14章:悪の花
島のランチは最高だった。カヤックの後、23人のツアー客は離れ小島で地元漁師たちの手料理をいただいた。
そこで、最も活躍したのは神崎だった。沖縄の無人島で1週間、1人サヴァイヴァルした事があるというワイルド社長は、料理が大得意だった。
特に自称『天ぷら大王』と名乗るほどの揚げ名人だった。
彼は持参した極秘調味料をたっぷりと使い、衣の厚みや油の温度や揚げるタイミングを長年の経験と野生の直感でコントロールし、島の彩り豊かな山菜やタイラギやアジといった地魚を天ぷらで揚げた。
成果も上場で地元漁師やツアースタッフたちは「こんなに美味い味はない」と絶賛し、フラウリー家やイギリス人夫婦もそろって、テイスティー・テンプラ」と喜んだ。
というワケで、神崎は先のカヤック転倒の恥辱を見事に払拭できたのだった。
同様にカヤックで恥をかいた桜田の方も、持ち前の人望で大復活。食材を提供してくれた漁師たちと地ビールを飲み、頭を叩きあいながら親交を深めたのだった。
昼食後、ツアー客一行は若手とシニアの二手に分かれた。
若いスタッフやツアー客は、今夜、小島に宿泊するための準備作業を始めた。海辺の岩場でのテント造りや簡易トイレの設置やキャンプファイヤーのための機材運搬といった事であり、ツバキや新庄も汗だくで働いた。
一方で、若い女子たちは海水浴に出た。フラウリー姉妹にOL4人組の面々は、キャーキャー言いながら波に飛び込んだ。
『天ぷら大王』たる神崎は先の大活躍で休養を許され、デッキチェアでビール片手に寝転がり、海とたわむれるビキニ女子たちの見学を大いに満喫した。
シニア組は山の散策に出た。そこは年配者に最適のハイキング・コースでもあり、絶景ポイントも数多くあるという事だった。
桜田にオーキッド、初老のイギリス人夫婦などがこちらに回り、通訳のために蓮も同行した。彼らは、5時間ほど島内の山岳地帯を歩き回った。地元ツアースタッフや島民の先導の元、山道や獣道を進んだ。
バードウォッチングをしたり、川に生息する珍種のは虫類を探したり、崖に生えるキノコ目当てにロッククライミングをしたりした。途中、森の中にあるバンガロー・カフェで一息つき、最後は夕陽の絶景スポットを目指して山道を進んで行った。
そんな中、オーキッドは蓮に意外な面を見せた。大きなブリマーハット、目にはワイドフレームのグラサン、ポロシャツに半パンに年季の入ったトレッキングシューズ。そんな『ノースフェイス』の登山コーナーのマネキンのような姿の彼は、常にグループの中心にいた。10人ほどのツアー客、皆んなに気さくに話しかけて場を盛り上げ、何をする時にも誰よりも積極的に行動した。
蓮にはそれがフシギでならなかった。普段、彼は大勢の中にいてもかみ合わないタイプであり、宿命的とも言える孤独の影をしょっていた。
けれど、もしかしたら、と彼女は思う。
この方が、彼の実像に近いのかも知れない。ミステリアスな孤高さは彼のほんの
一見すれば、彼は現代のカウボーイだ。がっちりボディをノースフェイスな服で包み込み、いきにグラサンをかけたその姿は、まさに世界中の人たちが一目を置くアメリカン・タフガイだった。
私に見せた弱音は彼のほんの小さな一面であり、その中身は鋼のようにハードにできているんじゃないか。彼女はオーキッドの後ろを歩きながら、そんな思いをめぐらせた。
きっと、もう大丈夫なんだろう。
そう、心のうちでかみしめた。
✿
ツアー客一行は、夕陽の絶景スポットに着き、全員で記念写真を撮った。そこは山頂の高台、岩場になった場所で、10数名のツアー客は笑顔を浮かべた。夕陽は遥か沖合の海と島々の間に落ちようとしていた。
下山の時刻になると、1人だけもう少し残りたいと申し出た。
オーキッドだった。ツアースタッフは、帰り道が分かりづらいのでと集団行動をお願いしたが、彼は、どうしても夜まで瀬戸内のサンセット写真を撮りたいと言い張った。そこで蓮が間に入り、彼女が責任を持って連れて帰る事を約束した。
