初、父への抵抗から生じたのではないか。
どんなにセクシーな女でも、裸で街中を走り回れば完全に魅力を失い、どんなにスケベな男でも興味を失う。
つまり、羞恥心なき所にエロは存在し得ないのだ。全裸も気にしないジャスミンの男っぽさとは、近親相姦を犯す父親への恐怖によってもたらされたのではないか。彼女は自らの身を守るために、最初はむりに男っぽく振舞ったのかも知れない。そのトラウマ感情はいつしかパーソナリティとなり、父への憎悪も重なって反抗的なロック少女が出来上がった。蓮がそんなことを考える中、すぐそばのソファではツルツルの小さなオシリがふりふり揺れていた。
*
長い廊下の先にあるホテル5階の角部屋。その前にある小窓からは、遥か遠くの海でライトアップされた瀬戸大橋が見える。夜の8時過ぎ、蓮はその部屋のドアをノックした。リング状のドアノックを打つが返事はない。10回ほど叩いて留守なのかとあきらめかけた時、ドアノブが回った。
ボサボサ頭の男が出てきた。身につけたホテルのヨレヨレの浴衣はひどく乱れ、胸毛ボーボーの上半身が見えている。
「ヘーイ、レン」
オーキッドだった。
「ジャスミンを一晩預かるっていう君のメールは、さっきちゃんと読んだよ。ジャスのワガママを聞いてくれて、ありがとう。宿泊料は明日まとめて返すから」
「いえ、お金はいいのよ」
蓮はそう言って、少し身を乗り出す。
「ちょっと話したい事があって。できれば中で話したいんだけど」
彼は目を丸めたが、すぐに笑って、ぎこちなくドアを大きく開けた。
部屋に入った蓮の目に最初にとまったのが島の地酒だった。その大瓶、小瓶はリヴィングのソファの足元に何本も転がっていた。部屋中にアルコール臭がして、エアコンの冷気と混ざり合いウズを巻いていた。
彼女がソファに座ると、オーキッドはガラステーブルにコップを置いた。ジントニックを作ると、死にかけたゴリラのような鈍い動作でベッドの端に座る。彼女はそれに一口つけてから台風について話した。上陸の前後にはフェリーが欠航になるので、明日の早いうちに高松に戻った方がいいのではないか。が、彼はそれに首を横に振った。
「先に話した通り、妻と娘の事故死に寄せられた多額の義援金があるので、滞在費用のことは心配しなくていい」
それで再び、あの事件が蓮の中に飛び込んできた。何か言わなければならなかったが、何も出てこない。どう知恵をしぼっても、何1つとして言葉が出てこなかった。
「話というのは、それだけかい」
彼はベッドから立ち上がった。冷蔵庫からグレープフルーツ・ジュースのビンを出す。
「ジャスの大好物でね。寝る前にいつも飲むんだ。持っていってくれないか?」
蓮は、ビンを手にする。彼が申し訳なさそうな顔で言う。
「レン、明日も1日、娘たちを頼む。桜田先生にもよろしく言っておいてくれ。何しろ、見ず知らずのローズを家に泊めてくれたんだから」
「オーキッド」
彼女は少し強い口調で言った。
「ねぇ、アナタも明日、ツアーに参加しなさいよ。その方が皆んなも喜ぶハズだし。昨日、急にキャンプ場から小豆島に帰ったんで、皆んなアナタの事を心配してるのよ」
彼はフラフラ歩き、ベッドに倒れこむように座った。
「ノーノー、レンを嫌な思いにさせるワケにはいかない」
「私の事なら構わないで」
蓮は言った。私は…、彼女は彼の前まで近づいて言う。
「私は、アナタのそばにいても平気よ。嫌な気分にならないと言えば、嘘になる。私には、まだあの話が信じられない。受け入れられない。だけど、アナタがいても大丈夫なの。一緒にいるだけで気分が悪くなるなんて、そんな事は絶対にない。ねぇ信じて」
彼はベッドの端でうなだれ、そして言う。
「君が望むのなら、そうしよう」
