16章:元気な花


 休職中の元美術教師、水島が早足でやって来た。頭にはバンダナ、麦色のリネンシャツに破れた半パンジーンズ。そんな若々しい姿の彼は、広い畳敷きの居間の向こうからさっそうと玄関までやって来た。そうして、親友にビッグ・ハグをお見舞いした。


「大ちゃん、よぉ来たのぉ。皆さんも、こんな島までよぉ来てくれた」


 ジャスミン、新庄、ツバキ、ローズマリー。彼らは合唱団のようにそろって「こんにちは~」と笑顔で言った。桜田が目を丸めて言う。

「お前、何でそんな元気になっとんや」

 水島は照れ笑いを浮かべて返す。

「いやいや昼の間だけや。まぁでも、おかげさんでこっちに来て大分よぉなったわ」

 玄関に2人の老夫婦がそろって現れ、笑顔を見せた。

「皆んな、これが俺の両親や。オヤジ、この子らは、俺の教え子とその連れや」

 桜田がそう言うと、たっぷりと白い眉毛を蓄えた彼の父は、「まぁこんなに大勢で、よぉおいでになったわ」と言う。そこで、また4人のコーラスグループは笑顔で言う。

「こんにちは~」


                  *


 直島銭湯後、ツアー客は二手に分かれた。ツアー・アシスタントの蓮は直島の観光地ガイドに回り、一方の桜田は別行動を取った。フラウリー姉妹、新庄、ツバキの4人を連れて両親の実家まで案内した。

 

 そこは、宮浦港からバスと徒歩で30分ほどかかる島の中心部にある山岳地帯だった。多くの山々に囲まれた場所で、緑豊かな森林をぬうように県道が走っていた。

 桜田の両親宅は、その通りから少し山奥に入った場所にあり、広々とした土地に一軒家を構えていた。周囲の家屋と同様、1階建ての平屋で、瓦屋根とマッシロな漆喰の壁に覆われた家だ。庭には菜園やイチゴを育てる温室があり、玄関にはツバメの巣があった。それは天井のハリの奥にあり、開けっ放しの正面扉を通って親鳥がそこに飛んできては、せっせと子にエサを与えていた。


 騒がしく鳴き続ける子ツバメたちの巣が見える玄関先の居間に、一同は落ち着いた。畳敷きの10畳間の中、真ん中にあるヒノキ造りの円卓を囲み、ムギ茶を飲みながら皆んなで色々と話した。


 まず、水島が自身の病状を伝えた。末期の結核患者だった彼は、1ヶ月ほどの島での静養で順調に快復に向かっていた。今では食も睡眠もよく取れ、昼のうちは家事や買い物まで出来るようになった。

 それには桜田もビックリした。何しろ、坂出から直島への引越しを手伝った時、水島はミイラのようにやつれた姿で車椅子に乗っていたのだ。

 水島は、島の生活が全てを変えたのだと言った。近所の町医者は自然治療のエキスパートでお灸や気孔を施してくれたのだそうだ。何より、桜田の両親を始め、近所の島民たちも優しく気づかってくれた。そして、島の食べ物や空気、穏やかに流れる時間が素晴らしく、自分のカラダに潜む根源的な治癒チユ力を呼び覚ましてくれたのではないか。元美術教師はそんな事を口にして、桜田に改めて感謝の言葉をかけた。


 病気の話が一段落すると、桜田が水島にジャスミンを紹介した。

「まさか、こんな場所で会えるなんて思ってもみなかったよ」

 水島はジャスミンの強烈なハグを受けた後に、そう言って笑った。本来なら坂出市にある学校で担任教師と転校生として会うハズだった2人だが、どういうワケかこうして直島の山奥でご対面となってしまった。

 ジャスミンはさっそく学校での自身のトンデモ話を披露し、彼を始め周囲の皆んなを大いに笑わせた。新庄もまた、休職中の元担任の快復ぶりを見て涙目になりながら、1学期中にクラスで何があったのかを話して聞かせた。