そうして、山頂の高台に2人が残された。
蓮は1人、ベンチに座った。そこは大きな影になったカシの木の下で、潮風が絶えず海から吹き上がってくる。
オーキッドは山頂の岩場に立ち、海の向こうの夕陽を見つめていた。まだ写真は1枚も撮っていなかった。彼女はその姿をながめる。
彼は腰に手を当て、岩場の切っ先に片足を上げていた。
ブリマーハットのツバと跳ね上げ式のグラサン・レンズを上げ、肉眼で夕陽を見ている。その様はひと言、渋い。カウボーイフェイスをしかめて、マッチョな体をピクリとも動かさない。彼女は見とれる。まるでアメリカンウィスキー、ジャック・ダニエルのCMだ。
と、フイに蓮は胸のざわめきを感じた。
どこか胸の奥深くで歯車が外れたようで、全身が妙にギクシャクし始めた。目の焦点が合わず、手が汗でじっとりし、少し呼吸が苦しくなった。きっと……と彼女は思う。
彼を男として意識したのだろう。
それには我ながら笑ってしまった。
なぜ今頃なんだろうか。
この数ヶ月もの間、一体なぜこんなハンサムガイに色目を向ける事もなかったのだろうか。正直、ずっとオーキッドを
それが今ようやく、身近にいる男として、手を伸ばせば触れられる男として見られるようになったのだ。だけど、それはずっと前からあった感情のようにも思える。この山頂に残るのを決めたのも、彼と2人きりになりたかったからじゃないのか。
彼女は夕空を見上げて思う。
いや、そもそも数ヶ月前、オーキッドにPRヴィデオの依頼をした時だって、あの時だって実際は仕事目的じゃなく、彼に少しでも近づきたかったからじゃなかったのか……。
オーキッドは夕日の写真を撮り始めた。
背後にはヒマワリ畑があり、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。高ぶる感情と夕空のまぶしさで
オーキッドが泣いていた。
手にした大きな一眼レフを下げるたびに、その顔は夕陽を浴びてキラキラと輝いた。次第に小刻みに震え、岩場に上げた足がフラフラし始める。彼は蓮が見ているのに気づくと、大きな笑顔を浮かべ、ブリマーハットのツバで顔を隠す。
「I'm SO----RRY!」
そう大声で言う。
「何でもないんだ。どうも、年を取ると涙もろくなる。さぁもう帰ろう」
彼は岩場から降りてハンカチで涙をぬぐうと、カシの木の下までやって来た。間近に見る彼の目はまだ潤んでいた。
「夕陽とは、誰にでも平等に注がれる」
オーキッドはヘイゼル色の瞳をうるませて言う。
「実際、私はあの美しさに値しない人間だ。それでも、夕陽は私をこんなにも包み込んでくれる。それは本当に信じがたい事だ」
蓮は挑むような目つきで彼を見た。
「なぜ、そう思うの?」
「なぜって、この世には生きるに値しない者もいるからだ。ただ、生きる事さえにも値しない者がね。どんなに探っても、生きる意味を見つけらなくなった人間が」
蓮はうつむいた。すぐにその場から逃げ出したい衝動に駆られた。
だが、それと同時に何かが感情の中に入り込んできた。
それは、胸の奥にチョロチョロと染み入るような流れだった。だが、それは一瞬で何かを突き崩し、荒れ狂う大波になった。こころそのものが決壊したかのようだった。同時に彼女は泥水でも飲まされたような吐き気を覚えて前のめりになった。それでも、足を踏ん張ってコブシを握り締め、その苦痛に耐えた。
「COMO----------ON, ORCHID!!!」
自分でもビックリするほどの声だった。
「一体何があったのよ! 私にそれを話してよ。今すぐ、ここで!」
オーキッドは息をのみ凍りついた。
3羽の野鳥がギーギーと鳴きながら、遥か上空で旋回し始めた。タカのように大きな鳥で、その鳴き声は地鳴りのように2人のいる山頂に響く。
「レン、君は私のことを何も知らない」
彼はブリマーハットを取ってそれを胸に当てる。
「実際、何も知らないから、そう言えるんだ。
もし、私がこう言ったらどうする?
