15章:号泣アラサー


 2日目のツアーの始まりは、まず漁船に乗ることだった。小豆島の漁師たちが、無料でツアー客を2日目の観光地、直島まで乗せて行ってくれるのだ。本来のツアープランではキャンプ地の小島から小豆島に引き返して定期フェリーで行く予定だったため、費用ばかりか大幅な時間の節約にもなった。

 漁師たちがそこまでしてくれるのには、それなりのワケがあった。この想定外のサービスは、ツアー客の1人、桜田が引き出したことだった。

 昨夜のキャンプファイヤー中、彼は漁師たちと島の地酒で大いに盛り上がった。会話の断片だけを拾うと、大体こういう感じになる。


「皆さん、こう見えても俺は教師なんやで。坂出サカイデの中学で生徒指導を任されとんや」

「先生とはこりゃビックリやな」

「いやいや、ワシの子供ん時は、こういうヤクザな先生がようけ、おった。悪い生徒を片っ端から木刀で叩っきょったわ」

「皆さん、俺は生徒には手を出っしょらん。ほら、あそこにおるキンパツ、あれも教え子やから聞いてみ」

「え、あの外人さんの事か?」

「そうや、ジャスミン言うてな。アメリカから来た転校生や。ジャス、こっち来てアイサツせぇ」

「こにちわ~、ワダシ、ウドンすき~」

「日本語がうまいのぉ。ほなけど、小豆島はそうめんが名物や。そうめんも美味しいぞ」

「かわいいアメリカさん、他にも日本語できるんな?」

「ジャス、漁師たちに気に入られたぞ。何か言うてやれ」

「OK、チェリー・ワ・エロオヤ~~~ジ」

「誰や、チェリーって?」

「俺の事や。桜田の桜が英語でチェリーいうから、俺をそう呼んびょるんや」

「何や、アメリカさんでも日本人の事がよう分かるんやな。イエス、このオッサンはエロオヤ~ジ」

「イヤー、エロオヤージ」

「そこで息合わせるなアホ」

「ほんまオモロイな。何や、先生のこと気に入ったわ」

「俺もあんたらが気に入ったわ。なぁ、仲良ぉなったついでに、明日の朝、わしら皆んなを直島まで漁船で乗せてってくれんか?」

「アホ、そんなん出来るか」

「何や、島の漁師たちの心意気はそんなもんか」

「何やと、そんなもん朝飯前にやれるわ。なぁ皆んな」

「おぅ当たり前や。何やったらアメリカまで、その女の子を船で乗せてってもエエくらいや」

「オーイエー、エロオヤ~~ジ」


                  *


 3隻の漁船は、並ぶように小島の桟橋から出発した。どれも小型船でデッキは10mにも満たない。総勢20人ほどのツアー一行は異国から強制送還される不法移民ででもあるかのように、ピッタリと身を寄せ合わねばならなかった。


 瀬戸内海の空は今日も気持ち良く快晴。船が波を跳ね上げるたびに純白の水シブキが上がった。

 桜田は地元のツアースタッフと共に、最後に出た船に乗った。麦わら帽にラフなTシャツ、ヨレヨレ半パン姿の彼は、船の最後尾にある粗末なベンチの真ん中に座った。いつものように誰彼となく話しかけ、両隣の席に色んな人を招き寄せた。そばには網を巻き上げる大きなウィンチや、氷が山ほど詰め込まれた冷凍ボックス、釣り上げた魚を叩くハンマーや料理店の厨房にあるような調理台もある。

 そこら中に染み付いた魚の生臭さと血の臭いが、夏の潮風と交じり合ってデッキ上で渦巻いていた。ブリッジの屋上では、船主の漁師が遥か沖合いを見ながら気持ちよさそうにタバコをふかしていた。桜田が声をかけると、笑顔で手を振った。


 そして、彼は1人の乗船者に目をつけて声を上げた。

「ちょっと猪熊さん」

 サマースーツ姿でデッキの隅に立っていた蓮が、それにビクリとする。

「こっち来て、ちょっと話しませんか?」

 彼女はあからさまに儀礼的と分かる笑みを浮かべて従った。

 船の最後尾にあるベンチに2人が並んで座る。桜田は彼女に、ええ天気やなぁなどと話しかけたが、気のない返事が返ってくるだけだった。

 この姉ちゃん、昨日、山から戻って以降、どうもおかしいなぁ。彼はそう思う。

 夕べのキャンプファイヤーでもずっと1人きりやったような……。

 桜田が蓮の顔をのぞき見て言う。

「ジャスミンの親父さん、あの後、大丈夫やったんやろうか。ほら猪熊さんと一緒に山の散策から帰った後、体調崩したとかで、スタッフの船で小豆島のホテルに帰っていったやろ。そちらには何か連絡入ってますか?」