                  *


 昼の1時過ぎ、一同は広々とした庭に集った。

 目的はハウス・ビルディング。皆んなで、水島のために小屋造りを手伝う事になったのだ。彼は今、近所の木工所や工務店の気のいい職人たちと共にそれを造っていた。小屋は彼のアトリエ兼、子どもたちのお絵かき教室になる予定だった。

 水島は中学で美術教師を勤めながら、高松や神戸のギャラリーで何度か個展を開いた事のあるプロの画家でもあった。直島に移住後、彼のそんな素性が周囲に知れ渡り、近隣住民が絵を教えてくれないかと頼むようになった。

 直島はアートの聖地とも呼ばれる場所であり、桜田家の近所にある小学校では多くの子どもたちに絵心があった。水島は体力の快復を見てからと半ば受け入れ、桜田の両親も歓迎した。そこで、近所の職人たちが無償で余った木材を使ってアート小屋を造ってくれる事になった。それを聞いた桜田が、これだけ若い奴ら連れて来たんやからと言って、手伝いを買って出たのだった。


 そんなワケで、銭湯に入ったばかりの若者たちは、すぐに汗だくになった。

 桜田に新庄、ツバキのメンズ組は土台造りにかかった。

 小屋はまだ、周囲の支柱とコンクリートの基盤だけの形だった。彼らは、コンクリの上に、丸太を積み重ねる作業に入った。若い2人はヒーヒー言いながら、バカ力の桜田と共に丸太を持ち上げて運んでいった。

 ジャスミンとローズマリーの女子組は、壁になる板をペンキ塗りした。水島は、庭の大きな木の下で窓にする全面張りのガラスに、色とりどりのサインペンで模様を描いた。老夫婦まで出てきて、木材にヤスリをかけた。


 1時間以上、全員で小屋作りに励んだ。桜田は忙しく動き回りながら、その場に心地よい一体感が生まれるのを感じた。

 一見チャラ男系のツバキも、嫌な顔1つ見せずに力仕事をこなし、新庄も弟分のように働いた。キンパツ姉妹も、手をベタベタに汚しながら熱心にペンキをぬり重ねていった。


 そんな中、桜田の目に最も生き生きとして見えたのが親友だった。

 水島はガラスの上で気ままにペンを走らせながら、回りの若者たちを見てあどけない笑顔を見せていた。結核をわずらって以来、桜田の目には見たことのない表情だった。久しぶりに若い人たちに触れたことで、アートをこころから楽しむ純真さを取り戻したようだった。桜田はその姿に目を細め、大勢を引き連れてやって来て本当に良かったと思えた。


                  *


 昼食のメニューはジャスミンの一押しで、うどんになった。そこで、桜田は彼女と姉に調理の手伝いを促した。特にジャスミンには「花嫁修業や」と言って、自身の母親に専属指導を頼み、自身はジャスミンの背後に仁王立ちして監視役を務めた。

 ジャスミンに課されたのは包丁さばきで、さまざまな山菜を切り刻んだ。彼女は上手く出来ずに度々キレそうになったが、投げ出す事はなかった。それは桜田がそばでニラミをきかせていたからではなく、辛抱強く教える彼の母親のおかげだった。


 桜田の両親はどちらも笑顔が元になってできたような顔をしていた。島暮らしらしく、物腰も言葉遣いも自然な優しさに満ちていた。そんな老婆が教えてくれていると、さすがのロック少女も大人しくなるしかなかった。包丁をカタカタ鳴らして、細かくみじん切りするしかない。

 桜田にすれば、それは最高の展開だった。父親と不仲な反抗期まっさかりの少女に何とか家族の温もりを味合わせてやりたい。そんな思いが、まさに目の前で1つの理想形を成し、彼のこころを大いに温めることになった。


 桜田の母とフラウリー姉妹が協力して作った昼食は好評だった。全員が気持ちよさそうにうどんをすすり、野菜や惣菜ソウザイや天ぷらをパクパク食べた。調理を手伝ったからか、ジャスミンも、普段よりハイテンションでどんぶりにかぶりついた。