私の妻と娘が死んだ原因を私自身が作ったと言ったら。
いや、そのほとんど全ての原因が私にあると言ったら」
今度は蓮が息をのんだ。全身が固まったまま、胸の動きだけが高まってゆく。
「君は、それについて知りたいかい?」
彼女は何も返せなかった。
頭がマッシロになった。ただ、一刻も早くこの場から離れたかった。
オーキッドは笑って言う。
「冗談だよ。それは、私の心の闇にあればいいだけのものだ。君はただ死んだ娘と偶然、同じ名前を持っているだけの人―実際、私にとって君は何者でもないんだ」
彼はナップザックを取って肩にかけると、下山し始めた。
「オーキッド、待って!」
彼女は全身から力を抜いて、今も揺れ続ける胸の奥の大波に身をゆだねた。
「ねぇ、私にその話を聞かせて」
✿
日は海に沈んだが、空一面はまだオレンジ色に輝いていた。一片のイワシ雲だけが時間を先取りし、やがて空全体を覆う深いブルーに染まっている。
島の山頂は急に涼しくなった。吹き上げてくる潮風からは熱の重みが抜け、辺り一帯の空気が水をうったようにヒンヤリしてくる。
3羽の野鳥は、まだ2人の頭上をグルグルと回っていた。オーキッドが再び口を開けたのは、その1羽が甲高く鳴いた時だった。
〝クァワワワ~~~〟。
その間の抜けた響きが、2人の間にあった緊張を少しだけほぐしたのだ。
「私は、私の娘、ロータスを愛していた」
告白はこの言葉から始まった。カシの木の下のベンチ、蓮の隣に座った彼は横顔を向けたまま続ける。
「文字通り、愛していた。私たちは愛し合っていた。つまり…」
彼はゴツゴツした両手で頭を覆った。
「私たちは性的な関係を持っていた」
彼は続けて言う。
「レン、私はここで話を止めてもいい。このまま、君は私をここに残して山を降りる事もできる。そうしたかったら正直にそう言ってくれ」
蓮は彼に横顔を向けたまま言う。
「GO AHEAD」
オーキッドは大きく深呼吸した。
そして言う。
「私がロータスに性的に魅かれたのは、彼女が12歳の時だった」
彼はひざに置いたブリマーハットを優しくなでる。
「いや、正直10歳だったのかも知れない。ロータスは美しかった。私にも妻にも似ていなかった。妻の母親がウクライナ人だったので、その血を引いたんだろうか。
髪はさっきまで見ていた夕陽のような色だった。あのキャリコ・スカイ、三毛猫の毛並みのような色だった。父親が言うのもバカげてるが、あの子はきっと女優にもなれただろう。もちろん、ハリウッド女優とまでは言わない。だが地方都市の舞台女優くらいにはなれていたのかも知れない。実際、ロータスは女優を夢見て、中学に入ってからは地元のファッション雑誌でモデルの仕事もしていた。
私は、そんな娘にいつからか魅かれていった。もちろん自制したよ。ホットパンツのお尻やキャミソールの胸元に目がいくたびに、自分をからかっていた。オイ、自分の娘に興奮してどうするんだとね。だけど、だんだんそれが押さえられなくなり、同時に受け入れるようになった。
以前、レンにも言ったが、私は未成年者への性欲を異常だとは思わない。
たとえ、それが自分の娘であっても。
なぜなら、それは自然な事だからだ。子供自身もある年齢になれば性欲を持つようになる。ロータスもそうだった。父親である私の性的なアプローチを受け入れるようになった。ハグを交わす時、私はじょじょに自分の手を腰元に落としていった。彼女の
オーキッドは、息をついて空を見上げた。一方、蓮はじっとしていた。冷静な顔つきでサブリナパンツのひざに両手を重ねていた。
だが、内心はたまらなかった。本当は、いても立ってもいられなかった。
