アメイジング・グレイス

神楽 佐官

アメイジング・グレイス

「この馬鹿っ!! 淫売っっ!!」


 母に思い切りぶん殴られて、眼鏡が吹っ飛んだ。

 亀みたいに這いつくばって畳に転がった眼鏡を探す。あたしは眼鏡がないと前が見えない。

 極度の近視なのだ。

 どうにか眼鏡を見つけて掴んだその瞬間、母はあたしの手ごと眼鏡を踏んだ。


「ひいっ!!」


 なさけない悲鳴をあげる。

 ガラスの砕ける音。眼鏡が壊れる。

 すべての物事には理由がある。母があたしを殴るのにも理由がある。

 ――体育祭のフォークダンスで男の子と手をつないだから。


『大人にもなるまで男に触れてはダメよ!』


 それが、宗教の教えだから。

 母が信仰する宗教団体『すばらしき恩寵』では、女性は二十歳までは異性に触れてはいけないのだ。水着姿を他人に見せるのも禁止で、水泳の授業を受けることもできない。

 でも一人ぼっちで座っているのは恥ずかしくて辛い。

 だから、みんなと一緒にフォークダンスを踊ってしまった。

 体育祭が終わって家に帰ると、待ち構えていた母にこっぴどく殴られた。

 こんな暴力、うちの家庭では日常茶飯事のことだ。

 痣ができて、鼻血が出て、眼鏡が割れるのも、いつものことなのだ。



 ときどき、母の友人たちがうちのアパートに遊びにやってくる。

 大勢でやってくるので、四畳半の居間はいつも満杯になる。

 あたしの座る場所もなくなる。

 みんな、母の信仰する新興宗教『すばらしき恩寵』の会員だ。

 全員『すばらしき恩寵』の経営する会社で働いている。

 みんなニコニコ笑顔だ。

 でも、笑っているからといって優しい人とは限らない。母だって外では愛想を振りまいて暮らしているのだ。

 母が宗教にハマったのはあたしが十歳のときだ。

 塗装工だった父は遊び人で、バーで働く若い女とデキて蒸発した。

 それから心の隙間を埋めるように宗教に走ってしまった。


「リコちゃんだっけ? バイトとかしないの?」


 頬がこけていて枯れ木のような顔をした佐藤さんが、あたしに話しかけた。

 佐藤さんはなかなかあたしの名前を覚えてくれない。


「あなたの通っている学校はバイトOKでしょう? うちの会社で働かない?」


 みんなの視線がいっせいにあたしに集まる。


「いや、あたしは……」

「家で何をしてるの? 勉強してるの? 将来は大学行くの?」


 すると、母は大声で笑った。


「ダメダメ。うちの娘は眼鏡かけているくせに頭悪いから大学なんて無理に決まってるわよ」


 アハハハ、とみんな笑う。

 眼鏡がなければ、あたしは一寸先も見ることはできない。

 そして将来も真っ黒。

 仮にあたしが勉強して頭が良くなったとしても、うちは貧乏なので大学には行けない。

 高校を卒業したら、母はあたしを『すばらしき恩寵』の会社に入れるつもりなのだ。

 四畳半のアパートはあたしにとっては奴隷船だった。





「たまには眼鏡外してコンタクトレンズにしたら?」


 友人の澁澤さんが声をかけてきた。

 澁澤さんは引っ込み思案のあたしが話せるたった一人の友達。

 父親が大学講師の澁澤さんはフランス語が話せる。演劇部の澁澤さんも道端で『すばらしき恩寵』の勧誘を受けたことがあるが、『素晴らしい教えですわ……』と感動したような顔を作っているくせに、その手にはマルキ・ド・サドの原書を持っているような子で、宗教など一切信じない自由奔放な性格だった。