蓮は軽く微笑んだ。彼も少し笑みを浮かべ、玄関まで行ってドアを開けた。
「Good Night」
「Sweet Dream」
間近でそう交わした際、蓮は彼の顔を見つめた。
「オーキッド、アナタはたぶん、きっと……」
次の言葉が、のど元までこみ上げてきた。だが一瞬のためらいによって消えてしまった。シャボン玉のようにパチンとあっけなく。蓮は口を閉ざし、少し微笑んでその場を後にした。言葉はその時、その時で生み出される唯一無二のもの。そこには決して二度と起こりえない何らかの神秘がふくまれている。まるで一度、散ってしまえば、永遠につぎあわせる事ができない花びらのように。
✿
朝に良いニュースが入った。台風が進路を変えたのだ。
超大型の台風7号は――桂浜でニラミをきかせる坂本龍馬像にでも恐れをなしたのか――高知県沖で信じがたいダウンカーブを描いて減速し、今はノロノロと関東地方沿岸部に向かっていた。
おかげで、翌朝の小豆島は快晴だった。ツアースタッフやツアー客の誰もがその幸運を心から喜んだ。
ツアー最終日は、主に島の“オリーブ園”で過ごす予定だった。バスの出発時刻は朝の9時過ぎ。その頃、ホテルにやって来た面々がいた。
桜田と新庄、そしてローズマリーの3人だ。直島の桜田の両親宅で泊まった彼らは朝一のフェリーで小豆島に戻って来たばかりだった。桜田はエントランスでジャスミンを見つけるなり追い回した。
「お前、何で家から出て行ったんや~」
そうわめく大男相手にジャスミンはネズミのようにチョロチョロ逃げ回った。
だが、それも長続きしなかった。桜田の目に、大きなブリマーハットをかぶったカウボーイが映ったからだ。
「ああ、お父さん、もうお体は大丈夫なんですか?」
その言葉に、オーキッドは笑みを浮かべた。
「もうダイジョーブ」
その間の抜けた日本語にツアー客の多くが笑った。
昨夜、蓮と約束した通り、オーキッドはツアー最終日の朝、ホテルロビーに姿を現したのだった。蓮の目に、彼は生き生きとして見えた。夕べはあれほど酒浸りだったのに、一晩明けただけで別人のように健康的に見えた。バスに乗ってからも、彼はツアー客相手に片言の日本語でペラペラと話しかけ、初日のように陽気なアメリカンキャラを発揮した。
*
島の南部にある大きな半島に、オリーブ園とそれに隣接するオリーブ公園があった。地元の観光スタッフはツアー客をそこへ案内し、涼しい午前中は園内の散歩に当てた。
台風が関東沿岸にそれたため、夏の青空が広がっていた。20人ほどの団体で、緑豊かな小路や広場や畑を回った。その多くの場所にオリーブの木々があった。
1908年、アメリカ産の苗木を元に、この島で日本初のオリーブ栽培が始まった。そしてそれは実を結んで一大産地となり、以降、オリーブは香川の県木に指定される程になった。島在住で年配の男性ガイドは、ツアー客を前にしてそんな歴史を語った。
園内のオリーブの木々は、どれも堂々と反り立っていた。焼けつくような島の日差しのためか、葉は焦げたようにチリチリでくすんだ緑に染まっていた。
枝や幹や根っこは、どれも筋だって荒々しく伸び上がり、その幾つかは肉食恐竜の化石のようでもあった。並木道を歩きながら、多くの観光客がその静かな迫力に心を動かされ、カメラのシャッターを切った。
正午、ツアー客一行はオリーブ記念館にあるレストランでランチを取った。島の食材を用いた地中海料理を出す店で、フラウリー家やイギリス人夫婦もイタリア料理そのものだと絶賛した。
一方、蓮の上司、神崎はワインを飲みすぎてハメを外しすぎた。店内に飾られたサッカーボールを借りて、俺は学生時代、中田英寿の高校と対戦した事があるんだと言ってリフティングを始めた。が、そのうちボールがバイキングテーブルにあった大鍋にドボンとはまり、中のスープが豪快にあたり一面に飛び散った。