「最初は遊びのつもりだった。いくら進んでも、ひそかにキスを交わすくらいのものだと思っていた。というのも、私は現実をわきまえていたからだ。
私はインセストやペドフィルを異常だとは思わない。それがレイプでない限り、問題だとは思わない。ペニスの挿入がなく、あくまで性的なお遊びなら中年男と幼女とのセックスだってありうる。少年と熟女だってありだ。
それは決して汚れたものではない。それもまた親と子供、あるいは大人と子供が交わす無邪気な遊びの1つなんだ。太古の昔、ギリシャやポンペイでは大切な愛の形として認められていた。だが、それがいつしか失われた。愛の力を恐れた暴君が抑圧したからであり、今もその歴史は政治と法律によって継承されている。
だが、私は現実をわきまえている。そんな考えは、未だに世間では猛反発を買うものだ。発覚すれば警官殺しと同じ10年以上の懲役刑が科せられる。
当然、それを自ら実践するつもりはなかった。私は急進左派やカルト宗教のグルなどではない。ユタ州出身のごく平凡な男であり、プロテスタントの福音主義派だ。私と妻の家系は共に保守的なリバタリアンで、大統領選挙になれば必ず共和党の候補者に投票する。
そんな男が娘とセックスし、そしてそれが発覚すればどうなるのか。答えは簡単だ。家族は崩壊し、私は服役させられる。さらに出所後には別の土地に出て行かねばならないだろう。私は、そんな現実を充分にわきまえていた。しかしだ」
彼は両手の指を重ねて円を作り、それが水晶であるかのように深々とのぞきこんだ。蓮の視線もまたそこに吸い込まれる。
「充分に気をつけさえすればリスクは少ない。相手が協力的であればなおさらだ。ロータスは私の愛を拒まなかった。
私はあの子を真剣に愛するようになった。最初はキスだけだったが、次第に欲情のままに全身を触るようになった。彼女もそれを受け入れた。
ローは小さな頃から自由な子だった。自由に物を考え、自由に物を感じられる子だった。根っからの個性派でアーティストだった。だから、きっと私との関係が許されない事だと充分知りながらも、受け入れていたのだと思う。
私が初めてピンクの乳首に触れた時から、彼女はニコニコしていた。3人姉妹の1人として、父親から特別に愛される事が心地よかったのかも知れない。女としての自信が持てたんだろう。また私より優位に立てた事も心地よかったのではないか。
私は保守系の一家の主らしく、家では家長として威厳を保ち、妻にも娘にも厳しく当たっていた。だから、ロータスは私の性的な興奮を見抜くたびに、どこか勝ち誇ったような様子になった。そんな風に、彼女も私との愛を楽しんでいた。
激しく求め合うようになるまで、それほど時間はかからなかった。が同時に、私たちはリスクの大きさを充分に理解し、実に慎重に事を進めてもいた。愛し合う時は必ず町外れのモーテルに行き、家では自然にふるまった。初めてモーテルの一室でセックスをしたのは、ロータスが14歳になろうとする時。彼女はヴァージンだったが、最初の相手が私である事を後悔はしていなかった。それはとても美しい日曜の午後の事だった。今思えば、それがジ・エンドであるべきだった。だが……」
そこで彼は、何かに魅入られたように目を開いた。
「私の中に、悪の花が咲いた」
*
蓮に横顔を向けたまま、オーキッドは話を続ける。
「それは気づかないうちに私の心に根を張っていた。私の一家は代々、種々様々な花を育ててきた。しかし、何10年と花と生きてきても、常に驚かされる事がある。
それは花の開花だ。
例えばユタ州原産のユリの花は驚くほど大きな花を咲かせる。人の顔より大きな花びらを、夏の夜の花火のように盛大に咲かせる。夜、眠る前に見た時には小さなツボミだったものが、朝起きて見ると大輪を咲かせていた事もあった。なぜ、それが驚きなのか。それは、花の成長が目に見えないからだ」
