ずっとそばで

天ノ川源十郎

第1話

 時給二千円のアルバイト。


 暇はあれどもお金のない貧乏大学生にとってその条件は凄く魅力的だ。けれども現実は得てして甘いものではない。報酬にはそれ相応の対価が伴うはずで特別な能力も優れた技能もない英文学部の男子大学生に与えられる待遇としては、この条件はやや常識的な範囲を超えているように思われた。


 無論、世の中に時給二千円以上の仕事なんていくらでもあるだろう。

しかし普通に考えてみればそれは、マクドナルドでハンバーガーを作るとか、コンビニの店員をするとか、ピザ屋でバイクにのって商品をお届けする、といった内容のアルバイトではないことは容易に想像ができた。


「え、でもそれって大変なんじゃないですか?」

 勇樹は気乗りしなさそうに戸惑った様子でそう尋ねる。


「確かに混雑時は少し大変かもしれません。でも普通の接客ですよ」

そう綺麗なお姉さんは答えた。


 お姉さんの瞳は翠玉色を宿しており、艶のある金色でストレートの髪は肩まで伸びている。全体的に見ればほっそりとした身体つきだが、胸は大きく、お尻の肉付きも良い。背は172㎝ある勇樹よりも5㎝ほど高くみえるがヒールを履いているので実際には勇樹と同じくらいだろう。いずれにせよ女性としては長身だ。


 全く癖のない堪能な日本語ではあるが彫の深いくっきりとした鼻立ちは日本人の特徴ではない。仮に日本で生まれたのだとしても、血統的には欧米人であることは明らかだった。勇樹だって年頃の男の子だ、美人のお姉さんが嫌いなはずはない。しかしながら、甘くて美味しい話を美人が持ちかけてくるとなると話は別だ。


 通常の営業マンが持ちかけてくるよりもっと警戒しなくてはならない。まして街中で急に呼び止められ逆ナンパを装って近づいてきたともなれば警戒しない方が馬鹿である。自分好みの美人に気に入られたと思い逆ナンパにほいほいとついて行ってしまった時点で、迂闊と言えば迂闊だったと勇樹は反省せざるを得ない。


 本来ならば今すぐこの場を立ち去り綺麗だが怪しいこのお姉さんとお別れするべきなのだろうが、一緒に昼食でも如何かしら、と言われ連れて行かれた蕎麦屋のせいろがこうして運ばれてきてしまった時点で話だけでも聞かなくてはならない状況が出来上がっていた。


「普通の接客で時給二千円ってありえないですよね? 」

 勇樹はそう尋ねたつつ箸を手に取って蕎麦を啜った。


「それって一体、どんな仕事なん……」

 蕎麦を口に含み、咀嚼しながら質問をしようとした勇樹の動きがピタリと止まる。


「う、うめぇ………」

 その蕎麦の美味しさは勇樹にとってあまりにも予想外だった。


 蕎麦を口に含んだ瞬間、アルバイトの話をしていたことなどつい忘れて更に一口、二口と蕎麦を口に運んだ。重厚感溢れるコクのあるツユに天然の山葵がアクセントとなって全体の味わいを引き立てており、麺は官能的ともいえる不思議な食感で表面の柔らかなもちもち感と対照的に歯を突き立てるとコシのある麺の感触が口全体に広がって味覚を楽しませた。奥行のある味なのにさっぱりとしていてしつこくなく、どれだけでも食べることができてしまいそうな飽きることのない味だ。


 蕎麦の味はまるでそれ自体に意思を持つかのように勇樹の口内を支配してしまい、勇樹は味覚が脳の中枢部を支配してしまったのかと錯覚した。その証拠に勇樹はこの蕎麦を口に含んだ瞬間にこの蕎麦のことしか考えられなくなったのだ。


 それはきっと勇樹に限ったことではないだろう。よほど好き嫌いがない限り大抵の人ならばこの蕎麦を食べた瞬間にこの蕎麦の味のこと以外は考えられなくなる。それほどに素晴らしい美味しさなのだった。