「ビバ、イターリア!」
彼は両手を広げてそう言ったが、店内にいた誰もが笑わなかった。
ベビーカーの中にいた赤ちゃんでさえ、ブゼンとした顔つきで神崎をにらんでいた。
やがて店員が無表情でモップを持ってきた。
彼は黙ってそれを受け取り、せっせと掃除を始めた。
✿
午後、ツアーは自由行動になり、ツバキはローズマリーと2人で園内を回った。ハーブ・ガーデンで無数の花々の匂いを
その後、2人で『エンジェル・ロード』に行く事にした。そこは〝恋人たちの聖地〟と呼ばれるカップル向けの観光名所だった。
小豆島の西南端、小さな半島から南に4つ連なる小島があり干潮時になって潮が引くと、それらを1つに結ぶように砂浜が現れる。それがエンジェル・ロードだ。その海が2つに割れる現象は、1日の朝夕に二度起こる。カップルがエンジェル・ロードを訪れるのは、そこで手をつなぐと幸せになれると言われているからだ。ツバキもローズも、そういう事を信じるほどロマンチストではなかった。しかしローズが絵心をくすぐられ、ぜひ行ってみたいと言い出したのだ。
エンジェル・ロード。
4つの島を線上に結び、海を二分するそのフシギな砂浜は、2人が着く頃にはオレンジ色の夕陽にスッポリ包まれていた。本物の天使でさえそこを歩くのを遠慮しかねないほど美しい景観だった。
ツバキとローズはまず高台に向かった。展望スポットが設けられていて、キュートな鐘のオブジェまであった。恋人たちはその鐘を鳴らしては何か願い事を口にした。下の砂浜でも多くのカップルが手をつないで歩いていた。
しかし、ツバキの愛する人は違った。展望台から
ツバキの目に、海は夕日のオレンジを浴びながらも暗い緑色に見える。それは彼の生まれ故郷、有明浜にも通じる陰気な色あいだった。数々の世界の美しい海、グレートバリアリーフやカンクンやコートダジュールなどと較べると、やはりため息をつくしかない。
だけど、と彼は思う。
瀬戸内海はいつも愛情深い。この暗く重たい色は、地球の多くを占める外洋の色とも重なるだろう。けれど、幾つもの大陸を果てしなく隔てる外海とは違って、この海にはむしろ陸地を結びつけているような温かさがある。
たぶん穏やかな波や潮風や気候がそう感じさせるのだろう。まるで四国と本州を粘着させる魔法のボンドででもあるかのような、そんな目には見えないネットリした優しさが、この瀬戸内にはある。
*
夕陽が落ち始めた頃、ツバキとローズマリーはようやく2人きりになった。エンジェル・ロードの細長い砂浜にある岩場に座り、暗いオレンジに染まる瀬戸内海の宵闇をながめた。潮風は夏の終わりを告げるように少し肌寒かった。
「HEY!」
ローズが口を開いた。
「私、絵描きになろうと思うの」
突然のその言葉に、ツバキは驚いて彼女の顔をのぞきこんだ。
「昨日、私、美術の先生に絵を教わったでしょ。それで全てが変わったの。人生が変わってしまった。フフ、ツバキと同じね」
彼女は潮風に揺られる長い髪に指を通す。
「昨夜、夜遅くまで先生と一緒にいたの。あ、でも誤解しないで。ただ、絵を描いてただけなんだから」
ツバキはコミカルに下唇を歪ませて言う。
「君を信じるよ」
「それでね。2人で絵を描いてる途中、先生がこう言ったの。『君はアーティストの目をしてる』って。自分ではそんなこと想像した事もなかったんだけど」
彼女は照れ笑いを浮かべ、夕陽の向こうに目を細める。
「先生はこう言ったわ。人の心には長い長い下り階段があるんだって。エゴや自意識や欲望、そういったものよりもっと奥深くに潜んでいる自分がいて、その階段はそこへとつながっているの。そこを1人で降りてゆく時、人はアーティストの目になるんだって。
