六月の、眠り姫
ねこのきぶんこ
六月の、眠り姫
もたもたしている内に、窓の外では雨が降り出したようだ。激しい雨だった。
誰かが開け放したままにしていた窓から、水気を含んだ空気が、雨の圧力に押されて学生食堂の中に入ってくる。
僕は山の上にある測候所を思い浮かべた。部屋の中では観測機器のメーターが激しく揺れ動いている。
一瞬頭の中を横切ったイメージを、僕はすぐにうち消した。いまどきアナログメータなんて使っているのだろうか?コンピュータ・ディスプレイの方がふさわしい気がする。僕の想像力なんてたかがしれているが、そもそも、山の上の観測所って、どこから引っ張り出してきたんだろう?
僕は紙コップにまだ半分ほど残っているコーヒーを口に含んだ。あまり味も匂いも感じられなかった。風邪がまだ治りきっていないのだろう。ここ数日、そんな状態が続いていた。
雨で冷やされた空気が僕の腕をなでる。風邪のせいで鼻の利かない僕には分からないが、ホールには、雨の臭いが満ちているのだろう。僕は再び頭の中に一つのメータをイメージする。小さな、アナログ式の昔ながらの装置。僕は鼻から深く息を吸い込んで、目をつむる。ーー針はぴくりとも動かなかった。
僕は目を開けてがらんとした食堂を見回した。ついさっき、講義を終えた学生を乗せたバスが正門を出ていったため、ホール内には、僕を含めて四、五人の学生しか残っていなかった。
次のバスの時間まで、1時間以上あるのだ。僕の通っているこの大学は地方都市の郊外に造られた歴史の浅い、小さな大学だった。交通の便は良くない。
授業が終わってからすぐのバスでは、それなりに混雑した。頭痛がするというほどではないが、頭の中には粘土が詰まっているような感じが朝からずっと続いていた。少し座って休みたいと思った僕は、時間をずらして、食堂で次のバスを待つことにしたのだった。
僕は自動販売機のすぐ前にあるテーブルに着いて、窓の外で雨が降り続けるのをぼんやりと見つめながら、終わったばかりの講義を思い出していた。
このまま続けていくか、それともこの講座は受講するのをやめてしまおうか、迷っていたのである。
受けておかなければならない必修科目は多いが、土曜日に行われているものは、資格を取るために必要な講座や、選択科目がほとんどで、単位を落としたからといって卒業に響くものではない。所定の講義さえ受けていれば、卒業と同時に資格がもらえるというので、とりあえず僕はその講義に出席することにしていた。
僕の周りの学生は初めから週二日の休みが取れるように講座を選んでいる者がほとんどで、ライセンスに惹かれて試しに顔を出してみた僕の数少ない友人達も、一ヶ月が過ぎる頃にはアルバイトを優先し始めて休みがちになり、二ヶ月以上経った今では、僕以外、橋助という友人一人しか出てこなくなっていた。
その一人も、今日の講義には顔を出さなかったのである。資格はあまり役に立ちそうになかったし、講義は無味乾燥に思えた。
食堂の入口から学生が一人、入って来るのが見えた。同じ学部の新木塔子だった。彼女も僕と同じ講座を受けているはずだ。バスで何度か隣り合わせに座って、少しだけ話をしたことがある。地味であまり目立たないという印象しかない。向こうも、僕のことをそう思っているのかもしれないけれど。
赤いチェックのシャツ、濃紺のジーンズの下に黒のスポーツ・シューズをはいて、ほとんど足音をたてずに僕のいる方に歩いてくる。
「すごい雨だね。」
自動販売機の前から体をどかして、僕は彼女に話しかけた。彼女と僕の位置関係からして、明らかに僕の体が邪魔になっていた。
「あ、そうね。」窓の方を少し振り返って、彼女が答える。
自動販売機の前に立った彼女は、考えることなくレモンティのボタンを押した。スイッチが入った機械はかすかなうなりをあげて動き始めた。取り出し口の上で矢印形の赤いランプがのびていく。
「風邪、引いたのかな。声が少し変な感じ。」僕と自販機の間にある空間を眺めるようなしぐさで塔子が言った。
「だいぶ良くはなったけど、まだ調子は戻ってないね。」
「また悪くならないように気をつけないとね。」相変わらず、何もないところを塔子は見ている。
「ありがとう。でも、雨が降ってきたから大丈夫だよ。」