 味の余韻に浸っていた勇樹に対して、美味しいでしょ? と目の前の美女が微笑んだ。

 勇樹は一瞬、相手に対する警戒心を忘れてただ正直に首を縦に振った。


「多分、想像しているようなタイプの仕事ではないわ。最初は接客、慣れてきたらキッチン。職場はここ。私はこのお店『蕎麦処・佐吉』のオーナーのマリ。どう働いてみる気はない? 」


 そう言われた勇樹はマリと名乗る彼女が一体何について話しているのか一瞬分からず、話の流れを思い出すのに数秒要した。


「い、いや、でも俺、急にそんなこと言われても」


「大丈夫、最初は誰でも素人だし。私が責任を持って一からきちんと教えるわ」


「でも、でもですね。俺大学もあるし、そんな毎日は来られませんし」


「別に毎日じゃなくても構わないわよ。週に一、二回でもいいの、どう?」


 それは勇樹にとって悪い話ではなかった。無論、彼女の言葉をそのまま信じるのならば、だが。そんな勇樹の迷いを察したのか、お姉さんは優しい笑みを浮かべると勇樹の背を押すように新たな条件を提示してきた。


「なら時給二千五百円でどうかしら? それに、ここで働けば毎日その蕎麦を食べられる。悪い条件じゃないでしょ?」


 勇樹はごくりと唾を呑みこむと思わず首を縦に振った。振ってしまった。文字通りのうまい話に釣られて。


 うまい話には裏がある、その言葉を知っていながら勇樹は美女の提案にのってしまった。たかだか飲食店のアルバイトで時給二千五百円。冷静になって考えれば裏がないはずのない話だ。しかしまだ学生という身分である勇樹は、うまい話には裏がある、という言葉自体は知っているけれども実際に身を以てその言葉の意味を実感する機会には幸か不幸か恵まれていなかった。


 首を縦に振るか横に振るか。


 それは後になって分かったことだが、この瞬間が勇樹にとって人生最大の分岐点だったのだ。この軽率な判断が良くも悪くも勇樹の将来に大きな影響を与えることになろうとはこの時の勇樹には知る由もなかった。




 蕎麦処・佐吉にてアルバイトを始めて1カ月、絶対に何かしらこの厚遇に理由があるに違いないと身構えた勇樹だったけれども結局のところ美人オーナーであるマリの言葉に嘘偽りはなかった。


 接客の仕事はとりわけ特別な仕事があるというわけでもなく、入店してきた客を席まで案内、客にオーダーを聞いてキッチンに伝達、食事を席に持っていき、お会計をするというごく普通の内容だった。


 それだけにお店の入り口に貼ってあるアルバイト募集のポスターには時給が1050円~と示されていることが不可解と言えば不可解であり、それは明らかに自分だけが特別待遇であることを示していた。


 かといって最初にした約束が反故にされるわけでもなく、バイト代は銀行に直接入金されておりちゃんと口約束で決められた金額分がしっかりと振り込まれた。勇樹はマリとの約束が守られたことに安心するよりもむしろ逆に本当に約束が守られてしまったことに居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。


 さすがに気になった勇樹はその不安を払拭するため給与が振り込まれた翌日オーナーに直接尋ねてみたのだが、マリはにっこりと微笑むと「安心して、そのうち教えてあげるわ」と言ったきりそのまま質問には答えてはくれなかった。


 しかしいつになるか分からない、そのうち、は思いのほか早いタイミングでやってきた。


 ある日の閉店後、バイト終わりに忘れ物を取りに戻った勇樹は見てはいけないそれを見てしまったからだ。従業員専用の裏口から店内に入った勇樹の目に飛び込んできたのは店内を清掃しているマリの姿だった。