大抵のものはコミュニケーションで成り立ってるよね。対話や交渉や協力、そういった人と人との繋がりが、あらゆる価値を作っている。だけど、それは世の中の99%の価値でね。残りの1%は違うの。
それは孤独から生まれるのよ。世の中には周囲から孤立する事で価値を生み出す人もいる。それがアーティストというものなの。
孤独を極める事。内なる階段を1人で降りてゆく事。画家、ゴーギャンはタヒチ島で1人、闘病しながら数々の傑作を生み出していった。ジョン・レノンはイギリスの森の別荘に引きこもって『IMAGINE』を作った。先生はそう言ったわ」
ツバキの目に彼女は全てを悟りきったような顔つきだった。人の意見など求めてなく、ただ自分の中で熟した知恵の実を分けてくれているような、そんな感じだった。
「それを聞いて、私、なぜ日本に来て絵がたくさん描けるようになったかが分かったの。それはこの3ヶ月が、とても孤独だったからよ。私にはツバキ以外に友達が出来なかった。でもそれで良かったのよ。カガワに来て本当の孤独を知り、その中でたくさん絵を描けた。結局、私は何よりも私でいたかったのよ。つまりは、長い長い階段を下ってゆくタイプの人間だったってワケ。水島先生とツバキ。たぶん、あなたたちがそんな私の本性を気づかせてくれたんだと思う。だから、本当に感謝してるわ」
「何だか、よく分からないけど」
ツバキは丸石をポンポンと海に投げ入れる。
「ローズはその長い階段を降りてゆけばいい。俺にはそんな薄暗い階段を1人で歩いていくような度胸はないけどね。世の中には絶対そういう人も必要だって事くらいは分かる。俺は逆に、光がさす方に向かってゆくよ。それはギラギラと
ローズは彼の肩に頭を乗せた。
「私、LAのアート・スクールに行きたいの。ツバキがハワイなんかに行かなければ、私たち、カリフォルニアのどこかでまた会えるかも知れないよ」
ツバキは何も答えずにローズの髪をなでた。先にオリーブ園で作ったハーブの首飾りから彼女の名前と同じ花の匂いが漂う。
彼はそれに鼻を寄せながら、彼女をギュっと抱きしめた。
「ねぇ、その後、ラベンダーガールとはどうなったの?」
ローズがそう笑う。
「これだけは信じて欲しいんだけどね。私、今までアナタの彼女を憎らしいと思った事はないのよ。本当に一度もないの。だからと言って、ツバキを大切に思ってなかったワケでもない。アナタの事は今も好きよ。ねぇ、こういう気持ちって分かる?
たぶん、このビーチにいるカップルの多くはそうじゃないと思うけどね。
私、人って一度に何人も恋人を作ってもいいと思うの。
男でも女でも。だから、今までツバキの浮気に目をつむってたワケじゃないのよ。
私、これまで百万本くらいレンアイ映画を観たんだけどね。全てに共通して言えるのは、恋人たちが永遠の愛をちかってから悲劇が始まるという事。
つまり、真実の愛をたった1人の人にしか与えないと約束してから、全てが崩れ始めるのよ。それでも今も多くの人は愛を独占しようとしては破局を迎える。なぜ、人は歴史上同じ過ちを繰り返すんだろうね」
ツバキは、それを胸のすくような思いで受け止めた。心の中にあったモヤモヤが一気に晴れて、海鳥と共に夕焼け空に羽ばたいていけるような気分になった。
「正直、ずっとローズとは恋に落ちないようにしてたんだ」
彼が言う。
「友達よりは深く、恋人よりは浅くという感じでね。だけど、君とそんな関係でいると、それこそが本当の愛なんじゃないかって思えるようになってきたんだ。そりゃ恋に落ちるのもアリだけどさ。恋って基本、遊ぶものだろ。それなのに、皆んなマジメにやろうとするからつまらなくなるんだ。