 あっという間に、誰もが食べ終えた後、ローズマリーが水島に話しかけた。彼は、学生時代に半年ほどヨーロッパ中を放浪した事があり、今でも年に1度はその時に親しくなった友人を訪ねて旅行に出る。そのため英会話は得意であり、2人の話は弾んだ。

 そのうち、ローズは絵を見て欲しいと切り出した。

 持参した厚紙ファイルから何枚か画用紙を取り出し、水島の前に広げて見せた。最初、彼は子どもの絵を見てやるように見ていたが、すぐに目つきが変わった。タンスから老眼鏡を取り出し、その絵を1つ1つじっくり見始めた。

「これは…」

 彼はそう口を開く。

「そうとう、時間をかけて描かれたものだね。うん、どの絵も奥深くて、興味深い」

 彼は、本当にこんなカワイイ小娘が描いたものなのかという感じで、ローズと絵を何度も交互に見た。

 そばにいたツバキは、ローズにウィンクしてみせた。それで彼女は、前に彼が同じようなホメ言葉を言った事に気づかされた。

「絵を描いて何年になる?」

 水島がそう言う。

「10歳の頃から描いてます」

「Excellent」

 水島は老眼鏡を円卓に置き、まるで重労働をしたばかりのように腕で額の汗をぬぐってふ~っと息をついた。

「君はまだ17才なのに、もう自分のスタイルを持っている。それもフシギと長い歴史を感じさせる程に」

 彼は照れ笑いを浮かべて言う。

「ローズ、良かったら、今度は君が私の絵を見てくれないか?」

 その言葉に彼女は驚き、ツバキを見た。

 水島は彼に笑いかけて言う。

「もちろん、君も一緒に来てくれ。まさか、この年で君の彼女を奪うつもりなんかないよ」


                 *


 すばらしく、ながめの良い部屋だった。そこは家屋の裏庭に面したヒノキのフローリング仕立ての部屋で、窓の向こうには緑豊かな山脈が連なり、その透き間からは青々とした瀬戸内海まで見れた。

 水島は1ヶ月前からそこに居候していた。

 室内には、彼の絵が数多くあった――いや、あふれていたと言った方がいいだろう。

 部屋の真ん中、2つある大型のイーゼルには描きかけの作品があり、天井に張られた2本のロープにも数多くの絵が洗濯バサミで吊るされてある。

 油彩画、水彩画、ドローイング、それらがキャンバスや画用紙やケント紙に描かれ、窓から吹く風にヒラヒラと揺れていた。


 ローズマリーは部屋に入ったとたん目の色を変えた。水島に断って、1枚1枚ていねいに見てゆく。後に続いたツバキにも、それは圧巻だった。

 イーゼルに立て掛けられた2枚の油絵が目を引く。

 それは、ちょうどこの部屋の窓から見える山々の景観だった。どれも噴火しているかのように豪快で鮮烈なタッチで描かれていて、とても紙の中には――いや、この部屋の中にも――収まりきらない感じだった。ローズは、絵を見るうちに目の色を変えていった。ツバキにも、それがありありと分かる。やがて彼女が言う。


「信じられない。私、こんなにすごい絵をじかに見たのは初めて」

 ローズは興奮して早口英語で話し、水島もそれに応じる。彼は求められるままナイフ片手にパレットの顔料を混ぜ、どうやって油彩画の色を作るのかを教え始めた。ローズは、それを真剣なまなざしで聞く。

 ツバキには、そんな彼女を見るのは初めてだった。人間、自分と同じものを愛する者には、自然と特別な感情が湧き上がるのだろう。

 今ここに、完全に2人だけの世界が出来上がった。

 というワケで、ツバキが次に取るべき行動はただ1つだけだった。

「ちょっと散歩してくる」

 そう声をかけたが、ローズは気づく事もなかった。


                 *


 ツバキは廊下をあてもなく歩いた。すりガラスの向こう、庭の様々な草木をながめながらゆっくりと進む。

 さて、これから何をしよう。彼はそう思う。

 だけど、そもそも俺は一体なぜここにいるんだろうか。考えれば、ここは俺の彼女の妹の…ん、そうそう、その先生の両親のお宅。確か、そんな場所だった。俺は一体そんな縁もゆかりもない所で何をしてんだろう? 