レモンティができあがり、カップを取り出した塔子は僕の向かいに座った。もう片方の手に持っていたプラスティック製のファイルケースをテーブルの隅に置く。青い色をした透明なケースで、数冊のノートや手帳、文庫本が入っていた。
「雨だから大丈夫、ってよく分からない。」
「高校入試のときも、ここを受けるときも、雨が降っていたんだ。どっちも受かったから。雨の日はラッキーだ、ということになる。他の大学を受けたときは全部良く晴れていたんだけどね。そっちは全部落ちた。」
「雨男とはちがうの?」
「そういうわけではなくて、雨の日の方が運が向くというか、調子が良くなる人間なのではないかと思っているんだ。」
「そんなことって、あるのかな。」
「ないとは思うけど、そう思うことにしているんだ。」と僕は言った。「そういうふうに思う習慣が付けば、雨の日でも、気が滅入ることは少ないよ。」
「そうかしら?まあ誰にでもできることではないわね。」
彼女は少し目を細めて言った。もしかしたら笑っているのかもしれない。
僕の知っている女の子達と比べて、彼女は表情の変化が読み取りにくかった。
「じゃあ、ここが第一志望というわけではなかったのね。」
そう言って彼女はレモンティを一口飲んだ。彼女がおいしい、とつぶやいてカップをテーブルに置くのを待って、僕はうなずいた。
「わたしも、そうなのよね。その上、一浪しているし。」
塔子はは目だけ細めて笑っている。
通学バスの中でちょっと話したことがあるだけだけれども、僕は彼女はかなり頭の良い人なのではないかという印象を持っていた。回転が早い、という種類のものではなくて、たとえばコンパクトに荷造りをするのがうまい、というような。
女の人で、こういう種類の人は、僕の周りには余りいなかったように思う。僕の家族の女性(母と、姉が一人)は、旅行をするとき、たくさんのバッグを携えてゆくのが常だった。以前、母が友人と温泉旅行に出かけて帰ってきたとき、出かける前と明らかにバッグの数が減っていたことがある。何か盗まれでもしたのかと聞いてみたら、お土産がいっぱいになりすぎて、困っていたら、一緒に来ていたーーさんが詰め直してくれたらこうなったと、不思議でならない、という顔で言っていた。
その後、大学に通うためにこの町に引っ越して来ることになったとき、荷物の梱包は、僕がすべてやることにした。
「新井さん、ですよね?」
「そう、ーー年上だからって、急に話し方変えなくてもいいじゃない。」
僕も目だけで笑ってみようとした。これも、誰でも出来るというものではないように思う。
「新井さんは。僕にとっての雨、のようなものは、ないのかな?」
「自分で決めてる、ジンクス?」
「そう。女の人って、そういうの信じてそうなんだけど?」
「うーん。そうね、あるような、ないような感じね。」彼女は少し考え込んだ。ファイルケースの表面を規則正しく指先でなぞっている。
彼女の頭の中で、無数に積み重ねられたバッグの口が一斉に開くところを僕は想像した。男物、女物、およそ考えつく限りの鞄の山。
すべてのバッグには隙間なく、じつに色々な物がつめ込まれている、写真と乾電池、スプーンと腕時計が一緒に入ったりしているにのもかかわらず、それらの物はバッグの中に不思議なほど整然としたおもむきで収っている。
それに、彼女のこびとがちゃんとバッグの中身を把握しているから大丈夫だ。
バッグに収められた細々したものは、こびとによって全部が分類・整理され、そこに保存されているのである。こびとは、バッグの色と形を見れば、中に何が入っているのか、たちどころに分かるのだ。
こびとは今、木靴をかたかた言わせながら、バッグの中を忙しく歩き回っている。あっちで赤いバッグから写真を取り出してしばらく眺めていたかと思うと、奥の方に積み上げられているバッグの底からデパートの紙袋を引っ張り出してきて、中にある手紙の束を注意深く点検する。紙束の間から枯れ葉が一枚落ちてきた。こびとは大急ぎで手紙を元に戻して足下に落ちた葉っぱを拾い上げ、鞄の山を前でなにやら見当をつけると、おもむろに古いランドセルを取り出した。留め金をあけて赤い表紙の日記帳を取り出したこびとは葉っぱをページの間に挟むと、日記帳を元に戻し、今度は何かの本を取り出してページをぱらぱらとめくり始める。表紙の絵では、いばらの中でお姫様が眠っている……。
