意外な事実

 学生の本分とは、言わずもがな勤勉に努めることである。この考えは学生にとって尊ぶべき掟であり、遵守せねばならない法でもある。


 これを忘れ怠ったものは、後々痛いしっぺ返しが待ち受ける事になる。けれど、そうして痛い思いをして学習して、結果勉学について前向きになってくれれば、教員達はする必要のない苦労に頭を悩ませる必要もなくなるだろう。


 しかし、世の中には同じ轍を踏みたがる人たちがいる。例えば、去年の三学期に留年になるかならないかの瀬戸際で、心優しい各科目の先生や、クラスメイト達の力を借りて、なんとか進級に至る事ができた女子生徒、橘恵里。


 一学期中間試験から二週間を切ったこの日。彼女から試験を乗り切れるように力を貸してくれと頼まれ、放課後の人がまばらな教室で、机を向かい合わせに合わせて、赤点を取らないよう要点を押さえた勉強法を教えていた。


 だが、真面目に聞いていたのは僅か十五分程度で、後はスマホを右手に持ちそれを見ながら、俺の教えなど耳から耳へと素通りしているようなものだった。そんな橘を見て、つい溜息がこぼれる。


「なに? どーかしたん?」


 そう言って顔を上げた橘に、俺はせいぜい危機感が募ってくれるよう、神妙な面持ちで答える。


「お前マジで今年こそ留年するぞ」


「大丈夫だって。旭が勉強教えてくれてるんだし」

 

 橘は平気な顔でそう口にした。そのふざけた様子を見ていると、呆れを通り越して悲哀を感じてしまった。


「お前には今の状況が勉強している様に見えているのか」


「してんじゃん。教科書とノートも開いてるし」


「それだけで勉強になるなら、世にいる赤点取得者は激減するっつの」


 またも深い溜息をついてしまう。溜息をすると幸せが逃げるというが、それが真実なら今日だけで俺の幸せメーターは、だだ下がりになることだろう。


「だってさー。まじめっちゃ試験範囲広いし飽きちゃうだもん」


 橘は頬を膨らませそんな言い訳を言った。


「西北は進学校だぞ。試験が難しいのは当然。去年それを嫌というほど味わっただろうが」

 

「だから今旭に教えてもらってんじゃん」


 その言葉につい眉根を揉む。


「ならなんで、君の右手にはペンではなくスマホが握られているんでしょうか?」


「ツイッターをチェックするために決まってるっしょ」


 愕然とした。ここまで馬鹿だったとは。橘が西北に合格出来た事を、世界七大不思議に数えるべきだろう。


「勉強する気がないなら、俺は部活行くからな」


 荷物をまとめ始めると、橘が急に声を上げる。


「あー!! そう言えば部活の件どうなったの?」


 部活の件? 思い当たることが何一つない。


「何のことだ?」


「何って、私を入部させてくれる様に白崎さんに言ってくれるって言ってたじゃん」


 それを聞いてようやく思い出す。ついつい失念していたが、確かにそんな事を言っていた。


「あー、それな。てっきり忘れてたわ」


「はあぁぁぁぁぁ!?」


 橘の怒号が教室を震わせた。正直に罪を告白したのに、女王様は許してはくれない様だ。


「そんな大事な事忘れるってどーいう事!? マジで最悪だかんねそーいう男子って!! 嫌われる男子の典型だし!!」


 徹底的に糾弾する橘を、俺は必死になだめる。


「いやさ、マジで悪かったよ。いちご牛乳買ってきてやるから怒りを収めてくれ」


「いちご牛乳って百円しかしないじゃん!!」


「財布の中にそれしか入ってないんだよ」


「この万年金欠男!!」


 人差し指をこちらに向け、俺を非難する橘。万年金欠男とはいくら何でも酷すぎやしないだろうか。女子高生の口から出る罵声とは思えない。


「もーいい。罰として旭は後一時間ここにいる事。それで許してあげる」


 なにか大きな不条理を感じたが、女王様のご機嫌を損ねるわけにはいかないので、その罰を甘受する。


「ありがたき幸せでございますよ、橘様」


 ふんふんと頷いて満足げな表情の橘。彼女はわかりやすい性格をしている為に、とても絡みやすい。


「そーいやさ、さっきツイッターで面白い話聞いたんだけどさー」


 そう言って少しの間スマホを操作すると、それの画面をこちらに向けてくる。


 そこには光を煌々と浴び、顔の輪郭や凸凹が分からなくなった女性の写真があった。


「なんだよこれ?」


「覚えてない? 夏実の事?」


 はて? こんな不気味な写真を撮る様な女子が知り合いにいただろうか?