 廊下を歩く彼の目にミョーな光景が映った。

 庭の一角で、誰かがスコップで穴を掘っていた。

 ジャスミンだ。

 金髪ツインテールを揺らしながら、黄色いTシャツにホットパンツ姿で懸命ケンメイに土を掘り起こしている。ツバキはそばの縁側に腰掛け、それを見物した。彼女のいる場所は庭木の影だが、炎天下なので穴掘り作業は相当きついだろう。

 彼は1人そう思う。

 にしてもMTVのミュージックビデオにも出てきそうなブロンド少女が、瀬戸内海の島の民家で汗水たらして土掘りしてるとは、何てギャップだろう。

 まるで金星から宇宙船でやってきたお姫様が、思わぬ事故でこの島に不時着して、地球人からどうにか身を守ろうとシェルターを作っているかのようだ。彼は1人、そんな想像力を働かせる。


 ジャスミンがいる菜園は柵で区切られて降り、そばの盛り土は彼女のお尻の高さにまで達していた。夏空の入道雲は凍りついたように動かず、裏山の山鳩が「ホッホーホッホッーー」という日本の田舎にお馴染みのメロディーで鳴いていた。


       「HEY! What the Hell are you doin'!!!」


 ジャスミンのその怒鳴り声がかかるまでに、およそ3分かかった。

 2人の距離が5mほどだった事を考えれば、かなり遅いタイムだ。ツバキはその声に、おどけた顔で手を振ってみせた。

 ジャスミンが言うには、桜田家の循環栽培の一環として穴掘り作業をしているということだった。桜田の両親は食べ残しなどの生ゴミを肥料にして花や作物を育てていて、菜園の土にそれを埋めるようにしていた。ジャスミンは老いた夫婦の代わりに、自発的にその穴掘りを引き受けたという事だった。そんな話を聞かせた後、彼女はツバキにスコップを放り投げ、むりやり穴掘りを交代させた。


「にしても、君は見かけによらず優しいんだね」

 炎天下で穴を掘りながらツバキがそう言うと、縁側に座ったジャスミンは微笑んだ。

が、次の瞬間、「FUCK OFF!!!」と言い放った。

「私は、そんなんじゃない」

 そう怒りをあらわにして言う。

「気がつけば、こうなってたの。チェリーの両親と一緒にいると、なぜかすごく優しくなってしまうのよ。もちろん、それはそれで良かったんだけど、もうガマンできない。フラストレーションたまりまくりなの。一体、今、私はここで何をやってんの?」

 彼はそれに手を打った。

「ちょうど、俺もそう思ってた所なんだ。俺、一体こんなとこで何やってんだろうって」

 彼女は吊り上げた唇を鳴らしてニヤリと笑った。

「じゃあ、今すぐここを脱出しない?」

「いやいやいや」

 そう彼は日本語で言って英語に切り替える。

「そんなこと出来ないよ。皆んなすごくいい人だし」

「ねぇ、それって、そんなに難しい事じゃないよ」

 ジャスミンは彼に近づき、スコップを握る彼の両手を取った。


「だって私、何もって言ってるワケじゃないでしょ」



 桜田が裏庭に行ったのは、しばらくたってからの事だった。

 いつまでもジャスミンが戻って来ないので様子を見に行ったのだ。予想通り、庭には誰もいなかった。菜園を見ると、掘ったばかりの大きな穴と盛り土があった。そして、周囲の掘り返された赤土が平らに引き伸ばされ、その上に文字が書かれていた。


     "I’m Out There, Cherry, see U tomorrow! ○×Jasmine〟

  “サクラダさん、すみません。ナオシマ・カンコーに行ってきます。ツバキ”