 オーナーが自ら店内を掃除する、それは別に不思議なことではない。

 しかしその時、勇樹の目に映ったマリの姿は異様という他なかった。


「え? 」と勇樹がフリーズすると

「あっ」と勇樹の存在に気が付いたマリもその場に凍りついた。


「あ、あのマリさん。そ、それ? 」


「えっと、その。掃除中、みたいな? 」


 清掃のためにジャージに着替えたマリが引き攣った笑みを浮かべながら勇樹に状況を説明したのだが、もちろんそれは右手に持った箒をみればそれくらい勇樹にも分かる。


「ではなくて、その左手」


 そう、問題なのはもう一方の手。

 右手に握った箒で床を掃除するために邪魔な物をどかそうとして、その左手に持った冷蔵庫、である。冷蔵庫なのだ。しかも家庭用冷蔵庫ではなく、業務用の。


「わは、わはははははははははは。あっ」


「あ」


 マリは笑って誤魔化そうとしたが焦ったあまり左手に持った推定300kgはあるだろう冷蔵庫を降ろすことに失敗して冷蔵庫を運悪く左足に落っことした。


「いっ、いたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


「マ、マリさん、大丈夫ですかっ」


 あんなものを目にした直後ではあったが痛がる彼女を放って逃げ出すほど勇樹は情のない人間ではない。


「足を、見せてください」


 勇樹はマリの側に駆け寄りそう言った。

 マリは痛そうにしながらも、だ、大丈夫、大丈夫だから。と言って怪我した左足をまるで隠すようにして両手で押さえた。


「今のが、大丈夫なわけないでしょう」


 勇樹が強引に足を見せるように彼女の手をどかさせると、その足は血まみれで明らかに骨が砕けているであろう惨状であった。


「きゅ、救急車呼んできます」


「だ、大丈夫。救急車は呼ばないで」と彼女は強い口調でそういった。


「わ、分かりました。なら病院に連れて行きますのでタクシーを呼びます」


「い、いえ、それも大丈夫」


 マリはそう言うとしばらく考えるような素振りを見せた後で憂鬱そうに溜息をついた。


「しょうがないかな、いつかは話すつもりでいたし。ねぇ、勇樹君は秘密、守れる人? 」


「秘密、ですか? 」


 先ほどとはうってかわった落ち着いた口調で話しかけられたため、相手の調子に合わせて勇樹はそう返事をした。


「そう、秘密。今日見たことは誰にも言わないって約束できる? 」


「ま、まぁ。マリさんが困るようなことはしませんが」


「OK。ならそこのタオルを濡らして持ってきて」


 勇樹が彼女にタオルを手渡すと、彼女は自分の怪我した左足の血を拭いはじめた。

 すると、驚くべきことが起こった。いや、既に起こっていたという方が正しいだろう。怪我は、なかった。


 妖精のように彼女の白くて可愛らしい左足は傷ひとつない状態でそこに存在していた。まるで今さっき起こった出来事が最初からなかったかのように。

 けれども、先ほどのあれは夢ではなかったし、彼女が怪我をしたのも現実で起こった出来事のはずだった。勇樹はまるで初めて手品を見る子供のような瞳でマリを見た。


「どこから話をしようかな。ねぇ勇樹君は何から知りたい。自分がここにスカウトされた理由? それとも私の体の秘密? 」


「えっと、じゃあマリさんの体について知りたいです」


 勇樹がそういうとマリは意地の悪い目つきで彼をからかった。


「勇樹君もエッチだねぇー。男の子だねー。女性の体について知りたいだなんてさ」


「い、いや。そーゆーわけじゃなく」

女性に対して免疫のない勇樹はマリにエッチと言われ少々ムキになって反論した。


「あはは、冗談だってば。ところで勇樹君、私何歳に見える? 」


「えっと、年上だとは思うんですけど僕とそこまで変わらないですよね。二十四歳くらいですか? 」


「まー、それくらいに見えるのかな? 実際は全然違うんだけどね」


「もしかして、三十代だったりします? 」


「あー、傷つくなぁ。せめて年下? って聞いてほしかったな。でも、まぁ本当は三十代っていうか、三百代? 正確に言えば三百十二歳」


「え? 」


「三百十二歳」




 勇樹は絶句したまま時間が止まってしまったのように静止した。

 言葉の意味は分かるのだがそれを事実として呑み込めないのだ。


「マジ、ですか?」

 20秒ほどしてようやく口にした言葉がそれだった。


「うん、マジ」


「もしかして、人間じゃなかったり、します? 」

 あの異常な回復力を思い出しながら、勇樹は思わずそう質問した。


「当然、人間よ。私が人間以外の何かに見える? もちろん、普通ではないけど」


「と、言いますと? 」


「私はもともとフランスで生まれたの。ちなみにマリって名乗っているけど本名はマリーベル。父は人間だったし、もちろん母も人間だった。ただし、どうも私のご先祖様には人間ではない『何か』がいたのだと思うの。


