虹の見える場所
北西 時雨
雨の中
人は幸せになりたくて努力をするもの、らしい。
らしい、というのは、僕自身、「幸せ」というものがどういうものなのか、あまり実感できていないからだ。
リア充だの勝ち組だの、あるいはぼっちだの負け組だの、そういった幸福度を表す言葉は、世の中に無数に存在する。
しかし、そのどれにも、僕は当てはまらないような気がする。
たとえ、同じ傘の下、僕の横で一緒に歩く彼女が微笑んでいたとしても。
「どーうっしったのー?」
彼女は、奇妙なイントネーションでそう言って、僕の顔を覗きこんだ。僕は思わず少しだけ身を引く。
彼女というのは、単に三人称の人代名詞の方ではなく、女性の恋人という意味だ。
異性愛者の若い男性なら、彼女の一人や二人、欲しいと思うのが通常である。僕も漏れずそのような男の一人。彼女ができたのなら訳もなく浮かれるはず。
しかし実際は、恋人がいることに戸惑うばかりだった。そして、そんな僕の様子に、彼女は不満げに言う。
「なんか、退屈そう」
「別に、そういうわけじゃ……」
僕が発した、言い訳じみた返しに、彼女は口を尖らせる。それからおもむろに、傘を持つ僕の手に彼女自身の手をかぶせるようにして握ってきた。
「お、おい……」
ここは道端だ。誰が見ているか分からない。
「いーじゃん、べつに。このくらい。ダメ?」
「ダメっていうか……」
何だか自分達がカップルだとアピールしているみたいだ。そんなこと、宣伝するほどのことではないと感じる。
彼女は、狭い傘の中、僕に身を寄せながら呟いた。
「私と手を繋いでも、ハッピーじゃない?」
「分からない」
「そういうときは、『ハッピー』だって言うもんだよ?」
「そう?」
「ハッピーだー、って言ってるうちに、本当にそうなるから」
僕は、はぁ、とか、ふーん、とか、そんなはっきりしない返事をして、彼女の言い分を聞き流していた。
彼女が突然深大寺に行きたいと言い出したのは一昨日で。今年の梅雨入り宣言が出たのは昨日。シトシトと雨が降っていても構うことなく傘を持って出かけた。
いささか不本意ながら、相合傘をしているのは、行きのバスの中で僕が傘を置き忘れたためだ。しかも、降りるバス停を間違えたようで、少々迷子気味。
多分こっちだろうと言い合いながら歩いていると、元気に回っている水車が見えてきた。
「お蕎麦屋さんね。結構有名なところみたい」
案の定、店の前は長蛇の列だった。
彼女が深大寺に行きたいと言った時に、蕎麦を食べたいと言っていたのを思い出す。
行列に圧倒されながら、隣の彼女をチラリと見る。僕の視線に気づいた彼女が、僕を道の端へ引っ張って行き、鞄から「調布市観光マップ」と書かれた大きな紙を出して広げた。
「今いるのが、ここでしょ? ほら、この辺はお蕎麦屋さんがいっぱいあるよ」
地図を見ると、蕎麦屋のある箇所にマークが記してあった。確かに、パッと見ただけでは数えられないくらいあるようだ。
「激戦区ね。きっとどこでも美味しいよ」
彼女はそう言って地図を仕舞った。
結局、並んでいる蕎麦屋には入らず、もう少しだけ散策することにした。
「どうしてあんなに並ぶんだろう」
僕が小声でぼやくと、彼女はこう答えた。
「列が出来てると、その先に良いものがある気がするからじゃないかしら」
そういうものなのだろうか。
いくつかの店を通り過ぎ、適当な蕎麦屋に入る。
注文をして、料理が来るのを待つ間、僕は彼女に尋ねた。
「それにしても、どうして急に来たいなんて言い出したの?」
僕の疑問に、彼女は窓の外を眺めながら呟く。
「この季節の緑が、一番綺麗だから」
彼女に倣って外を見る。新緑の枝が雨風に揺れていた。柔らかそうな葉が少しだけ透けていて重なり合い、緑色の濃淡を作っている。
東京は、街中でもこういった場所があるから不思議だ。
今度は逆に彼女から尋ねられた。
「せっかく近くに住んでるのに、来たことなかったの?」
「通りかかったことだけある」
僕がこの辺りに住み始めて数年経つが、観光に来たのは初めてだった。中途半端に近い所に住んでいるせいで、あえて見に来ようと思ったことはなかった。
だいたい、緑が見たいなら森とか山とかに行くものではないのだろうか。
そんな態度の僕に、彼女は不満げに言う。
「近くにあるから、来てみようと思うんじゃない」
そうやって他愛のない会話をしているうちに料理が運ばれてきた。
僕の前にやってきた天ぷら蕎麦は、サクサクとした天ぷらと味にクセのない蕎麦がとても美味しかった。
蕎麦を食べ終え、会計を済まして店の外に出る。
傘を差そうと、店の入口で留め具を外し広げていると、彼女が後ろから僕の横をすり抜けて前に出た。
「雨、上がってる」
彼女は呟きながら手のひらを上に向けて空を見る。言われてみると、確かに先程まで降っていた雨は止んでいた。
僕が広げかけた傘を畳んでいる間に、彼女はフラフラと先に行ってしまう。
普段は僕より歩くの遅いくせに、と思いながら、彼女の背中を追いかける。
彼女は土産物屋の焼き物や団子に興味を示しつつも買ったり欲しがったりする様子もなく、歩みを進める。
揺れる髪やスカートを目指して後を追うけれど、予想できない動きをし続ける彼女との距離は、縮まる気配が全くない。
不意に、なんで僕はこんなに一生懸命追いかけているんだろう、という考えがよぎった。でも、僕は大人げなく駆けて、彼女の腕を掴む。
急に腕を掴まれた彼女は、驚いて振り返る。
僕の顔を見て、彼女の顔が曇った。
「ごめんなさい……。てっきり近くにいるものだとばっかり」
謝る彼女に僕は首を横に振る。僕たちは手を握り直して境内に向かった。
少し急な階段を昇る。門をくぐる前に一礼する彼女の真似をして一礼をした。
境内に入り、常香炉の煙を浴びていると、また彼女がいなくなっていた。
慌てて周りを見渡すと、思いのほか近くにいてホッとする。
ぼんやりと空を見上げている彼女の横に立ち、声をかける。彼女は微笑みながら、黙って空を指差した。
木々の向こうに、うっすらと虹がかかっていた。
彼女の横顔を盗み見る。彼女は無邪気な面持ちで、僕の様子には気づかず虹を見ていた。
虹を見たのはいつぶりだろうか、と思いながら、少しずつ消えていく虹をしばらくの間、二人で並んで眺めた。
僕はふと思い立って彼女に言う。
「次来た時は、さっきの、並んでいた蕎麦屋に入ってみようか」
彼女はパッとこちらを向き、明るく笑って頷いた。
虹の見える場所 北西 時雨 @Jiu-Kitanishi
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