 その2行が仲良く並んでいた。そばにある枝木で書いたのだろう。桜田はあのクソガキどもが~と眉を吊り上げたが、同時に鼻で大きく息をついた。

 ほんまは一晩くらい泊めたかったけど、まぁ、これくらいがアイツの限界か…。

 彼はそう思って、菜園に掘られた穴を見た。それは感心するほどに深く、小柄なジャスミンならそのままスッポリと入ってしまう程だった。

 フン、ええ肥料穴になったな。これなら花もよう咲くやろう。

 ひょっとしたら、秋にはアイツみたいな花が咲くかも知れんな。

 まったく、どんなアメリカの肥料で育ったんか、アレはほんまに元気な花や……。


 彼はそう1人微笑み、雲間に隠れた太陽が再び顔を出すのを待った。





                  ✿





 自由になったツバキとジャスミンは、アート観光に行った。行き先は直島1番のホットスポット、ベネッセ・アートサイトだ。

 入り口で無料のシャトルバスに乗って中に入った。一大観光地となった地中美術館やお土産ショップやカフェなどはどこも混雑を極めていたため、2人は屋外にあるアート作品を見て回った。直島銭湯で別れたツアー客たちもここを訪問中であり、例のお祭り男、神崎が大勢を率いて笑わせている所にも出くわした。


 ツバキはサーファーらしく風景写真の撮影も趣味にしていて、持参したEOSには人物撮影に適した単焦点レンズをつけていた。内臓HDにはすでにローズマリーをモデルにした島の写真が無数に入っていた。彼はそこに妹も加えるべくモデルを依頼し、撮影後にスイーツをおごるという条件で取引は成立した。


 最初の撮影スポットは黄色カボチャ。この宮浦港の赤カボチャの相棒は、海を目の前にした突堤の上でドカーンと鎮座していた。その前には観光客が写真撮影のために長い列を作り、誰もがこの奇妙なアート・オブジェと共に笑顔でポーズを決めていた。だが、ジャスミンは一味違った。

「It's a Giant POOP!!!」

 それを見るなり彼女はそう言った。

 ツバキはPOOPの意味を知らなかったが、順番が回って撮影を始めるとすぐに分かった。彼女はカボチャの横で中腰になり、巨大なカボチャにホットパンツのお尻をくっつけた。そして、苦悶の表情を浮かべて言う。

 「ツバキ、撮って」

 ポーズは完ぺきであり、何をしているのかが一目で分かった。周囲の観光客は一斉に引いたが、ツバキは気に入って何枚も写真を撮った。最後、彼女は自身の巨大な排泄物にキスをして別れを告げた。


 島の浜辺にも奇妙なオブジェがあった。3枚の四角い鉄板が地面に突き刺さったように立っているもので、ジャスミンはその鉄板が自分の頭に刺さって見えるような写真を撮る事を要求。ツバキは鉄板をバックにして彼女を絶妙な位置に置き、彼女は絶妙の絶叫顔を見せた。その後、2人はEOSの液晶画面でその出来栄えを見て笑い合った。


 最後の撮影場所は、海辺に打ち上げられた船の残骸オブジェ。船尾は壁のように垂直に立ち、その穴だらけの表面がビーチに無数の水玉状の影を投げていた。

 ジャスミンはその船尾に立ち、ハーフシャドウの写真を要求した。

 ツバキは望み通りに撮った。水平に手を広げて立つ彼女は、カラダ半分に強烈な夕陽を浴び、残る半分に水玉模様の影をつけた。レンズをのぞく彼の目に、それが鮮烈に見える。ユーモア、毒、エネルギー、色気、そして淡い哀しみ。小さな少女は、そんな自身の光と影を全てさらけ出しているかのようだった。


                 *


 アート観光を終え、スイーツも食べた後、2人は公園のベンチに座った。園内にもネコやヘビや象をモデルにしたアート・オブジェが幾つも置かれていた。いずれも派手なポップカラーに彩られた空想的な動物であり、動物園でさまざまな生き物を見る3歳児のイマジネーションから飛び出してきたようなばかりだった。