「いや、覚えてないな。橘の友達か?」


「何言ってんの。去年同じクラスだったっしょ。草野夏実だって」


 苗字を聞いて思い出す。草野夏実。よく橘の後ろをくっついていた女子生徒だ。目が離れたところについていて魚顏だった事から、小判鮫と影で呼ばれていた女子だ。


「そういや居たな、そんなやつ」


 ちゃんと思い出せた事に一人安堵していると、何故か橘から白い目が向けられていた。


「もしかして、マジで忘れてたの? 去年結構絡んでたのに?」


 確かに一年の頃は、橘を通してだが女子の中では比較的交流があった方だ。その写真が判別に難しい物だったというのはあるが、名前を言われてもすぐに思い出せないのは、少し薄情なのかもしれない。


 だが、あくまで同じクラスに所属していて、共通の友人が居た為に交流をしていただけで、違うクラスになった今完全に疎遠になっている。覚えていないのも仕方ないではないか。


「苗字でしか呼んだ事なかったからな。仕方ない仕方ない」


「ドン引きなんですけどー。もしかして私の名前覚えてないとかないよね?」


「それくらい覚えてるって。恵里だろ?」


 何故か橘は驚いた表情を見せる。そして何故かつま先で、俺の脛に何度も打撃を与えてくる。


「急に名前呼ぶなし!! セクハラだかんね!!」


「痛いっつの!! 唐突に俺の脛を蹴るな」


 俺の必死の抗議により暴力は止んだものの、橘は顔を赤くしていた。


「そーいうのは…あれだから!! 今後禁止だから!! 破ったらいちご牛乳だかんね!!」


「名前呼んだだけで罰せられんのかよ。日本っておっかない国だな」


 女尊男卑気味な最近の日本を嘆いてしまいたくなる位、理不尽な出来事に見舞われてしまった。


「まったく。旭のせいで話逸れたじゃんかー」


「そりゃあ悪うございました」


 嫌味ったらしく言ったつもりだったが、橘は全く気にもとめていない様で、その面白い話とやらを口にする。


「なんかさ、夏実が速水君の事まじで好きになっちゃったらしくて、今週の土曜に遊び誘ってOKもらったらしいんだよー」


 ほうほう、それはなんとも面白い話だ。速水に直接的なアプローチをする女子が現れて、速水がそれを受けるだなんて。


「珍しいな」


「だしょー。速水君ガード固いし、そーいう話聞いた事なかったからさー。B専でもないのになんで断らなかったのかなーって」


 橘の辛辣な意見に、乾いた笑いがでる。


「ひどい言いようだな。友達じゃなかったのか?」


 その問いに橘は、苦虫を噛み潰したような顔をして答える。


「この間まで病みツイートばっかりでウザかったんだよねー。しかもここ最近は、恋愛ポエムっぽいのを自撮りと一緒に投稿するから気持ち悪いのなんのって」


「確かにそれは面倒だな」


 俺が共感の意を見せると、橘は俄然やる気を出して、草野夏実に対する悪口雑言を次々口にしていった。


「まじさー、あの顔で速水君狙うってやばくない? 別に私速水君の事どーも思ってないけどさ。さすがに釣り合ってなさすぎでしょー。それにー……」


 机に肘を乗せてもたれかかりながら、橘の口から放たれる悪口に耳を傾ける。後五十分強、これを聞いていなければいけない。それが女王様から下された罰だから。それでも、不思議と心は穏やかなものだった。

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