第29話 泣き縋る

 若々しい史郎の顔に衝撃が走った。驚愕のあまりに、口も聞けない、というのはこういう時であろう。

「お館様から史郎殿に暇を取らすとの命があるかもしれぬ。」

 静の腹心である池田の言葉だった。

 城の小者部屋に、わざわざ足を運んできてくれたのだ。自分のような身分のものに単身で来てもらうなど恐れ多いことだが、静の部下は、存外そういうことに余り頓着しない。

 仕事も全て終わり、就寝しようかという時刻である。

「お、おれ、は…」

 どう答えていいのかもわからず、何も言えずにいると。

「否、と申すがよい。」

 史郎の逡巡を待っていたかのように池田はかぶせてきた。

「はっ!?」

「そなたが否と申せばお館様はそなたを家に帰したりなぞせぬ。みっともなく泣き崩れてお縋りせよ。お館様のお側に置いてくれと泣いて乞うのだ。」

「それは」

 一体どういう仕儀であるのかと問う暇も貰えず。

「それともそなた帰りとうなったか?傍に侍ることも叶わずお抱き申し上げることも出来ないのならばもはやここでの暮らしに見切りをつけて故郷へ帰り世帯を持つか?」

 池田が何を考えているのかなど、史郎のような身分のものにはわかりかねた。こんな風に反論も抗弁も、そして肯定さえも許されないような声に、混乱するばかりである。

 何が何だがわからなくても、それでも史郎にははっきりしていることが有る。

 若殿の傍にいたい。それだけは変わらぬ事実であった。

 だから、史郎は音が出そうなほどに首を横に振る。

「嫌でございます。お側を離れとうありませぬ。おれは戦のお役に立てませぬから、だからでございますか?だから暇を取らすとの仰せですか?ならば槍でも弓でも鍛錬致しまする。決して得手とは申せませぬが、馬にも乗れるようにして頂きました。おれは、おれは」

 一度は畳に擦り付けるほど下げた頭を上げ、悔しそうに主張を続けた。

「たとえこの身が二度とかのお方に触れることが出来ずとも、お側で尽くしとうございます。おれには、おれには若殿しかおりませぬ。」

 池田は硬い表情のまま小者である史郎を凝視する。

「左様か。ならば言われたとおりにするがよい。」

「池田様、どうか若殿にお目通りを」

「今はならぬ。今少し殿が落ち着かれてからだ。」

 この男でさえ、静の腹心である池田でさえそう思うのだ。

 それほどに静の心は荒み、壊れかけている。

 それなのに自分は何もしてやれることがないのか。傍にいることも、慰めることも、抱きしめてやることも撫でてやることもできないというのか。

「どうか、池田様、後生ですから」

「わからぬか史郎、お館様のお心が。」

 その声は、今までとは打って変わって優しげで、

「そういうそなたを見ているのが、お館様はお辛いのだ。そなたにそのように辛い思いをさせているということが、寂しく感じておられる。それがわからぬのか。」

 まるで泣くのを堪えているかのように、切ない口調だった。

「これほどにそなたを思うておるという事が何故わからぬ。」

「・・・っし、しかしっ」

「だから留まれと云うておる。お館様のお心が落ち着かれた時に、そなたが側におったほうが良い。さすればお館様も馬鹿なことを考えぬ。」

「馬鹿なこと、とは?」

「お館様とて自暴自棄になることもある。そうならぬよう留めているのはお館様自身の正義であり、椎野家の当主であるという自負であり、領民を守りたいという強い意志だ。そなたとてお館様の大切な領民の一人であろうが。」

 史郎は口を閉じた。

 何も言えることはないと、理解したからだ。

 なんともどかしいことだろう。同じ屋根の下に寝起きしていながら、今は側に侍ることも出来ず、声を聞くことも出来ない。静がそう命じている。自分の無力を噛みしめる以外に、今の史郎に出来ることは無かった。

「仰せのままに、致しまする。」

 平身低頭でそう告げる。

 泣き縋ることでよいのならいくらでもやろう。恥などではない、みっともなくてもいい。

「うむ、それでよい。」

 低い声でそれだけ言うと、池田は背後の障子戸をさっと開き、その中に吸い込まれるように、廊下へ出ていてしまった。




 山背国との同盟を断ち切って、謀反人である祥を責めるためには挟み撃ちされぬためにも伯規国との停戦と同盟を成立させなくてはならない。そのために早々に使者を送って相手城主の機嫌を取った。しかしそれだけではまだ足りないのだ。

 約定を交わし、同盟国となったとしても、利害がなくては何の保証にもならない。

「なんぞ知恵を貸してはくれぬか、竹脇。」

 御簾の下りた上座から、静は家臣に水を向ける。

 伯規国は、国力も有り豊かで当主もしっかりしている。叩けば埃が出るような、あるいはつつけば蛇がでるような藪が見当たらないのだ。

 若い頃には諸国を修行がてら旅していたという竹脇に尋ねるのは、彼が最も世間を知っていると踏んでいるからである。

 静をはじめその部下の多くは相馬国とその周辺から出たことがない。椚山公と会うために国を出たのが、数える程度で、後は幼い頃父である涼に連れられて出かけた程度か。

 竹脇も珍しく首をひねっていた。

「新発田様は大殿よりはお若いが、もう長く伯規国に君臨しその信頼は厚い。その信頼の理由の一つとして余計な戦をなさらぬことが挙げられるでしょう。これから我が国が山背国と戦になったとしても、果たして首を突っ込んで来るでしょうか。」

「そのことよ。以前であったならわしもそれを考えここまで悩まぬ。しかし竹脇よ、祥の奴がすでに交戦してしまっておる。手を出したのはわしではないといくら主張したところで意味はない。」

「・・・慎重であられる静様ならではのお考え、一理あるかと存ずる。」

「さればよ、なんぞ手札が欲しいのだ。我が国を責めると伯規国には都合が悪いという何かが。・・・それが無いと背後がお留守になってしまう。」

 その場にいる一同、全員が黙ってしまう。

 静の主だった家臣はここにいるだけで8名だが、誰一人妙案を提示できぬというわけだ。

「婚姻はどうじゃ。」

「こちらから差し出す人質がおりませぬ。妙姫も、佳近様もすでに婚約者がお有りじゃ。」

 三浦が更に付け足した。

「新発田様のご家族にも妙齢で独身のお身内がおられるかどうか。」

 眉根を寄せ、困ったようにため息を着く。

 静は独身で有るがゆえに、実の娘も息子もいない。養子の佳近はいるが、彼はすでに婚約が整っている。

 亡き父親が早くから静に嫁取りを勧めたわけがようやく理解できた気がした。

 さっさと嫁をもらい、たくさん身内をつくって、こういった場合の攻略の駒にするのだ。そのためには、まず子を作らなくてはならない。

 生まれてきた子供の人権など全く無視した考え方だが、これが世の習いだ。

 静自身も、己の人権を無視され、男として育てられた。仕方のないことである。支配階級の人生は、本人のものではない。

 



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静かな龍の都 ちわみろく @s470809b

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