 2人の前にこのツアーで見慣れた人が姿を見せた。

 蓮だ。彼女はずっとベネッセ・アートサイトにいて、ツアー客がカフェに落ち着いた後に1人でジャスミンを探していた。彼女は桜田からこんなメールを受け取っていたのだ。


〖猪熊さん。我々3人、私と新庄とジャスのお姉さんは今日、直島の我が家に泊まる事になりましたので、スタッフの方々によろしく伝えて下さい。明日の朝、小豆島に戻って再びツアーに合流します。

 それとすんませんが、たぶんジャスがそちらの観光地に行ってると思うので、見かけたら、この伝言お願いします。

『ジャス、勝手に抜け出すな、アホ。お姉ちゃんは行儀ようしとるぞ。この子は、水島先生の事がエライ気に入って、今晩家に泊まる事になった。姉ちゃんは草刈りも晩飯の手伝いもしてくれるし、同じ姉妹でもエラい違いや。とにかく、明日会った時は覚悟しとけ』

 では猪熊さん。よろしくお願いします〗



 蓮はそれを優しい調子に訳したが、ジャスミンはもっと乱暴に書いてるでしょと、すぐに見破った。

 そして今夜、蓮の部屋に泊めてくれないかと頼んだ。直島の桜田の家を出た以上、今日は小豆島のホテルに戻らねばならず、そうなれば父親と2人きりで同じ部屋に泊まる事になるが、それだけはイヤだと言う。

 蓮は彼女がそう口にした時の表情の変化を見逃さなかった。

 一瞬、眉間にしわを寄せてアゴを突き出したのだが、それは何かを威嚇イカクするような顔つきだった。野生のライオンが自らの縄張りでハイエナを察知した時のような、何気ない仕草だが、どう猛さを感じさせる表情だった。


 あれは本当に起こった事なのだ…。蓮はそう思った。

 昨日、島の山頂でオーキッドが語った、あの壮絶な告白。彼が実の娘と愛し合い、やがてそれがレイプになって妻から仕打ちを受け、そして自らが罰を受けるべき場所だった警察署で娘と妻が銃撃戦に巻き込まれて死んだこと。

 もちろん、ジャスミンの一瞬の顔つきがそれら全てを実証するワケではない。彼女が父の一連の過ちをすべて知っているとは限らない。だが、蓮はその一瞬であの話が真実だったのだと直観した。そのとたん、あのオーキッドの告白が確かな重みと濃さを持って、彼女の中にドロドロと流れ込んできた。

 蓮はジャスミンの頼みを受け入れた。彼女は小豆島のホテルで同僚とツインルームを取っていたが、ちょうどその同僚は用があって数日前に帰っていたのだ。


「チェリーの家では、正直つらかったわ」

 公園のベンチで3人で話している間、ジャスミンがフイにそう言った。

「だんだん私が私じゃなくなるような感じがしてね。だからツバキ。私をあそこから連れ出してくれてアリガトウ」

 彼女は彼のヒザに優しく手を置いた。そして言う。

「でも、誤解しないでね。私、グッドハートって大好きなの。つまりチェリーのような善良な人たちね。彼らはグッドハートの持ち主で、全てを疑いなく受け入れる事が出来る。愛とか幸福とか人生の意味とか。それが誰かに決められたものでも構わない。

 とにかく、すべてを抱きしめられるの。すごく純粋な人たちよね。だから、私も時には彼らみたいだったらって思う。彼らみたいに皆んなに微笑む事ができたらって。

 だけど、私にはなれない。私は与えられたものだけじゃ満足できないの。たとえ家族や故郷であってもね」

「俺もそうかもなぁ」

 ツバキが頭をかいて言う。

「俺はずっと田舎ぐらしで、これまで優しい人たちに囲まれて生きてきた。だけど、本当はそこが居場所じゃなかったんだよ。で、ようやく決心できたんだ。つい最近、アメリカに行くって決めた。プロサーファーになりたいんだ。まぁ、それも今はまだ夢のまた夢なんだけどさ。そして、それを後押ししてくれた人がいる」