誰かにおとぎ話を聞かせるように、塔子は話を始めた。
彼女、ーーつまり塔子は、日本海側に面した、豪雪地帯で知られる地域で生まれた。県庁所在地から電車に一時間ほど揺られていくとたどり着く、小さな村だ。
村のほとんどは農業用地で占められており、江戸中期に上方で悪名を轟かせたとかいう大盗賊の出身地であるという以外には、これといって特徴のない、ありふれた農村だった。
単線の駅を降りると、左手には農協の倉庫が並んでいる。そちらの方に続く道は行き止まりである。もう一方の通りは空き店舗の目立つ商店街へと続く。駅前にはコンビニエンス・ストアが一軒だけ建っている。元々は酒屋だったものが、塔子が高校に入学してまもなく店の息子夫婦が主導して改装したものだった。
コンビニの裏に回ると、周辺は、ごく普通のくたびれた民家しか広がっていない。駅周辺の家々は、塔子が生まれる前からそこに建っていたものだった。
木造住宅の続く一帯を抜けると、延々と田園風景が広がり、所々に農家の集まった集落が点在している。
塔子の家は、そのような集落の中のひとつにあった。村の中では割合に多くの家が集合している地区だった。
塔子が小学校に入った頃、母親は村の中にある菓子工場にパートでつとめ始めた。父親は隣町の工業高校で数学の教師をしている。塔子は一人娘だった。
小学校三年生のとき、母が親戚の家で生まれた柴犬をもらってきた。「ハルカ」という名前の雌だった。
塔子は、ハルカとすぐにうち解け、仲良しになった。
「時々、くしゃみをするのがすごく可愛くて、好きだったわね。」と塔子は僕の目をのぞき込むようにして言った。僕の頭を突き抜けて、頭の後ろにある空間を見ようとしているような瞳だった。
ハルカが外を歩き回れるほど大きくなると、母親が散歩に連れて行くようになったが、毎日、という訳にはいかなかったので、やがて、塔子が毎朝連れて行くのが日課になった。
六時に起きて、顔を洗い、服を着替えて外に出ると、ハルカはもう起きていて、塔子を待っていた。歩く道順は、いつも決まっていたし、頭のいい犬でもあったので、慣れてくると、塔子はハルカをつなぐ紐は持たずに出かけるようになった。ハルカは塔子の近くを付かず離れず、塔子の後をちゃんと付いてきた。
塔子が小学五年になって、二月に入った頃だった。
その日もいつもと同じ時間に、塔子は目が覚めた。
あたりはまだ暗く、窓は薄く霜が覆っていた。窓のガラスを指で軽くこすって、外の様子をうかがってみたが、まだ明るさが足りなかった。雪が降っているかどうかも分からなかった。
塔子服を着替えて、自分の部屋をそっと出た。
雪の多い地方ではあるものの、塔子の住んでいる地域は、比較的、積雪の少ないところである。
それでもメートル単位で雪は積もっていた。
北の大陸から海を越えてやってくる乾いた大気が、海の上を移動しながら日本海の水を蓄えてゆく。海の上で、たっぷりと水を吸い込み、巨大化した雲は、そのまま本州に上陸する。しかし重くなりすぎた雲は中央部の山脈までたどり着いたところで山にぶつかってしまうのだ。その場に足止めされた雲は、雨や、雪をその下の地面に降らす。
したがって、冬だけではなく、年間を通して降水量は多い。
この年、初めて雪の降った日、塔子は空を見上げながら学校で習ったことを思い出した。上空一面は白く染め上げられ、鈍く発光している。長く見つめていると、目が痛くなりそうだ。
ーーあの雲は、海の向こうから、山の方まで続いているのか、と塔子は思った。
コートをはおった塔子が外に出てみると、上空に雲は無く、夜明け前の空の光は、どこまでも透明にひろがっていた。青く固まった空気が、冷たく地上に留まっているようだった。
塔子は郵便受けから新聞を取り出すと、いったん茶の間に戻り、テーブルの上に新聞を置いた。コートのボタンを閉め、ポケットに手袋を押し込んで、散歩用の紐を置いてある場所を思い出そうとした。空の色を見た塔子には、予感があった。いつもと違う経路をたどって見ようと思いはじめていた。ハルカは紐につないでいった方がいいかもしれない。
長靴を履くときに下駄箱を探して、散歩用の紐を見つけた。塔子が再び外に出ると、ハルカはもう起きていて、塔子が近づいていくのを見上げて待っていた。