 先祖返りというものなのか、隔世遺伝みたいなものなのか私自身よく分からないのだけれど、一般的な人間とは明らかに違う性質を持って生まれてしまったの。結論から言ってしまえば、私は吸血鬼の特徴を持った人間なのでしょうね。


 年をとらぬ不死身の肉体に人間ではありえぬ腕力、食事として人の血を吸うこともあるし、そうすることでその気になれば相手を操ることもできる。そして吸い方によっては相手を吸血鬼に変えることだってできる、と思うの。と思う、断言できないのは何となく分かるというだけで実際に試したことがないからなのだけど、多分それは可能でしょうね。蜘蛛が本能的に幾何学模様の巣を作ることができるのと同じように、私にはそれが分かる、ということよ。


 いずれにせよ未だに生きていることから分かる通り私は普通の人間というには程遠い存在なの。どう、今私が言ったこと信じられる? 」


「いきなり言われたのなら騙されていると思ったでしょうけど、あの回復力を見た以上、疑うのは難しいです」と勇樹は素直に答えた。


「まぁ、そうよね。さて現代ではほぼ絶滅してしまった吸血鬼なのだけど、その理由というのが魔女狩りなのよね。勇樹君は魔女狩りって知っている? 」


「まぁ、だいたいは」


「ヨーロッパではあの時代において吸血鬼とかそのハーフなんていうのは魔女狩りの格好の的だったのね。吸血鬼っていうのはね腕力は常人以上だし、血を吸うことで人間を操れるうえ脳を半分以上破壊されるか心臓を完全に潰されたりでもしない限り死なないので無敵に近い存在だと思われがちなんだけど、実のところ意外と弱いのよ。


 昼は太陽の下にでることもできないし、十字架を近づけられれば蹲ってしまう。ニンニクの匂いを嗅げば力を出すこともできないし、銀で攻撃された場合はそれを治癒することはできない。つまり、弱点だらけなの。


 そのため人間にとって吸血鬼を殺すことは難しいものでもなかった。あの時代に多くの吸血鬼が殺され、それが原因でほぼ絶滅したんじゃないかしら。正直、あまりいい思い出ではないのだけど、さて、どこまで話そうかな? ねぇ、勇樹君はどこまで知りたい? 」


「マリさんが話せるなら全部知りたいです」


 そう勇樹が言うと、やや憂鬱そうな溜息をついてマリは話をする。


「全部、ときたか。まぁ、今から話すことは三百年近くも前の話だから時代が時代だし当時と今では価値観も法律も違うから色々なことが時効、っていう扱いで聞いてほしいのだけど良いかな? 」


「え、ええ」


「やっぱりいくら両親が人間でも私は明らかに人間とは違う特徴を持ってしまっているからどうしても魔女狩りの対象になっちゃったのね。ヒステリックな村人の一人が私のことを君主に密告したため役人がやってきて、私と家族は異端尋問という名の拷問を受ける破目に陥ってしまった。私はもちろん無実を主張したけれど、この身体でしょう? すぐに常人と違う身体の秘密がバレてしまって即座に有罪が決まったわ。けれども私は今こうして生きている。どうしてだと思う? 」


「無実が証明されたから、ですか? 」


「いいえ、そんな証明はされなかったわ。結果的に見れば私は有罪だった。なんていうか、色々な意味でね」


 彼女はそう言うと自虐的な笑みを浮かべた。


「私自身は人間の両親のもとに生まれたせいなのか純粋な吸血鬼とは違う部分があるの。つまりね太陽の光を浴びても大丈夫だし、ニンニクだって食べられる、十字架だって怖くないの。流石に銀の弾丸で撃たれれば死んじゃう気もするけど、これも進化の一環なのかな。平たく言えば、私にほぼ弱点はない、ということよ。つまり本気を出せば人間に私を止めることは不可能なの。少なくとも当時の科学力では。


 私は腕力にモノを言わせて逃げ出したわ。枷を素手で千切ってね、尋問官や兵士を紙屑のようにぶっとばして、扉をこじ開けて。私はそのまま両親のいる部屋へ行き二人を助けて逃走しようと思った。でもそれは叶わなかった。私が助けに行った時には、既に殺されてたのよ、私の両親。それは私の長い生涯で二番目に不幸な出来事だった」