 彼はジャスミンを見る。

 「それは君のお姉さんだよ。一緒に海に行った時、ローズが俺のサーフィンをほめてくれたんだ。すごく興奮して感動してくれた。つまりは、そういう事。単純な理由さ。あ、それともう1つキッカケがあった。それが実は君なんだ」

 そう振られたジャスミンは眉を寄せた。

「WHAT?」

「ジャスミン。君のあるひと言が俺の人生を変えたんだ。君は、いつかローズとTVに出ただろ。ローカルチャンネルの旅番組だったね」

 それには蓮の方が速くピンときた。

「ツバキ君、それってまさか、あのジャスミンの…」

「そう、あのTV番組の中、ローズに恋人が出来たって話になったよね。ジャスミン、そこで君は最後にそれが誰かを口にしたね。それもツバキ、ツバキって大声で。俺の住む田舎町は、それが放映されて大騒動。で、俺は3年来のガールフレンドとも別れる事になった」

 ジャスミンは、金髪ツインテールを両手でつかんだ。


            「Oh my Fuckin' GOD!!!」


「しかも、彼女は地元では名家の娘さんでね。俺は町中から仲間ハズレになった」

 彼はジャスミンの手を軽く握った。

「でも誤解しないでくれ。こんな話をしたのは、君を責めたかったからじゃない。もちろん、悪いのはこの俺だ。俺は2人の女の子と同時につきあっていた。罰を受けて当然だ。だけど、それによって俺は自分について色々と考えるようになり、そしてプロサーファーになる事を決めた。だからジャスミン、君には感謝してるんだ。ありがとう。そして、この事は、どうかローズには言わないでくれ」

「OK、分かったわ」

 ジャスミンは顔をうつむけ、何か物思いにふけった。

「ちょっと1人になりたくなったわ」

 彼女はそう言い残し、海岸に向かった。

 が、まもなくクルリと向きを変え、駆け足で戻って来た。

 そして、ツバキのほっぺにキスをした。彼女は吊り上げた唇をチっと鳴らし、再び風のように走り去っていった。


                 *


 キンパツ少女と入れ替わるように、公園にそろって空色の服をつけた保育園児たちが現れた。小さな子供たちは先生の合図と共に一斉に散らばり、公園に点在するシュールな動物ポップアートに近づき、脅えたり笑ったり話しかけたりボケーっとなったりした。


「今のキスも、ローズマリーには言わない方がいいでしょ?」

 ベンチに座る蓮がそう言い、

 隣にいるツバキは照れ笑いを浮かべる。

「私は、あの子たちの父親、オーキッドと長くつき合ってきたんだよね。あの一家に県の観光PR大使みたいな仕事を依頼してね。で、オーキッドとは結構、ディープな話とかするようになってさ。今までの人生についてとか、家族の中の秘められた話まで。

 だけどね。結局、私はそれを聞いていただけなんだよねぇ。ああ、そうなんだって聞き流すだけ。色々考えたりもしたけど、結局、本人には伝えられなかったな。あれ、私、何か変な話してるね。ごめんね、タイクツさせて」


 ツバキは笑みを浮かべ、「いいえ全然OKです」と返す。

 彼は蓮の様子が変わったのに気づいた。ジャスミンがいなくなって日本語に切り替えた事もあるだろう。観光中、彼女は吊り目フレームのメガネをかけて超テキパキとツアー客を先導するビジネス・ウーマンだった。だが今、物腰はすごく柔らかい。ナマズを思わせるビローンとした口元も普段は威圧的な感じを与えるが、今はすごく愛らしく見える。


「フフ、じゃ続けるとね。君たちは偉いって思うよ。ツバキ君も桜田さんも、フラウリー姉妹に深く関わってるもん。

 君はローズとつき合って人生が変わったんでしょ。それってすごいよ。一生の思い出だよ。あの大柄な先生、桜田さんだってああ見えてジャスミンの事、すごく気遣ってるのよ。今朝、フェリーに乗ってる時に聞いたんだけどさ。彼が実家に彼女を連れて行ったのは、家族の大切さを教えるためだったのよ。ジャスミンってすごく反抗的なコでしょ。