ハルカの首輪に紐をつける前に、もう一度塔子は空を見上げた。
さっきよりは少し明るくなってきたようだった。光が強くなるほどに気温が下がっていくように塔子には感じられた。
ハルカを伴った塔子は、確実な足取りで、寄り添うように建っている家々の間を通り抜けて行った。
集落のはずれに出た塔子は、そこから普段とは逆方向に歩き始める。夏場むき出しになっているガードレールは、除雪された雪に埋もれていた。その向こうは一段低くなっていて、雪が消えれば水田が整った姿を見せているのだが、今は一面の白い平野が広がっている。
塔子が向かっているのは、ガードレールがとぎれている方向である。
そっちの方は、水田地帯と道の高低差がなく、雪原に楽に入り込める。
道端には雪が山になって積み上げられているが、乗り越えやすい場所を見つけて塔子は平原の上に降り立った。
塔子の思った通り、雪原の雪はしっかりと塔子の体を支えて、沈むことはなかった。
「しみわたり、というのよ。」と塔子は言った。どういう漢字をあてるのか、塔子に聞いてみたが、塔子もあやふやなようだった。塔子が思い出しながら紙に書いて教えてくれた文字をみると「凍渡」と書いてあった。
「教わったと思うんだけど。」塔子は言った。「ちょっとはっきりしないわね。」
十二月だったら、塔子の体は雪の中にすっぽり埋まって、ひょっとしたら、誰かが通りかかって引き抜いてくれるまで、そのまま動けなくなってしまったかもしれない。
冬も終わりが見え、雪が少し溶け始めるような日がこないと、凍渡は起きない。
暖かい日が少し続いたと思ったとたん、また、冷気が勢いを盛り返してくる。春は、簡単にやってくるものではないのだ。
冷気は、溶けかかった雪を再び氷らせてしまう。そうなると、雪は、かなりの堅さになって、その上を楽に人間が歩けるようになる。日が照れば、またすぐに、雪の結合は溶けてしまうのだが、塔子が乗った雪は完全に固まっている。子供ならまず沈み込むことはない。
塔子はためしに何度か雪面を蹴ったり、かかとで削ってみたりして雪の堅さを測ってみた。表面は、ざらざらとして、足で強く踏むと、少しだけ足が沈み込むものの、しっかりと体重を支えてくれる。
以前、いちどだけ父に連れられて、最初に雪の上に立ったとき、大きな角砂糖の上に乗ったみたいだと感じたのを塔子は思い出していた。ハルカがまだ家に来たばかりの頃だったと思う。
目の前に広がる平原を見て、塔子はハルカの首輪に着いている紐を外した。何となく不安で、付けてきたものだったが、来てみると、不安は消えていた。
ハルカは紐を外されてもおとなしく塔子の足下に寄り添っている。
まだ日は昇っていないが、空の色はいっそう明るくなり、空気の色がどんどん透明になっていくようだった。雲は一つも浮かんでいない。かすかに星が残っている中に、溶けかかった氷のように月が浮かんでいた。
「ハルカ、行こう。」と塔子は言って歩き出した。
塔子がやってきたのは、ずっと向こうの山脈が見えるほど延々と水田の続いている場所だった。用水路も、畦道もずっしりと積もった雪に覆われ、見渡す限り氷の平原が広がっている。
普段は通れないような用水路の上にも雪は降り積もっていて、かすかな起伏を造っている。十分気を付ければ、渡ることが出来るだろう。どこまでも歩いてゆける。
塔子は、集落から離れるように、ゆっくりと歩いていった。ハルカは、一定の距離以上離れないように、塔子の後ろを付いてくる。
塔子は、歩きながら、どこまでも、どこまでも、とつぶやいていた。吐く息が、空気を白く濁らせる。
それほど遠くまで、来たつもりはなかったのだが、ふと振り向くと、集落はずいぶん遠くに見えていた。ハルカが塔子の隣でくしゃみをする。
ーーもう少しだけ、先に行ってみよう。
あとちょっとだけ、塔子は歩くことにする。
百メートルほど前方に、塔子の行く手をさえぎるように、電柱が並んでいるのが見えていた。そこまで行けば、どこかは知らないが道路にぶつかるはずである。除雪車が通っていれば、道端には雪が山になっていて、道に降りるのは大変かもしれない。でも、道に降りる必要はないのだ。そこで区切りをつけて、来た道を引き返してまっすぐ家に戻ればいい。
もうすぐ太陽が顔を見せるだろう。