「コンタクトしてみなよ! 絶対にかわいくなるって! そうだ。今日、交霊会をするんだけど里香もどう?」

「交霊会ってなに?」

「霊とお話するの」

「霊?」

「そうよ。オカルト気分を味わってみない?」

「でも、霊なんているのかな……?」

「本当にいるかどうか確かめるために実験するのよ」


 あたしはどうしようか迷ったが、結局は澁澤さんに押し切られて強引に交霊会に参加させられることになった。

 放課後。澁澤さんとあたし、そして数名の女子生徒が残った。

 机には澁澤さんが座っていた。それをあたしたち女子生徒が取り囲む。


「なんだか魔女の集会みたいね」


 澁澤さんが笑いながら言った。

 鞄に手を突っ込んで、古めかしい大きな木の板にハート型の駒を取り出す。


「これって『ウィジャボード』っていうんだけど」


 木の板にはアルファベットとアラビア数字、それに怪しげな絵が描かれている。

 藍沢さんが木の板を眼鏡の縁に手をかけて身を乗り出してじっと見た。彼女も眼鏡をかけているが、あたしと違ってすごく勉強ができる。


「これって英語で書かれているけど、要するにコックリさんじゃないの!?」


「まあね」


「澁澤さん、あとでヤバいことにならない?」


「平気平気」


「でも万が一のことがあったら……。あたしたち呪われたりしないかしら?」


「どうかしら? 本当に呪われちゃったりして」


すると藍澤さんは怖い顔をした。


「コックリさんって禁止されている学校もあるのよ。やっぱり止めたほうがいいんじゃないの?」


「そんなに危険な物なら法律で禁止されるでしょ? 言っとくけど、これオモチャよ。アメリカの会社で大量生産されて販売されたやつなの」


「玩具?」


「そうよ。二十世紀の資本主義が産んだ産物よ」


おもちゃと聞いて、みんなホッと胸をなで下ろした。


でも、藍澤さんだけは険しい表情を崩さなかった。


「呪いなんて存在しないとしても、自己暗示で精神がやられちゃうことだってあるんだから。ねえ、考え直したほうがいいんじゃない?」


「心配性ねぇ。こういう遊びはダ・ヴィンチの頃からあるのよ」


みんなは駒の上に手を置いた。藍沢さんはいまだに不安を拭い切れない様子だったが、しぶしぶ駒に手を置いた。


「霊よ。来てますか」


駒が動いて、YESを指した。


「本当に来ているのね?


「何を聞こうかしら?」


「そうねえ……。澁澤さんに彼氏いるかどうか聞いてみない?」


すると駒は氷の上を滑るようにYESを指した。


澁澤さんは微妙に引きつった笑みをうかべた。


「残念ね。あたし彼氏いないのよ」


「嘘。厘くんと付き合っているじゃない?」


「藍沢さん!」


「へえ、澁澤さん、彼氏がいるのを私たちに隠してたんだ。羨ましいこと」


すっかり困った渋沢さんは、あたしに話を振った。


「里香。あなたの言ってみなさいよ! でも、変なことを聞くのは止めにしましょう! なにか頼みごとをしてみるとか……」


あたしは心の底から願った。


――母が死にますように。


すると駒が動いた。


Yesの方に。


「里香、何を願ったの?」


「ううん、何でもない。何でもないの……」


「みんなに言えないこと?」


「うん。まあ……」


「ひょっとして理想の王子さまを手に入れられるようにとかぁ?」


澁澤さんが冗談めかして言うと、みんな爆笑した。





帰り道、日は暮れていた。


暗い闇だった。


心臓は不自然なまでに高鳴っていた。


心ってなに? 肉体と精神は別物?

そんなの嘘よ。 

だったらどうして悲しいと涙がでるの? 

心は誰にも見えないというのなら、どうして海水のようにしょっぱい涙は出るのかしら?