俺の友達ってほとんど女がいないんだけど、誰もが女はメンドくさいって言うんだ。だけど、それは恋をマジメにやろうとするからなんだ。もちろん、真剣さも必要なんだけどさ。基本は、もっと皆んな気軽に色んな人と恋していいんだよ。それこそシットするのがバカらしくなるくらいにね。ローズ、俺って先に行き過ぎてるかな?」
彼女は顔を横に振った。
「いいえ、私もそういう事を言ってるのよ。実際、カリフォルニアのビーチじゃ、そういう恋がもう現実になってるんじゃないの。とにかく、iPodが発明されてから10年以上たつのよ。恋も、もうそろそろ21世紀並みに進歩してもいい頃じゃない」
「そうさ、スティーブ・ジョブズだって、もうとっくに死んでるんだ」
2人は笑い、そして口づけた。同時に、ツバキはつきあい始めた頃のような胸の高鳴りを感じた。
夕日が沈みエンジェル・ロードの満潮時刻になった。岸の両側からはさみこむように波が寄せ始め、4つの小島をつなぐミステリアスな道は、夜の海に飲まれようとしていた。
✿
桜田は、ジャスミンと新庄と共に午後を過ごした。ランチを取った後、金髪ツインテール少女が、どこか遠くへ行きたいとわめき出した。そこで彼は大昔の日本の暮らしが体験できる場所があると言ったが、彼女は乗り気にはならなかった。だが、新庄に日本での最後の思い出作りにはピッタリじゃないかと言われ、しぶしぶ応じた。
オリーブ園の南方に小さな半島があり、そこに小豆島を舞台にした日本の古典映画『二十四の瞳』を記念した映画村がある。3人はそこを目指した。最寄のオリーブ桟橋から渡し舟に乗り、半島では黄色いボディの昔懐かしボンネットバスに乗り込んだ。そんなアクセスの良さから、3人は数10分で映画村に着いた。
村の入口にある店ではカスリが貸し出されていた。それは戦前の子どもたちが普段着にしていた服で、色あせた濃紺の生地に雪の結晶のような模様があった。2人のティーン・エイジャーは喜んでそれをつけ、桜田はサイズがないので浴衣をつけた。
3人で村内を歩いていると注目を浴びた。
何しろ相撲取りの親方のような男が、カスリをつけたカワイイ少年少女と歩いているのだ。特に金髪少女は目立った。ジャスミンは観光客に写真を撮られ始め、行く先々で、「カワイイ」の声が飛び交った。そのうち本人も乗り気になり、江戸時代風の商店や堀池の前で、レディー・ガガ風の挑発的セクシーポーズを決めてみせた。
*
1人の女教師と12人の子供たち。
ヒマワリが咲き並ぶ菜園を前にして、彼らは楽しそうに輪を作っていた。ちょうど、皆んなでジャンケンをしている最中だ。グー・チョキ・パーの手が高々と掲げられる。
だが、その勝ち負けは永遠に決まる事はない。なぜなら、彼ら全員がブロンズ像だからだ。それは映画村の一角にある『二十四の瞳』のヒロインの女教師と生徒たちをモチーフにした銅像だった。
桜田はそこに着くと、2人の生徒を混ぜて写真を撮った。ジャスミンと新庄は、共にコミカルな顔でチョキの手を女教師に向けた――彼女がパーを出しているからだ。銅像の子供たちと同じカスリ姿なので、それほど違和感はない。そのうち、ユカイそうな顔つきで老人がやって来た。80歳くらいのおじいさんで、映画村のガイドの手伝いをしていると言う。3人共に、映画を観た事がないと言うと
『二十四の瞳』は1952年に小説として発表され、その後、何度も映画やTVドラマになった物語だ。太平洋戦争を時代背景にしたヒューマン・ドラマで、小豆島に赴任した若い女教師と12人の教え子の目を通して、戦争や貧困に苦しむ時代を哀しくも温かく描くという内容だった。おじいさんは、そういった事を口にした。そして、桜田が教師で後の2人が生徒だと知ると興味を示した。
「ほうな、アンタ、
「ほなけど、生徒さんは
桜田は笑い、耳が遠いおじいさんに大声で返す。