塔子の後ろで、ハルカが鳴き声をあげた。塔子に不安を感じさせる甲高い声だった。
「ハルカ。」
塔子が振り返ってみると、集落の姿が消えていた。
野原の向こうは、もやがかかったようにぼんやりと濁って見える。もやは徐々に大きくなり塔子の方に近づき、目の前に迫った。
ハルカが塔子のもとに駆け寄ってくる。
視界が灰色に染まり、巻き上げられた雪の結晶が塔子の頬を打った。
「すごい風。」
塔子はハルカを抱き上げて、風に背を向けると、この突風をやり過ごすことにした。それほど長く続くわけではないだろうと思ったからだ。細かな氷の粒が塔子の周りを突き抜けてゆく。とても目を開けていることが出来なかった。風に背中を押されて、二、三歩よろめいてからしゃがみ込んだ。
しばらくして、塔子の予想通り、風は収まった。だがあたりの景色は霧に包まれたように白く濁ったままだった。遠くの方では、まだ風が吹き荒れているようだ。塔子は一瞬、方角が分からなくなってしまった。自分の帰る集落はどの方向にあるのか。山で遭難した人間が、まっすぐ歩いているつもりで、同じところに戻ってきてしまったという話をちらりと思い出す。
もう少し風が収まるまで、ここで待っていないと危ないだろう。
腕の中でハルカがふるえている。冷気によるものではないようだった。
塔子がハルカを抱く腕に、力を込めたとき、それが視界に入ってきた。
「竜巻」と咄嗟に塔子は思ったが、すぐに自分の考えを否定した。空中を舞う氷の粒子の群が透けて見えているが、一方向だけに向かって動いているのではなかった。
それは、突風が来る前、ちょうどハルカが鳴き声をたてたぐらいの距離に突然現れた。
ひとつひとつの氷の粒すべてがでたらめな方向に暴れ狂っている。その一方でガラスの型に流し込まれたように、粒子の動き全体は、はっきりと輪郭をなぞっているように見えた。一つ一つの結晶は激しく動き回っているのに、全体の輪郭は、ゆっくりとした動きでふくらんでいくようだった。
雪原の中で、そこだけ空間がゆがんでいるように見えた。しかし何か現実的で確かな存在感を塔子は感じていた。
塔子はそこにあるものが何であるかは分からなかったが、何か危険なものであることは瞬間的に感じ取っていた。
だが塔子は目の前のことから、目を離すことが出来なかった。見つめていると、前髪がちりちりと震えて凍り付いていくように思えた。
それは塔子の背の二倍ほどの大きさになったところで膨張をやめた。ゆがんだ壁に映った人間の影のような形にも見えたが、しかし輪郭は一定しておらず、絶えずのびたり縮んだりしている。ゆっくり息をして、塔子は気持ちを落ち着けようとした。
大きく息を吸い込んだとき、塔子はそこから強烈な視線が自分に向けられているのを感じた。塔子の腕に抱かれたハルカの耳が、何かを探すように動いた。
それには眼に当たるようなものはなにひとつ、存在しなかったが、塔子はそこから視線が注がれていることを確信した。
その瞬間、考える間もなく、塔子の体が動いた。そこから、ただ離れることだけを考えて、塔子は走った。
方角は分からなかった。あたりはまだ濁った壁に囲まれている。思わず手を離してしまったが、ハルカも塔子の横にぴったりとくっついて走ってきた。
再び強風が塔子とハルカを襲ってきて、視界は完全に塞がれたが、それでも塔子とハルカは、走るのをやめなかった。
強烈な視線が塔子の背中を押し続けているようだった。振り返ることは怖くて出来ない。
自分に注がれている視線が弱まってきたように思えた頃、視界が再び開けてきた。
集落はすぐ目の前にあった。太陽は既に昇っていて冷え切った塔子の体を温めてくれた。集落の外周を走る道路に乗った塔子は、太陽に背中を当てて、しばらく光の熱で暖まった。
それからハルカと一緒に、家までたどり着くと、犬を玄関に入れて、自分の部屋まで行き、床に突っ伏した。コートを脱ぐ気力もなく、冷え切った体は動かすのもおっくうだった。
様子を見に来た母親に気分が悪いとだけ言って、塔子はそのまま眠ろうとした。母親がいそいで、塔子を着替えさせたことまでは覚えているが、あまりにも強烈な睡魔におそわれて、その後はすぐに眠りに入ってしまった。
結局、その日塔子は学校を休んで、そのまま眠り続けた。
そして、翌日の朝まで目覚めることはなかったのだが、目覚めてみると、何事もなかったように、塔子は回復していた。