それからあちこちに道草して、家に着いたのは九時を過ぎていた。


「ただいま」


家に帰っても返事はなかった。玄関の鍵は開いているので、母は戻っているはずだった。


母は台所で倒れていた。


「お母さん……?」


何度呼んでも返事はない。背中をゆすっても反応はない。


携帯を取り出して救急車を呼んだ。すぐに救急車はやってきた。


救急隊員のおじさんたちが母の身体を調べると、


ただの屍に話していたのだと気づいた。



母の葬式がしめやかに行われた。


死因は突然の心臓発作だった。


「里香ちゃん」


涙も流さず無表情のままでいるあたしのところへ、親戚のおじさんとおばさんがやってきた。


母が死ぬまで一度も会ったことがなかった。


にもかかわらず、喪主のあたしの代理として葬式の手筈をすべて整えてくれた。


「今日からおじさんたちと一緒に暮らそう」


突然のことだった。


あたしは能面のような顔をしたままおじさんたちの方が顔を向けただけだった。


「辛かっただろう」


実の娘が顔色一つ変えないというのに、おじさんたちは号泣してしまった。


母とは、『すばらしき恩寵』に入団してからは、ほとんど付き合いが断絶したという。


それなのにあたしの面倒をみてくれるというのだ。


よほどあたしの境遇を不憫に思ってのことだった。


それからあたしはおじさんたちの家で過ごすことになった。


綺麗で大きな三階建ての家だった。


あたしのための個室が用意された。


これまで四畳半のアパートで母と二人で暮らしてきたあたしにとって、


おじさんたちには一人息子がいた。医大に通う6つ年上の大学生だった。


すごくやさしい人だった。


一生懸命勉強した。


予備校にも通わせてくれたし、家庭教師までつけてくれた。


そのおかげで偏差値はどんどん上がっていって、それなりの大学に合格することができた。


ある日のこと、おじさんはあたしにレーシック手術を受けないかと言った。


おじさんは眼科医だった。


でも、目をいじるなんて怖かった。


「十八歳にならないと受けられないから、今まで言わなかったんだよ」


「でも、失敗してさらに目が悪くなるってことは……」


「私はこの道のエキスパートだよ。心配は要らない」


おじさんは絶対に大丈夫だと強く勧めるので、あたしはついに手術を受ける決心をした。


手術の日がやってきた。あたしは怖くて怖くて仕方なかったが、


「大丈夫だよ。必ず成功するよ」


医者になったばかりの息子さんが、あたしの手を強く握りしめて励ましてくれた。


手術は、成功した。


世界がひろがった。




もう野暮ったい眼鏡なんかなくても世界をじかにこの目で見ることができるのだ。



それからのあたしは別人だった。


何事に対しても前向きに取り組むようになった。


積極的にサークル活動に参加するようになったし、外に出かけるようになったり、ファッションや美味しいものにも興味を持つようになった。


やがて、おじさんの息子さんと恋に落ちた。


大学を卒業して、すぐに結婚した。


あたしは理想の王子さまを手に入れたのだった。


ほどなく妊娠した。



夜、鏡にむかって髪を梳いた。


が、鏡にうつったその姿をみて愕然とした。


母の顔だった。


殺したいと呪うほどに憎んだ母の顔だった。


まだ若くて優しかった頃の母。新興宗教に入信する前の母の顔にそっくりなのだ。



――なぜ?



母が死んだおかげで胡散臭い新興宗教から逃げることができた。


奴隷のような生活から解放されて、目の手術をうけて眼鏡なしに生きていけるようになった。大学を出て、結婚をした。現世で幸せになった。


しかし、己の抱える寂しさには目を背けて生きてきた。


母になる自分の姿をみて、その事に気づいた。



――母が死んでから、



遺品の財布には、皺くちゃの千円札が二枚。


そして子供の頃の母と二人でプールで撮った写真だった。


あたしは写真だけ抜き取って破いて捨てた。


母に愛されずに生きてきた女の子を演じていた。


幸せになるまで、ずっと母の愛に気づかないふりをして生きていたのだ。




でも、やはり母は今でも私の一部なのだ――。



そう思うと涙が止まらなかった。

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