オーキッドは、両手でユリの花が咲くようなゼスチュアを見せる。
「人間の中にある悪もそれと同じだ。悪もまた花のように、ゆっくりと成長する。たっぷり時間をかけて巧妙に。
だからこそ人は悪の花に驚かされる。気づいた時には、もう大きく開花し、それが身に迫るものだと気づかされるからだ。そしてまもなく、それが自分だと気づかされる事になる。まぎれもなく自分自身の姿だという事に」
2人の頭上にいた野鳥が悲鳴に似た声を上げた。タカのような鳥たちは遥か上空で強い突風にあおられ、一瞬で散り散りになった。
「私はその当時、失業していた。長年勤めていた建設会社をクビになって再就職もうまく行かず、家でいる事が多くなっていた。半年が過ぎると家のローンも厳しくなり、差し押さえ勧告のために銀行の代理人がたびたび家に来るようにもなった。近隣住民には陰口を叩かれ、妻や古い友人でさえ私を侮辱するようになった。
私はプライドを保てなくなった。
周囲からのプレッシャーに耐えられなくなっていった。
逃げるために、私は私自身でいられないようになった。
自分を完全に忘れられるくらい、いや自分の身を滅ぼすほどに何かに夢中になりたくなった。そしてその邪悪な欲望がロータスを捕らえた。私は彼女を純粋に愛し、最初のセックスまでそれを貫いた。だが、それが汚れていった。私は私の美しい娘を際限なく、どん欲に求め始めた。
悪の花がそこで咲いた。
私は家の中でも娘を犯すようになった。当然、ロータスは必死に抵抗したが、殴りつけて言う事を聞かせた。
セックスはファックになり、そうして暴力を伴ったレイプになった。さらに、私は卑怯な脅しをかけもした。
『もし、お前がこの事を誰かに話せば、私は妻と娘たち全員を殺す事になる。また警察を呼んだり全員で逃げたりしたなら、俺はこの家を燃やして自殺する』
レイプが終わるたびに、実弾入りの拳銃片手にロータスをそう脅していた。
ヒドイ話だ。
いったい、この世にそれほどヒドイ事が他にあるだろうか。もし、その過去を洗い流す事ができるのなら、私は今すぐこの手で自分の両目をえぐり取る事だってできるだろう。だが、過去は決して変わりはしない。そうして、あの日がやって来た」
初めてオーキッドは蓮に顔を向けた。ヘイゼル色の瞳は、涙にぬれていた。一瞬ごとに後悔の念がこみあげるのか、表情は小刻みに歪んだ。
蓮も無意識のうちに震え始めていた。押さえ込もうと両手で自分の上体を抱くように包み込んだが、ますますガタガタしてくる。
*
「私の妻が、私たちを見つけた」
オーキッドが冷静に言う。
「あの日、昼の1時過ぎ、私はロータスを家のバスルームでレイプしていた。平日だったが失業した私は家にいて、あの子は学校を早退して帰ってきていた。私がそう命じたからだ。週に2度はムリヤリそうさせていた。木曜の午後だ。その日は妻も勤めに出ていて、他の2人の娘も学校に行っている。家でファックするには最適な日だった。
しかし、あの日は違った。
妻が早く家に帰ってきたんだ。
バスタブの中で夢中になっていた私は物音に気づかなかった。
バスルームに妻が現れた。
そばにあった私の拳銃を窓から放り投げ、園芸用の大きなスコップで私の裸体を何度も打ちつけた。私が全く動けなくなるまで続け、バスタブは血まみれになった。半年たった今でも、その傷跡は私の体のアチコチに深く残っている。妻は私をバスルームからたたき出して椅子にロープで縛った。そこで私は、おそらく2人が計画的に事を進めているのではないかと思った。妻は、泣きながらロータスのカラダを丁寧に洗った。2人は共に励ましあい、これからの人生プランを陽気に話し合ったりもした。