 愁いを帯びた瞳を床へやり悲しげな口調でそういうと、マリは一呼吸おいてまた話始めた。


「翌日には、たった一人の少女の怒りによって一つの村がまるまる消えたわ。跡形もなく、永遠に。一人になった私は見ず知らずの土地をさまよい歩いたわ。いえ、厳密にはさまよい飛び回ったというのが正解ね。今も目立たないようにさらし巻いて畳んでいるのだけど、実は肩甲骨から翼が生えていて飛べるのよ。見てみる? 」


 マリはそう言ったが女性の肌を見るような気安い真似は易々とはできまいと理由づけて勇樹は辞退した。ちなみに辞退した理由の半分は彼の意気地のなさが原因である。


「そして一人で旅をする途中で血が飲みたくなる本能に逆らえず人を襲ったりもした。両親が健在な時はね、彼らがこっそり血を分けてくれたの。こんな娘でも我が子が可愛かったのでしょうね。私はその時まで定期的に両親の血を吸うことで生きてきたのよ。いずれにせよ相手が両親でも他人でもそれってあまりいい気分ではなかったわ。正直言って最悪よ。


 でもね、逆らえないの。人の血を吸いたいという気持ちは、遺伝子に刻み付けられた本能であの渇きが襲ってくるとどうしようもなくなるのよ。発作がくれば目の前にいる人がたとえ誰であろうと襲いたくなってしまうの。きっと麻薬の禁断症状ってああいうのと一緒なんでしょうね。


 あんな事件があってしばらくの間、私は人間に絶望していたから吸血行為は生きるために仕方なくやっていることだし人間という救いなき存在に対する復讐なんだ、なんて理由付けして人を襲うことを正当化できたけれども、それもそのうちに無理がでてくるの。


 やっぱり人間と接していれば優しい人も沢山いるし、そういった人の優しさに触れる機会があると、どうしても自分の行為を正当化できなくなってくるのね。そして私は嫌になってしまったの。定期的に人の血を吸わなければ生きていけない自分に。


 だから私は死ぬことに決めた。でも死ぬ前にやりたいことはあったのよ。私は未だ世界を見てなかった。それができる翼をもって生まれたのに、私はそれまで自分が生まれた狭い村から遠くに離れたことなんてなかったの。だから色々な土地へと飛び回ったわ。そして数年間の旅の末、山越え海越え最終的に辿り着いたのがここ日本だった。


 当時の日本は鎖国をしていたけれど鎖国という言葉自体が明治以降に作られた言葉であって、実際には漂流して辿り着いた外国人っていうのは少なからずいたのよ。実際に幕府が行った政策というのは外国との窓口の制限であって、多分今の大半の日本人が教科書の知識から得た鎖国のイメージとは少し違っているでしょうね。間違って流れ着いてしまった小娘一人にいちいち目くじらを立てて過剰な迫害なんてしなかったのよ。


 ちなみに後で知ったことだけれど私は漂流民という扱いを受けたみたいね。私が辿り着いたのは京都近辺の田舎町だったのだけれど、そこの村人たちが言葉のわからない私に対して非常に優しくしてくれたのは幸運だったわ。


 そうそう、江戸時代の京都って私が住んでいたフランスの地よりもずっと近代的なのよ。美しい錦織物や、斬新なデザインの陶磁器、職人技の光る工芸品といった品々が並び、商業が非常に栄えていて、こんな島国でこれほどまでに優れた文明社会を見るなんて想像だにしなかった。


 けれどもそんな高度な文化の中でも何より私の心を惹きつけたのは初代佐吉のお蕎麦だった。彼のお蕎麦は奇跡的な美味しさだったわ。これ程までに美味しいものがこの世に存在することが信じられないくらい、初めて食べた蕎麦の味は私に衝撃をもたらしたの。今でもこの店で出している生蕎麦は当時の味を再現したものだけれど、正直未だにあの時食べた味を超えられてはいない。さきっつあんは蕎麦打ちの天才だったの。当時、まだ二十歳にもなっていなかった私は彼の作る蕎麦にとにかく夢中になったわ。


