第2話 僕は大学の六年生である

  

 僕は、大学の六年生である。大学院へ進学した訳ではない。ただ単純に、単位不足による留年である。ぴかぴかの一年生でやってきた時は、学舎の中にそびえたつこの図書館にも感動を覚えたものであるが、いまとなっては、なんの感慨もない。せいぜい、でかいから待ち合わせ場所として有用、程度である。(一三七)



 

 現在の時刻は、午前十一時。ふつうの学生ならば、二限の講義を受けている最中である。一方、六年生の僕は、単位が足りぬから留年となった始末ではあるが、残りわずかなもんだから、それほどせっせと集めに行かなくてもよいという事情ゆえに、こうしてぶらぶらしている訳である。

 ……。本当ならば、今日という曜日の二限目は僕も授業に出ていなければならない。ありていにいえばフけてきた。大学へ一度でも行ったことのある諸君ならば知っていると思うが、大学の講義というのは、いともたやすく抜け出すことができる。まったく、悪魔のようなシステムであると思う。

 僕はというと、大学へ到着した時点で、二限スタートの刻限を過ぎており、急ぎ足で講義室の前まで駆け付けたものの、教授の声ばかりが朗々と響き渡る、ある種の静寂の中へ足を踏み入れるのに気おくれし、そのまま踵を返してきた、という訳である。

 それにしても、講義をエスケープして吸う煙草の味は格別である、至福である。ま、何度も繰り返していると、その内飽きがくるのだが。

 僕は、飽き飽きした煙草の味にしかめっ面を作りながら、背の高い図書館を見上げる。バブル時代の産物である十うん階建てのこれは、大量の蔵書と情報処理施設、会議室などを抱えこみ、おそらくすべての教員、学生がたびたびお世話になっている。その一階には、喫茶店があり、いこいの場ともなっている。

 ぼんやりと、コーヒーが飲みたくなってきた。煙草にはコーヒー。これは大人の常識である。明かりに引き寄せられる蛾のようにふらふらと喫茶店を目指す。と、ふと足が止まる。

 僕は、他人からみっともない、と思われるのをひどく嫌うタチである。ダサいや、小汚い、と指さし笑われるのは屁でもないが、一言、みっともないと言われてしまうと、途端に心根がみじめになって、どんな高揚した気持ちも、萎えて沈んでいってしまうのである。だから、人の多く集まるところへ飛び込むときは、ちょっと格好に気を遣う。なにを当たり前のことを、と仰る諸君もいるかもしれぬが、なにぶん、一事が万事である。

 襟は変に折れていないかしら、ポケットは裏返っていないかしら、シャツに虫食い穴なんてあろうものなら、脱兎のごとく逃げおおせるのもはばからない。

 大丈夫そうである。まあ、あくまで自己満足の範疇であるから、それこそ、本当に面と向かって言われでもしない限り、人の心の裡なんて、そうそう分かるものではない。

 開放された扉をくぐる。いらっしゃいませの声には小さく会釈。けして気取っている訳ではないが、慣れない場所では、こぎれいにまとまった振舞いをしていた方がよろしい。

 席についてメニューを開く。注文はホットコーヒーに決まっているのだが、他になにも頼まない、というのも口淋しいから、ちょうど目にとまったケーキセットと一緒に注文する。

 頬杖をついて窓の外に視線を放ろうとして、ふと気づく。ぐるりと見回して合点する。カウンター席に、ひとつ一冊手に取れるように、本が置かれてある。手に取ったのはグリム童話集。よくよく考えてみると、童話や寓話の類とは縁遠い本ばかりを読み漁っていた気がするから、ちょうどよい機会だから、人生の訓示、あるいは豊かな生活の肥やしたらんとページをめくる。

 鉄のハインリヒとヒキガエルの王様。物語は、どこかの国のお姫様が金のまりで遊んでいるところから始まり、彼女がそれを深く冷たい池の中に落としたところ、ヒキガエルが現れて、取ってきてやるという。ただしそのカエルは彼女に友人になることを要求する。食事の時には隣に座り、同じ物を口にし、また眠る時にはベッドを共にせよ、と友達としてはずいぶん行き過ぎではないかしら。きょうび、夫婦でもそんなことはしないというのに。ともかく、彼女はそれを承諾し、見事ヒキガエルはまりを拾ってくるが、彼女は約束を反故にし、すたこらお城へと帰ってしまう。導入としては、だいたいこんな具合である。

 それからしばらく読みふける内に、コーヒーとケーキが届いたので、喜びかじりつこうとしたところで、食指が止まる。深呼吸ひとつ、コーヒーを飲んで、ちょっと考え込んだ。

 目の前の皿には、スライスされたパウンドケーキがふたきれと、アイスクリームが一杯。スプーンとフォークがひとつずつ。スプーンはアイスクリームのためとして、どうやってケーキを食べればいいのだろうか。

 ずぶりとフォークを差し込んで、あんぐりと口を開けてみる。あまりにもみっともない。

 誰か、パウンドケーキを食べる上手の人がいたらぜひともご教授いただきたい。

 結局、フォークで切り分けながら食べることにしたが、これで間違ってはいますまいかしら。

 グリム童話を読みながら、ケーキに舌鼓を打ち、コーヒーで喉を潤す。地涌に優雅なひと時である。

 パウンドケーキを食べきってしまって、物語にも区切りがついて、コーヒーがすっかり冷めきってしまっていることに気が付いた時、顔を上げる。いったい、いまは何時だ。慌てて時計を確認する。なにを過去す、僕には三限も控えている。こればかりはどうにか出席しようとひそかに決心を固めていたものだが、時計の示す時刻は、無情にも、十三時を回って、三十分が経過しようとしている。よくもまぁ、ケーキひとつとコーヒー一杯で二時間も粘ったものである。自分に感心しながら、本に再び目を落とす。三限でくだらない知識を得るよりも、童話によって人生の訓戒を得、薫陶を受けている方が、よほど大切である。

 僕は大学六年生である。

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