「いいえ」

「ああ、そうですか。それにしても何かおかしいなぁ。だって山登っとる時は、あの人、ピンピンしてたやろ。オモロイ事ばっかり言うてなぁ。そう言えば、猪熊さんは英語も話せるし、あの人と仕事で親しくつきあってたそうですなぁ」


 桜田は人懐っこい垂れ目で彼女の目を見つめる。


「昨日、お2人だけで山に残った時、何かありましたか?」

 蓮は目を見開いて顔の前で手を振った。

「いいえ。私たちは、何でもありませんよ」

 桜田はゆかいに笑う。

「いやいや、ただの冗談ですわ」

 蓮は赤くなった顔を横に向けて言う。

「ジャスミンと桜田さんの方こそ、ずいぶん親しそうですね」

「ああ、何や知らんけど、ずいぶん仲よぉなりましたわ」

 彼はゆかいに笑う。


「あの子は、ほんまにオテンバでね。まぁ、実際アメリカ人やからオテンバなんて言葉じゃ全然足りんのやけど。

 全くこの3ヶ月、私が担任したクラスを引っかき回しましたわ。それでも、エエことはありましてね。生徒が皆んな、何と言うか自己主張できるようになったんですわ。生徒全員に、ジャスミンと毎日必ず1分以上の英会話をせぇってルール作りましてね。そしたら、生徒たちが日に日にハッキリした物言いになってきましてね。たぶん、ジャスに感化されたんやろうな。いろんなことに積極的になったんですわ。

 ご存知かも知れませんが、あの子はロックシンガー目指しとるとかで、ホンマに竹を割ったようなハッキリした性格でね。とにかく、あれが1人クラスにおっただけで、生徒たちが何ていうか、世界基準の中学生になったような気がしましたわ」


 蓮はそれに笑った。

 桜田はそばのウィンチ作動機に体を預け、ため息をついた。


「ま、それでも、あの子にも複雑な問題がありましてね。おとこおんな言うかな。女やのに無理に男っぽく見せようとしたりね。それにここだけの話やけど」

 彼は蓮に顔を寄せた。

「あの子には、深刻な家庭の問題があるんですよ。それが元で、父親の事を嫌ってましてね。で、その問題いうんが、世間によくあるような問題やなくて、中々人に言えるような事やないんですよ…。そやから、単純にジャスにお父さんと仲良くなれ言うて解決するようなもんでもなくてね。お父さんがやったことは、ホンマに娘にとってはヒドいことでね。こうやってヒソヒソ話で言うのも、はばかられるようなことなんですよ」


 彼は口を閉ざし、船尾から遠ざかってゆく小豆島に目を向けた。

 蓮も黙っていたが、そのうちハっとなった。

「まさか、あの…」

 彼女は桜田を見つめる。

「あの、その問題というのは、もしや、そのについてでは…。つまり、事故で亡くなったジャスミンのお姉さんとお父さんとの…」

 桜田は目を見開いて言う。


     「何や、ビックリですわ。猪熊さんも、それをご存知でしたか」


                 *


 小島を出た3隻の漁船は依然、白い煙を上げながら直島までの航路を走っていた。依然、2人はその最後尾にあるベンチで話していた。桜田は、夏休み前の生徒指導室で教え子の新庄から聞いた話を蓮にした。それは新庄がジャスミンから直接聞いた話に基づくものだった。


 ジャスミンが10歳の時の事だった。フラウリー家では3姉妹が1台のパソコンを共用していて、データはそれぞれが各々のUSBメモリーに入れていた。

 ある日、ジャスミンが新品を見つけるべく、姉、ロータスの机の引き出しを開けると、奥から無表記のケースが出てきた。彼女は新品かどうか確かめようと、中のUSBをPCスロットにさしこんだ。

 そうして、それを目の当たりにした。

 保存されたデータ画像には愛し合う2人の姿が写っていた。それは父と姉のロータスだった。新庄がジャスミンに聞いた所によると、そこにはセックスの最中のものまで含まれていたそうだ。ジャスミンはそれを誰にも話さず、以来、父とはほとんど口も聞かなくなったという事だった。