私は激しい痛みに苦しみながら、初めて気づかされた。
私がやってきたことの罪の重さを。何という愚かさだろう。何という堕落だろう。その時に、私は全てを失った。家族への愛だけじゃない。
信仰、プライド。そして私自身、全てを失った瞬間だった。しかし皮肉な事になった。実際には私は何も失わなかった。それどころか、ある見方をすれば、私は救われたんだ」
オーキッドは頭を横に振り、空ろな目つきで遠くを見上げた。夕空はすでに深いブルーにおおわれ、一片のイワシ雲の帯だけが時間を先取りし、やがて空全体を覆う漆黒に染まっていた。
「なぜなら、その日が2人の命日になったからだ。妻とロータスが死んだのはそれから1時間もたたない時の事だった。
妻は車に私とロータスを乗せ、近くにある警察署に向かった。私は助手席に乗り、バックシートのロータスから拳銃を突きつけられていた。妻が警官を家に呼ばなかったのは、おそらく自分の手で私を留置所にぶちこみたかったからだろう。だが、それが命取りになった」 彼はベンチで大きく深呼吸する。
「レン、前に君に話した通り、妻とロータスは警察署で銃撃戦に巻き込まれた。パトカーで連行されたプッシャー(麻薬密売人)が警官から銃を奪い、署の駐車場で乱射したんだ。車がそこについた時、妻は怒鳴り声を上げてクラクションを鳴らした。すると、すさまじい音が鳴り響いた。
気がつけば、車内は血まみれだった。
一瞬で無数の銃弾がフロント・グラスをこなごなに吹き飛ばしていた。後から分かった事だが、不運にも妻は、警官を殺してパトカーから飛び出てきたプッシャーにクラクションを鳴らしてしまったんだ。妻もロータスも、頭から血を噴き上げて一瞬のうちに死んだ。
だが、私だけは助かった。
先に妻から殴られた痛みで、私はずっと車のシートを倒して横たわっていたんだ。無数のガラスの鋭い破片と2人の温かい血が私の上に飛び散った。その感覚は今でもはっきりと体中に刻み込まれている。
だがその時、私はこころの中では何も感じなかった。私の妻と娘が目の前で鳥のように撃ち殺されたというのに、私はほとんど何も感じなかった。すべてがマボロシのように通り過ぎて行っただけだった」
彼は、哀しい目つきで夕空を見て小さくうなずいた。まるでそこで自分を待っている死神にあと少しでその元に行く事を告げるように。
「いつか見た映画の中で、誰かがこう言ったのを覚えている。自分自身を完全に失えば、全てはどうでもよくなる。何が起こってもまったく動じなくなるとね。まさに、その時の私はそういうカラッポの状態だった。
もし、プッシャーが車のドアを開けて、私に銃口を向けていたとしても私は何も驚かなかったろう。何の抵抗もせず、カラッポのまま死んでいただろう。
だが、実際私は助かった。プッシャーは駆けつけた警官に射殺され、私たちはすぐに救急車で最寄の病院に運ばれた。その後、私は全身打撲の治療を受け、病室にやって来た娘や妻の親や祖父母を前にして状況を説明した。
しかし、どうしても真実を口にする事は出来なかった。つまり私はウソをついたんだ。とっさに思いついたウソでその場をしのいだ。
その日、ロータスは急病で学校を早退して家に戻った。すぐに病院に行かせる必要があったが、家にいた私は酒を飲んでいたので仕事中の妻に頼んで帰ってきてもらった。そうして彼女の運転で、ロータスを病院に運んだ。
が、途中で車の接触事故にあった。相手の信号無視が原因であり、幸い軽くボディをこすった程度だった。同乗していた私はその運転手に抗議した。すると、その男は野球バットで私を殴り大きなケガをおわせて逃げて行った。そのため私たちはそれを報告しようと警察署に行ったのだが、運悪くそこで銃撃戦にあってしまった。