 私はさきっつあんのお店でお世話になったのね。

 さきっつあんというのはもちろん初代佐吉のことなのだけれど、彼は毎日毎日熱心に蕎麦を食べにくる私を気に入ってくれてお店に置いてくれるようになったの。タダ飯を食べさせてくれるお礼に私が勝手にお手伝いを始めたのを黙認してくれたというのが正確かもしれないけど、いわゆる看板娘ってやつに丁度良いと思ったんでしょうね。


 心身ともに疲れ果てて自ら命を絶とうとまで思っていたのに、この国に辿り着いて半年、温かい人々に囲まれて私は初めて幸福という言葉の意味を実感したわ。でも、私は同時に激しい焦燥に襲われていたの。幸せであればあるほど、親切にされればされるほど、私は人間の血を吸う理由を見つけられなくなる。


 あの想像を絶する耐えがたい渇きが訪れる前にやはり私は死ななければならない、と思うようになっていたのよ。でも不思議ね、不幸な時は死をあれほど望んでいたのに、ほんの少しでも幸福を手にすると死ぬのって怖くなるものなのね。それでもその頃には私はさきっつあんの事が好きになっていたし、好きな人の血を啜ってまで生きる妖怪になりたくなかった私は、最後に手にしたささやかな幸福の種を胸に命を絶とうと考えたの。自分の手で自分の心臓を握りつぶしてね。


 でもいざ死のうと人目のつかぬ山の頂にたってその景色を冷静になって眺めた時、私は自分の身体の違和感に気が付いた。最初、その違和感の正体がなんなのか分からなかった。でも死を恐れる本能とは違う何かが理性的に違和感として引っかかっていたの。そしてふと、自分が死ななければならない理由を考えたとき、ようやくはっと気が付いたのよ。血を欲する渇きが半年以上もやってきていないという異常な事態に。


 魔女として迫害され神や運命を呪ったこともあったけれど日本という国に来て私はこの時、心の底から仏の存在を信じたわね。血を求める渇きがなくなったその理由は分からなかったけれど、とにかく私は人間の血を吸わずに生きられる身体を手にしたのだから。このことは私の長い長い人生で二番目に素晴らしい出来事だった。一番はさきっつあんに出会えたこと。そして二つ目がこれね。


 しばらくの間、私は自分が本当の人間になったのだと勘違いさえしていたけれど、身体の再生能力はそのままだし馬鹿力も健在でただ単に渇きがなくなっただけだったと分かった時は少しだけがっかりしたわね。


 でも、それでも十分すぎるほどの幸運だったと言わざるを得ないわ。少なくとも、私はこれ以上人を襲わなくて済むようになった。何故、日本に来て突然渇きがなくなったのか不思議でならなかったけれど、その理由を知ったのはずっと後になってからね。


 長期旅行で日本をしばらく離れた時に分かったの。

 結論から言ってしまえば、その原因は蕎麦粉だった。蕎麦粉がいったいどういう原理で私の発作を抑えるのか科学的な理由は未だに分からないのだけど、アレルギー反応に抗ヒスタミン剤が効くみたいに私の発作には蕎麦粉が効いたみたいね。


 それから数十年はさきっつあんとの幸せな日々が続いたわ。私はさきっつあんのお嫁になって蕎麦屋の女房になった。子供はできなかったけれど、私はそれで十分幸せだったわ。


 自分が老いないことが判明した時は流石に少しだけショックだったけれどそれくらい予想していたしね。ちなみに子供ができない理由は分かっていた。吸血鬼のハーフが生まれることって珍しいのよ。私がさきっつあんを噛んで『こちら側』になって貰えば私たちとの間に子供も簡単にできたのでしょうけど、やっぱりそれは躊躇われたわ。


 さきっつあんは付き合っている頃から私の異質に何となく気が付いていたけれど、それに関しては気にしないことに決めていたようね。いくらなんでも流石に誤魔化しきれなくなってからは本当のことを話したけれども、あの人は蕎麦以外のことに関しては恐ろしく興味関心のない人だったから、そうか、と別に驚きもしなかったわね。


 そんな幸せな日々が長い間続いたのだけれども、人間の時間を生きるさきっつあんと人の時間を生きられない私の仲を引き裂いたのはやはり寿命だった。ねぇ、勇樹君。さきっつあんの死期が近づいてきた時、私が一体何を考えたか分かる?」