 生徒指導室で、新庄がその話を桜田に聞かせた時、彼はその体験がジャスミンのトラウマになったのではないかと指摘した。彼女があまりに男っぽく振舞うのも、また桜田が女生徒のハダカを見たという、あの事件に怒り狂ったのも、姉に手を出した父への激しい憎悪からくるものではないか。

 そして、新庄はそんなジャスミンと父親を仲直りさせるにはどうすればいいのかと桜田に尋ねた。だが、その時、彼は結局何も答えられなかった。


   「これから、ジャスミンを私の両親の家に連れてゆくつもりなんですわ」


 一通り蓮に話した後、桜田はそう言った。

「そこは直島の山奥でしてね。最近、私の親友が重病にかかって、そこで療養中なんですわ。その男はうちの中学の元教師で、本来は彼がジャスの担任になるハズやったんですよ。そやから、彼にも引き合わせたろかなと。ジャスにとっても、それはエエ事なんかなと思いません?

 やっぱりあの子に、父親の問題について話をするワケにはいかんでしょ。そやから、せめてうちの両親を交えて家族の温もりみたいなもんを味合わせてやろかなと。どんな事情があれ、娘が父親と不仲でいるんは、やっぱり不幸な事でしょう。まぁ、ほんのちょっとの時間やし、あの子も鉄砲玉みたいやから、すぐに飛び出てゆくかも……」


 そこで桜田は、蓮が涙ぐんでいるのに気がついた。


「それは彼女にとって素晴らしい思い出になると思います」

 そう言った蓮に、いやいや、たいした事やないですよ、と彼は笑う。が、まもなく彼女はワっと泣き出した。

 それは見事な泣きっぷりだった。

 目の玉が転げ落ちてきそうなほどに熱い涙が溢れ出し、大きな粒が透明な稚魚チギョのようにプルプルと頬を伝い、大きな声まで上げ始めた。それはまさに嗚咽オエツであり、オットセイか何かの動物の鳴き声にも似た泣き方だった。

 桜田もさすがにビックリした。

 一部の隙もなくツアーアシスタントをこなす仕事の鬼のようなアラサー女子が、まさか突然、号泣するとは思ってもみなかった。彼は何か自分が悪い事でも口にしたのかと思ってオロオロした。が、その時、海の向こうの珍景に気づいた。


「あ、アレが見えてきましたよ」

 ビーチに堂々とたたずむ全長10mほどの奇妙な物体。それは今や島の象徴となったアート・オブジェ――真っ赤な巨大カボチャ―-だった。

「しかし、アレは何べん見てもオモっしょいなぁ」

 桜田はそう笑い、蓮も涙をぬぐってそれをながめた。


 宮浦港に置かれたカラフルなカボチャ。その空洞状のオブジェの表面には数多くの穴があり、多くの子供たちがそこの穴から出たり中に入ったりを繰り返していた。




 

                 ✿   





 ツアー客は直島の宮浦港に着くと、最初の目的地まで徒歩で向かった。かわら屋根にトタン屋根、プロパンガスのボンベに板作りの外壁にネコが集まる縁側。そういった昭和仕立ての日本家屋が並ぶせまい路地を抜けると、それはあった。


 ツアー客の多くが「わぁ」と声をあげる。

 四角い白亜の建物で、正面には大きなヤシの木が何本も堂々と立っていた。表玄関の上には、女がセクシーに横たわる看板オブジェが飾られ、さらにそこから鉄パイプが空中にニョロリと伸びて、ある1文字を浮かび上がらせている。

 それは〝ゆ〟だ。つまり、そこは『I❤湯』。近年、島の新たな観光名所となった『直島銭湯セントウ』だった。


 隅から隅まで、ものすごく凝った造りだった。白亜の壁面には色とりどりのタイルやテコレッタが飾られ、地元漁船のパーツから取ってきたらしいスクリューやデッキもあり、屋根の一部には船のブリッジらしいものがドーンと乗っかっている。