私は、そんな嘘をついた。だが、誓って言うが、それは第一に罪逃れのためではなかった。妻とロータスの2人を同時に失って哀しむ親族たちに、二重のショックを与えたくなかったからだ。私がロータスをレイプし、それが原因で警察署に行ったという真実、それは伏せられるべきものだった。私は全てを失っていたが、残された身内への精神的ダメージは最小限に抑えたかったんだ。
幸い、私とロータスの関係を知る者は誰もいなかった。後に遺品となった彼女の日記を読むと、妻以外には誰にも私たちの事を話していなかった事が記されていた」
*
「それから、私がどうなったか分かるだろうか。
それはひどく皮肉な結果となった。
つまり、私は悲劇のヒーローになったんだ」
オーキッドはそう言って自分を笑い、拾った小石を力強く放り投げた。
「事件後、ABCやCNNのテレビインタビューを受けた後の事だった。ある有名なNPO団体が私の名前をつけたウェブ基金を設立し、それ以降、毎日のように全米中から寄付金や励ましのメールをもらうようになった。
いつしかそれが世界的に広がり、義援金は膨大な額になっていった。ある時は、貧困に沈むハイチの小学校から共同募金が届けられることにまでなった。そうして、我が家を差し押さえるつもりだった銀行でさえ同情し、無期限でローンの利息をゼロにしてくれた。
つまり、私は悲劇のヒーローになった。私たち家族は、悲劇から立ち直ろうとする感動のストーリーの中に放り込まれてしまったんだ。そして、私は10万ドル以上の義援金をもらい、ローンを返済して生活苦から脱することができた。
実は日本への旅行を思いついたのも、それがキッカケだった。旅費は君に言ったような大学の助成金なんかじゃなく、その義援金から得たものだったんだ」
オーキッドはブリマーハットを深くかぶり、ベンチから立ち上がった。
「ロータス、これで分かっただろう」 彼はまっすぐ彼女を見た。
「私が生きるべき人間じゃないという事が」
蓮の動揺は、いつしか別の激しい感情に変わっていた。それはきっと熱情だった。彼女の中の水のような流れは変わらず荒れていた。それは彼女を押し流して、目の前の男に何かをぶつけようとした。
だが、どうしても出来なかった。
彼女は目を見開いたまま固まった。酒を飲みすぎて倒れた時のように、信じられないくらいの重力で大地の奥の奥へ引っ張られているような感じだった。海底に沈む巨大なイカリになったようだ。ただただ、ものすごくジレったい。熱烈に何かを欲しながら、実際にはマバタキ1つ出来ずにいた。
オーキッドは何か納得したような表情になり、ブリマーハットに手を当てた。
「すまない。君をロータスと呼んでしまった」
彼は言う。
「君はレンであり、私の人生には何の関わりもない人だ。そして、こんなヒドい話を聞かせてしまい、本当にすまなかった。これは誰が聞くにも値しない話だ。
私はすでに一線を越えてしまった男だ。
もう元の世界には後戻りも出来ないような罪人なんだ。私が遠く離れた日本に来たのは、娘たちのためでも建築の勉強のためでもアメリカという国を憎んでいるためでもない。
ただ、自分の罪深さから目をそらすために逃げ出しただけの話だ。
レン、心配しないでくれ。
私はこれ以上、君と一緒にいるつもりはない。
明日からの島巡りのツアーは全て辞退する。1人で小豆島のホテルにいるよ。自分にとっても、その方がいいんだ。そして、ここからの帰り道も1人にしてくれないか。どうか、先に降りていってくれ。私は、オオカミのように君の後を追う事にするよ」
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