 で、実は私、桜田さんからその話を聞いた時、超感動して泣いちゃってさ。それもひどい大泣きで、あの熊みたいなオジサンをビビらせるくらいに泣いたのよ。まったくアラサーだってのにさ。でも結局、私は、アナタたちみたいにはなれなかったなぁ」


「だけど」とツバキが言う。

「話を聞いただけで大泣きするのもスゴいですよ。だって、それはつまり猪熊さんが、フラウリー家の事をそれだけ気にかけてるって事じゃないですか?」

 それに蓮はいやいやいやと首を振ったが、次の言葉が出ずに目を泳がせるだけだった。ツバキはそれにクスリと笑う。


「ねぇ、猪熊さん、誰かがってないですか? 友達でも恋人でも、あと有名な歌手とかスポーツ選手とかでもいいんですけどね。あ、この人、今、自分の中に入ってきたなぁっていう、たぶんこの先この人はずっと大切な人になるだろうって思える瞬間。

 そういうのって、根本的にその人と人生を共有したい思いからくると思うんです。ムリヤリ時間を作ってでも、一緒に過ごしたいっていう思い。

 俺、ローズにもそれを感じたんですよね。ある時、あれ、彼女、俺の中に入ってきたなぁって思ったんです。もちろん、変な意味じゃないですよ。あくまで心の中の話でして」


 蓮はそのカワイイ弁解ぶりに笑う。


「人生ってたぶん神さまが1人1人に贈ったプレゼントだから、基本それは自分勝手に使っていいハズなんですよ。自分の人生なんだから、その時間を独り占めするのもいい。だけど、それでもやっぱり空しくなってくるんですよね。あれ、ゴメンなさい。いつのまにか、今度は俺がタイクツな話してますね」


 蓮はそれに首を振って「いいえ全然OKです」と言う。


「じゃ、続けますと、ローズを好きになった時に思ったんです。俺の人生って小さかったなって。つまり、サーフィンばかりのオレオレ人生だったんですよ。だから、今後はもっと多くの人と時間を分かち合いたいなって、そんな気持ちが出てきて。もしかすれば、アメリカ行きを最終的に後押ししたのも、そんな思いからだったんじゃないかって思えるんです」


「イノさーん、そろそろフェリーの時間です」

 クールビズ・スーツのツアースタッフが公園の入り口にやってきてそう声を上げた。

「やれやれ、仕事のお時間か」

 蓮はスタッフに手を振ってベンチから立ち上がった。ツバキの目に、彼女の顔つきは一瞬で強張り、ナマズの口元もキュっと引き締まった。

「青年よ」

 蓮が上から目線で言う。

「アメリカに行くって事だから、1つ言っとくけどね。実は私、LAに5年ほど住んでた事があるんだけどさ。アメリカではちょうど今君が言ってたような事と逆の事が求められるのよ。つまり、人を受け入れる事よりもいかに自分でいられるかって事の方が大切になるの。とにかく、エゴエゴエゴの大嵐が吹いてるような国だからさ。ちゃんと自分を持ってないと、仕事から私生活まで、すべて他人のペースに巻き込まれちゃうのよ。だから、アメリカでは、日本でいる時とは逆に自分をしっかりキープしておくことを大事にしなさい」


 ツバキは「でも」と上目遣いで蓮を見る。

「そんな中だからこそ、人を受け入れる事も大切になるんじゃないかな。だって、自分を守ってばかりだと、結局、1人よがりになっちゃうじゃないですか」

 蓮は言葉を失った。

 が一瞬で気を取り直し、笑顔で彼の肩を軽く叩いた。

「青年よ。よくぞ、それに気づいた。お姉さん、イッポン取られちゃったわ」


 彼女はそう言い残し、勇ましい歩調でその場を後にした。

 だが、ツバキの目にそれは妙にぎこちない足取りだった。それは、どこかネコ同士のケンカで痛手を負った野良ネコが、壁の上をヨチヨチ歩きながらも背筋をしゃんと伸ばして強がっているような、そんなコッケーささえ感じさせるものだった。

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