「おじいさんなぁ。女の子はアメリカから来た留学生。男の方は小学校までハワイでおったんですわ」
ガイドのおじいさんは驚いた。
「わしは戦前からこの島に住んみょるけど、そんな珍しい組み合わせが観光に来たんを見るんは初めてやなぁ。つまり、香川の先生がアメリカさんとハワイ島出身のお子さんを連れとるいうワケですやろ。まったく時代も変わったもんや。『二十四の瞳』の女先生がここにおったら、ビックリしてひっくりかえるかも知れんな」
そんな風にしばらく話した後、おじいさんはある遊びを勧めた。映画版の名場面の1つに、女教師と生徒たちが桜の木の下で電車ゴッコをするシーンがあり、この銅像のある広場でそれをしてみないかと言うのだ。
「いや、ただ長縄でつながって電車みたいに走るだけなんやけどな。学校の修学旅行生には好評を頂いとってね。やってくれた人は先生も生徒さんも皆んな、子供ん頃に戻ったみたいに良かったですって言うてくれよるんですよ」
桜田はそれに心を動かされ、さっそくおじいさんから長縄を借りた。
そうして嫌がる2人に言う。
「お前ら、まじめにやらんかったら、この大昔からいつまでも現代に戻れんぞ」
*
浴衣姿の熊のような大男が先頭、金髪ロック少女が真ん中、前髪をたらしたカマキリ顔の少年が最後尾をつとめ、長縄の電車は出発した。
映画の記念像のある広場を1周すべく、緑豊かな木々や花々が咲き乱れる中を進む。桜田は子供のような笑みを浮かべて電車をグイグイ引っ張り、後の2人は必死についてゆくだけだ。その様もそこに居合わせた観光客の目に止まり、また写真攻めにあった。桜田は大いに協力し、2人と長縄でつながったまま様々なポーズを取った。
ガイドのおじいさんは、木陰の揺り椅子からその様子を眺めていた。
香川県の地元教師、太平洋戦争の敵国であるアメリカの少女、日本軍が奇襲攻撃を仕掛けて開戦地となったハワイ出身の日本人少年。彼は、そのフシギな面々が仲良く電車ごっこするのを見つめながら、自身の戦後人生をぼんやりと振り返っていた。
いつのまにか3人は広場を3周も回っていた。やり始めると意外に楽しく夕飯前の子供のようにいつまでも遊んでいたい気分になった。とはいえそれは先頭の大男に限ったもので、あとの2人は文句を言い続けていた。
「あと、1周や。がまんせぇ」
桜田はそう言って電車の長縄を引っ張りなgら、後ろをチラリと見た。
「ジャス、お前にちょっと言いたい事がある。これはアメリカに帰るお前への、先生からのせんべつの言葉や」
新庄がそれを訳すと、彼女はやれやれという顔つきをした。
「まずはお礼や」
桜田は頭をかきながら言う。
「何と言うか、ジャスのおかげで先生は色々勉強になった。お前と一緒におるうちに、考えが変わってきたんや。最初、それはお前が外人で変な考えを持ってるからやと思っとった。だが間違いやった。ジャス、お前は自由人であり、その自由な考え方は時として正しい。お前とおって、それがやっと分かったんや。
先生はずっと生徒指導の際、子供たちに親を喜ばせるような道ばかりを説いてきた。そやけど、今後はお前みたいな生徒の後押しもしたいと思う。自由に自分らしく生きたいっていうんもまた人生や。そして、それは先生自身も見習うべき事や。先生も、もっと自分のために人生を生きてみたいって思うようになった。それを教えてくれたんはお前や、ジャス。ほんまにアリガトウ」
新庄の同時通訳を受けてジャスミンは目を丸めた。くすぐったそうな顔つきで長縄をアッチコッチに引っ張る。桜田は長縄電車を先導しながら
「さてお次は説教や。お前、アメリカに戻ったら、好き勝手やるつもりやろ。家から飛び出して、ロックバンドでもやり始めるつもりやないか?」
桜田は振り返ったが、彼女は顔を横にそむけてみせた。