 淋しげな微笑を浮かべながらそう尋ねる憂いをおびたマリの瞳をみていると勇樹にはなんとなく彼女の言いたいことが分かった。


「彼も吸血鬼になれば、ずっと一緒にいられる、とか?」


「正解。でも結局断られたわ。老いた俺は好かんか? ってね言われちゃった。そんな風に言われてはね、好かんことあらへんよ、って答えるよりないじゃない。さきっつあんは私に遺言として、この店と蕎麦は俺たち二人の子供やさかい大事に育ててや、と言い残してこの世を去ったの。


 そんなわけで私が二代目佐吉を襲名したのだけれど、それから十何年かして紆余曲折があってさきっつあんの甥にあたる与一という人物に三代目を襲名してもらったの、それ以降はさきっつあんの血族と一緒にこの店を盛り立ててきたのだけれど、三ヶ月前にね十代目佐吉にあたる宮沢京太郎氏が他界してしまった。


 宮沢氏は誰とも結婚せず天涯孤独の身だったから次に継ぐ人物というのがいなくなってしまったの。さて勇樹君、ここまで話せば私の言いたいこと、分かるかしら? 」


 これまでの話と時給2500円という厚遇。

 彼女が自分に執着する理由を考えると答えは自ずと導かれた。

 勇樹はほぼ確信を持って答えを口にした。


「もしかして、俺って佐吉さんの血縁にあたったりします?」


「正解。宮沢氏の血縁からはかなり遠いのだけれど私はさきっつあんの血縁は大体把握していてね、もし宮沢氏に何かあった時にはさきっつあんに最もよく似たあなたに以前から目星をつけていたのよ」


「俺、佐吉さんに似てるんですか? 」


「瓜二つね。私は成長した勇樹君を見つけた時さきっつあんが生き返ったのかと思って、我を失ったよ。で、どう? 」


「えっと、どう、といいますと? 」


「つまりこの店を継ぐ気はないか? ということよ。もちろん、すぐに返事をくれなくても構わないけど、こう言っては私の都合みたいだけれど、実際あなたは向いていると思うよ、お蕎麦屋さん」


「即答はできませんが、蕎麦屋のバイトは気に入ってます。そうですね、いい返事ができるか保証しませんが、しばらくはここでお世話になろうかと思います。ここよりも待遇のいいバイト先は見つからないでしょうし」


 勇樹がそういうとマリは安堵の溜息をついた。

 彼の返事で何よりもマリを安心させたのはマリの特異性と彼女にまつわる血塗られた歴史を知った後も彼からマリに対する怯えの影が見当たらなかったことだった。


「そう、良かった。お礼に一つだけ勇樹君に素敵なプレゼントをあげましょう。ここで、ちょっと待っててね。十五分程かかるから寛いでてくれる」


 マリはそういって事務室の横にある階段を上っていくと、予告した通りおよそ十五分後に黒のレザーパンツとレザージャケットというクールな風貌に装いを変えたマリが下りてきた。シャワーを浴びたのか美しい金髪はしっとりと濡れており、彼女の身体からは石鹸のいい香りが漂っている。


「なんていうかマリさんにそれ、凄くよく似合いますね」

そう勇樹が言うとマリはくすくすと笑った。


「目立たないように黒を着ただけなんだけれど、褒め言葉だと受け取っておくわ。それにしても、さきっつあんと同じ顔でそんな風に言われるとなんか妙に照れるね」


 そう言って恥ずかしがった。

 勇樹はそんな風に照れる彼女を見て圧倒的に年上のはずなのに可愛らしい人だなと思わずにいられない。


 ついてきて、と言われるままに勇樹は黙ってマリに従い彼女の車庫までいくと、トランク付近にMAYBACHと書かれた車に乗せられた。車にはあまり興味のない勇樹だったが、一目で高級車と分かるその車の助手席に腰を下ろすと、マリは黙って行先も告げずに車を発進させた。豪華な車の内装とその快適な乗り心地に圧倒されつつ、どこに行くんですか?と勇樹が尋ねるとマリは、とてもいいところ、と悪戯っぽく笑った。