実際のところ、それほど無茶な遠出をしたわけでもないし、帰ってみるとそれほど長い時間がたっているというわけでもなかった。なぜあれほど強烈な疲労と眠気を感じたか塔子にも分からなかった。
不思議なことに、ハルカは塔子が眠りから覚めた後も、まだ眠り続けていた。塔子と同じように、母親が気づいたときにはもう眠っていたそうである。
その日学校から塔子が帰ってきても、ハルカは目覚めることがなかった。
「ーーそれで、犬はいつ目が覚めたんだい?」
「目覚めなかったの。二週間、眠り続けて、獣医にも連れて行ったけど、原因は分からないまま。どうすることも出来なかったわ。体が衰弱していかなかったら、ずっとずっと、きっと今でも眠り続けているんじゃないかしら、まるでいばら姫のように。そんな気がするの。」塔子は言った。「あの朝のことは、何かあったのかって、両親からずいぶん問いつめられたけど、結局何もいえなかった。説明できるようなことじゃなかったから、今まで誰にも話したことはないのよ。」
塔子は紙コップを取り上げて、口元に持っていったが、中身は既に空になっていた。話をしをしながら飲んでいる内に中身はすぐになくなってしまったのだが、話をしている最中、彼女は何度か空になったカップからレモン入り紅茶を飲もうとしては、中身のないことに気が付き、元に戻す動作を何度か繰り返していた。
僕のコーヒーも残っていなかった。塔子の話を聞いている間、塔子と同じように空の紙コップに手を伸ばしそうになるたびに頭の片隅で、「もう中身は残っていない、一滴も残っていない。」自分にそう言い聞かせなければならなかった。
僕は肺にたまっていた息を吐き出して、塔子に話しかけた。
「のどが渇いたね。」
もちろんここに記したすべてのことを塔子がこのとき話したわけではない。
細かい背景は、後になって塔子に聞き直して、前後がわかりやすくなるように配置した。僕のささやかな想像で補足した部分もある。
塔子の出身地に関するもの、特に古びた駅前の景色などは、僕じしんの思い出の風景とごちゃ混ぜにしてでっち上げたものだ。あまり場所が特定されないように、という考えからだが、分かってしまったからと言って困るわけでもない。
「凍渡」の表記も後になってから、塔子に聞いてみたものだ。塔子の記憶も不確かだったので自分で調べておくことになった。
大学の図書館で方言辞典を探して「凍み渡り」の項を見つけ出し、「積もった雪が凍って丈夫になり、その上を歩けるようになった状態。またはその上を歩くことを指して言う。(凍みる)はこおりつくの意味。寒さが厳しい場合もしみると言う。」との記述を引き当てた。
僕は辞典を書架に戻すと図書館を後にして中庭のベンチに座って帰りのバスまでの時間をつぶした。藍色に染まる夕暮れの光を見ながらフィルターが焦げるまで煙草を燃やし続け、(一口もすわなかった)灰皿に吸い殻を投げ込んで、結局は塔子の教えてくれたままにすることに決めた。
僕の例の「雨の日のジンクス」に触れてこの話もそろそろおしまいにしようかと思う。
結果として、その日の夕立は僕にささやかな幸運をもたらした。風邪がすっかりと治ったのである。塔子の話を聞き終わると、完全に調子が戻っていた。
塔子と僕の二人分のカップを販売機から取り出すと、僕はテーブルに戻って塔子の分を渡した。塔子が前と同じ銘柄のレモンティを選んだので、僕も同じものを飲んでみることにした。
テーブルを一周して、塔子の前の椅子に移動しながらカップに口を付けたとき、数日間続いてきた、無味無臭の味気ない世界を抜け出したことに気づいた。
塔子の表現を借りて言えば、まるで眠りから覚めたいばら姫のようだった。
レモン入り紅茶は、琥珀色の葉の香りを残して僕の喉を通り過ぎていった。
味はともかく、そのとき感じた香りには、恥ずかしながらちょっと感動したものである。
塔子に声をかけられるまで、僕はその香りの鮮やかさに呆然と立ちつくして、雨の降り続く窓の外を眺めていた。
香りは、窓硝子に散らばる雨の飛沫のように僕の眼前に満ちていた。
了
六月の、眠り姫 ねこのきぶんこ @nrbq
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