 1番目を引くのは植物だ。ヤシやシダや松の枝が多くの窓から無造作に飛び出ていて、近いうちにも植物が建物全体を飲み込みそうな勢いだった。


 そんな珍銭湯を前に誰もが「わぁーわぁー」騒いでいたが、そうでない者たちもいた。

 ローズマリーに、ジャスミン、ツアー客のイギリス人夫婦などは、それを涼しい顔でながめるだけだった。

 ローズと一緒に来たツバキは、彼らを見ながら、外人には全く違って見えるんだろうなと思う。考えれば、彼らには島の普通の民家も充分シュールな建築物であり、この銭湯もその一部のように見えているのかも知れない。ひょっとして日本ではこういう銭湯が大昔からあるのだと思っているんじゃないのだろうか。

 そう思うと、彼にもまた『直島銭湯』が周囲と交じり合って見えた。瀬戸の島の厳しい自然環境を反映してか、民家はどれも一気に荒々しく作り上げたようであり、それが一気に遊び心で作り上げたような『直島銭湯』のタタズまいとピッタリ合って見えた。


 営業時間前だったが、ツアー客は銭湯に入れた。ゆうべ皆んなが小島でキャンプをしたと知った番頭さんが、「皆さん、早ぅ汗を流したいやろう」と言って気を利かせたのだ。

 しかし、ツバキは蒸し暑い外に留まった。

 ローズマリーが銭湯のデッサンを始め、一緒にいて欲しいと頼んだからだ。2人は銭湯前の民家脇にあるベンチに一緒に座った。

 モノトーンの水玉ワンピ姿の彼女は、いつものように熱心に画用紙にペン書きしている。横に置いたトートバッグは大きく膨れ上がっていた。そこには過去に描いた数多くの絵が入っていた。

 銭湯に入った後、ローズは妹と共に直島の桜田の実家に行くつもりであり、そこにいる美術教師に自身の絵を見てもらうつもりだったのだ。ツバキもまた彼女に誘われてそこに一緒に行くつもりだった。


 ベンチに座る2人のそばには奇妙な鳥がいた。

 普通の民家の軒先にダチョウに似た鳥のオブジェがあり、1つの体に2つの頭がついていた。無数に敷き詰められた五円玉の上に立っていて、どちらのクチバシもそれらをついばもうとしている。

「金もうけに熱心な観光地を風刺しているのかな」

 ツバキがそう言うと、ローズは可愛らしい笑みを浮かべてこう言った。


「だとしたら、私たちが世界中どこに行っても、この変な鳥に会う事になるわね」





                  ✿




 昨日からツバキはローズマリーと多くの時間を過ごしていた。シニア観光客が山の散策に出た一方、彼らは島のビーチで泳ぎ、その後は桟橋サンバシに座って2人きりで夕陽をながめた。その時、彼は1つの決意を口にした。


          〝俺は真剣にプロサーファーを目指す〟


 彼はきっぱりとそう言った。家業の花畑を継がず、家元を離れ、夢を追いかける。行き先はハワイのノースショアかカリフォルニアのロングビーチ。自分に5年の月日を与え、その間にプロになれなければ諦める。

 そんな一大決心を語ったが、彼女のリアクションは薄かった。

「たぶん正しい選択だわ」

 そう言って、ツバキの首筋にキスをしただけだった。彼は少しボーゼンとなったが気を取り直して言う。

「ローズ、君が俺の人生を変えたんだ。君との出会いがなければ、俺はいつまでもプロサーファーになろうなんて思わなかったよ」

 彼女は首を振った。

「いいえ、違うわツバキ、アナタ自身が変えたのよ」

彼女はゆっくりとした母親のような口調で続ける。


「たぶん、ツバキはずっと前から自分の人生を変えようと思ってたのよ。私はそのキッカケを与えただけ。私とつき合った理由も、アメリカの女の子と仲良くなってもっと英会話が上手くなりたいと思ったからじゃない? つまり、私と出会う前からすでにアナタはプロサーファーになる事を決めていたのよ。いわば無意識的にね」

「それでも」

 彼は口をとがらせた。

「ローズ、君は最後の一押しをしてくれた。俺をけっとばしてくれたんだ。いつまでも地元でウジウジしてた俺のケツを思いっきりね」

 彼女は笑って彼の頬をつねる。

「ところで、アナタにはハワイよりカリフォルニアをお勧めしたいわ。だって、私、高校を出たら西海岸の大学に行きたいと思ってるから」

 ツバキはうなずいて彼女にキスをした。

 彼らの目の前には、きらびやかな夕日の黄金の道が、2人だけに見える甘い幻想のように水平線の彼方まで伸びていた。


 

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