「どうやら、図星のようやな。ええか、お前が今後何をやろうが、先生は構わん。お前の人生や。好きに自由に生きたらエエ。そやけど1つ、これだけは守れ」
桜田は振り返って彼女の目を見る。
「ええか、高校だけは絶対に卒業せぇ」
新庄が訳すと同時にジャスミンはバカにするように笑った。
「OH, No way!」
「オーノーやない!」
それはものすごい怒鳴り声で、クールな少女も飛び上がってビックリした。
「ええか、高校だけは卒業しとけ。これはホンマに大事な事や。高校も卒業しとらんと、ロクな職につけん。最低限の学歴がないと、人生はホンマに苦労するもんや。毎日汗水流して働いても生活するだけで精一杯になる。それはアメリカでも同じ事やろ?」
後ろで歩く少女は、それに何も答えない。
「ロックでも何でも夢に向かういう事はゼータクな事で、社会や家族の支えが必要になる。そやから、お前はもっと歩みよらないかん。ちゃんと高校卒業したら、社会はお前を支えてくれる。親兄弟に孝行したら、家族もお前を支えてくれる」
そんな言葉を、新庄はいつも以上に熱心に同時通訳した。
桜田は、大きく息をついた。
「自由に生きるんも大事や。そやけど普通に生きる事も大切なんや。どちらか一方にだけ傾いたら、いずれ人生が崩れてくる。そして取り返しのつかんもんになる。先生ももっと自由に生きようと思うから、お前はもっと普通に生きようとせぇ。高校をちゃんと卒業したら、お父さんも喜んでくれるやろ。それともっと…」
彼は頭をボリボリかく。
「もっと、女らしくなれ、そしたら、お前を好きになる男も出てくるやろ。まぁ相当の物好きやろうけどな。そうなれば人生はもっと楽しくなる。ええかジャス、1人で何でも出来るなんて思うな。でかい夢を持つんなら、それだけ多くの人の支えがいる。だから、お前はもっと人に優しく、そして女らしくなれ。先生が言いたいんは、それだけや」
思わぬ事が起こった。
桜田は突然、背中に衝撃を受けた。後ろのジャスミンが雄たけびと共に両手で突き飛ばしたのだ。相撲取りのような彼がひっくり返る程の勢いで、長縄でつながった新庄も一緒に転んだ。ジャスミンだけは器用に縄をまたいで、難を逃れた。そうしてカスリをひらめかせ、アっと言う間に広場から走り去っていった。1度も振り返る事はなかった。
遠くからそれを見たガイドのおじいさんは血相を変えて、木陰の揺り椅子から立ち上がった。気づいた桜田が、彼に向けて大きく両手をはらって怒鳴る。
「何でもないわ。心配せんでエエーーー!!!」
そして転んだ新庄に手を差し出す。
「新庄、先生は言うだけの事は言うたぞ」
そう言って、ジャスミンが消えた方向に目を細める。
「変わらんやつは、変わらん。世の中にはしょうがない事もある」
「いや、先生、それは違います」
新庄は、桜田の目を見つめた。
「だって、ジャスミン、泣いてましたよ」
「ハァ」
「いや、とちゅうで涙が落ちたんです。ホントです。後ろからやけど、彼女の
桜田は、浴衣の長い袖を重ねて腕組みをした。そうして2人は、しばらく並んでジャスミンの消えていった並木道を見つめていた。
「すんません、とんだ脱線事故を起こしまして」
桜田はガイドのおじいさんに長縄を返す時にそう言った。
すると、彼はユカイそうに笑った。
「いやいや、若い子は元気なんが1番。それにしても、アメリカのお嬢さんはすごい力やのぉ。まったく今も昔もアメリカはすごい。そら日本が戦争しかけても勝てっこないわ。あ、古い話ですんません」 それに、桜田も新庄も声を上げて笑った。
彼らのすぐそばでは、女教師と12人の生徒たちが依然、グー・チョキ・パーの手を夏の夕空に高々と掲げていた。
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