 一瞬だけ勇樹の頭をエッチな想像がよぎったが、流石にそんなわけもなかろうと思い直して冷静になる。しばらく車を走らせ人気のない山のふもとの広場で車は止められた。


「ここはね、五代目佐吉の血縁にあたる人の土地であそこらへんの山で梅干しを作ってるの。ちなみにここは私のお気に入りの場所、降りて」


 車から降りると、冷たい夜風が勇樹の頬を撫でた。お店を出た時と比べると少しだけ気温が低い。勇樹が肌寒さに思わず身震いすると、柔らかく暖かな感触が勇樹の背中に押し付けられた。


「あ、あの、マリさん?」


「大丈夫、安心して。別にとって食ったりはしないから」


 そういってマリは勇樹の腰に手を回すと、強く彼の身体を抱きしめるように力を入れた。いくら吸血鬼とはいえ相手は思わずはっと息をのむほどの絶世の美女だ。柔らかく大きな胸の感触を背中に感じ女性慣れしていない勇樹にはあまりにも刺激的だった。


「ふふ、あんま照れんといてやぁ。さきっつあんに似た顔でそんな表情されると、私も妙な気分になってまうわー」


 マリの声色は妙に色っぽく、その声が勇樹の理性を溶かそうとしたその時、思いがけない言葉が勇樹の耳に届いた。


「じゃ、飛ぶね」


「えっ」


 瞬間、バサッという翼を広げる音がしたかと思うと物凄い速さで急上昇していき高度を上げていった。


「わっ、ちょ、ちょっと」


「大丈夫、大丈夫。離したりはしないョ」

 マリは棒読み口調でそういって勇樹の不安を煽った。


「だ、だぁぁぁぁぁ。なんでそんな口調なんですかぁぁぁぁぁぁ」


「冗談、冗談だってば。ちなみに今が高度七百メートルくらいかな、どう?」


「どうって?」


「ほら、よく見て。京の街が綺麗でしょう?」


 勇樹が素直に街を見下ろしてみると感動のあまり思わず声が漏れた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ、これは凄い」


 街のあちらこちらに瞬いて夜の暗闇を彩るその光はまるで魔法の宝石箱のように綺麗に輝いて見える。


「さきっあんも昔は京の街を眺めるのが好きでねぇ。吸血鬼ということを告白した後はよくこうして飛行デートに誘ったものさ。昔と比べて随分と環境も変わってしまったし自然は減ってしまったけれども、夜景だけは当時よりも綺麗なんだよ。ねぇ勇樹君」


「はい」


「ありがとう。なんだかさきっつあんにこの夜景を見せられたような気がして嬉しいよ」


 その言葉を聞いて勇樹はチクッと胸のどこかが痛んだような錯覚を覚えた。

 多分、そう。自分はさきっあんに嫉妬しているのだ、と勇樹は気が付く。


「いえ、こちらこそありがとうございます。こんなにも素敵な夜景をこういった形で見られるなんて貴重な体験です」

 勇樹は平静を装ってそう答えた。


「もう少し上昇するよ」


 マリがそう言って更に高度をあげると彼女は片手で勇樹を抱えながら、もう一方の手で指をさしながら説明する。


「あの山が私の初めて降り立った場所、そしてあの街のその付近に光っている場所がさきっつあんと一緒に住んだ場所。そしてあそこに光っている場所が………」


 人よりもずっと長い時間を歩んできた彼女の思い出話は尽きることなく、月夜の空中遊覧をゆっくりと時間かけて堪能した。勇樹は自分が生まれるよりずっと昔の話に耳を傾け、そして彼女の遠い恋人に静かに嫉妬した。


 まぁ、それもいい。

 遠い昔の話だ、と勇樹は思う。


 この街の光の中に彼女の中で僕の思い出も加えられていくのだろう。そしていつの日かその光の数がずっと多くなったとき、その時は今抱いているもやもやした気持ちも薄れているに違いない。勇樹はそんな風に自分の思い出が彼女の中に増えていくことを願い予感をするのだった。




 将来的にその思い出は勇樹が想像するよりもずっとずっと多いものなっていくことをその時の勇樹はまだ知らない。


 その尺度は人の時間を超えて。


 しかしやはりこれだけは記しておかねばなるまい。

 その思い出の大半が温かく幸せなものであるということを。






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